藺草 鞠2020/06/15 11:25
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濁流さえなくなれば、凪いだ湖面を泳いで渡るのは容易なこと。

太陽の光を存分に浴びて光り輝く金紅の湖面。

セレナは何もなかったかのように明るく振る舞い、水中を何度か回転して笑って見せた。

少しくらい遊んだっていいでしょう。どうせ梯子が乾くまでここから出られないのだから。

荷物を運び、細かい傷を魔道具で治療し、その上で絶対にグリムメタルに触れないという約束でタイタンは彼女の水遊びを許可した。

「・・・ふふ!晴れているとここはこんなに美しいのね!水底の海藻・・・?もゆらゆら踊っているみたい!」

「・・・疲れてないのかあんたは。」

月のものはどうしたんだとか、あの硬い地面に雑魚寝でよくそこまではしゃぐ元気があるなとか、言いたいことは山ほどある。

それでも、先ほどの辛そうな顔が鳴りを潜めてくれるだけでタイタンは安心する。そのために彼女の我儘を許可したのだ。

タイタンは金色の砂浜で、昨日から必死に記入した地図を眺める。

セレナが過去に作った南方の地図、そして近隣の探索、今回の洞窟探検で、北方と南方の地図はほぼ完成に近づいていた。

あとはこの洞窟の奥を調べ、南方と北方を繋ぐ森の中央部の獣道を記入すれば、おしまい。・・・ついに危険な未踏地への冒険に出る必要が出てくるのだ。

「・・・西方、か。」

お母様の仕掛けた罠が大量にある危険地域。お母様の研究資料が隠されている可能性が最も高い場所。きっと今回のように楽しい冒険にはならないだろう。

だが、それでも、自分はセレナが止めようとも西方へ向かうのだ。

それがセレナが嫌った現実を浮き彫りにすることになろうとも。彼女を生かすために。

ほの暗い覚悟がタイタンの胸に湧き出す。それを打ち破るのはいつだって愛しい彼女の屈託ない声なのだ。

「たいたん、タイタン!貴方は泳がないの?こんなにキラキラで美しいのに!海がこんなに美しい場所だって教えてくれたのは貴方じゃない!」

ばしゃり。

タイタンが汗水垂らして記入した地図に思い切り水がかけられる。

網目状に丹念に記入された道が僅かに滲む。ぐりぐりと書き込まれた線はその程度で消えはしないが、タイタンの緊張や不安、努力さえ海水に溶けていってしまうように感じられて。

「地図に水をかけるな阿呆!!構ってほしいなら素直に言えばいいだろうが!?」

「きゃーーーっ!!鬼が来たわ!早く逃げないと食べられてしまうわーーー!」

ざばざばざばざば。煌めく海面、金色の鉱石。それ以上に彼女の笑顔が眩しい。

怒声が洞窟に反響するが、なぜかタイタンの尾は現れないままだった。



「海水って浮きやすいのね、昨晩はちっとも気づかなかった・・・。」

水面に体を浮かべ、死体のように脱力して両手両足を広げる。

「潮の香りも、良い匂い。嗅いだことがない匂いなんて、久しぶり。」

指を大きく広げ、指先だけでぱちゃぱちゃと冷たい水を弄ぶ。

遠い亀裂から覗く空。朝の薄緑色の日差しがセレナの頰を温めてくれる。

頭皮をじんわり冷やしていく感触が酷く心地よい。これが、その昔、世界がめちゃくちゃになる前にこの星を満たしていた恵みだとタイタンは教えてくれた。

「人間も、鳥も、狼も、全ての生き物は海から生まれたんだ。海から生まれた生き物が進化して、陸にやって来たのが全ての生き物の祖先。どんな生き物も遥か昔は等しく海の微生物だった。母なる海、なんて昔はよく言ったものだそうだ。」

