Chapter 7 - 化け物:3
化け物。
生まれた時から自分はそう呼ばれていたと思う。
例えば、自分を生んだ、もう顔も覚えていない女性。
例えば、自分を拾った心優しい老婆。
例えば、昨日自分と一緒に遊んだ子供達。
例えば、自分を金で買った若い男。
羽根が生えるから、とか、恐ろしい魔道を振るうから、とか。理由は様々だが、自分と関わった人間は、最後に自分を化け物と呼んで去っていったように思う。
自分はどうやら化け物というものらしい。そして化け物とは、なぜだか人に嫌われるもののようだ。
そう漠然と受け入れて生きていたある日、お母様の部屋にあったおとぎ話を読んで、セレナはようやく気づいた。
可愛らしいお姫様と、彼女を助ける勇敢な王子様は、人間を攫って食べてしまう人食い竜を化け物と呼んでいた。
自分はお姫様ではなく、悪魔や人食い竜の仲間なのだ。
自分が泣いていても、王子様は自分を助けるのではなく、好機とばかりに自分の首を狙うのだと。残忍な幼少の思い出より先に思い出す、自分の何かが折れてしまった瞬間。
「・・・もう、魔道を切りたいわ。警報装置を踏みすぎよ。頭が痛い・・・」
侵入者は複数。練度の足りない複数の侵入者が警報を踏み抜き続け、その度セレナの脳内に激しいブザーが鳴る。セレナは気が狂いそうなほど苛ついていた。
既に、集団からはぐれた2人のハンターを撃退している。それでもブザーの数は僅かに小さくなっただけ。
「ああもう、いくら魔道罠があっても、手が足りない!とにかく各個撃破よ。こんなに大人数で仕掛けてくるなんて初めて。どうしたらいいの・・・?」
セレナは木に飛び乗り、そっと気配を探る。3時方向に、複数人の集団の気配。
こちらに近づいてくる。セレナは息を潜めて会話に耳をすませた。
「・・・落ち着いてください。連絡が取れないだけで、死んだと決めつけるのはまだ早いです。」
「だって、ここには人を食う化け物がいるのでしょう!?さっきの新人も、・・・きっとルーヴもそれに食われたのよ!」
「ただの噂でしょう。確かに凄まじい数の魔道罠がありますが、それだけです。未帰還者は魔道罠にやられたか、崩落跡に足を滑らせたんです。化け物なんているわけない。」
若い女性は金切り声をあげ、隣の男に掴みかかった。
「そんなものにルーヴがかかるわけがない!実際に見て分かったわ、こんな魔道罠にあのルーヴがかかるわけないのよ!」
「ルーヴがいなくなって焦っているのは僕も同じですよ。でも、せっかく協会に逆らってまでここに来たんです。軽率に行動して、ボロを出したら最悪だ。・・・いいから落ち着いてください。」
人数は5人。金切り声を上げる女と、冷静そうな男。あとは無口な女。他のハンターはおろおろと、混乱している女を見つめている。
「そこまでにして。混乱するのはわかるけど。なんのために訓練してきたと思っているの?栄光の第18小隊の力を、今こそ見せる時よ。」
無口な赤毛の女が、混乱する部下達を諌める。
その瞬間、ぴたりと言い争いがやんだ。どうやら隊長はこの女らしい。
彼女の首領としての腕前はなかなかのようだ。しかし。セレナはわなわなと震える混乱した部下たちの口を見て、分析する。
統率が取れていない。協会に逆らったと言っていたし、本来こんな遠方に寄越されるハンターではないのだろう。分かりやすく仕掛けた陽動の魔道罠しか見抜けていない時点で魔道師としては三流だし、部下たちもとりあえず従っているだけで、不安を取り除かれてはいない。
首領の女を中心に集まっただけで、チームとしての結束は固くない。セレナはそう判断した。
「・・・ばけもの。」
セレナはその言葉を口の中で転がした。
成る程、正体不明の森の中のことを、人々はそう噂しているのか。
あながち間違っていないのが面白い。
正体不明の恐怖のことを、人は思考停止で化け物と名付ける。
「保護区の人間も、外の人間もおんなじだわ。人は皆平等に醜い。自分と違うものは悪で、一度悪と断じたものはよく見ないようにして、見えないものは無いことになる。・・・見えないものが、何を思うのか・・・見えないものの本質を探ろうなんて、思いもしないわ。」
気持ちの悪い生き物たち。そうセレナは吐き捨てて、木を降りた。
ゆっくりとハンター達に歩いてゆく。
新月の夜、偽物の月光が、侵入者達に牙を剥く。
「こんばんは。良い夜ね、人間さん。」
