第一章第一節ハジマリ


Guest2020/07/15 15:04
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恋の始まり、親友との日常、青春の一ページ。


 渡り廊下からは、ついさっき後にした図書室の入り口がよく見えて、彼女は確かにさっき俺らが話題にした小説を胸に抱えて出てくるところだった。


「あの子さあ」

 俺の隣を歩く親友が言う。

「お前のこと好きよな」


 文字にもならないような奇妙な声が、俺の口から漏れた。


「え、お前気付いてなかったの」


 親友が立ち止まって、俺の顔を覗き込む。俺も合わせて立ち止まる。


「……それ、まじで言ってる?」

「まじ」

「俺じゃなくて、俺の好きな本が好きなだけじゃ……」

「お前の好きな本知らずに今から読もうとしてるだろうが、お前それでも理系かよ」


 ぐうの音も出なかった。


 高校三年生になり、文系を選択した親友と理系を選択した俺は、クラスが端と端になってしまったのだけれど、ふたりともまだ図書室に頻繁に通っているお蔭で、こうやって話すことができていた。


「そんなんだからモテねえんだぞ」


 モテる気もねえよ、と思いつつもう一度図書室の入り口に目をやると、彼女がこっちを見ていて、それは明らかだったのだけれど、彼女は何でもない風を装って、見えないところまで廊下を歩いていった。


「だっておかしいだろ、そんな好きになるほど知り合ってもないのに」

「好きになるほど知り合わなきゃいけないのか?」


 親友は肩を竦めてため息を吐く。


「ひとめ惚れって言葉知ってるか」

「……俺、自分がそんなイケメンじゃない自覚あるよ」

「彼女の顔の好みなんて知らねえよ」


 彼はちょっと背伸びをして自分の頭の上から、掌を並行に滑らせた。


「少なくとも身長はあるし」

「身長は、まあ、それは」


 事実は否定できなかった。親友も背は低くない方だったが、俺の百八十二には追い付かない。

 彼女との接点は、昨年度の委員会、がはじめてだったと思う。でも、それだけだ。確かに俺は委員長だったから、委員の彼女から見えやすい位置にはいたのだと思う。だけど、仕事中の姿だけで判断されたって、身長と壇上の俺だけで判断されたって。


「あの子、俺に未だに敬語使うんだぞ」


 同級生の癖に、出会ったシチュエーションが委員長かつ経験者である俺と未経験者つまり教えられる立場である彼女という上下関係であったせいか、彼女は俺に敬語を使い続けていた。


「距離置かれてるんだと思ってたんだけど」

「距離置いてたら鉢合わせする時間に図書室に入り浸ったりしないね。お前のおすすめなんて聞かずに、そもそも俺らの会話に耳澄ませて入り込もうとなんてせずに、借りたい本借りて帰る」


