Chapter 5 - 化け物:1
セレナは本を読むタイタンの背中をじっと見つめていた。
背中ではないか。セレナが見つめているのはタイタンの髪の毛、毛先。
空いた窓から吹く風がタイタンのブルーグレーをちらちらと揺らすのを、ベッドに転がり込んだセレナが見つめている。
何と言うことはない。穏やかな朝が、爽やかな風とともに過ぎていく。
「・・・タイタン。」
「なんだ。さっきからじろじろ見て・・・」
タイタンの顔には、いいところなんだが、と隠しもせず書かれている。
寝転がるなら俺の部屋でなくてもいいだろう、わざわざお菓子と金属部品を持ち込んで。
などと思わなくもないが、セレナは菓子屑を零さないように気を使っているし、金属部品をこちゃこちゃ弄っているだけで特に邪魔はしないので放っておいていた。
一緒に居ること自体は嬉しいのだ。
「・・・タイタンは気にしないの?だって、見ていて気になるんだもの・・・」
「何がだ。はっきり言え。」
言いにくそうに口ごもるセレナを促す。
「・・・髪型が・・・変よ。だって、右肩の方だけ短くて。整えた方が、いいんじゃないかしら・・・。」
「・・・へ、変か。・・・・そうか。そう、か・・・。」
そのうち自分で整えるだろうと思っていたのだ、セレナは。
水道が復活して穏やかな日常が戻って随分経った。時は流れ、森の北方も段々と雪が溶け、土混じりの雪がどろどろと大地を覆う季節になった。
しかし森の罠で切られてしまった右の髪を、タイタンは特に気にすることなく生活し続けていた。
というか、左右不対称の髪型を少しかっこいいかもしれないと思いながら生活していた。
それなのに・・・嘘だろう。この髪型、ダサいのか?
「か、髪など整えたことがないから放っておいただけだ。別にいいだろ、生活に支障はないし」
自分でもしどろもどろな言い訳だと思う。
「気にしなさいよ。私しかいないにしても、若いのだから見目には気を使いなさい?ああ・・・よかったら私が切りましょうか?男の人の髪は切ったことがないけれど、貴方よりは慣れていると思うわ?」
「・・・」
どうしようか。確かに彼女は手先が器用だし、自分で切るよりは絶対にいいだろう。
「・・・じゃあ、頼む・・・」
聞いておいてなんだが、聞かなければよかった。結構ショックだ。
ずっと変な髪型だと思われていたのか、ここ数週間。
タイタンの髪をいじり倒す口実ができてご機嫌なセレナを横目に、タイタンはがっくりと項垂れたのだった。
掃除が面倒だからと、タイタンは外で椅子に座らされた。
首にかけられた布が、少しずつ暖かくなってきた風にはためく。
「結構風があるぞ。外だとやりにくいんじゃないのか。」
「大丈夫。髪を切るときはいつもこうよ。」
風で手元が狂わないだろうかと戦々恐々としているタイタンに気づかず、セレナはふわふわと髪を弄んでいる。
「ふふ、外に出られるくらい暖かくなってよかったわね。雪がなくなればもっと遠くにも出かけられるわ。冬に行ける範囲のことしかタイタンは知らないでしょう?」
「そうだな。おい、髪で遊ぶな・・・。南の方はある程度分かったけれど、ここより北に何があるのか、全く知らないな。携帯結界装置の地図を広げてみたことはあるんだが・・・」
セレナに追い出されて森を放浪したとき。縋るように起動した地図は現在地どころか方角すら示してくれなかった。
「そうね。あれはハンターが探索済みの場所しか示してくれないものね。・・・まあこれから私が案内するうちに覚えるわよ。」
シャキッ、と心地よいハサミの音が後頭部から聞こえた。
タイタンのものだった長い髪がふわりと風に舞って飛んでいく。
「容赦なく切るな・・・。この森の地図はないのか?」