ハンター達は驚き、振り返る。謎の人物の接近に、全く気がついていなかった。
「・・・女の子?どうしたの、迷子・・・?」
「そんなわけがないでしょう。貴方がここの主人ですか。」
そう声をかける男の声が僅かに震えた。少女の美しさに、冷静なはずの男も僅かに揺らいだ。
「ええ。森に侵入し、森を暴こうとするハンターを私は許さないわ。お話しはおしまいよ。殺し合いをしましょうか?」
そう言い、セレナは銀色の細い槍を手に取った。その切っ先を正面に立つ女に向ける。
「・・・待って!貴方のような幼い子供を殺すなんて、私たちはそんなことはしないわ!一度、話を聞いて頂戴!私たちはハンター協会の命令でここにきたわけではないの!」
無口な赤毛の女が、凛とした声でセレナに言葉を放つ。
別人のような姿にセレナは僅かにたじろいだが、それも一瞬。
「・・・関係ないわ。森の内部について知ったのなら容赦はできない。」
「これでも、駄目かしら。」
そう言い、女は手にしていた細い剣を捨てた。
「えっ・・・」
セレナは絶句する。槍を目の前に向けられながら、女は決してセレナから目を逸らさなかった。
「全員、武器を捨てなさい。命令よ。」
「先輩、貴方何を考えて・・・!?」
「敵意がないのを証明しないと対話は成立しないでしょう!ここにいるのは化け物でもなんでもない、ただの女の子なのよ!・・・お嬢さん、貴方の名前を教えて?私はディディっていうの。」
「・・・人間さん。それは、駄目よ。愚策よ。私は貴方達のお仲間を山ほど殺した、人殺しよ?いいの?そんなことをして。」
「不利になるのを分かっていて、闇討ちはしなかった。私たちの仲間を殺したことを教えてくれた。それに、人殺しを悪だと思える貴方は、きっと悪い人ではないと私は思うのよ。」
ディディはそう言い、セレナに笑いかけた。
その言葉を聞いて、ディディの部下達も武器を地面に置く。
セレナの丸い瞳が僅かに開き、動揺に震える。
「・・・っ、黙りなさい。」
「私たちは、ここに来たハンターの1人の生死を個人的に確認しに来ただけ。任務でないから協会への報告義務もないし、そもそも協会はここに私たちが立ち寄ったことを知らない。別の任務の帰りだからね。・・・貴方がここに居たいなら邪魔をしないし、この森を暴こうだなんて考えていない。・・・貴方が、そのハンターの生死を知っているか、それだけが知りたいの。」
「・・・ここに来たハンターは1人残らず私が殺しているわ。」
セレナがぽつりとそう答えたのを、ディディの隣の男が聞いて答えた。
「殺したことを責めに来たのではないんです。この森を大切に思ってハンター協会と戦っているのだということは、貴方を見ていて分かりました。・・・結界を保持するために協会がやっていることに、僕たちも思うところがないわけではないですから。」
「私たちが知りたいのは、あくまで彼の生死について。彼が殺されていたとしても、そのことに感情は挟まない。・・・だから正直に答えてほしいの。」
セレナはもう予想がついていた。わざわざ、こんな風に、死んだハンターを探しにくるなんて今までなかったことだ。余程の大物でなければ、そんなことはあり得ないはずだった。
「そのハンターとは、ブルーグレーの髪の男のこと?屈強な・・・剣士の。」
「・・・やっぱり、知っていた。魔道罠にかかって死ぬような人間ではないですから、ルーヴは。」
ルーヴ。
それが、タイタンの名前。この人達は、タイタンを知っている。
セレナの表情が僅かに青ざめたのを、ディディが見抜く。
「・・・殺したわ。あんまり強くて、私も・・・その、大怪我をしたから覚えているけれど。嘘だと思うなら、彼を埋めた場所に案内してもいいわ。」
「嘘だなんてこちらは一言も言っていないわよお嬢さん。・・・生きているのね、ルーヴは。貴方は嘘が下手な、いい人ね。」
その言い方が、あまりにタイタンとそっくりで。
「違うわ!私は、ルーヴっていう人を殺したわ!」
タイタンが、帰るべき場所の人間が現れた。
もうタイタンを帰すわけにはいかない、その事実を十分理解していても、タイタンを帰してあげたいと思っていた人々が現れた。
タイタンの帰るべき場所にいたのは、やはり良い人たちだった。
その事実は喜ぶべきことのはずなのに・・・ぐるぐる胸に渦巻く感情がひどく不快なものなのはどうしてだろう?