足の指先から海に溶けていくよう。

私はお母様の胎から生まれたわけではないけれど、お母様の胎の中はきっとこんな風に心地よくて優しい場所だったに違いないわ。

少しずつ輝きを増して来た日差しにセレナは目を細める。

今日またひとつ、セレナの大好きなものが増えた。





案の定泳ぎ疲れて動けなくなったセレナをタイタンは睨んでいた。

「・・・何のためにここに来たのか忘れたな?」

「忘れるに決まっているじゃない、あんな刺激的な体験をしたんだもの!明るい海があんなに美しくて、潮の香りがあんなに心地よいものだなんて、初めて知ったんだから!」

この鳥頭め。タイタンは人肌程度に温めた湯でタオルを絞ってセレナに渡した。

「・・・まだ余分はあるにしたって、貴重な真水を使ったんだからな。もう海に入るなよ。」

「はあい・・・」

流石に海で好き放題泳いで2日も体を洗えないのは辛い。タイタンだってそうなのだからセレナはもっとだろう。

もうどうせ明日帰るのだからと、服も真水を贅沢に使って洗ってしまった。

それでもストックは十分すぎるほどあるのだから、これを担いで来たタイタンには頭が上がらない。

ようやく体表の不快感が消えたことに安心したセレナは毛布に体を横たえ、目を細めた。

自分のすべすべした肌の感触が幸せだ。

昨晩はゆっくり眠ったし、久しぶりにたくさん運動をした倦怠感が心地よい。

体調もすこぶる良い。経血もほとんど止まっているし、これ以上心配することはあまりないだろう。

「寝るにしても少しだぞ。まだ昼なんだから・・・夕方には起きて作業を始めないと明日もここに閉じ込めてやるからな。」

「寝ないわよ。お昼を食べてちょっと休んだら頑張るわ。ふふ、お昼はベリーを混ぜて焼いたパンにしましょう?いっぱい遊んだんだもの、糖分を摂らないと、ね?」

まるで猫だな。力なくふにゃふにゃと、芯が抜けたような彼女を見て、タイタンはとっくの昔に絶滅した愛玩動物の名を思い出した。



採掘場の奥に進むにつれて、未採掘のグリムメタルが少しずつ表出し始めた。

がんがんとハンマーを振り下ろす単純作業が再び始まるが、以前ほど気持ちは重くない。

セレナの機嫌1つでここまで自分の気分が左右されるのかと、我ながら恐ろしくなる。

「たーいたんのおみみはふわふわおみみ、たーいたんのしっぽはふわふわしっぽ〜♪」

「・・・変な歌を作らないでくれないか。」

めちゃくちゃな歌詞だが、タイタンより遥かに歌が上手くて羨ましい限りだ。

ぜひ今度歌のレッスンを頼みたいくらいだ。殴ってやりたい。

「ふふ、こんど尻尾を触らせて頂戴?いつも怒って触らせてくれないんだもの。」

「怒っている俺の尾を触る勇気があるなら構わないがな。」

タイタンが怒る原因は大体セレナなのだから、セレナが尾を触れないのは当たり前なのだ。

あのふわふわの尾はセレナにとってかなり魅力的なものだが、見るたび不機嫌に揺れているので、不用意に触ればどんな報復があるかわかったものではない。いつか思う存分ふわふわを満喫したいものだが。