「ん・・・大昔に作ろうとしたけれど。広すぎて諦めてしまったのよね。前に言ったかどうか忘れたけれど、私も行ったことのない森のエリアは多いのよ。西部や東部、あとは最北部の高山地域。西部はお母様の罠が多すぎて死にかけたし、東部は霧が酷すぎて。高山地域は断崖絶壁で進むのが難しいし・・・。早く行けるようにはなりたいのだけどね?お母様の結界を解析するには、絶対に避けては通れないことだし。」
ジャキ、ジャキ。ハサミの音が心なしか頼りない。
「タイタンは、前にした魔道のお話は覚えている?魔道には目的設定が大切だと言うお話。」
「ああ。答えが明確でないと計算式が成立しない。目的設定がないと魔道は成立しない。」
ふわ、ふわ。タイタンから切り離された髪が遠く蓬山の方へと飛んでいく。
「そうよ。・・・崩落の原因がわからない人間が、崩落を防ぐ結界なんて作れるわけがないのよ。保護区域の結界を張った人間も、この結界を張ったお母様も、崩落がなぜ起きたのかを知っていなくてはおかしいのよ。崩落の理由を誰も未だ解析できていないなんて嘘に決まっているのよ。」
解が明確でない計算式など機能しない。
そもそも、崩落を解決する計算式には"崩落とはどのようなものであるのか"の数値が絶対に必要だ。
「酷い話よ、崩落の原因を秘匿するなんて。その答えを渇望する人間が……一体この世界にどれだけ居ると思っているの……!」
ジャキッ!一際鋭く響いた音にタイタンの方が震え上がる。
「っ、ヒートアップするのはいいが手元を狂わすなよ!俺の髪を切っていることを忘れるな!」
「あ、ごめんなさい・・・。その、だからね?お母様がどこかに研究資料を隠していると聞いたことがあるの。それを見つけさえすれば、私も崩落の真実に辿り着いて、結界装置をいつでも直せるようになるし・・・結界装置の改良だってできるかもしれないわ。だからずっとそれを探して、時々森の行ける範囲は探索しているけれど・・・今のところ収穫なしなのよ。」
「結界装置を直接調べるのでは駄目なのか?というか・・・そもそも装置はどこにあるんだ?」
タイタンも南部はそこそこ歩き通したが、素人目で見た限り、それらしい魔道装置を見かけたことはなかった。
「地下に埋めているのよ。東西南北に1つずつ、あとは森の中心にひとつ。南部と中央の装置の場所はわかっているけれど、他は・・・行かないと分からないわ。」
「北部の装置も分からないのか?この辺りにあるわけではないのか?」
タイタンは辺りを見渡す。目線の先をずっと進めば転移装置の柱が、振り返れば水道が、横を見れば自立機動の警備装置が。
この森には数多の魔道装置が仕掛けられている。タイタンには用途が想像出来ない装置も数多。
きっとその中のどれがが結界装置なのだろうと勝手に思っていた。
しかしセレナが首を振る。見えなくても、甘いセレナの匂いが先ほどより強く漂ってきたからわかる。
「北部地域のかなり南寄りの場所なのよ、ここ。もしここに北部装置を置いたら、多分中央結界と近すぎて装置が機能しないの・・・。だからきっと結界装置は最北部。・・・5つがそれぞれ別の機能を持って1つの結界を作っているから、全ての装置を調べない限り結界の解析なんてできないのよね。」
「探索の難しい全てのエリアに行くくらいなら、1つの研究資料を見つける方がまだ現実的、か。」
チャキチャキ、と鋏が返事をする。
「西部はともかく、最北部や東部は、そもそもお母様だって簡単に手出しできる場所ではないもの。行ったことのない西部、もしくは南部に厳重に秘匿しているかどちらかよ。もし最北部か東部に研究資料があるなら・・・結界の修復を諦めるくらいには絶望的だもの。結界装置を片っ端から調べるなんて不可能ね。」
随分と首元が寒くなってきた。ずっとあったものがなくなるというのは、たとえそれが記憶でなくても落ち着かないものだ。
「切羽詰まった危機では無いわ。少なくとも私が生きているうちに、結界装置が朽ちることはないでしょう。それでもいつかはどうにかしないといけない問題。・・・なのだけど、正直生活で手一杯で、手詰まりだったのよ。・・・本当に貴方が来てくれたことに感謝しているの。森の探索に時間を割けるくらい、生活に余裕ができたわ。」