「・・・お嬢さん。私たちは、生きているなら彼を取り戻したい。死んだなら・・・私たちは彼の代わりをすぐに協会に差し出さなくてはいけないの。私の弟が、彼の担っていた危険な役割の数々を担わなくてはいけないの。」
「代わり・・・?役割・・・?」
セレナが浮かべた単純な疑問に、ディディが答えた。
「彼と私たちは同じ貧民の出身でね。彼が危険な任務を請け負う代わりに、私たちは一定の地位を保証してもらっていたの。彼がいなくなった今、その保証がなくなり、私たちは奴隷同様の扱いを受けることになる。・・・それが嫌なら彼の代わりを立てろと、その矛先が、剣の腕が立つ私の弟に、向いてしまったのよ。」
「危険な任務って、何?」
「崩落が頻発する危険地帯への遠征よ。ここなんてまだマシなほうよ。もっと先に進めば、簡易結界が破られるくらい危ない砂漠地帯が広がってるわ。そこに残された遺物を回収したり、侵入した人間を連れ戻したり。結界外の反乱組織を鎮圧したり。ルーヴは死の危険と隣り合わせの任務を進んで請け負って、そのお金で私達は生きていたのよ。」
ディディは唇を噛んだ。
「・・・嫌なの。ルーヴと同じことなんか、まだ幼い弟にさせられない。ルーヴが本当に死んだのなら、私は弟を連れて結界から逃げ出すわ。大変でも、貧しくても、結界の外の人々になんとか受け入れてもらって生きた方が、ずっとマシよ。弟が、死んでしまうくらいなら・・・。」
ディディの言葉に、部下全員が俯いた。
「そうなったら、俺たちは貴方についていきます。何回反対されても同じです。」
「貴方達の気持ちもわかっている。だけど、そんなこと、させられないわ。貴方達にだって家族がいるでしょう。」
ディディの目に涙が浮かんでいた。森の大地に、ぽとりと落ちた涙が吸い込まれていく。
部下と上司の美しい絆。弟を思う姉の気持ち。嗚呼、なんと美しいのだろう!
そう、彼らはまごうことなき善人だった。
・・・三文芝居だ。
「・・・なによ、それ。」
呟かれたセレナの声に、ハンター達が震えた。
目の前で繰り広げられる、御涙頂戴のくだらない劇への不快感が、セレナの胸にどろどろと吹き出した。
この会話の間、彼らはひとつもルーヴへの感謝など述べなかった。ただ、弟がルーヴと同じ目に遭うことを悲しむだけだ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
「信じていたのよ。」
「・・・何?」
目の前の月光が、真っ暗な森の中で爛々と輝き出す。
「タイタンが帰る場所は、暖かい場所だと信じていたのに。生贄じゃない。そんなもの。貴方達は、ルーヴという人を犠牲にして生きていただけじゃない。そんな、涙を流すほど過酷な役目にその人を送り込んだことを、詫びる気はないの・・・?」
「お嬢さん、貴方がルーヴをどれだけ知っているかわからないけれど。彼は、機械のように剣を振るう、生まれた時から戦う以外になんの喜びもない人間なのよ。結界の頻発地帯、暴徒だらけの結界外の街、そんな場所で無表情に人を殺せる人間と・・・私の弟は違うのよ!彼と同じ役目を弟が担えるわけがない!」
「話を逸らすんじゃないわよ!!」
ばさっ!!
セレナの背に大きく羽根が開いた。怒りに震える白銀が、鋼のよう。
突如少女の背中に花開いた翼に動揺するハンター達。小さく悲鳴を上げる者もいた。
「弟のことなんて聞いていないわ!タイタンが、剣以外になんの喜びもない人間ですって!?貴方達がそうしたのでしょう!?少なくとも、記憶をなくしたタイタンはそうじゃなかったわ!タイタンは、美しい花に心を揺らされ、美味しい食事に喜んで、疲れたら不機嫌になって、私が怪我をしたら怒る、当たり前の人間の男の子よ!そんな普通の当たり前の男の子を歪めたのは、貴方達周りの人間だったんじゃないの!?」
突然激昂したセレナに、動揺するハンター達。
こんな、当たり前の怒りも抱くことができないのか、この人間達は。
彼らがルーヴという男を語る時、その言葉には不快感が滲んでいた。
排泄物を食い分解する蚯蚓と同じ役割を、人間である弟にさせることを心から悲しむような。
ルーヴが同じ大地に立ち、同じ空気を吸って生きている人間だということを、この人間たちは思いもしていないのだ!!
