Chapter 6 - 化け物:2
喧嘩からの復帰は早いほうだと思っていたが、今回ばかりはそれも難しいようだ。
セレナにあわせて隣を歩くタイタンは露骨に何も話さない。
怯えたセレナの背中は羽根が出っ放し。普段は悠々と広げられる羽根が小さく縮こまっている。
坂を登るペースを合わせてくれてはいるから、こちらを全く気にしていないわけではないのだろうが・・・それが逆に気まずい。
「あ、もうすぐよ。・・・最北部の入り口の崖。高いところから見ればこの森がどのくらい大きいか分かるし・・・今日歩いた辺りだって、その、見えるから・・・」
「・・・」
タイタンは無言で紙に炭を走らせている。
気まずい。
ちゃんと前を見ながら歩かないと駄目よ、と普段なら軽く出る言葉も、喉に詰まってうまく出てこない。
チャキチャキと、タイタンの背負った剣が鳴る音だけが響く。
分かっている。死んでもこの森を守りたいのはセレナも同じだ。
この森で生きたいと願うタイタンに、この森に受け入れられたいと勇気を振り絞って一歩を踏み出したタイタンに。もしここがなくなったら外で生きれば良いなんて。
絶対に言ってはいけない言葉だったと。それがタイタンをどれだけ傷つける言葉だったかというのは痛いほど分かる。
少しずつ森に認められたと自信をつけた矢先に、肝心のセレナがまだタイタンを認めていないと、そう思われても仕方がない。
「・・・あ、ここか。・・・崖。」
「あ、うん。・・・そうよ。地形が良く見えるでしょう?」
たとえ沈んだ気分でも、ここの風景は心地がいい。
普段自分が生きている範囲はどれだけ狭いのかと、思い知らされる。
濃い緑の針葉樹が手前側。そこから少しずつ葉の落ちた広葉樹にグラデーションして南部に繋がる。未開の西部も今は葉が枯れているらしい。セレナにとっては恐ろしい地でも、等しく自然は繋がっているのだ。
やはり森を見ると気持ちが安らぐ。背中の羽根がふわりと消えた。
「ふふ、風が気持ち良い。秋に来たら紅葉と針葉樹の緑が入り乱れて綺麗なのだけど。枯れ木でも風情があるわね。」
「・・・・・あんた、よくそんな感想が出てくるな。」
晴れやかな気持ちになっていたセレナは隣を見て驚く。
「・・・?タイタン、具合が悪いの?」
「この光景を見て具合が悪くならないあんたがおかしいだろ。」
よく意味がわからない。なにかおかしなものがあるだろうか?
「・・・森と青空を見て具合が悪くなるの?」
それは森で生きるのにあまりに向いていないんじゃないのか。
茶化したセレナを青ざめた顔でタイタンが睨んだ。
「あんたはあの穴ぼこを見て恐ろしいとは思わないのか・・・?」
崖からは森の全体像が見える。北部も、東部も、西部も、南部も、当然南部の先の森が途切れたその先も。
以前、森の入り口から出た時以上の恐怖だ。
「・・・本当に、地平の果てまで穴だらけだ。残っている大地の方が少ない・・・」
蛆虫の巣。腐臭。
記憶の隅に追いやっていた恐怖が、再びタイタンの背中をぞわぞわと這い回っている。
「・・・あ、そうよね。貴方は慣れてない・・・わよね。あの時森の入り口に1人で出してしまったのも・・・ひょっとして良くなかったかしら。その、ごめんなさい。・・・帰る?」
「慣れるって。こんなものに慣れて良いわけがない。・・・この世界の普通の人たちが、みんなあんたみたいな反応をするなら、それは絶対に、駄目だ。」
もし記憶を失う以前の自分が、当然のようにこの風景を受け入れていたのなら・・・タイタンは記憶をなくして良かったとすら思う。
危機を危機として感じ取れないのは、生物としての終焉だ。
もしそうなのだとしたら、この世界の人間は、生き残っているとしてもとっくに滅んでいるのと同じだ。人間はとっくの昔に終わっているのだろうか。
人類の、滅び。その言葉が実感としてタイタンの背中に重くのしかかった。
「・・・みんながそうというわけじゃないわ。保護区の人は崩落を見たことがないと思うし・・・私が慣れすぎているだけよ。そんな悲しい顔をしないで。」
「あんたがそうだというのが悲しいんだよ、俺は!あんたはこの崩落と戦うんだろう!?敵を恐ろしいと思えない戦士が戦場で生き残れると思うのか!?」
「前に言ったか思い出せないけれど。私は崩落に飲み込まれないのよタイタン。不思議と私の周囲では崩落が起きないの。だから結界の外でうろうろ生きていても生き残れたの。だからそこまで怖いと思わないのかもしれないわね。」
タイタンが驚いてセレナを見る。初耳だった。
「聞いていないそんなこと・・・。どうしてだ・・・?」
「どうしてって。私が人間ではないからでしょう?」
それを私に言わせるの、と。セレナの切ない笑いが痛々しい。
「人間を飲み込む穴・・・だから。私は背中に羽根が生える・・・化け物、だもの。言わせておいて怒るのは狡いでしょうタイタン。」
「崩落は原因不明なんだろうが。思い込みと憶測で自分を傷つけるな。」
「・・・分かってるわよ。分かっていても、どうしようもない気持ちって・・・あるものでしょう。人を傷つける魔道しか振るえない、人にはないはずの羽根がある生き物。私は人ではなくそういう生き物よ。それだけ・・・」
パン!