セレナがふわ、と頭頂部の髪を優しく梳いた。
「ほら、前髪を少し切るわよ、目を閉じて?」
前に回り込んだセレナの笑顔は、瞼にすぐ隠された。
「・・・ふふ、似合うじゃない。後ろを刈りあげてしまうのがいいと思ったのよね!」
「お、落ち着かない。首が冷たい・・・」
緊張しながら洗面所の鏡を見て、タイタンは驚く。自分で言ってしまうが、すごく似合っている。伸び放題だった後ろ髪はばっさりと刈りあげられた。所謂ツーブロック。
残した髪が長めなので、ぱっと見ればふわふわしたショートカットに見えるが、もさもさと邪魔だった髪の内部がすっきりしたのが良い。前髪が長めに残されているので、今までと大きく印象を変えないのもよかった。
「・・・いいな。気に入ったよ。ありがとうセレナさん。」
ヘアカットの名目でタイタンの猫っ毛をいじり倒したセレナは大変ご満悦だ。
「ふふ、よかった。刈り上げた部分は定期的に手入れしないといけないけど。いつでも切るからやってほしかったら言って頂戴。」
昼食の後。
頑張ってくれたセレナを労おうと、今日の午後のお茶はタイタンが淹れた。鍋を使った茶の淹れ方はセレナを見ていたから大体わかっている。
わかっていても、わくわくとクッキーを齧り待っているセレナを見ると流石に緊張する。どうやったってあんたより美味い茶は淹れられないのだから、過度な期待はしないでほしい。
緊張しながら思考停止で選んだ、焦げた砂糖のような不思議な香ばしい香りの茶葉は、タイタンのお気に入りだ。
甘苦い味が何とも言えず癖になり、タイタンが茶をリクエストする時は決まってこの茶葉だった。材料は良く知らない。
この森で提供される得体の知れない美味いものは、得体の知れないままでいた方が幸せだということをタイタンはよく分かっている。
「美味しい。ふふ、今度からタイタンに淹れてもらおうかしら。」
緊張はしていても、タイタンは要領が良いし器用だ。
このままだとこの家の茶を淹れるのはタイタンの仕事になってしまう。セレナの美味い茶が幻の味になってしまう。当番制だぞ、とタイタンは早めに釘を刺すことにした。
「・・・それより、さっきの話の続きをしても?」
「さっき・・・ああ、研究資料のこと?」
ふわふわとセレナの銀糸が、疑問に揺れた。
あれ以上話すことなどあったかしら、と言わんばかりに。
「この森の探索を本格的にやるなら、この森の地図を作るのは悪くないと思う。手が空いているこの時期に、この辺りや南方の地図を作るのはどうだ。」
セレナは僅かに考え込んだ。タイタンは構わず言葉を続ける。
「・・・面倒だなんて言うなよ。探索と踏破は違うんだ。一度行った場所を何度も歩くこともあるだろう。南部やこの辺り・・・行き慣れた場所だって調べ直すのが当たり前だ。いずれ絶対に必要になるものだろう?」
「・・・いえ、面倒だと思っているのではなくて。そのことには賛成なの。だけど・・・それなら以前の作りかけの地図を出してきたほうがいいでしょう?どこに仕舞ったか忘れてしまって・・・。ううんと・・・」
機材倉庫のどこかか、作業場のどこかかしら。セレナのその言葉にタイタンはげっそりする。
この辺りには生活するための倉庫がいくつかある。食料、布類、金属類など、それぞれ別の倉庫に管理している。
機材倉庫は倉庫の中でも特に雑多で物が多いし、作業場の簡易ベッドの横に無造作に積まれた箱たちも同様だ。
あの中から一枚の地図を探すなど、なかなか気の遠くなる作業だ。その時間で近隣の地図が完成するに決まっている。
「・・・絶対に新しく描いた方が楽だ。断言する。布の倉庫に汚れて使えない綿布がいくつか余っていただろう。大きなものを選んで使えばいい。」