そんな人間達の中で育ったルーヴは、いつのまにか感情を表に出さなくなって。
セレナはその様子がすぐに想像できた。諸悪の根源がこの人間達であるとすぐに確信できた。
「な、なんなのその羽根・・・?」
ざり、ざり。セレナは一歩ずつハンターたちに歩み寄る。
絶対に容赦などするものか。こいつらは絶対に生きて帰さない。
「元からここを生きて出す気などなかったけれど。もう貴方達の言葉なんて聞かないわ!自らの罪に気づかず、詫びることすら思いつかないなんて・・・この森の一員を侮辱した貴方達を、この森は許さないわ!」
セレナの開かれた羽根に、僅かに衝撃が走る。
射線を見れば、ディディの連れていた部下の1人が、セレナの羽根に光弾を放ったらしい。
「馬鹿!攻撃しないで!武器は捨てろと言ったでしょう!!」
「仕方ないだろう隊長!!人間じゃないんだぞ!?あの不気味な羽根が見えないのか!?」
「ふふ、武器を捨てろ、なんて。上手いわね?魔道なら武器を捨てても私を殺せるものね?」
化け物。化け物。化け物。
「ええ、この森を守るために、魔道を振るいましょう」
セレナの背後に、魔法陣を描くように槍が現れる。
「私はこの森を守るための機構。機械、歯車。」
くるくると、槍がセレナと踊るように回り。
「その為ならなんだってできるわ、なんだって殺せるわ。」
「待って、話を・・・!」
その声を慌てて発した時には遅く。
「さあ、今日も頑張らなくちゃね。」
交渉は決裂した。これより始まるのは、愉快な虐殺劇。
一瞬の間の後、轟音がディディの耳を貫いた。
「・・・やるじゃない。私の初撃を防いだ人は久しぶりよ。」
「・・・これでも、一部隊の隊長を任されているからね。」
セレナが槍を放つ数秒の間に、落とした剣を拾って槍を弾いた。
自分だけを守るなら容易いだろうが、後方で目を瞑った部下達を完璧に守りきった腕前はなかなかだ。
「その、タイタンという人のことは知らないけれど。・・・とにかくルーヴが生きているなら会わせて。私たちにはルーヴが必要なの。」
「交渉が通じる状況だと思うの?会いたいなら私を殺しなさいな。」
「可愛らしいお嬢さんを殺す趣味はないわ。」
「・・・っ、腹が立つのよ!!貴方のその偽善が!!」
セレナは槍を手に取り、まっすぐにディディの首を狙う。
「ルーヴのことを怒るのは、ルーヴのことを知らないからよ!」
槍をはじき返した剣が、セレナの膝を狙って打たれる。
「気味の悪い男だった!幼い頃から剣ばかり振るって、敵を殺せば笑って!あいつは悪魔なのよ!!」
「黙りなさい!!彼のことを悪く言わないで!」
飛び上がったセレナは枝に着地し、ひらりとスカートが舞う。
そのはためきが不穏に輝き、瞬間、銀色の光が飛び出した!
「貴方達が彼をどう思おうと。」
銀色の光が腹を掠め、見上げた瞳は月光。
「私は彼が大好きよ!」
白銀の満月が、ゆっくりと三日月に歪む。
ふわりと羽根が満足げに開かれる。
「許さないわ、人間さん。」
「・・・っ。騙されてる。」
セレナの攻撃は早いし、物量が凄まじい。
視界を埋め尽くすほどの白銀の雨が降り注ぐ光景は絶望的で、圧倒的で。
あんなものに当たったら骨ごと全身を砕かれておしまい。
剣一本でそんなものに立ち向かうなど、無謀にも思える。
しかし、魔道攻撃というのは相応に体力を消耗する。
あんな物量の魔道攻撃を続けて、幼い少女の体力が持つわけがない。
そう遠くないうちに限界がくる。セレナの隙のない振る舞いの、隙を見抜いて無力化する!
