墨と菫


山羊文学2020/07/09 12:41
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墨と菫

 美大を出て、広告代理店に就職しても、生活が華やかになるわけじゃない。
 上がってくる線画に色を塗る毎日。こんなことバイトだってできる。そして実際、私の給料はバイトとさほど変わらない。
 それでもこの仕事から離れないのは、時折任されるデザインの仕事があるからだった。企業ロゴ、パンフレット、メニュー……。社内で何人かがデザインをしてひとりが選ばれ、さらにクライアントの秤にかけられる。
 しかし私はここでまだ勝ちを拾ったことがなかった。大学の同期や同僚が名をあげる度に動揺してしまう。コンペで負けるならまだしも、私は会社の中ですら抜きん出ることができない。
『街の野草』
 市立の植物園が三月から行う企画展のパンフ。それが今、自分と同僚四人に任された仕事だった。この案件はコンペではなく発注。会社で勝ちを獲れば、確実に自分のデザインが採用される。
 絶対に獲りたい。
 そう思う裏で、どうせ無理だろうという思いがよぎる。頭に浮かぶのは同僚の顔。皆、経歴も実力も折り紙付き。歳は変わらないのについた差。焦った心は諦めることでバランスを取ろうとする。
 クライアントの資料を手に取る。スミレの写真が目に入った。街の野草となったら、スミレが主役になるんだろう。もう頭の中に雛形はできていた。事務的な色塗り作業を終わらせて、さっさと作業に取りかかりたかった。

 右手にはペン、左手にはダイヤル、目の前にはディスプレイ。ペンタブに線を走らせ、パラメーターを調整し、全体のバランスを整える。
 大方は出来ている。しかし最後の一歩がどうしても決まらない。「スミレが目立つように」というオーダーにどう答えるべきか迷っていた。スミレに対する思い入れが、判断力を鈍らせていた。

 小学校六年生の自由研究で、ニオイスミレについて調べたことがある。その年の春、祖母が家に白いニオイスミレを持ち込んだからだ。小さな花なのに、部屋中が香りに包まれたのを覚えている。その花が食べられること、反対に種や根茎には毒があることなんかも祖母から教わった。夏休み、花はとっくに閉じていたが、自由研究するには調度良い題材と考えた。
 すみれ、スミレ、菫……。
 自分の心が奇妙な震え方をしたのは、その名の由来について調べていたときだった。
「スミレの名は、その花の形状が墨入れ(すみいれ)を思わせるから、という説がある」
 この一文に、心臓がドクンと跳ねた。記憶の中に咲く、白く小さいニオイスミレ。そこに突然現れた黒い墨。一枚だけ大きな中心の花弁。そこに墨が垂らされていく。
 思春期が始まったばかりの私は、その思索が罪深いものだと感じ、回転し続ける頭を止めるのに必死だった。

 ディスプレイに向き直る。問題はスミレの色だった。別に手持ちの色で塗ってしまえばそれでかまわないし、恐らくクライアントもそれを望んでいる。しかし自分の中のスミレとは、紫ではなく白い花だった。だからか分からないが、世の中に溢れる「スミレ色」というものに、どうも馴染むことができなかった。

「岡部さーん」
 自分を呼ぶ声がする。同期の斉藤さん。今日は誰の案を植物園のパンフとして採用するのかをアートディレクターが決める日だ。斉藤さんの顔が晴れやかなところをみると、採用が決まったのだろうか。だとしたらあとは消化試合。
「失礼します」
「おう。かけてくれ」
 アートディレクターの本田さん。私はこの人が苦手だった。上に行く前にこの人に案をボツにされることが多かったし、普段の仕事でも小言が多い。今日も小言から始まるのかなと構えていたら、思わぬ言葉をかけられた。
「スミレの色、岡部さんの自作?」
「あっ、はい」
 考えるより先に返事をしていた。結局私は、私が見たままのスミレの色を作った。さすがに白いニオイスミレではないけど、道ばたに咲くスミレの紫。単なる紫ではない。淡く、赤く、青く、白く、黒い。
「岡部さん、こんな仕事できるんだね」
 なんと答えていいか分からなかった。
「良い色だ。スミレそのものだと思う。でも採用はできない」
 そう言って本田さんは机の上を指でトントンと叩いた。指の先にスミレ色のポストイットが貼ってある。
「相手さんが求めてるスミレ色はこれ。ヴァイオレット、もしくはウルトラヴァイオレット。簡単に言ってしまえば青紫か赤紫だな」
 そんなことはわかってる。
「もう新人じゃないんだ。こういう依頼の不文律とか、きちんと守ってこい。デザインは良いんだ。こういうとこで逃すな」
「わかってますよ!」
 つい声が出た。部屋の外にまで聞こえてしまったかもしれないと思うと途端に恥ずかしくなる。
「すいませんでした。失礼します」
 退室しようとしたとき「岡部さん」と呼ばれた。
「今日時間あるか。サシが抵抗あるなら他にだれか連れて行く」

「岡部さんの啖呵、良かったよ」
「啖呵って……」
 私は本田さんと二人で、本田さんに紹介されたバーに入った。私はハイボール、本田さんはヴァイオレットフィズ。カウンターで横に並ぶのは、少し気恥ずかしかった。
「でもそうだよな、岡部さんが分かってないはずがない。分かった上で色を作ったんだよな」
 本田さんがコリントグラスを揺らす。
「これ、ヴァイオレットフィズ。スミレのリキュールを使ったカクテルだ。岡部さんにはこれがスミレ色に見える?」
「見えません」
「そうだよね」
 本田さんはグラスをゆっくりテーブルに置いた。
「イチゴ味はイチゴの味ではなくイチゴ味の味」
「えっ」
 普段よりも暗い口調だったから驚いてしまった。
「僕の元上司の言葉。イチゴ味をオーダーされて、イチゴを出すなって意味だ」
 あぁなるほど、と思う。
「岡部さんは、そういう仕事が多い。今回だって、スミレ色に塗ってたら多分採用してた」
「そうですか……」
「この酒だけど、スミレ色じゃないなんてクレームは入らない。着色料は紫キャベツなんだけどね」
 話の着地点が見えなかった。
「結局なにが言いたいんですか?」
「詳細は言えないが、次の案件、岡部さんの好きなように仕事して欲しい。あんなスミレが描けるんだ。きっと同期から頭ひとつ飛び出る。華々しいデビューを飾ってくれ」
「どうしてそんなことを?」
 その質問に、本田さんは答えなかった。
 本田さんに勧められて、私もヴァイオレットフィズを頼む。
「別名飲む香水」
 口の中にむせ返るような甘い香りが広がる。本田さんの言う通り、口の中に香水を撒かれた様だ。身体中に香りが巻き付くようで、軽く目眩を起こす。
「おっと」
 本田さんが間の抜けた声を出す。どうしたのだろうかと思ったが、どうやら私が本田さんに向かってよろめいたらしかった。
「あ、すいません。ごめんなさい……」
 慌てて姿勢を正す。居心地の悪い沈黙が流れた。
 途端に小学六年の自由研究が頭に蘇った。ニオイスミレに垂らされる墨。何故こんなことを考えるのだろう。このスミレは誰?

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