 確かに、そう、ではあるのだけれど。


「お前のことが好きなんじゃない?」

 俺はカウンターのつもりで、彼に訊いたのだが、


「それはない」

 彼はあっさりと否定した。


「どうして」

「彼女の顔見てたら分かる」

「そんな曖昧な」

 もっと、事実というか、分かりやすい、決定的な――

「お前は理系だなぁ」


 さっきと言っていることが違う、と隣を睨むも、響いてはくれなかった。


「じゃあ、これでどうだ、彼女、帰りがけいつも誰かを待ってる振りして下駄箱でお前に挨拶して、そんで独りで帰ってくぞ」


 彼女が毎日下駄箱で誰かを待っているのは認識していた。そして通りがかる俺に必ず挨拶してくれていた。


「どうして」

「好きだからだろ」


 隣で親友が断言するので、そう思い込みそうになっている危うい自分を認識して、慌てて思考を中立に修正する。


「そんなの、俺じゃない誰かに挨拶するためだったかもしれないし、本当に誰かを待ってて、都合が合わなくなっただけかもしれないじゃないか」

「毎日?」

「……偶然が重なることだって、」


 苦しい言い訳だということはもう分かっていた。


「お前はどう思ってる?」


 訊かれて、俺は返事に詰まった。


「どう……って……」

「好き? 嫌い? どっちでもない?」

「嫌いってことはないだろ」


 そう、と彼は歩き出す。授業が始まってしまうのだからその行動は正しいのだけれど、だが今俺の話は終わっていない。


「好きかどうかと言われたら、恋愛の意味で好きだと思ったことは、ないよ、正直」


 好きという感情が分からない、なんて甘えたことを言う気はないが、よく知りもしない一介の知り合いである彼女を、好きだとはどうしても形容できなかった。


「まあ、乞うご期待、ってことか」

「何、お前、くっつけたがってるの」

「うーん、親友が幸せになるのは俺も嬉しいし」


 心の中では親友と呼べても、面と向かって本人の呼称に使うことができるほど俺は大胆ではない。密かに彼のことを尊敬している所以である。

 だから、何となく、否定しきれずにいるのだ。


「青春の予感」


 廊下を渡り切り、別れる角で彼が隣で唐突に指を突き付けた。


「漫画じゃあるまいし」


 演劇部の俺より演劇部らしい彼は、肩を竦めて背を向けた。


「事実は小説より奇なんだぜ?」

「くだらないね」


 俺も肩を竦める。もちろん彼には見えていない。

 そのまま去っていく彼に、俺も自分の教室へと歩き始めた。

 授業開始のチャイムが鳴ったのはちょうどそのときだった。

 

 

 

 例えば彼女が俺を好きだったとして、だからどうしろと言うのだろうか。


 親友は無駄に小説的なフラグを立てて去っていったらしく、その日の帰り、学校の下駄箱で人待ち顔の彼女を見つけた俺は、いつも通り、知り合い以上でも以下でもない会釈を彼女に送り、そのまま帰ろうとしたのだけれど、どうしても気になって、下駄箱と校門の間、下駄箱からはちょっと見えない花壇に腰掛けて、どこでも本を開いている俺だから体裁は取れるだろうと読むつもりのない文庫本なんかを開いてみたのだけれど、案の定というか、外れてほしかった期待通りというか、誰も伴わない彼女が、俺が出てきた数分後には出てきて、重そうなリュックを背負って、とぼとぼと歩いてくる。


 彼女は俺に気付いて、足を止めた。


 俺が頭を下げると、彼女は目を泳がせて、こちらに向かって会釈をしつつも、誰かを待っている振りをしていた直後に独りで帰る理由なんかを探しているようだったけれど、わざわざ言い訳をする方がわざとらしいことに気付いたのか、そのまま行き過ぎた。


 彼女のハーフアップから覗く耳は赤く、俺は自分の目が良くてよかったと思ったし、彼女のことを、まあ、可愛いと思わなくはなかった。


 脳裏で親友が俺にウインクするのを振り払って、俺は本を仕舞って立ち上がり、少し早足で彼女に追い付く。


「駅まで、一緒に行かない?」


 彼女は立ち止まって、動揺を隠すように、俺を見て、地面を見て、口を手で覆い、それからゆっくり笑顔を作って、

「突然ですね?」

と冗談めかした。


「そうかもしれないけど」

 そこで甘い文句が出てくるほど俺は口が達者ではない。

「あの、まあ、たまにはいいかなって」


 返事は無かった。俺は隣の彼女を見た。彼女は胸の前で両手を握り締めて、そしてしばらく経ったあと、小さな声で、たまにはいいですか、と呟いた。

 口角が上がるのを御して御し切れていないのが丸分かりだった。


「これからは、たまに一緒に帰る?」


 その言葉は無意識に俺の口から滑り出た。

 彼女の花の咲いたような笑顔を見て、自分が何を言ったのかはじめて思い至り、ああ、うん、いいか、それで。

 彼女のことを好きになれたらきっと俺は幸せだ。

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