「・・・悪く思わないで。なるべく怪我はさせない!」
そう言い飛び上がったディディを、白銀の槍が狙う。
いや違う、これは!
ディディを狙うには僅かに右に逸れた矛先を叩き落とす。
案の定射線の先には立ち尽くした他のハンターがいた。
「卑怯な真似を!」
「仲間を連れてきたのはそちらだわ。」
「・・・っ、何をやっているの!加勢しなさい!なんのために訓練をしたと・・・!」
「違う、隊長!足が、動かない!魔道で・・・!」
そこでディディが気づく。地面が、銀色だ。
うねうねと、脈打つように地面が蠢いている。これは。
「鎖・・・!?」
「一度でも着地してごらんなさい。そのまま巻き込んで捻り潰してあげるわ。」
まるで蛇だ。セレナのスカートから伸びた鎖が辺り一帯の地面を覆い尽くしている。
蛇ならばまだ良かった。地面に取り残されたハンター達の足、転んだ男の腕が、ぎりぎりと鎖に締め付けられ、出血している。いや、鎖に潰されている。
「ひ・・・っ」
ディディが生唾を飲み込む。彼女の目はしっかりとその瞬間を捉えていた。
先ほどセレナを撃った新人の腕が、ぐちゃぐちゃと音を立てて、鎖に潰されていく。
「やめ・・・」
吹き出した血が、銀色の大地をてらてらと彩り。
「いたい!!腕、腕がなくなっちゃう!!!」
「やめてええええええええええ!!!!」
ごきり。
嫌な音を立てて、腕が切断された。
ごき。ばき。ぐちゃり。
まるで巨大なオルゴールに巻き込まれたかのようだ。
倒れた男の頭蓋骨が、ばきばきと砕かれていくのを月光は静かに見守っていた。
「ーーーっ!!!」
「あら。」
セレナが指差す先には命からがら走り出した、臆病な女。
「嫌、嫌、いやーーーー!!!」
女の目には、つい数刻前、自分たちが歩いてきた足跡が映る。
これを辿れば森の外に出られる。大好きなお父さんのいる場所に帰れる。
もうハンターなんかやめる。金稼ぎで命を危険に晒すのなんかやめる。
帰ったらお父さんの仕事の手伝いをする、何でもないただの娘に戻ろう。
一縷の希望に縋る女の足が、ぴたりと止まる。
「・・・・・え?」
遠くに、銀色の壁が立っていた。高い高い、女の身長の何倍もある壁は、飛び越えて逃げられそうにはない。おかしい。
先ほどまでこんなものはなかった。だって確かに自分たちはこの壁の向こうから歩いてきて。
「なんなのこれ。」
女は恐る恐る壁に近寄る。少しずつ近寄るごとに、壁に僅かな穴が空いているように見える。
そして気づく。壁が、僅かに蠢いている。これは。鎖。
「・・・!!!」
女が壁から飛び退き、壁の切れ目を探して走り出す。
自分たちを逃さないように、1人残らず殺すために。あの真っ白な化け物は、辺りの木にありったけの鎖を巻きつけて、巨大な壁を作ってしまったのだ。
「いや・・・!出して、出して!!!・・・あ」
何かにつまづいて女が転ぶ。いやつまづいたのではない。足には銀色の鎖が巻きついていた。
「ーーーーーー!」
瞬間。女の体が高速で引き摺られる。硬い岩、鑢のような地面に、女の肘から流れた血がタイヤ痕を描く。
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ
圧倒的な絶望。銀色の蟻地獄に囚われたハンター達は、為すすべなく銀色の悪魔に飲み込まれる。
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ
「・・・ばけ、もの・・・!!!」
ずざ。移動が止まった。足に酷く熱い感触が当たる。
はっと振り返った女の背後に月があった。
細い木の枝の上に、トウシューズを履いたバレリーナのような美しい立ち姿。
月光の纏った真っ白なスカートから伸びた鎖が、ばきばき、ぽきぽきと、女の足を食いつぶしていく。
「逃げてはだめよ。生きてここから出ることは私が許さないもの。」
足がなくなり、次は腹。ぐちゅ、と嫌な音と共に子宮が潰れた。
「いや、いや、いや!!!私は隊長が行くと言ったから着いてきただけ!!もう何にもしないから、許して、許して、許してええええ!!!」
セレナは笑う。からからと、仮面のような無機質な笑いに女の背筋が冷え上がる。
「ふふ、ふふ!隊長さん、聞いている?私もおんなじ気持ちよ。」
セレナの後方、鎖に片腕をねじ切られ、何とかもう片腕で木にぶら下がった無残な女に声をかける。
「貴方が魔道を見逃したのよ。貴方が練度の足りないハンターを連れてきたのよ。貴方が武器を捨てさせたのよ。・・・私は最初から、ちゃんと、殺すと言っていたのに。お馬鹿な人間さん!」
容赦なく、ディディに槍が放たれる。
身を翻したディディの足を鎖が狙うが、それは避けられ、木を蹴ったディディが遠く後方に飛ぶ。
とにかく、地面の鎖のないところで仕掛けないと勝ち目がない。
移動しながらの高速戦に持ち込み、一気に取り押さえる!