突如響いた破裂音。そしてセレナの頰に走る鋭い痛み。
「・・・苛つく。やめろ。」
セレナの頰をタイタンが平手で打った。
その事実にセレナが気づくまで、かなりの時間を要した。
本気で叩かれたらきっとセレナは崖下まで吹き飛んでいた。女相手に手加減したのは分かっていた。
それでも。
そう、タイタンはセレナが過去どんな目にあっていたのか、この時完璧に忘れていたのだ。
「あんたが化け物だなんて、俺が思うか!自分を化け物なんかだと言うなと、俺は何度だって言って・・・!!」
「いやーーーーーーーッ!!!!!」
セレナの本気の悲鳴に、タイタンの上った血がすっと冷える。
そうだ。暴力なんて、この人の一番のトラウマじゃないか。
「・・・っ、悪い!」
声をかけても時すでに遅し。セレナは頰に手を当て、タイタンの隣を飛び退いた。
大きな目には涙が浮かび上がっている。見開かれた目は既にタイタンを写していない。
「いや、いや、いや!!貴方も私に酷いことをするの!?もう鎖に繋がれるのは嫌、槍に刺されるのは嫌!!もうやめて、私はお母様のおかげで幸せになれたの、お母様が私を助けてくれたの!!だから私を追いかけるのはもうやめてーーーーッ!!」
鎖、槍。
鎖。
世界の形は見る人によって違うわ。辺境の貧困地帯で生まれ育った私と、優しいお母様は同じ魔道を振るえないの。
私は人を傷つける魔道しか振るえないの。
セレナの振るった魔道の鎖。川に落ちた時、登る道具としては随分非効率なものを選ぶのだなと思っていたが、まさか鎖というのは。
タイタンはそこでようやく思い知ったのだ。
セレナの心は、断じてお母様によって救われてなどいない。平然と植物の命を改造するような人間に、セレナの深い深い闇が救えるものか。
セレナの魔道が、過去の残酷な記憶で構成されている限りは、セレナの心は深い闇に閉じ込められたままなのだ。
手を差し伸べた人間をただ1人しか知らないセレナが、勘違いをしているだけだ。
セレナから聞いた情報でしかお母様を知らないタイタンは、そんなこと思いもしないで。
普段から怒鳴り散らして。挙げ句の果てに感情のまま手を上げて。
「・・・っ、セレナさん!落ち着いて、俺が悪かった、もうこんなことはしないから、話を・・・!」
「いや!!触らないでーーーッ!!!」
バシン、と。差し伸べた手が叩き払われる。
「いっ・・・」
「・・・・・・・・・あ」
セレナの丸い瞳が、はっきりとタイタンを写した。
優しいタイタンを、叩いてしまった。
自分は、無抵抗の人間に、暴力を振るった。
「ーーーッ!!ご、ごめんなさいタイタン!!わ、わたし、その・・・!!」
「いい、痛くもなんともないから。落ち着け、顔色が悪い。一度座って水でも飲んで・・・」
ぽんぽんとタイタンがいつものように笑いかけ、肩に触れる。しかしその手は。
ぱしっ。
「・・・あ、ちがう、ちがうの。これは・・・」
セレナはタイタンが触れることを拒否している。
セレナが理解できない深層意識の奥の奥。セレナはタイタンを拒絶してしまった。
「・・・・・あ」
どうしよう。と。セレナの混乱した頭は答えを出せない。
自分を大切に思ってくれている。自分と共に生きたいと願ってくれている。
それなのに、タイタンが、怖い。
怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて
自分を優しく撫でてくれたはずの手が、自分を力強く引き上げてくれたはずの手が。
自分に今にもあの恐ろしい槍を振り下ろすのではないかと思ってしまう。
自分を棒で殴るのではないかと思ってしまう。
自分の羽根を毟ろうとするのではないかと思ってしまう。
自分の服を破いて、鎖で無抵抗の自分の足を割り開いて、自分の股に指を
「ーーーーーーーーー!!!!」
「セレナさん!!!」
セレナは駆け出した。もうタイタンの顔を見ていられなかった。
なんてことを想像したのだ、自分は!!
タイタンがそんなことをするわけがない。タイタンはそんな人ではない!