別に地図の在処にアテが無いわけではない。ここから南方への歩く道は完璧に記してあるし、今更そんな作業をする気はない。
しかし、地図を描いたのは随分前。南方はともかく家の近隣は大きく変化した。以前の地図など使い物にならないかもしれない。
タイタンを案内するついでに近隣の地図を更新し、以前の地図を発見したら、それと組み合わせれば良いだろう。
「……そうね、そうしましょうか。いいわ、春の森を見回るのも私の仕事だもの。明日から一緒に北部を回りましょうか?」
いくら暖かくなっているとはいえ、まだ冬。柔らかくなった雪が泥と混ざったこの時期はただの雪よりも滑って歩きにくい。
それに氷柱が溶けて落ちてくる、とか。溶けかけの凍った川を誤って踏み抜く、とか。暖かいからと油断してはいけない。この時期の森は真冬よりずっと危険なのだ。
あくまで行ける範囲だけ。絶対に安全な場所までという条件で、明日から地図を作ることになった。
「ピクニックね!お家の周りの倉庫とかはもう書き込んだから・・・そうね、この時期に、行くと楽しい場所・・・ふふ、蓬山は行き慣れているのだったかしら?」
「まあ、毎朝あそこまで走っているが・・・何があるかは全く知らないな。」
蓬山。家から10分ほど走ればある、山とは名ばかりの小高い丘だ。
暖かい季節になると鬱蒼とアオヨモギが茂るその丘は、春になると南方から鹿がやってきて、雪が降る前に蓬山を去って行く。
蓬山の鹿がいつも初雪の訪れを教えてくれるのよ、とセレナがいつか言っていた気がする。
「あの辺りは開けていて比較的安全だから。蓬山を通って崖の方まで登ってみましょうか。高いところから見れば、この森がどんな形をしているかわかると思うわ。」
それでも落雪や氷柱には十分注意してね、とセレナには強く言われていた。自然に絶対などない。
いざとなったらこれを起動しろと、タイタンは簡単な転移装置をセレナに渡されていた。
手のひらサイズに収めようとすると10メートル飛ぶくらいが限界なのだそうだ。
それでも十分凄いことだと思うのだが。
「短距離しか飛べない代わりに連続使用は簡単だから。景色が変わったらもう一度魔力を注ぐのを繰り返せば高速移動ができるわ。・・・まあ貴方は慣れない魔道に気をとられるより走った方が早いかもしれないけれど、空中に逃げたい時なんかは使って頂戴。」
「心強い。ありがとうセレナさん。」
探索とはいえ今日はほとんどピクニックだ。地図の下書き用の小さな紙を木の板に貼り付けたものと、ランチバスケット。あとは何故か持たされた大きな籠と、いつもの外出用の荷物をセレナお手製の鞄に詰めただけ。
「タイタンの春のお洋服も、もうすぐできるわ。貴方、冬のお洋服しか持っていないでしょう?」もともと持っていた旅用の着替えや、セレナが仕立ててくれた服は全て冬物で、毛皮や羽毛が縫い付けられたものばかり。この季節でも外を出歩くには少々暑い。
「・・・そうだな。本当何から何まで申し訳ない。この服も・・・急いで作ったと言うが洒落ていて気に入っている。」
今着ているのはセレナのお手製コート。セレナがいつも着ている、白い羽毛を縫い付けたマントのような、羽織るかたちのコートに似せたデザインだ。
背中を出す必要がないタイタンの服なので、デザインは似ていてもこちらはきっちりとしたロングコート。首元と袖には羽根がありふわふわと暖かく、布は伸縮性があって動きやすい。
「ふふ、いくらお気に入りでも、帰ったら押し入れにきちんと仕舞って頂戴ね?あとはボタンを付けるだけだから、明日の朝には渡せると思うわ。」
「楽しみにしているよ。・・・で、どこに向かっているんだこれは。蓬山への道を外れている。」
「様子を確認したい樹があるの。・・・ほら、甘い匂いがするでしょう?」
セレナの髪の香りだと思っていた、とは口が裂けても言えないが。先ほどから僅かに、桃や梅に近い甘い果実の香りがしていた。