「・・・逃げる気?追いかけっこは疲れるから嫌いよ。」
ディディを追い、鎖を放ったセレナの背後に、僅かな魔道の気配。
「!」
慌てて振り返ったセレナの左肩を、石製のナイフが容赦なく貫いた。
「・・・隊長ーーーー!!!」
鎖に飲み込まれる男の最期の絶叫。
その冷静さで隊長を支え続けた副官の、最期の魔道が、白銀の悪魔を撃つ。
男の伝えきれなかった感謝を、文句を、全て載せたナイフは確かに悪魔に届いた。
隊員を家族のように思い、守ってくれた貴方に。
家族を思い泣いてくれた貴方に、伝えたいことがたくさんあったのです。
少女の月光が、弾けた血に濡れたのを見届け、男は満足げに目を閉じた。
「・・・もう、驚いて鎖を消してしまったわ。私もまだまだ未熟ね。」
どんどんと赤く染まって行く腕を、何でもないことのようにちらりと見て、セレナはナイフを引き抜いた。投げ捨てられたナイフが大地に刺さり、一瞬で腐食して崩れ落ちる。
「急がなくてはいけない時こそ、焦りは禁物よ。痛いけど・・・もう少し頑張りましょうか。」
そこにもう命の気配はない。逃げたディディ以外の人間は既に全て肉片に成り果てた。
新月の夜、瞼を閉じてしまった月の下、月光の白鳥はゆっくりと歩き出す。
時は進み、そこからかなり離れた、森の中心部。
南方の喧騒を露知らず、生まれたばかりの小鳥が巣の中で眠っている。
その小鳥の生えたばかりの産毛が不自然に揺れる。
一瞬確かに何かが通った。小鳥は不安そうに辺りを見渡す。
「・・・・・っ、確かに、早い。早いが、制御が難しい、疲れる!!」
タイタンが家を出て数分、彼は既に森の中央に到達していた。
魔道に慣れない体は、魔道具に僅かな魔力を注ぐことを繰り返すだけで酷く疲弊する。
一瞬で過ぎていく風景に酔った吐き気と、風邪のような倦怠感、走り続けた疲労が全身にのし掛かり、タイタンの全身が悲鳴をあげている。
それでも、タイタンはひた走る。
本当に今が異常事態なのか、セレナは今どこにいるのか。
それすらわからないまま、タイタンは不安を胸に森を疾走していた。
そこからさらに数分。見覚えのある南方の低木が目に入ってきた。
まっすぐ南方に進むことができたようだ。安堵したのもつかの間、タイタンは異常に気づく。
空気が熱い。タイタンは近くの木を登り、見えた風景に驚き慌てて木を飛び降りた。
「・・・燃えている!」
ばちばちと、見覚えのある風景が炎に包まれていた。
タイタンの胸に焦りが込み上げる。
セレナと共にサンドイッチを食べながら歩いた道が、燃えて炭になりつつある。
可燃物だらけの森で火事はまずい。ここから見えるだけでも相当な範囲で炎が燃え広がっていた。
火事への対処など知らないが、行けばきっとセレナもいる。手伝えることもあるかもしれない。
「間に合え!この森を、燃やさせてたまるか、ここは、セレナさんの、俺の、大切な場所なんだよ!」
タイタンが走り出し、魔道具を起動させた瞬間。
「・・・ぐっ!?」
走るタイタンの足が何かで撃ち抜かれる。
血が吹き出した右足。勢い余って転び、地面を転がり、木に激突して巨体が止まった。
「・・・少し燻んだ青い髪、大剣、高い背の剣士・・・お前か。隊長が探していたのは。長髪と聞いていたが・・・お前、ルーヴか?」
「ぐ・・・あんた、ハンターか!?」
「そうだ。生きていたらお前を連れ帰るように命令されている。新参者の僕はお前の噂しか知らないが。お前が本当にあの剣神なのか?あんなに軽率に魔道具を展開し続けたら馬鹿でも接近に気付く。」
魔道に慣れていない自分を恨む。あの便利な道具は軽率に展開をして良いものではないらしい。
黒髪、黒目。小柄な体を大きなマントで覆った男は、無表情でタイタンに問う。
