怪異の森には白い羽根が落ちている

Chapter 16 - 絶望の地平線:1

藺草 鞠2020/06/23 03:08
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ばたばた、がたこん。

木陰で昼寝をしていたタイタンの耳に入った異音はセレナの居る作業場から。

数秒後、案の定酷く焦った様子のセレナが、家の外に転がり出てきた。

「・・・・・どうした。」

「いえっ、いえ!なんでもないの!少し南の方へ出かけてくるわ!」

「分かった。剣を取ってくるから少しそこで待て。」

また厄介ごとか。ため息をつき、逃げ出そうとするセレナの首根っこを掴み、玄関をまたぎ、部屋の壁に立てかけておいた剣を背負う。

この間およそ10秒。悲しいことに一連の動きが手慣れ始めていた。

じたばた暴れていたセレナも玄関を過ぎたあたりで諦めて動きを止めた。こちらももう慣れてきている。

「・・・で?今度は何をやらかした。」

「私じゃないわよ!中央部の魔道罠が作動したから、様子を見に行こうと思って・・・。」

「・・・侵入者か。全く、油断すればすぐこれか。」

魔道罠が反応するのは人だけ。タイタンの生体反応を登録し、ようやく南部の罠地帯をある程度安心して歩けるようになったのも最近の話である。

下水が壊れたか、山羊が暴れたか、はたまた人食い魚の氾濫か。

などと色々と予想はしたが、今回はかなり最悪の部類に入る事態だ。いや、この森で起きる異常事態なら何が起きても最悪であることに間違いはないが。

最近は大人しかったが、またハンターどもが森にやってきたのだ。

敵ならば気を引き締めなくてはならない。気を張り出したタイタンに、申し訳なさそうにセレナが一言。

「・・・剣を取ってきてもらったのに、言いにくいのだけれど。多分・・・武器はいらないわよ。」

意味がわからず疑問符を浮かべるタイタンだが、数分後、その疑問は解消されることになる。









「僕は敵ではないと、前に再三伝えたはずなんだけれどね。」

「許せディアン。この阿呆は5ヶ月この森に住んでいる俺の生体登録すら最近まで忘れていた馬鹿野郎だ。」

「馬鹿か阿呆かせめてどっちかにしなさいな!それに責められるのは私ではないでしょう!?ディアンがあの日そそくさと帰ってしまったんだから仕方ないじゃない!」

ディアンの首の側面には紫色の鬱血痕が残っている。とっさの判断でロープと首の間に指を差し込まなければ、ディアンは悶え苦しみ絶命していたに違いない。

「あんたが森の監督責任者だろ。せめて一言伝えておけばよかっただろう。開き直るな。」

若干私怨が入っているじゃないの。

セレナはそれを無視してディアンの肘の皮をつまみ、器用にハサミを入れた。

神経に触れないので痛みはない。薄く剥ぎ取られた皮膚は金色の粉が沈殿した水の中に入れられるとぼろぼろと崩れ落ち、すぐに水に溶け込む。

セレナはそれを自室へと運び、そして数分も経たずに戻ってきた。

「・・・はい、これで生体登録はできたから、魔道罠は避けられるわ。植物とか動物は相変わらず襲ってくるからそれだけは気をつけて頂戴。」

「・・・全く。作戦の時のように警戒してくればよかった。地面を踏めばトラバサミ、木に登れば槍が飛んでくる。水に落ちれば魚が目玉を齧ろうとするし、挙げ句の果てに銃撃してくる食人植物ときた。どう考えても客人に対する態度じゃないだろ。」

「植物が・・・銃撃?なんだそれ、俺も知らないんだがセレナさん!?」

ディアンは目を逸らしたセレナを睨み、マドレーヌを齧った。

ひどい目にあった、ひどい目にあった、と怨念のように繰り返され、セレナは流石に申し訳なさそうに小さくなっている。目つきの悪い黒曜に睨まれ続けると、本当に呪われるのではないかという気持ちになる。

しかし、実は言葉ほどディアンの機嫌は悪くない。

なぜならディアンは、ハーブティーもマドレーヌも、口に入れるのは随分久しぶりだったから。

まさかこの森の住人がこれほど豊かな生活をしているとは到底思っていなかった。内心かなり驚きながら、ディアンは遠慮なくもぐもぐと甘い菓子を口に詰め込んだ。バターの香りはなく、その代わりスパイスで軽く味付けされたマドレーヌ。独特な味だが、美味い。