「クマモモの樹が花をつけたら、もう寒波がぶり返すことはないのよ。クマモモの若い花は食べられるの。お砂糖で煮詰めてジャムにしたら、ほっぺが落ちてしまうくらい美味しいんだから!」
花をジャムにする。
タイタンの常識にはない言葉に首をかしげる。ジャムとは、果実を砂糖で煮詰めて作るものであったはずだが。
「ほら、あれよ。あの真っ白な花。あれがクマモモよ。私が樹に登るから、タイタンは落とした花を拾って頂戴!」
セレナが止める間もなくうきうきと樹に駆けていく。
確かに樹に近づくと、先ほどの甘い香りが強くなった。
強くなり過ぎて頭が痛くなるくらいだ。
タイタンはここを何度か通ったことがあったが、まさかこれほどの香りを放つ樹だとは知らなかった。冬の間は周りと同じただの枯れ木にしか見えなかった樹が、ここ数日で蕾を付け、一気に花開いたようだ。太い枝が見えなくなるくらいに、真っ白な花が満開に咲き誇っている。
樹に直接咲いた肉厚の花弁は果実のようで、これをジャムにするのだと言われれば納得できるというもの。ドレスのフリルのような可愛らしい花が、セレナに刈り取られ地面に降ってくる。
「ふふ、つまみ食いしてもいいわよ。でも、何のために籠を持たせたのかは忘れないで頂戴ね?」
拾った花弁の土を落とし、おそるおそる口に入れ、驚いた。
「・・・甘い。というか美味いなこれ!」
香りほど甘だるい味ではない。クマモモの甘さは爽やかで、その名の通り濃厚な桃のような味わいであった。肉厚の花弁から染み出す水分が歩き疲れた喉に嬉しく、なるほど、これは甘党のセレナが浮かれるのも頷ける。
春の天気は気まぐれだ。暖かくなったと油断すると翌日吹雪が起きる、などということも珍しくない。
しかしクマモモの甘い香りが漂うようになればもう安心だ。クマモモは偽物の春には騙されない。極寒の北部の冬を過ごした人間にとって、この爽やかな甘さは文字どおり春を告げる希望の味であるのだ。
「・・・おい!つまみ食いばかりなのはあんたじゃないか!口に入れないで花を落とせ!」
明らかに先ほどより落ちる花の数が減っている。見上げればセレナの頰が大きく膨らみもごもごと動いている。
この調子だと昼食は要らなくなるかもしれない。
一度籠を置きに家に戻り、セレナとタイタンは再び蓬山へ歩き出していた。
「あんなに美味い花があるなんて。これからも鍛錬のついでに寄ってしまいそうだ。」
普段の鍛錬の通り道を僅かに逸れるだけであそこにたどり着ける。走り疲れて喉が渇いた時にあの香りを嗅いで、我慢できる気がしなかった。
「・・・ああ、タイタン。クマモモを食べていいのは今日だけよ。明日にはもう花弁が薄紫になるわ。そうなったらもうあの花弁は毒を帯びているから。」
「ど、毒・・・!?」
「クマモモの名前の由来は、桃のような甘い香りなのに熊でも殺す毒を帯びているから、という意味よ。日光に当たるとだんだん神経毒を生み出すから、咲いたその日に摘んで暗所に置いておかないとジャムにはできないのよ。」
いくら花が色づく前なら安心と言われても、本来毒のある植物を山ほど食べてしまったことにタイタンは震える。
「・・・先に言ってくれ。知っていたらあんなに食べなかったんだが・・・。」
「ふふ。知らない方が幸せなことも人生にはあるのよ。勉強になったわね?」
この反応はわざとだな。
ぎろりと睨み付けるとセレナは慌てて言い訳を始める。
「だ、だって美味しかったでしょう!?クマモモが美味しいのを知って欲しいのに・・・毒があるとわかったら絶対タイタンは食べないじゃない!」
「・・・まあそうだな。実際美味かった。毒があると知っていても来年の春にまた食べに来てしまいそうだ。良いことを教えてくれてありがとうセレナさん。」
「・・・!ふふ、私も喜んでもらえて良かったわ!あの綺麗な花は今日しか見られないから・・・タイタンに見てもらえて、良かったわ。」