「生きていたということは・・・この森の魔導師とやらに絆されてハンター協会を裏切ったということで構わないか?」
「・・・ああ、その認識で構わん。この森に火を放ったのはあんたか。この森の住人をおびき出すために・・・!!」
すぐに立ち上がり、剣を構えるタイタンを、背の低いハンターは鼻で笑う。
「やめておけ。痺れ藥を仕込んだ。暴れるとすぐに全身に回るぞ。」
確かに、先ほど打ち込まれた鏃はタイタンの太い足の中に残っている。既に右足の感覚が薄くなっている。
「・・・その程度で俺が止まると思うな!」
右足が動かずとも、まだ左足がある。
大地を思い切り蹴り上げ、男に斬りかかるが、しかし。
「消えた・・・!?」
霞のように消えた男の姿に驚き、僅かにたじろいだタイタンの背後に複数個の気配。
「・・・くそ、的がでかいくせに当たらんな。」
剣で防がれた鏃が周囲に散る。
「本隊は魔導師に壊滅させられた。隠密班も連絡が途絶えた。生き残っているのは隊長と僕だけ。全く、大損害だ。隊長の我儘に律儀に付き合った結果がこれかよ。」
吐き捨てた男の目に砂つぶが飛ぶ。
「姑息な手だな。」
瞬間、掻き消えた男の姿がタイタンの眼前に現れる。
仰け反ったタイタンの蹴りが男の顎を狙うが、それも空を切る。
男はいつのまにか後方に立ち、タイタンを遠くから見つめていた。
「魔導師相手の戦いには慣れていないか?お前の女ほど便利な魔道は振るえないが、時間稼ぎなら得意技なんだ。もうちょっと付き合ってくれや。」
時間稼ぎなら得意。
タイタンが男を無視して火事に向かおうとすれば立ち塞がり、剣を振り下ろせば避けられる。
遠方に逃げるかと思えば眼前へ、接近戦を持ちかけようとすれば後方へ。
常に予想外の場所へ転移し続ける男に翻弄され、タイタンは思うような戦いができずにいた。
魔導師を相手にする時、精神的優位に立たれてはならない。相手の余裕を奪い、魔道を切り崩すことが基本だ。セレナはタイタンにそう教えた。
分かっていても、状況が把握できず焦るタイタンと、とにかく時間稼ぎに徹すると決めた魔導師の精神的優位をひっくり返すのは非常に難しい。
この状況に持ち込まれた時点でタイタンの圧倒的不利は決まっていた。この魔導師は、セレナと毛色こそ違うが、間違いなく一流だ。
「チッ、ちょこまかと・・・!あんたに構っている暇は無いんだ!!火事が・・・!」
「それが何か問題か?どうせ全て奈落に落ちるのに?」
はっとして男を見る。男はにやにやと笑っていた。
「・・・あんたが、あんたがそれを言うのか!崩落から世界を守るのがハンターというものだろう!」
「裏切ったお前に言われたくないね。世界を守る任務を放棄したくせに、好きな女の家だけは守りたいなんて虫が良すぎるだろ。まああの美人が相手じゃ絆されるのも納得だけど。」
「待て、そうだ・・・!なんであんた、セレナさんのことを知っている!?」
ああ、と。なんでもないことを告げるように男は言う。
「端末で報告を受けている。この写真の女を見たら捕らえろと。相当深手を負っているようだし、もうすぐ隊長が引っ捕らえるんじゃないか?」
「な・・・!?」
あのセレナが追い詰められている。
にわかに信じられない事実に怒りと動揺が胸に吹き出す。
睨みつけるタイタンの気迫が増したことを感じ取り、男は静かに笑う。
勿論、嘘だ。実際は命からがら逃げているのは隊長の方だが・・・目の前の馬鹿はそんなこと知りもしない。
「怒るな。殺しはしない。・・・お前が抵抗をやめてこちらに従うなら魔道で火事も消してやるし。どうだ?」
「断る!!あんたたちを全員殺せば済む話だ!!」
啖呵を切ったが状況はかなり悪い。
痺れは既に右半身を覆っている。歩けなくなるのも時間の問題。すぐに剣を持てなくなるだろう。火事、痺れ、セレナの怪我。とにかく急がなければいけない状況で、時間稼ぎに特化した移動魔道の使い手にぶつかってしまった。
