Chapter 4 - 魔道塾、開講。
セレナの朝は、タイタンと住み始めて比較的穏やかに、規則的になった。
タイタンが鍛錬に出ていくドアの音が、セレナの目覚めだ。
「・・・ふあ・・・・。起きなくちゃ・・・・。」
柔らかい綿のシャツの袖を脱ぐと、そのまますとんとシャツが床に落ちた。
普段から首が緩いシャツを全裸の上に羽織るだけで眠っていると、タイタンが知ったらだらしないと怒りそうだが。
続いて、下着。
いつ羽根が出てしまうかわからないので、セレナは背中を露出した服しか着られない。
なので胸部補正の下着も、母の作った特殊な作りのものを身につけていた。
そこそこ大きい胸部をぎゅっと締め付ける黒い素材のコルセットのようなものだが、羽根に接触する肩甲骨部分は丸く切り取られている。
どうしても肩やデコルテ、背中を大きく露出する服装を強要される故、大きな胸を堂々晒すのは恥ずかしいと、いつからか胸部を無理やり押しつぶすような下着を着用することが増えた。
体の前面の方でリボンを結べば完成。今日の蝶結びは比較的可愛く結ぶことができた。
揃いのリボンで装飾されたショーツを身につけ、すっぽり被るようにワンピースを身につければ服装は完璧。次は洗面所へ。
「・・・タイタンってば。また床を濡らしているわ、もう・・・」
セレナの身長に合わせた家の作りなので、洗面所が使いにくいのはよく分かるが。濡らしたらせめて拭いてほしい。ため息をついて棚から雑巾を取り出した。
水道を捻ってきちんと水が出ることに毎度ホッとする。
先日吹き飛んだ部品は川に流されてしまった。骨折が完治してすぐに見様見真似で作った部品は無事に機能しているらしい。
ようやく一昨日水道機能が回復するまで、汲んだ水で生活するのは大変・・・というより地獄だった。
あのタイタンも音を上げたくらいだ。
生活用水だけではない。魔道具の研磨、魔道の材料、生活用品の洗浄、食料の鮮度の維持にも膨大な水が必要。風呂やトイレが完全停止するストレスも凄まじい。
最初の数日こそ「怪我をしたんだから大人しくしていろ」「なんの為に男手が居ると思っている」と頼もしい発言をしていたが、日に日に元気がなくなり、最後の方は必死にハンマーを振るセレナを横目に無言で樽を運んでいた。
セレナは病み上がりでまともに動かない右手を不眠不休で酷使。
タイタンは朝昼晩と、気が狂ったようなハンマー音を聞きながら水汲み。
すり減る肉体と精神を癒したくても、生活は不便なまま。風呂は冷水、飲み水はいちいち煮沸。
誰も悪くない。自然の中で生きる以上は不慮の事故はつきもの。
それでも、苛立ちと不安はどうしようもない。顔を合わせたら苛立ちのままに不満をぶつけて大喧嘩になるのが目に見えていた2人は、なるべく顔を合わせないよう数日を過ごした。
馬鹿も学習はする。互いのことを理解してきたいい傾向ではあるのだろう。
水道が復活した一昨日の夕方。喜んだのもつかの間、2人は疲労で気絶するように眠ってしまったのだ。
幸せを噛み締め、顔に水をばしゃりと浴びせる。まだまだ寒い季節だが、冷水で顔を洗うのがセレナは好きだった。
そして僅かに手を濡らし、手櫛で髪を梳く。次は唇に紅を。
「・・・お母様は立派な化粧道具を持っていたけれど。あれはどこにいってしまったのかしら。今度探してみましょうか・・・。」
タイタンが来る前は化粧なんてしなかったくせに、この変わりよう。料理のために髪を結い上げるのも麻紐ではなくわざわざ棚から引っ張り出した黒いリボンだ。
「朝食は・・・ふあ、何にしようかしら。」
寝ぼけてふらふらと歩く姿はあまりに頼りない。森の守護神も、朝には弱かった。
今日の朝食は成功したようだ。
料理はピカイチのセレナだが、朝食だけは寝ぼけてやたら塩しょっぱくなることがたまにあった。午前は大体寝不足で朦朧としているセレナだが、沢山眠ったおかげか比較的今日は調子が良いらしい。これは非常に都合がいい。
半目でパンを齧るセレナに今日は聞きたいことがあったのだ。