セレナの柔らかい声がタイタンの耳を擽ぐる。あまりに上機嫌で不安になるほどに。

「・・・なあ、無理に明るく振舞っているなら、そんな無理は要らないからな。」

タイタンが朝のセレナを思い出し、そっと声を掛けても。

「別に、そんなのじゃないわ。貴方が言ったんじゃない、後からゆっくり考えろって。今落ち込んでも仕方ないもの。」

セレナの答えはこれだけ。悲しませたに違いないと、絶賛気にしている最中のタイタンは、セレナの上機嫌を勘ぐって恐ろしい気持ちになっているというのに。

「・・・それはそうかもしれないが。」

セレナはそんなにすぐに割り切れる性格ではないのをタイタンはよく知っている。

俺はあんなに酷い対応をしたのに、どうしてあんたはそんな風に無邪気に俺に笑いかけるのだ。

俺はあんたより嘘が得意だが、嘘を見抜くのはあんたの方が得意じゃないか。

などと、そんな風に思いの丈をぶちまけてしまいたくなる。

そんなタイタンに近寄り。

「それにね、タイタン。貴方が素敵な贈り物をくれたから。・・・だから、いいの。ふふ。」

セレナはにやにやと笑い、頰をつついた。

「・・・贈り物?」

「内緒!」

ふふん。

そう言ってセレナはくるりと背を向けた。ここがスポットライトの当たる舞台であったなら、彼女はバレリーナだ。

スポットライトの代わりにセレナの手の中で輝くのは魔道コア。

ころん、と無作為に杭の上に据えられたコアはぴたりと接着し、いっそう輝きを増す。

つまらない単純作業も、彼女がいるだけでまるで演劇の舞台のように華やかになる。相当機嫌が良いのは演技ではないらしい。

「何でもいいが。調子に乗って爆発とか・・・そういう事故はやめてくれ。もう終点も近そうなんだから・・・。」

「しないわよ!・・・あ。声の反響が、近いわ。」

セレナはそう言って暗闇にコアを投げた。振りかぶって投げられたそれは、思い切り跳ね返ってタイタンの足元に転がって来た。

2人は顔を見合わせる。

「・・・とりあえず奥に何かあるか確かめてから・・・こら、1人で走り出すな。足元に気をつけて、ゆっくり行こう。」

「前々から思っていたけれど!人の首根っこを掴むのは止めなさいな!レディーに失礼だと思わないの!?」

喚くセレナを無視し、タイタンは歩き出す。セレナ以上に気持ちがはやっていたのはタイタンだ。

もしかしたら、自分の求めるものが、この先に。

崩落の秘密。お母様の秘密。この森に隠されたもの。計画の全貌。

知りたいことは山ほどある。この数週間焦らされ続けたタイタンはもう限界だったのだ。

そして冷たい採掘場の奥の奥。

グリムメタルで作られた金色の扉が2人の目の前に姿を現した。



「・・・・・!」

「研究室・・・かもしれないわ。こんなところにあったの・・・?」

研究室。これは間違いなくビンゴだろう!

タイタンははやる気持ちを抑えて入り口の扉を開こうとする。ドアノブ式の扉はノブを捻ってもビクともしない。

「・・・流石に老朽化しているのか、鍵がかかっているのか。」

「魔道鍵かしらね。・・・まあ、このくらいなら、任せて。」

セレナがドアに触れる。しばらくそうして考え込んでいたが、天下の大魔導師が作り出した回路のあまりのまどろっこしさに、セレナの額に皺が寄る。

瞬間、どろりとドアが溶け落ちた!

「いやいやいや!面倒になって壊しただろう今のは!?」

「違うわよ!これは・・・その、回路が、回路が壊れていたから!溶かすしかなかったのよ!」

気持ちがはやるのは彼女も同じだったらしい。セレナがうかうかしていたら自分だって背中の大剣を振り下ろしていただろうという事実からは目を逸らし、それらしい説教を口から並べる。

「下手な嘘を吐くな!!部屋の中のものまで壊したらどうす・・・って、これは。」

部屋の中は青い明かりがついていた。お母様が亡くなってからの何年、明かりが壊れず機能していたこと自体が驚きだが、それ以上の異様な光景に2人は目を丸くした。

部屋の中にはセレナの背丈ほどのガラス製の箱が3つあった。その内部は水で満たされ、中で窮屈そうに泳いでいるのは、見たことのない鮮やかな色の魚たち。

セレナが知る魚というのはどれも土色やくすんだ苔色の魚ばかり。

しかしその部屋にいたのは鮮やかな赤、青、黄色に紫。

まるで花畑かと錯覚するような色とりどりの魚たちが、レースのような鰭をなびかせ泳いでいる。

「ああ・・・これは。なるほど、そういうことか。」

「・・・タイタン?」

タイタンは既に自分の期待していたものがここにはないであろうことを理解していた。

きっとここにあるのは、水槽と結界とは1つも関係のない研究資料だけ。

だって、これは。

「海に住む生き物たちだ。・・・海に住む生き物は、こんな風に色鮮やかだと聞いたことがある。」

タイタンは水槽の匂いを嗅ぐ。先ほど同じ、潮の香りが水槽から漂った。

恐らくは水槽の横に据えられた、管の生えた魔道機械で水を浄化しているのだろう。水に入った2本の管から水が出たり入ったりを繰り返している。

「・・・!これ、お母様が作った生き物でしょう!?こんなに色鮮やかな魚が実際の海では泳いでいるの!?」

セレナは水槽に顔を貼り付けるようにして魚たちを凝視した。

驚いた魚たちが逃げていく。黄色い尾の魚が小さく水面から跳ねた。

「魚だけじゃない。海底にへばりついている吸盤の生き物も、貝類も。海に住む生き物たちだ。あの海に生き物を投入していなかったのか、予備を残していたのかわからないが・・・ここで海を再現する実験をしていたんだな。」