どうやったらこの圧倒的不利を打開できる。
闇雲に振った剣はついにタイタンの手をすっぽ抜けた。
痺れで感覚のない右手。再び剣を握ることを諦め、男に殴りかかる。
タイタンをあぶり出すため火を放った。
セレナとタイタンが親密なことを聞き出し、セレナが追い詰められたというブラフを張った。
痺れ薬で体の自由を奪い、身体的な不利を埋め、心の余裕を奪う。
自分よりずっと小柄で、身のこなしも戦い慣れたものではない男が、タイタンを追い詰める。
これが本物の魔導師の戦い。何気なく魔道を振るっているようにしか見えなかったセレナが、戦っていた領域だ。
タイタンは唇を嚙む。自分の無知を思い知る。
膝は震え、立っているのがやっと。それでも光を失わないタイタンに男は唾を吐くように言葉を投げた。
「諦めろよ。大切なものは全て奈落に落ちるんだ。僕はもう諦めたよ。どうせ皆死ぬしかないのに・・・たまたま魔道が使える奴が地位のためにハンターになって、みんな狭い保護区の中での権力を手に入れることに必死だ。世界を守るのが俺たちだったはずなのに。・・・お前もそうだろう?」
不自由な体に叩きつけられる鏃。
「そうあってくれよ。苛々するんだよ、諦めない奴を見ていると。」
男に向けた拳はがたがたと震え。
「故郷の人間を守るためにハンターになるなんて、好きな女のために戦うなんて、そんな美談がこの絶望的な世界に存在してほしくないんだよ。」
ついに膝をついたタイタンに男は言葉をかける。
「隊長も、お前も、森の魔導師も、ハンターも、嫌いだ。この森も、燃えちまえばいいんだ。」
「・・・あんた。」
タイタンはまっすぐに男の目を見た。
「名前をなんと言う。」
「僕か?僕はディアン。・・・それがどうかしたか。」
「あんた・・・崩落を、危機として捉えられているんだな。この世界が絶望的だと、崩落のある世界は当たり前ではないと、わかって・・・いるんだな?」
楔色の目は光を失わない。ディアンの黒い透けた髪が夜風に靡くのを、ディアンの光を失った瞳を、タイタンの輝きがまっすぐ見ていた。
「それがどうかしたか。どの道もうおしまいだ。この森は燃えて、お前は捕まり、僕は隊長の違反行為とこの森のことを報告する。あのべっぴんさんも捕まって、僕は権力を手に入れる。この問答に意味なんかないよ」
終わりだな、剣神。そう言うディアンの声は僅かに震えていた。
遂にピクリとも動けなくなったタイタンを拘束しようとし、ディアンは小さく笑う。
なんだ、剣神とやらもこんなものか.
反ハンター協会の暴徒50人をたった1人で鎮圧した、とか。
人類未踏の氷山に投げ出されて帰還したとか。崩落に落下してもよじ登って帰還したとか。
所詮噂だけだった。どうせ誰にも、こんな絶望的な世界は救えない。
冷えた空気がディアンの頰を撫でた。森の空気は、ディアンの心のように冷え切っていた。
いや。・・・冷えた空気?
火事で燃え上がっていた森。熱かったはずの空気が、冷えている。
「火事が消えて!?・・・がっ!?」
ディアンの小さな体が吹き飛んだ。
岩に叩きつけられた体からばきりと嫌な音を立てる。ディアンは痛みに蹲り、地面を絶叫して転がっている。
驚いたタイタンの、朦朧とした意識に、凛とした低い声が響く。
「お姉ちゃんを守れと、頼んだはずだが。役立たずめ。殺してやりたい・・・」
ぷに、とタイタンの右足に柔らかい感触が当たる。
瞬間冷めるように全身の痺れが消えた。タイタンの全身に力が戻る。
はっと顔を上げると同時に、どさりという鈍い音がタイタンの足元に響いた。
そこにいたのは、灰色の毛玉の塊。いや、これは。
「お、狼・・・!?」
タイタンを救ったのは、ぼろぼろに傷ついた灰色の狼であった。