ディアンは素直に一言、美味い、と言った。瞬間セレナの表情がぱっと花開く。

「ふふ!でも。お客様なんてタイタン以来だわ。昨日焼いたクッキーも食べて頂戴?焦がした蜂蜜を混ぜて作ったのよ!」

「あっ、食べる食べる。配給食以外のものを食べるの久しぶりだよ。」

・・・なんだか知らない間に打ち解けている。

ディアンは細身のくせにタイタンよりも食べるらしい。小動物のように、一心不乱にもぐもぐと菓子を食べる姿が、彼女の目には可愛らしく映るらしかった。

なるほど、さながら孫が遊びにきたお婆さんだ。人に何かを振る舞うのが、セレナは楽しくて仕方がないタチなのだ。

・・・それはいいが、セレナ、って。

タイタンだって呼び捨てにしたことなどないのに、馴れ馴れしくはないだろうか。

俺だってこんなに早く打ち解けなかった。

なんでセレナは2回会っただけの男にこんなに心を開いているんだろうか。

というかタイタンと2人のお茶会より楽しそうなのも腹立たしいし。

「・・・さてさて、そろそろ本題に入らないと闇討ちされそうだ。まずセレナに渡すものがこれ。タイタンに渡すのが・・・こっちか。はい。」

そう言ってディアンがそれぞれに渡したのは、同じ色の封筒。タイタンのものにだけ目印の丸いマークがされていた。

「互いに見せ合うかは自由にしていいけど・・・まあ、セレナは特にタイタンに見せたくないんじゃないかと思って。とりあえず別個に渡すから、僕が帰った後にでもゆっくり中身を読んでくれ。」

「・・・・・」

空気の読める男だ。この家の2人の距離感というものを、彼はもう掴んでいる。

タイタンにそう言っておけば、間違ってもセレナの封筒の中身を暴くことはないと、彼は分かってやっている。2人に与える情報を事前に選んで持ってきたあたり、彼は前回の別れの時点でそれを掴んでいたに違いなく。

有難いが、抜け目のない男だ。思ったことはセレナも同じだったらしい。

2人が無言で目線を合わせるのを見て、ディアンは得意げに笑っている。

「僕を仲間にしておいてよかっただろ?その分約束はきっちり守ってくれよ。」

「・・・それなんだけれど。ディアン、魔道授業は今度でもいいかしら?それより先に、私とタイタンに教えて欲しいことが・・・今の保護区が一体どんなことになっているのか、教えて欲しいの。」

「・・ん。そうだね。まず僕らに必要なのは情報共有だ。・・・そしてセレナ、できれば君のことも。憶測だけれど、もしかして、君は特区の出身じゃないのか?」

瞬間、セレナの表情が、凍った。



急展開した会話に、タイタンは全く着いていけない。しかし「特区」という言葉を聞いた途端にセレナが剣呑な空気を纏ったことだけははっきりと分かった。

先ほどまでにこやかに菓子を勧めていた相手を思い切り睨みつけ、セレナは冷え切った声でディアンを威圧した。

「・・・なんで、ハンター協会がそれを知っているの。」

「ハンター協会が把握しているのは、過去に一度、たった1人だけ、特別指定区域の強固な警備を無理やり破ってこちら側に侵入してきた、銀髪の少女がいたことだけ。人などいるはずもない特区から、何故か、こちら側に。今でも協会はその少女の行方を血眼で追っているよ。まさかこの森の結界の主人と同一人物だとは思っていないみたいだけれど。」

そしてディアンは、セレナを心配そうに見ているタイタンの方に、急に顔を向け。

「蚊帳の外、って顔をするなよタイタン。お前にも関係ある話だよ。お前はハンターの中でも数少ない、特区への遠征任務を請け負っていたハンターなんだ。」

「俺が?」

やはり、ディアンは記憶を失う前のタイタンに詳しいらしかった。

正直、そこまで聞きたいとは思っていないが、必要なことなら嫌でも聞く必要もあるかもしれない。

背筋を伸ばし、姿勢を改めてディアンに向きあう。ディアンはそれを見て今一度2人との契約を取り付ける。

「・・・交換条件だよ。僕はハンター協会の情報をお前に渡す。その代わり、特区の情報と・・・タイタンとセレナのことを、教えてくれ。」

交換条件。そう言う割に、ディアンは切羽詰まっているように見える。











「・・・大体俺に起きたことはこの程度だ。怪我をして記憶をなくし、セレナさんに拾われた。その後俺に起きたことは・・・お前も見ていただろ。俺はあの狼によって怒れば尾が飛び出す体質になり、セレナさんは・・・その。」