セレナは足元に落ちていた紙束を拾った。

「・・・生体実験ファイル。なるほど、川の魚を海水に適応させるために、少しずつ慣らして、海水を排出できる生体器官を与えて。見た目も・・・図鑑を見ながら寄せたのね。」

壁に据えられた本棚には、大量の図鑑が埃をかぶって眠っていた。

「でも、可哀想よ。多分幼体のままここに放置されて、なんとか苔を食べながら生きていたんでしょうね、この子たち。大きくなって、窮屈になって・・・辛そうだわ。」

セレナの言う通りだ。魚のサイズに、水槽のサイズが見合っていない。

おそらくはこの水槽だけで生態系が循環するように作られている。しかし増えすぎた小魚は泳ぎまわることを諦めたように元気なく右往左往しているし、比較的大きな魚が数匹入った左の水槽はもっと酷い。大きな赤い魚が水槽の中で反転することもできずに藻を貪っている。

「・・・あの湖に放流してやれたらいいんだが。あの中に入ったってグリムメタルで死ぬだけだからな。どうしようもない。」

「でも、でも・・・。海はあんなに素敵な場所なのに。こんな狭い場所で、広い海を知らずに死ぬなんて・・・そんなの。なんとかしてあげなくちゃ・・・。」

「なんとかって。グリムメタルがないとそもそも海水が生まれないんだ。雨が降るたびに海水が薄まったら、海水がないと生きられないこの魚たちは死ぬしかなくなる。」

それなんだけど、と。セレナはタイタンに問いかけた。

「・・・貴方、グリムメタルの砂つぶを飲んだわよね。どうだった?唾液はしょっぱくなった?」

「・・・ああ。それで気づいて慌てて吐き出したんだから。」

「砂つぶになってもあのグリムメタルは機能するんでしょう?なら、あの鋭い結晶の角を取って砕いてしまったらどう?あとは多少飲み込んでも平気なように・・・例えば胃液には反応を弱めるようにコーティングを加えたりとか。そうしたら・・・魚たちが安全に生きられるようにならないかしら・・・?」

セレナは水槽を見つめる。

海底にいる魚たちは口から砂つぶ混じりの水を飲み込む。しかしそれはきちんと口からぺっ、と吐き出されている。魚だって砂を吐き出す程度の知能はあるのだ。

作業するにあたって、結晶の下の空気だまりが一番危険だが、少しずつ魔道で砕いてやればいい。何かを壊すのはセレナが一番得意なことなのだから。

次々にアイディアが湧いてくる。それを整理整頓もせず、ただタイタンに思いつくままぶつけていく。よくこれほどすぐに色々な事を思いつくものだ。数々の奇天烈なアイディアに、タイタンも目を輝かせていた。

「まずは1匹だけ、グリムメタルの砂を底に入れて・・・確認して。できるだけ小さな子がいいかしら・・・。砂を弄って駄目なら、研究資料を読み込んで生体を弄れるようにならなくちゃ。時間はかかるかもしれないけれど、絶対・・・。」

「ッ・・・。」

当たり前だ。実験をするならば、被験体が必ず必要になる。

そうだ、忘れかけていた。

彼女はお母様と共に森の生き物を改造し尽くした人間なのだ。

ポーラ。狼。カジリバエ。・・・そして、自分もその毒牙にかけられた1人。

期待にときめいていた気持ちが急速に縮む。そして、ふつふつと胸の奥に沸騰した感情が。

「・・・いいのか、勝手にそんなことをして。このままここにいた方が幸せかもしれない。可哀想なんて、俺たちがこの魚を見て勝手に思っただけなんだから。」

セレナの早口を遮るように出された言葉は、熱を上げるセレナとは正反対に冷え切っていた。

「きちんと勉強と実験をした上でやるわよ、勿論。勝手にやる以上は、誠実でないと駄目。」

「そんな話はしていない。100%なんかないあんたの賭けに、沢山の命を巻き込むということを・・・あんたは分かっていない。」

タイタンはそう言い、水槽を指差した。

胸を占めるのはお母様と・・・僅かながらセレナに抱く嫌悪感と同じもの。

この親子はこうやっていつも命を弄ぶ。命に誠実でありたいなら命を弄ぶことをやめれば良いのに!