セレナは安心したように満開の笑顔になる。
・・・そうだ。今日はセレナのお気に入りの場所を案内してもらっているのだ。彼女への感謝を忘れてはいけない。
「しばらくして虫が出るようになれば近づけたものじゃないから。匂いに誘われた虫や動物の腐った死骸がごろごろ転がっていて、なかなかグロテスクだもの。」
「その情報は要らん!」
やっぱり少しだけ怒ることにする。
蓬山の雪はすっかり溶けていた。
樹木がないここは他よりずっと日当たりが良い。
一本だけ、小高い丘の天辺に生えた老樹が、暖かい春の日差しを浴びてのびのびと葉を生やしていた。
「・・・前から思っていたんだが。あの樹。見るからに広葉樹なのに冬の間も緑の葉を生やしていたな。あれは何の樹だ?」
「さあ・・・お母様が何か手を加えたのかもしれないわね。何年も見た目が変わらないし・・・。」
本当に自然の摂理も情緒もない母親である。
それでいて命の大切さを説くというのだ。ダブルスタンダードにも程があるだろう。
「・・・あ、鹿たちがもうこちらに来ているのね。ふふ、タイタン。冬の間は良かったかもしれないけれど、春からも蓬山を鍛錬に使いたいなら、鹿たちにお伺いを立てないといけないわね?」
セレナが指差した先には、もさもさと冬毛を生やした可愛らしい鹿の群れがいた。
蓬山を越えた向こう側。高い針葉樹の木の陰で、数十匹の鹿が昼寝をしている。
「冬の間は・・・多分東方の霧の中にいるのだけど。春になると涼しいこちらに移動してくるの。ほら、蓬山の先輩に挨拶していらっしゃいな。」
タイタンの脳裏に蘇るのは先日のポーラ。
この森は、外からやって来た人間に酷く厳しい。それに自分の目つきの悪さも、大きな体躯が怖がられることも理解している。
「・・・いい。絶対好かれないに決まっている。鍛錬は鹿を避けてやるから。」
そう言い、鹿を避けて進もうとするタイタンの袖をセレナが引いた。
いつになく真面目な表情で、セレナはタイタンを見つめていた。
「・・・タイタン。馴染もうとしない人間に森が心を開くわけないわ」
「分かっている、そんなことは。でも、わざわざ鹿を怖がらせるのは可哀想だろう。あんたみたいな警戒させない容姿なら話は違うかもしれないが。」
それは言い訳よ、怠慢よ。と。
タイタンのポツポツとした声をぴしゃりと切り捨てた。
「この森で生きたいと願ったのは貴方よ、タイタン。それが貴方の幸せだと貴方が言うから、私はここに貴方がいることを許したのよ。・・・幸せにならなかったら私が許さないわ。貴方は今どうしたいと思っているの?本当に鹿たちを避けてこの先にさっさと進みたいと思っている?」
鹿の群れを見た時に目を輝かせていたの、一瞬だったけれどちゃんと見ていたんだから。
そう言ってセレナがにっこりと笑い、タイタンの背中を押した。
「・・・はあ、あんたには敵わないな。本当に。」
「ふふ、そうでしょう?・・・妊娠している鹿は気が立っているから近寄らないほうがいいわ。できるだけ目線をあわせて。いきなり手を差し出すのも驚かせるから駄目よ。群れの一匹が貴方を認めてくれたら・・・きっと他の鹿も少しずつ貴方を認めてくれると思うから。」
頑張って。と。
セレナはタイタンの後ろをゆっくりついていくことにした。
こっそり遠くから鹿を観察し、一匹、セレナと共に歩いて来たタイタンを興味深そうに見つめていた鹿を見つける。
群れから離れているし、他の鹿を驚かせることもないだろう。
タイタンが屈みながら、ゆっくりと近づくと、鹿は僅かに身じろぎする。
「・・・っ、その、すまない。休憩の邪魔をする気はないんだ。・・・この距離で構わないから、俺も少しここで休んでいい・・・だろうか・・・?」
鹿が後方にいるセレナに目を向けた。誰だこいつは、と。この森の主人に問いかける。
「ふふ、大丈夫よ。たしかにちょっと目つきが悪いし怒りっぽいけど、悪い人ではないから。」