「ディアンはあの時もう見てしまったもの、隠さなくて・・・いいわ。その、羽根が生えているの、私。不気味かも、しれないけど。」

そう言ってセレナは身を縮こめた。自分から言い出しただけ彼女も成長した。・・・タイタンと接しても、自ら羽根を晒すことはまだできない様だったが。

「こんな美味しいお菓子を作る人を、不気味だとか化け物だとか、そんな風に思ったりしないよ。・・・セレナは特区で生まれた、そのことに間違いはないんだね?」

「・・・まあ、そうよ。でも、特区のことなんか覚えていないわ。いろいろあってここに流れ着いて、お母様にお世話になっていたの、私。」

いろいろ。セレナはそうはぐらかした。

ただその時、僅かにタイタンの表情が曇った。その「いろいろ」に何が詰まっているのか、少なくとも良い出来事でないことだけはディアンも察することができた。

「タイタン。特区というのは、ここより更に西方にある、簡易結界すら通じない崩落の頻発地域だ。理由はわからないけど、特区に立ち入ると簡易結界が全く作動しなくなる。一歩踏み込めば崩落が起きる、生還するのはほぼ不可能と言われる地域に一体何があるのか、それを調査していたのがお前だった。・・・そんな地域で、セレナは生まれたと、そう言っているんだ。」

生まれるって。つまりはそんな場所に父親と母親、少なくとももう2人、人間が生活をしていたということだ。怪訝そうな顔をするタイタンに、セレナは当然よね、と言わんばかりのため息をついた。

「だから、覚えていないの。本当に。・・・都合よくそこだけ覚えていないなんて、思わないで頂戴?本当のお母様は歩けるようになった私を放ってどこかへ行ってしまって、その頃にはもう魔道が使えたから、ご飯の匂いがする方に一生懸命歩いていたらいつのまにか特区を出てしまっていたの。・・・覚えているのは、それだけ。」

セレナは嘘をついている様子は全くなく、むしろ、これほど疑わしいことを言っている自分をどう信用してもらおうかと困っているような様子だった。

タイタンは隣にある小さな肩に、そっと手を添える。

「あんたが嘘をついているとは思わないよ。・・・ディアンはどうして特区のことを知りたがるんだ?こちらばかり話すのはフェアじゃない。」

困り果てたセレナを庇うように切り返すタイタンを見て、ディアンはため息をつく。

嘘ではないことぐらい僕だって分かっているから、その敵意に満ちた目を止めろ、と。

さながら獣の眼光だ。狼に近づいているのか、元からそうだったのかは知らないが、立ち振る舞いは縄張りを守ろうとする獣のそれだ。

「・・・そうだな、今の保護区の現状から順番に話して行こう。」

ディアンは一口、ハーブティを啜った。

「一言で言えば、酷い有様だ。保護区に、明確に住民の身分に格差が生まれ始めたのは僕が生まれたころから。原因は、保護区の急激な人口増加。もうこれ以上、保護区に人が住める住居などほとんどない。先月、ついに出産に制限が設けられたくらいさ。」

「出産を・・・?」

セレナが疑問を感じるのは当然だ。素直な反応をどこか羨ましそうに見て、ディアンは俯いた。

「協会が無作為に妊婦を選んで、手厚い配給と引き換えに堕胎させる。・・・そうまでしないと、保護区はもう人1人が生活する最低限の空間すら用意できないんだ。」

「堕胎・・・させる!?堕胎を命じるのか、協会が・・・!」

「タイタン、だたいって、何・・・?」

突然声をあげたタイタンの服を、セレナがつまむ。急に怒鳴ってどうしたの、と。

堕胎など大昔に廃れた風習で、ディアンは今回の法令の施工で始めてそれについて知った。保護区の人間の大体がそうだろう。

なぜタイタンはそんなことを知っているのか。この男、実はそういう趣味があるのか、とディアンは内心ちょっと引いた。

「昔、望まない子を孕んだ女の為にそういうことをする専門の医者が居たんだとさ。膣に長いハサミを入れて、少しずつ胎児を切り取って子宮から取り出す。・・・もしくは長い棒で胎児を吸い出したりして、子宮を空っぽにして・・・」