ゆっくりと循環する水は透き通っている。魚にとって有害なものは魔道の濾過装置で完璧に取り除かれ、必要なものは全て魔道機械で与えられている。

命を維持するために必要なものが完璧に用意された、完璧な箱庭だ。

ここにいれば、魚たちは安全に命が守られたまま一生を終えられるだろう。狭いと思うのはあの雄大な海を知ってしまったセレナが、そこで楽しそうに泳ぎ回る魚たちを想像してしまうから。

だけれど。きっとお母様は、ここに閉じ込めるためにこの命を生み出したのではないはずだ。

「・・・私は、この水槽の生き物がこのまま死ぬのは嫌だって思う。お母様はきっと、あの海にこの子たちを解き放つためにここで研究していたんだもの。我儘かも、しれないけれど・・・このまま見過ごすのは嫌だっていう私の気持ちに、嘘はつきたくないわ。」

「そうだ。それはただのあんたの我儘だ。お母様の気持ちを想像しただけのあんたの我儘。・・・そういうところだけは、本当に、気に食わない。俺の体が弄ばれたことを嘆くくせに、あんたはこの小さな命を、お母様のためだと平気で弄ぼうとする。」

だから、やめろ。ここにいれば少なくとも寿命までは生きられるんだから。

タイタンはそう言って口を閉じ、セレナを出口へ促した。

青い光に照らされるセレナの右頬は、普段より数倍不健康に見える。

また傷つけただろうか。でも、普段より厳しい言動でセレナに立ち向かったことを、タイタンはあまり後悔していなかった。

だって想像するしかないのだ、魚の気持ちなんか。

魚たちがもし、死んでも構わないからあの広い海に逃がしてくれと頼んできたなら、タイタンはすぐにでも水槽を担いで歩き出しただろう。

だが2人にそれはわからない。だから魚たちを広い海に逃がしてやりたいなどというのはただのエゴだ。自己満足だ。我儘だ。分かりもしないものを想像して、物言わぬ生き物の命を弄ぶことをタイタンは許せなかった。

それを心から嫌悪したからこそ、タイタンは「お母様を見定める」などと言い出したのだ。

だがそれでも、愛しい彼女の根底にもそれがあることを認めたくなかったのに。

挙げ句の果てに持ち出した言い訳は「お母様」。虫唾が走る。

「魚の命を弄んだのがお母様の咎だというなら、これを見逃すことこそが私の咎だわ。」

「それが勝手だと言っているんだ。自分の理想通りに命を生かすことを、あんたは何かを救うことだと呼ぶのか?」

セレナの瞳が僅かに揺らいだ。真正面から彼に嫌悪を向けられたのは初めてだった。

黙り込んでしまったセレナを見放すように、タイタンは彼女に背を向けた。失望しているような、どこか安心しているような、その背中は不思議な感情を湛えていた。

正面から敵意を向ける彼はこれほど恐ろしい。ちいさな心臓がきゅっと縮こまる。

でも、お母様は、お母様は、きっとこのまま魚を閉じ込めることを望んでいないわ。

揺らいだ瞳のその先。左端の水槽の、赤い大きな魚の目とセレナの目が合った。

輝く月光と正反対に、淀んだ泥のような瞳。

それはもう、生き物の瞳とは呼べなかった。狭い水槽の中、他の魚と詰め込まれるように、ヒレを震わせるのが精一杯の狭い水槽に閉じ込められ、ただ生きるために水槽にへばりついた藻を貪っていた。

ぽこ、ぽこ。静かな水音が鼓動のよう。この魚は確かに生きている。

でも、だけれど。こんな状態を生きていると呼んでいいものか。

確かに今、セレナと赤い魚は目を合わせている。だけれど、魚はセレナを見てなどいない。

これは、駄目だ。タイタンが何を言ったって、私はこれを許してはいけないのだ。

檻の中、鎖に繋がれ木の棒に怯えていた少女だって、檻の外に自分を優しく抱きとめる腕があることを知ることができたのだから!