・・・鹿の前で好き勝手言うな。
スイッチが入りかけたのを全力で押さえ込み、タイタンは乾いた地面を選んで胡座を組んで座った。
「ふふ、ここまで近づくのを許してもらえたら上出来よ。ランチバスケットを開ける?」
隣にセレナが座る。空を見上げれば太陽がもう真上だ。
少々落ち着かないが、2人はここで昼食を摂ることにした。
「む、美味い。・・・これは、なんだ?肉ではない・・・魚?」
「そう。南部の川はいつでも釣りができるから。3日前くらいに出かけた時についでに釣って来たのよね。焼いてほぐして、塩と卵で和えたもの。貯蔵庫に仕舞ってあるから小腹が空いたら食べて良いわよ。」
南部。セレナの口から何気なくでた言葉にタイタンの眉が寄る。
「いつの間に南部に出かけてたんだ。森の入り口が近い南部に1人で出かけるなと言っているじゃないか。」
セレナが部屋で育てている芽野菜がシャキシャキとして、舌触りが楽しい。
濃く味付けられた魚と卵がパンによく合い、これもまた大変美味いが・・・タイタンの表情は曇っている。
「・・・逆に聞くけれど、タイタン。貴方、ハンターに姿を見られていいの?死んだことにしておかないとまずいのでしょう?貴方は有名人みたいだし、たまたま来たハンターが知り合いだったらどうする気?」
「どの道生きて帰す気がないなら関係ないだろう。1人残さず葬れば済む話だ。」
「貴方ねえ。もし逃げられたら、というお話をしているの。」
「逃げられたらあんたの情報が協会に渡る。俺が居ようと居まいと関係なく、本当に魔導師がいると分かったら協会はこちらに本気で攻めてくるだろ。なら絶対にハンターを帰さないことに総力を注ぐべきだ。」
そうかもしれないけれど。とセレナは目を逸らす。
口に魚のほぐし身がついているし、スカートはパンくずがぽろぽろ零れている。
「・・・俺を戦いから遠ざけたいのは分かっている。でもそれであんたが死んだら本末転倒だ。俺が共に並び立って戦うことを許してくれないか。」
頼む。とタイタンが頭を下げた。
「私は簡単に死なないわよ。」
「分かっている。」
それでも万が一があるから怖いんだ。とタイタンは言う。
「・・・幸せになってほしいって言ってるじゃない。いざとなったら、私がいなくても、貴方は保護区に戻って生きて・・・」
「ッ、まだそんなことを言っているのか!!」
タイタンが荒げた声に怯え、鹿が走って逃げていく。
タイタンがセレナに掴み掛かる。至近距離で太陽を浴びて輝く楔色が眩しい。
「この森で生きることが俺の幸せだと、あんた自身分かっているだろ!本気でそんなことを言っているなら俺は本気であんたを怒る!あんたが死んでもこの森を守りたいのと同じだ、他ならぬあんたにその気持ちが分からないとは言わせないからな!」
詰め寄るタイタンの距離の近さに驚くセレナが後ずさる。
「・・・っ、タイタン、分かったから。ヒートアップしすぎよ、鹿が怯えてるじゃない。」
「関係あるか!あんたが良いっていうまで絶対・・・がっ!?」
「ひえっ!?」
セレナの背中から羽根が飛び出す。目の前のタイタンが突き飛ばされた!
顔面から硬い地面に突っ込んだタイタンの背後には、先程タイタンが近づいた鹿。
鹿の蹴りはなかなか強烈だ。煩い声が止んだことに満足した鹿はすたすたと別の日陰に去っていった。
「た、タイタン・・・大丈夫・・・?」
「っく、鼻が、痛い・・・・」
「角で叩かれなかっただけ手加減されているわ、大丈夫よ。多分嫌われてないから・・・」
怒る気は正直まだまだある。しかし、ここでこれ以上喧嘩を続けて鹿に本気で嫌われたら本当に蓬山に立ち入れなくなる。
「・・・くそ。行くか。食い終わっただろ。今日は地図を作りに来たんだから・・・説教は家で出来るんだから・・・」
地獄の底から響くような声で呟いた言葉はセレナの羽根を僅かに震えさせた。