
子供の頃、絵の中に埃を描いたら描き直すよう言われた。
「ホコリは灰色でしょう?」
私の描いた埃は、いろんな色をしていた。赤、緑、茶色、黒、白、青……。
「なんでこんな風に描いたの?」
だってそう見えたから……。でも、それは言わない方が良い気がして、私は黙って絵を描き直した。
店をクローズさせて駅へと向かう。朝日が眩しい。最後の客が始発に合わせて帰ったから、早く帰れた方だ。給料は安くなるが、今夜の出勤を考えるとありがたい。酷い時は朝を通り越して昼くらいまで盛り上がることがある。
この街でも今くらいの時間は人通りが少ない。始発待ちが消えて、始発待ちを狙う奴らが消えて、私みたいな仕事終わりの人間がちらほらと歩いているくらいだ。
「関わってくれるな」
皆、身体でそう言っている。仕事場から駅までの最短距離を歩く。キャッチもナンパ野郎もいない、車の音だけがうるさい時間。寒くはないがポケットに手を入れて、下を向いて歩いた。そうしていないと、何を踏んでしまうか分からない。
この街はカラフルだ。カラフル過ぎて目にうるさい。だから私は、いつも目をすっぽりと覆う濃い茶色のサングラスをかけている。そうすると、心が落ち着いた。
壁に貼られたポスターを見て足が止まった。ギャラリーの個展のポスターだった。サングラスを外してまじまじと見る。
不快な絵だな。
そう思った。「これぞ芸術!これぞ情熱!これこそが自分!」。そんな絵は昔から好きじゃない。私はまたサングラスをかけて歩き出した。
埃を灰色で描かなくてもよくなったのは高校の時だった。美術の教師が「好きなように描け」と言うから、見たままを描いた。するとその教師は私の絵を絶賛した。
「色に対する感覚が鋭いね。過敏と言ってもいい」
そんなことを言われた。その教師は進路選択の時に美大を勧めてきた。
美大での生活は楽しかった。デッサンの成績はそれほど良くなかったから、イラストレーター系のゼミに進んだ。
「鉛筆を二十パターン描いてこい」
「鳥とモノを掛け合わせたデザインを描いてこい」
「ヒトを二色で描け」
どの課題も楽しかったし、成績も良かった。でも、就職活動は上手くいかなかった。
仕事はある。いくらでもあると言って良かったが、その仕事で生活できるかと言われれば、そのほとんどがノーだった。十分な生活が出来るような仕事は、才のある連中がさらっていった。
そんなことを行きつけの飲み屋でボヤいていたら、店長に「だったらウチで働くか?」と誘われた。大好きなお店だったから、二つ返事でオーケーした。大学の四回生から働き始めて三年。今の生活には満足していたが、先は見えなかった。
店長がいつか「何か描いてみてよ」と言ってきた。描いた絵を渡すと、店長は私に一万円札を握らせた。
「そんな!タダでいいです!タダでいいですから!」
そう言っても店長は譲らなかった。
「いや、本当に気に入ったんだ。買い取らせてくれ」
そしてその絵は店の壁に飾られた。そんな風にして描いた絵が、今は七つ飾られている。その度に店長は私にお金を渡してきた。いくら断っても無駄だった。
でも、店の壁に自分の絵が飾られているのは気分が良かった。私は私の絵が好きだ。見ていて飽きない。次の絵の着想になることもある。客のいない時など、うっとりと眺めてしまう。
「この飾ってる絵、なかなか良いね」
客のひとりが店長にかけた言葉が耳に入った。初めて見る顔だった。
「あぁ、良いだろう?そこの子が書いたんだよ。イラストレーター志望の元美大生」
店長はさらりと個人情報を吐いた。
「へー。イラストレーターにはならないの?」
客の矛先が自分に向いてきた。私は洗い物をしながら、
「働き口がなくて」
と応えた。
「まぁそうか。食ってくってなると、途端に難しいからなぁ今は」
「ええ、まぁ……」
「これ、仕上げるのにどれくらいかかってる?」
ひょっとしたらその業界の人かな?と思った。普通の人間なら、絵の感想は言っても制作期間までは尋ねない。
「大体一日か二日です。真ん中のは三日だったかな」
「働きながらだよね」
思いがけず鋭い目で見つめられたので、たじろいでしまった。
「えっ、あ、はい」
そう言うと客は「ふーん」と言いながら絵を真剣に眺め始めた。なんだか恥ずかしい。
「いっぺん二人で話さない?この腕なら、個展だって開ける」
私は新手のナンパかなと思ったがオーケーした。
だから、実際に個展が実現した時には驚いた。直前まで疑心暗鬼ではあったが、自分の絵が飾られたギャラリーを見て胸が踊った。客足はまぁまぁと言ったところだったが、絵も売れた。
「ありがとうございました!」
個展が終わって、私は深々と頭を下げた。
榎本さん。デザイン会社に務めていて、たまに趣味で個展を開いているということは店長から聞いた。年齢は多分三十代の前半。こんなことを自由にできるのだから、それなりの地位の人なのかもしれない。
「いやいや、お礼なんていいよ。僕が勝手にお願いしたことだし」
「本当に、ありがとうございます」
「でも、この業界で生きていくには、難しいかもしれないね」
「君は、下手くそな絵が描けないだろう」
店長が榎本さんに「なんなら仕事を紹介してやってくれよ」と言った時の応えがそれだった。
「えっ、あ、いや……」
「うん、答えにくいだろうけどそうなんだよ。君は下手くそな絵が描けない。でも市場が求めてるのは圧倒的に下手くそな絵なんだ」
納得するところがあった。
「君は画家タイプだ。目も腕もね。アーティストと言った方が良いかもしれない。でもそういう人間が食っていくのは、イラストレーターで食い扶持を探すより難しい」
「つまり?」
店長が先を促す。
「ウチの会社では雇えないってこと。下手くそな絵も描けないと仕事にならない。かといってアーティストとして売り込むにも無理がある。そういう話」
「えらく厳しいこと言うね」
「現実だからね」
榎本さんは私に一杯ご馳走してくれたが、乾杯する時、声が出なかった。
「でも君の色に対する感覚は素晴らしいし、実際に絵は売れた。初めてのことだから動揺の方が大きいかもしれないけど、個展にふらっとやってきた人間が金を出して絵を買うって、実は凄いことなんだよ。だから、もっと腕を磨くといい」
思いもよらない言葉だった。
「腕を、磨く?」
「そう。今が君のピークじゃない。美大で完成するアーティストなんていない」
仕事帰りの朝の街。濃い茶色のサングラスをかけて見る景色は灰色っぽいから落ち着く。でも、榎本さんの言葉が心に残っていた。
「腕を磨く」
そういえば、美大を出てから考えていなかったことかもしれない。でも、自分は一体何をすればいいんだろう。
「ホコリは灰色でしょう?」
いつかの言葉が蘇った。違う、埃は灰色なんかじゃない。
サングラスを外した。様々なものが舞う街が目に飛び込んでくる。
やっぱり、埃はカラフルだ。
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