「自分の理想通りに、命を、生かす。タイタンはそれが嫌い?」

「・・・・・ああ、嫌いだ。あんたら親子のそういう在り方が、嫌いだ。」

数日は気まずいだろうな。タイタンは諦め、正直にそう答えた。

「でも、タイタン。私はそうやって貴方を救ったわ。」

セレナの肩を押した手は動かなかった。

「私はそうやってお母様に助けられたわ。貴方にたくさん助けられたわ。」

振り返ったセレナの口は、不敵に笑っていた。

がちゃり。

セレナの瞳の奥。何かが開く音がした。

「大丈夫よ。私、知っているもの!何かを我儘に助けたいって気持ちは、強ければ強いほど、なぜだか良い方向に向いていくの。何かを助けたいという気持ちにはそういう不思議な力があるの!」

セレナの瞳は自信に満ちていた。

そうだ、分かった!我儘に何かを救いたいと願うことは、間違ったことではないのだ、決して!

世界に嫌われ続けたはずの女の子が、今、何かを救うために心をときめかせ続けられるのは、奇跡のような出会いが彼女にあったから。誰かが我儘にセレナを助けてくれたから。

セレナの顔に、満面の幸せが花開く。



「タイタン!世界は不思議とそういう風にできているって、教えてくれたのは貴方!そうでしょう!?」



そんなのただのあんたの想像だ。あんたがそうあってほしいと祈っているだけだ。

そう切り捨ててしまうのは簡単だった。

だけれど、勿論タイタンにはそんなことはできなかった。

「・・・・・ああ。そうだな。それが本当だということを、俺はよく知っている。」

自分の負けだ。珍しく彼女に口論で負けたはずなのに、なぜだか清々しい。

ああ、彼女の周りには何故だかそういう風が吹くのだ。彼はそれをよく知っている。

それは既に、自分に舞い降りたことのある奇跡であったから。

それは既に、自分が起こした奇跡でもあったから。

彼女の翼には常に追い風が吹くのだということを、タイタンはよく知っているのだ。



















それから少しだけ時が流れた後のお話。

タイタンが汗水垂らして運んだ3つの水槽が、あのグリムメタルの海のほとりに並んでいた。

金色だった海底は透き通った砂色に変化してしまった。

ルチルクオーツの海は失われたが、本来の海により近づいたとタイタンが言うのを嬉しく思ったことを、セレナはよく覚えている。

今日は快晴。洞窟の切れ間からは入道雲が覗き、初夏の訪れを告げている。

「いくぞ、せーーーの!!!」

ゆっくりと傾けられた水槽から、色とりどりの魚たちが飛び出し、湖面へと飛び込んでいった。

そうして3つの水槽の魚を海へと放流し、汗をぬぐった2人は、顔を見合わせ、ニヤリと笑い、待ちわびたとばかりに海へと飛び込んだ。

今日は勿論、海水を流すための真水と、着替えも何着か用意して。

北方の森だって夏は暑い。水浴びでもしないとやっていられないのだ。

飛び込んだ勢いで沸き立った泡に思わず目を瞑る。そしておそるおそる開かれたセレナの瞳に。

鮮やかな花畑が映った。

まるで赤子の毛髪のような柔らかな海藻の隙間を赤、青、黄、紫の小魚たちが悠々と泳ぎまわり、小石にへばりついた藻をつつき食らっている。

大きな赤い魚は大きく伸びをするように尾を広げ、セレナの視界からすぐに遠く消えていった。

足元の岩に張り付いた蛸は、まだ少し苦手だけれど。

これが海というもの。以前の金色の海も美しかったが、生命に溢れまぶしくきらめくこの海のほうが、セレナは好きだ。

思わず込み上げた熱いものをぐっと飲み込み、隣で同様に目を輝かせるタイタンに笑みを向けた。タイタンの楔色が、海が、魚が虹色に輝く。真っ白なセレナをプリズムが包んだ。

ざばりと一度海面に顔を出し、同じく上がってきたタイタンに、セレナは興奮した声をかける。

「貴方の言った通りだったわ!海って、本当に素敵な場所ね!」



これからこの海がどうなるのか、誰にもわからない。

セレナの計算上は完璧だが、自然に不測の事態はつきもの。

タイタンの恐れた事態が起きる可能性はゼロではない。

だが、今この瞬間、尊き大魔導師の悔恨がゆっくりと天に昇ったことは間違いなく。

タイタンは夏の太陽を浴びてきらめく白い肌を見つめて、彼にしてはかなり珍しい満面の笑みを浮かべた。

神も仏も信じないタイタンだが、それでもこの時はこう思わざるを得なかった。



自由を祝福する女神が見守るこの場所ならば、きっと大丈夫。

彼女が世界を自由で照らす限り、この海の美しさは損なわれることはないだろう、と。