「ひっ・・・」

可哀想に、青ざめたセレナが椅子をかたんと揺らした。

そしてその隣からは、ぐるると唸り声が聞こえそうな非難の視線。

「なにも具体的なやり方まで教えなくてもいいだろう。女の子には余計にショッキングだろうが。」

「悪かったって。・・・とにかく。堕胎を市民に強要するなんて、人道に反したことをしなくてはいけないくらい、今の保護区は人が増えすぎた。人が増えて物資が足りない。家を建てる物資もないし土地だってない。18年前から保護区はずっとそんな調子だよ。」

「人が増えたきっかけは・・・結界の外に住む人たちをハンター協会が見つけたから?」

ご明察。ケーン、と、遠くで鳥が鳴く声がした。

「元々保護区の崩壊の兆候はあったけどね。結界の外の人たちを闇雲に保護したのがよくなかった。あんなに外に人が居るとは協会も思っていなかったし。とにかく、結界の外からの移民の流入で、保護区が長年掲げてきた完全なる平等は崩れ去った。きっかけは主に2つ、移民差別と貨幣の誕生だ。」

「差別・・・。」

セレナはディディの言っていた、タイタンの過去を思い出した。確か彼女とタイタンは、元々結界の外の人間だったと言っていた。そして彼らが保護区の住人でありながら酷く困窮していたことも聞いた。

これからタイタンが、ディアンの話を他人事として聞くことが、自分のことだとは想像もしないであろうことが、セレナはただ、悲しい。

「人が増えたことで、協会は慌てて新しい住居を大量に作った。物資不足の中で作られた簡易住居は・・・まあ酷いものだ。路上に、雨風もろくに凌げない布を張っただけの住居を、保護区民は侮蔑を込めて『テント』と呼ぶのさ。テントの移民たちは、もともと反協会を掲げて結界の外に住み始めた人間たちの子孫だ。そもそも保護区民が困窮する羽目になったのは移民のせいだし。・・・物資配布担当の人間に嫌われたが最後、食事すら回ってこなくなる。」

「・・・くそ。追い詰められた人は、全く・・・どこまでも醜いな。移民たちには何の非もないだろうに・・・」

何の非もない、とは一概に言えないんだよ。と。

嗜めるようなディアンの声色に苛立ったタイタンの目は鋭い。

「・・・保護区に行くのを嫌がる移民も多いとセレナさんから聞いた。無理やり保護区に収容したのは協会じゃないのか?」

「まあね。でも結界の外の生活に限界を感じて、望んで収容された移民も多かったらしいよ。お前が殺した隊長なんかもそのクチさ。・・・僕が責めているのは、完全平等を掲げる保護区に、貨幣制度を持ち込んだ一部の移民だよ。」

確かに、先ほどディアンは、保護区が崩壊した理由をもうひとつ挙げていた。

しかし、保護区は全ての物資が配給で成り立っている場所だ。貨幣など必要ないではないか。

「タイタン。保護区の外ではね、貨幣制度が当たり前に残っているのよ。配給のない社会で暮らすのに、物々交換では不便すぎるもの。・・・完全なる平等を掲げて、人々に配る物資も嗜好品も全て均等に配ることで成り立っていた保護区で、生まれてからずっとそれが当たり前だった人々が、お金を払って何かを買うことを知ってしまったら、どうなるか想像できる?」

「っ、そうだ。確かに・・・お金なんて格差を生むものの代表を、使い方も碌に知らない人間たちが何も考えずに使ったら・・・社会が崩壊するに決まってる・・・!」

保護区は情報統制がされている。特に、自由な文化があった旧人間時代のことなどご法度。

教科書に載るのは崩落以降の歴史、ハンター協会ができてからの歴史なのだと、あの歴史書に書かれていた。

そう。だからディアンの話は恐ろしいのよ。と、セレナが続きを促した。

「協会は貨幣の所持と使用を厳しく禁じているよ。ただ、反ハンター協会の風潮も強いし、協会の権力は日に日に落ちている。ほとんど規制できていないのが現状だ。貨幣は、配給では足りないものが出た時に、それを誰かと交換するために保護区で使われ始めた。配給が不足し始めた今では、貨幣無しで保護区で生きていくのはほとんど不可能だ。」