なのに。どうして、自分はこんなにがたがたと振るえているのだ。
「私は、お母様に出会って、幸せになったわ。お母様が私を幸せにしてくれた、はあ、はっ、はっ、だから、わたしは素晴らしいお母様みたいに、ならなきゃ、いけなくて、だから、お母様のために、この森を守らなきゃいけなくて、だから、だから・・・!」
頑張らないといけないのに。
こんなことではいけない。タイタンを自分の勝手な過去の記憶に巻き込んで。
優しいタイタンを振り回して。
「・・・・・・・最低よ、私・・・・。こんなんじゃ、お母様みたいな優しい人間にはなれないわ、いつまでも、私は、人殺しの化け物のまま、また虐められる・・・・・!!!!」
セレナは先ほどまでタイタンと笑いあいながら歩いていた道を、青ざめた顔で走り抜けていく。
家に駆け込み、作業場のドアを閉める。すぐにタイタンが入ってきたらしい音がした。
タイタンは話しかけてこない。夕飯の時間に遠慮がちに叩かれたノックの音は優しくて、涙が出た。
深夜まで、なんとなく眠れずにタイタンは起きていた。
考えるのはセレナの顔ばかり。
たった一度。たった一度かっとなって頰を叩いた。
「・・・当たり前だ。セレナさんにそれを教える人間は誰もいなかったんだ。化け物なんて言うな、なんて。一番言ってはいけない言葉だった・・・!」
後悔ばかりが募る。一番言いたいのはそんなことではなかったのに、果たして自分の言葉はもうセレナに届くのだろうか?
かたん、と作業場から聞こえた音がやけに大きく聞こえた。
もやもやと、嫌な想像ばかりが頭に渦巻く。
森の中、鎖に繋がれたセレナが泣いている。
ハンターに捕らえられたセレナが、泣きじゃくりながら引きずられていく。
崩落の淵に立たされたセレナが、心ないハンターに背中を蹴られ、落ちていく。
灰色の狼に、腹を食い破られたセレナが、雪の上に血だまりを作って倒れている。
右手はほとんど千切れ、背負った大剣はぼろぼろに刃こぼれをし、もう使い物にならない。
目の前の狼は、大剣で負った傷を物ともせず、静かにこちらを見ている。
狼はセレナにこう告げる。
『・・・お前は、いいな。気に入った。お姉ちゃんを預けてやってもいいくらいには。お前が今口にしたそれこそ、お姉ちゃんに一番必要なものなんだ。いいだろう、生かしてやる。きっと今の音を聞いたお姉ちゃんがもうすぐ飛んでくるから、まあ助かるだろう。あとはお前の仕事だ。・・・記憶を奪われても、その気持ちだけは無くすなよ。それを無くしたら、今度こそおれがお前の腹を食い破って殺す。お姉ちゃんを不幸にしたら、お前を殺す。母さんの計画を邪魔したら、お前を殺す。じゃあな。』
いや違う。
この言葉を聞いているのは、セレナではなくて。
カンカンカンカンカンカン!!!!!!
「ーーーー!?な、んだ・・・?ベル?」
いつのまにか居間で眠っていたようだ。
けたたましく鳴り響いていたのは、作業場の中に吊り下げられていたベルだ。
嫌な予感がする。
ゆっくりとセレナの部屋を開くと。
「・・・・・もうここまでくると、いつものやつ、って感じだな、畜生!」
窓が大きく開け放たれていた。セレナの姿はなく、部屋に落ちた一枚の羽根。
昼間取ってきたクマモモのカゴに布がかけられているのと、あとは、いつもより崩れた物入れの木箱。
「ったく、このベルの意味はなんなんだ!?ああ聞いておけば良かった!!というかまた魔道装置が動かせないじゃないか!くそ、走ってどうにかなる距離じゃないし!!」
いや。たしか今朝。セレナからいいものをもらった気がする。
「これで全力疾走しながら、飛び続けたら・・・いやでも、方角が、わからん。きっと南部だろうが・・・」
今夜は新月。いくら夜目が利くタイタンでも、何の目印もなしに南部に辿り着くのは無理だ。
「・・・いや、いや!セレナさんは地図を描いたことがあると!きっと探してくれていたから、木箱が崩れてるんだ!・・・なら、まだ開けていない木箱か、機材倉庫に・・・!」
釘の打たれた木箱をこじ開け、中身をひっくり返すこと数十分。
がさり、と明らかに軽い木箱がある。釘抜きを使うのも面倒で拳で木箱を叩き割ると。
「見つけた・・・!うん、南部への目印が描いてある!これなら!」
簡易食料にと、クマモモをポケットに突っ込み、タイタンは窓を飛び出した。
窓から伸びる足跡は、案の定南部への魔道装置へと続いていた。その横を通り抜け、タイタンは深夜の森を疾走する。
今夜は新月。月明かりは森を照らさない。