山羊文学
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午后の講義

「では皆さんは、この写真を見て、どのようなことに気付くでしょうか」 先生は一枚のスライドを大写しにした。それは奇妙な写真だった。 「君、説明してみて」 四百人程が入れる大教室。その前方に座る学生の一人を先生は指差した。 「開かれた本の写真です」 「その通り」 ‎ 机に開いて置かれた本が、大写しになっていた。 「これは開かれた本の写真です。あるいは、本の写真と言うだけでも十分でしょう。それが普通です」 先生は改まって学生たちを見た。 「ここからが本題。これは本の写真。それで普通。それが一般的」 ‎半分程が埋まっている大教室。初めは私語で充満していたが、皆徐々に先生の話に引き込まれていくようだった。好き勝手に話をしていた学生たちが先生に注目し始める。 「しかし、この写真からはもっとたくさんの情報を取り出すことができます。分かる人、手を挙げてみましょうか」 もちろん手を挙げる学生はいなかったが、ついに教室は静かになった。 「では僕から質問です。この本、何の作品でしょう」 ‎あっ、と声を漏らした学生がいた。私だった。プロジェクターの画像だからさほど鮮明ではないが、それでも特徴的な単語を文章の中

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放置の町

煙草の煙を追い出す為に車の窓を開けると、代わりにプラスチックの溶けた様な臭いが入り込んできた。右手には巨大なコンビナート。この町の子供は皆、雲は煙突から生まれるのだと思って育つ。自分もそうだった。 2tトラックの荷台には、大量の塗料が積まれていた。その多くが建築現場で使われる防水塗料で、全てこの町のコンビナートで生産されたものだ。 窓を閉めるとプラスチックの臭いが残った。この町には、この臭いだけだ。色も活気も、プラスチックの粒子と石油の煤に覆われて霞んでいる。 抜け出したい。 物心ついた頃から抱いていた思い。大学を中退して家業を継いでからも、その思いは強くなる一方だった。ただ自分は、この町に染まり始めていた。同業者も取引先も皆知人。町を歩けば知人のひとりや二人には必ず会った。母は自分が生まれる前からあるスーパーに毎日通うし、父は親友のやっている煙草屋で何十年も煙草を買っている。何年も会っていない友人の髪の色を、床屋で不意に知らされたりする。 狭い、狭い、狭い。しかし窮屈なくせに居心地は良かった。それが、酷く恨めしく思えた。 夕方、煙草を吸いに家を出た。倉庫が併設されている我が家は常にシ

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墨と菫

美大を出て、広告代理店に就職しても、生活が華やかになるわけじゃない。 上がってくる線画に色を塗る毎日。こんなことバイトだってできる。そして実際、私の給料はバイトとさほど変わらない。 それでもこの仕事から離れないのは、時折任されるデザインの仕事があるからだった。企業ロゴ、パンフレット、メニュー……。社内で何人かがデザインをしてひとりが選ばれ、さらにクライアントの秤にかけられる。 しかし私はここでまだ勝ちを拾ったことがなかった。大学の同期や同僚が名をあげる度に動揺してしまう。コンペで負けるならまだしも、私は会社の中ですら抜きん出ることができない。 『街の野草』 市立の植物園が三月から行う企画展のパンフ。それが今、自分と同僚四人に任された仕事だった。この案件はコンペではなく発注。会社で勝ちを獲れば、確実に自分のデザインが採用される。 絶対に獲りたい。 そう思う裏で、どうせ無理だろうという思いがよぎる。頭に浮かぶのは同僚の顔。皆、経歴も実力も折り紙付き。歳は変わらないのについた差。焦った心は諦めることでバランスを取ろうとする。 クライアントの資料を手に取る。スミレの写真が目に入った。街の野草と

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落ち葉

うちの施設には花見がある。といっても散歩の延長の様なもので、川べりの桜並木を歩く。日程は特に決まっておらず、桜が綺麗で職員と子供がある程度いる日。何日かやる年もある。バタバタとする時期だが、なんとなく続いてきた風習だった。 施設職員として五年、サービス管理責任者として四年、施設長となってから三年。出世したわけではない。上が抜け続けて仕方なく就いただけだった。とはいえ周囲には恵まれた。保護者や市、法整備にも振り回される中で、なんとか子供に向き合う時間を作れている。桜の花見は開設当初から、施設長が仕切る習わしだった。 今日は職員三人に子供が十人。それ程道は広くないから、一列になったり二列になったりして川べりを歩く。途中、橋を渡って反対側の川べりを歩いて施設に戻る。シートを広げるようなスペースはないから、宴会騒ぎをするような花見客はいない。子供たちを酒や煙草に近づけたくないから、調度いいコースだった。 去年、困難ケースを引き受けた。田中光希。クラスメイトを千枚通しで刺した。保護観察処分となり、親が養育を拒否した為に一時保護委託で施設にやってきた。今は中学三年生になる。事件までは欠席しながらも