配給だけで生活が成立するのは、配給が潤沢であったからこそだ。

人によって求めるものは違う。育ち盛りの子はより多い食事が必要になるし、年寄りには薬が、少女には甘味が、妊婦には野菜が。

貧困すれば、必要なもの、不要なものがより浮き彫りになる。

貨幣というものを知った無垢な人々は、不要なものを貨幣に換え、必要なものを買うことで生活を豊かにしようと考えた。

「薬を買う為に誰かが貨幣を積む。薬を売ってより多くの野菜を買おうと、誰かが薬の値段を上げる。薬を買う為に多くの貨幣が必要になった誰かが、貨幣を得ようと塩の値段を上げる。その繰り返しで保護区民の生活はもうボロボロだ。・・・貨幣を得る為に、貨幣を偽造する保護区民や、移民の物資を奪う配給担当のハンターがぼろぼろ出てくるくらいには。協会は貨幣を禁ずるのではなく、協会が貨幣を完璧に管理しなくてはいけないんだ、本当は。」

そりゃ、2000年間貨幣というものが全く存在していなかった世界に、いきなり貨幣が持ち込まれたら混乱が起きる。

貨幣とは本来国家が血眼で価値を管理するものだということを、保護区民はきっと知らない。

インフレーションなどの概念を理解できているかすら怪しい。

いつかのドイツのような事態だ、などとタイタンは思うが、その気持ちを共有できる人間はここにはいなさそうなので黙っておくことにする。

「そもそも、結界の外で貨幣を使っていた移民の一部がゴネなければこんなことにはならなかったんだよ。自分の少ない資産を失うのが恐ろしくて仕方なくて、保護区の絶対のルールを破った。・・・全く、忌々しいったらありゃしない。」

吐き捨てられた呪詛の言葉はテーブルに落ちてごとりと音を立てた。

ここまででもかなり壮絶な話だというのに、それを普通に話していたディアンの空気が、変わった。まるでここからが本番だというような、地獄の門の入り口に立たされたような。

長話で粘った唾液を、ハーブティーでゆっくり飲み下して、ディアンは口を開いた。

「そんな中、恐ろしい事件が起こった。・・・54人の子供がある日、忽然とテントから姿を消した。そしてハンター協会に、1人の市民が泣き崩れながらやって来た。自分の子供たちを男に売り渡したと。自分の子供は今頃結界の外に捨てられて震えているに違いないってね。」

「捨て・・・!?嘘、保護区でそんな犯罪が起きるはずないでしょう!?」

セレナの横槍にタイタンも頷く。

結界の外では、言っては悪いがそれこそよくある話だ。

だが、人の出入りが厳しく管理された保護区で、何十人もの子供をバレずに連れ出すなど、絶対にできるわけがない。

連れ出したやり口は知らないよ、と前置きして、ディアンは話を続ける。

「配給不足で子供を養えないテントの住民から、金をもらって子供を処分して、稼ごうとした馬鹿がいたのさ。そうすれば親は子供のぶんの配給を不正受給できるから、きっとビジネスになるってさ。・・・まあ犯人は一週間と経たずに捕縛され、生き残った子供は3ヶ月後に無事保護されたけど。その馬鹿の名前を取って、マキシミール事件と呼ばれる、今でも保護区では語り草になっている大事件さ。」

今までのディアンの話で、保護区がどれほど悲惨な状態なのかを痛感していたつもりだった。しかしそれが本当に「つもり」に過ぎなかったことをタイタンは一瞬で理解した。

保護区は本当に終わりかけているのだ。

腹を痛めて産んだ子を、金のために放り出す母親。それを金にしようとする人間。

貧しさで倫理を失った数多の人々が、保護区の路上に、寒さに震えながら犇いている図が、何故だかタイタンには鮮明に想像できた。

「・・・生き残った子供は無事保護された、って言ったわね?」

「ああ。言葉通りの意味だけど。」

もう確かめる必要もない。その言葉が指す意味をこの場の全員が理解していた。

それをディアンに突きつける残酷な役目は、タイタンが請け負った。

「生き残った子供は・・・何人居たんだ。」

ディアンは僅かに喉を詰まらせ、黙った。

饒舌な口は固く閉ざされ、それが再び開いたのは、遠く、名もわからぬ鳥の声が再び森に響いた頃だったか。

「僕だけだ。」

ディアンの光を失った黒曜が持ち上がり、ゆっくりとタイタンを捉えた。

深い深い、硝子のような闇だけが、ただそこに存在している。