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無言の罪

二十三時を回って、不穏な音が聞こえてきた。肌と肌、骨と骨がぶつかる音。夜勤室を出て隣の居室のドアを開ける。寝たと思っていた利用者のCがうずくまって自らの顔を拳で叩いていた。軽く舌打ちをする。Cはこうなるとなかなか寝ない。不眠時薬を入れたいところだが、Cは効きの良い方ではない。傍らで自傷を止め続けるしかない。 自傷の形にも色々あるが、Cの自傷はタチの悪い方だった。顔、それも眼球の近くを殴り続ける為に目立つ青痣ができる。痣はすぐさま虐待を疑われる。Cは日中、事業所に通っているから、事業所のスタッフに虐待通報を入れられたこともある。事情を知る家族すらいい顔をしない。だから幹部連中も、Cの自傷については細心の注意を払えと言ってくる。だからこそCの居室は夜勤室の隣なのだし、不審な音がすればすぐに向かわなくてはならない。 Cは他傷をしない。本来なら、他の入所者を傷つけるよりは、おとなしく自傷をしてもらう方が施設側としてはありがたい。しかしCの自傷は度を過ぎていた。それに加えてCは、不意に居室を飛び出して壁やドアに頭突きをして音を立てることがあった。それに反応して他の入所者が起きると厄介だ。夜勤の時

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カラフル

子供の頃、絵の中に埃を描いたら描き直すよう言われた。 「ホコリは灰色でしょう?」 私の描いた埃は、いろんな色をしていた。赤、緑、茶色、黒、白、青……。 「なんでこんな風に描いたの?」 だってそう見えたから……。でも、それは言わない方が良い気がして、私は黙って絵を描き直した。 店をクローズさせて駅へと向かう。朝日が眩しい。最後の客が始発に合わせて帰ったから、早く帰れた方だ。給料は安くなるが、今夜の出勤を考えるとありがたい。酷い時は朝を通り越して昼くらいまで盛り上がることがある。 この街でも今くらいの時間は人通りが少ない。始発待ちが消えて、始発待ちを狙う奴らが消えて、私みたいな仕事終わりの人間がちらほらと歩いているくらいだ。 「関わってくれるな」 皆、身体でそう言っている。仕事場から駅までの最短距離を歩く。キャッチもナンパ野郎もいない、車の音だけがうるさい時間。寒くはないがポケットに手を入れて、下を向いて歩いた。そうしていないと、何を踏んでしまうか分からない。 この街はカラフルだ。カラフル過ぎて目にうるさい。だから私は、いつも目をすっぽりと覆う濃い茶色のサングラスをかけている。そうすると、

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歪な子

長野県上伊那郡辰野町の新興住宅街の一角に、風変わりな一家が住んでいた。夫と妻に息子の3人家族。夫はサラリーマン、妻はパートタイマー。一般的な建て売り住宅に住み、車を1台所有していた。 夫婦仲は良く、子供もスクスクと育っていた。しかし奇妙なことにその夫婦は、何かが不自然だった。 恐ろしいものや奇妙なものというのは、要素に分解してみれば、なんら特徴のないものであることがある。その家族が正にそうであった。近所の人々にその家族について尋ねても、 「普通のご家庭ですよ」 「お金持ちってわけでもないし、かと言って貧しいって感じもしないし」 「お子さんも順調に育ってますしねぇ」 と、大体このような答えが返ってくるだろう。そして、それは事実だ。しかし、その家族がある秘密を抱えていたのも事実なのである。 夫婦は夫が31歳、妻が29歳の時に結婚した。息子が生まれたのは妻が30歳の時である。当時は家賃8万円のマンションに住んでいた。 夫は商社勤めのサラリーマン。年収は460万円で、お金持ちでも貧しくもないという評価は妥当だろう。車はホンダの赤いフィット。 子供が2歳の時、妻は息子を保育園へ預け、パートタイム

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