「セレナさん、俺に魔道を教えてくれないか。」
「・・・?どういう風の吹きまわしかしら?」
不思議そうにするのは最もだ。しかしきちんとこちらにも理由がある。
「魔道装置の修復を手伝えないかと思ってな。この間のように、魔道が絡むと見ているしかないのは効率が悪すぎる。簡単にでも魔道が振るえれば、手伝えることもあるだろう?」
タイタンの脳裏に蘇るのは先日の地獄。確かに力仕事と機械修理で役割分担をするというのが2人の暗黙の了解であった。先日のトラブルはその取り決めが見事に裏目に出た形と言えた。
力仕事ができるのはタイタンだけ、修理ができるのはセレナだけ。どちらかが動けなくなったとき、もう1人はその穴を全く補えない。
タイタンがいない以前からずっと1人で生きていたセレナはまだしも、設備が壊れた時にセレナが動けなかったら、タイタンはただセレナの回復を待つしかないのだ。
せめて多少でも魔道が使えたら。簡単な機械修理技術を身につけられたら。少なくともあれほどの事態にはならないし、セレナの負担も減るだろう。
そんなこちらの真剣な気持ちとは裏腹に、セレナは明らかに本気で取り合ってくれていない。
「・・・ん、そうね。でも、貴方には難しいと思うし・・・。素材を運んでもらえるだけで仕事が減って有難いのよ?気にしないで頂戴?仕事の分担って大事なことだわ。・・・ごちそうさま・・・。もう少し眠るわ・・・。」
当然のように寝室に戻ろうとするセレナの首根っこを掴む。
「こら。昨日だって1日中寝ていただろう・・・。水道修理の疲れはもう取れただろ。寝すぎると逆に眠くなるんだからな。」
「・・・といっても。今日は急いでしなくてはならないことは無いのよ?お昼までには起きてくるから・・・」
「だったら魔道のことを教えてくれ。確かに器用ではないが、やってみれば意外とできるかもしれないだろう?」
こうなるとタイタンはテコでも動かない。楔色の瞳がむっとしてこちらを見ている。
「・・・言いにくいのだけれど。」
セレナは眠るのを諦めて食卓に戻り、口を開く。
「貴方には絶対に無理だと断言するわ。・・・才能とかどうとかではなくて、魔道に必要不可欠な、思い出というものが欠けてしまっているのだもの。」
「思い出が、必要不可欠?」
「私に教わるより本を読んだ方が早い気はするけれど。まあ、いいわ。今日はお勉強の日にしましょうか、タイタン?」
セレナは椅子に座りなおし、えへん、と笑った。眠くて面倒臭がっていたが、先生役をすること自体は楽しいらしい。いつもガミガミガミガミと小言の多い年下の小姑に、まさか魔道を教授するなんて!という優越感が顔に書かれている。
・・・そういうところが余計に子供っぽいんだぞ、という言葉は飲み込んだ。機嫌を損ねて寝室に戻られては困るのだ。
「・・・魔道の基本は三行程よ。起こしたい事象を設定する。次に起こすための理論を組み立てる。最後にそれを世界に承認してもらう。・・・これだけだと何のことやらだと思うわ。一つずつ説明するわね。」
セレナは木のテーブルのささくれを爪で削り、木片を用意した。
「例えばこれを炎で燃やしてみるわね。これが目的の設定・・・では足りないの。なぜこれを燃やしたいのか、を明確に設定する必要があるわ。・・・今回は貴方に魔道を見せるため、で良いでしょう。これがないと後の行程で確実に失敗するわ。」
セレナの手に木片が乗る。小指の先ほどの小さな木片。
「次に理論の組み立て。本来この木片を燃やすのに必要なエネルギーはどれほどなのか。それを自分のエネルギーで代用する計算式を組み立てるの。」
「・・・計算なのか?それを瞬時に?もっと感覚的なものだとばかり・・・」
一気に頭が痛くなってきた。勉強とは言ったが本来小難しいことは苦手だ。
「事前に公式を組んで覚えておけばいいのよ。燃やすのが木片でも、テーブルでも、燃やすための式は同じよ。当てはめる数値が違うだけだわ。・・・ここはまあ、勉強の成果が出るところだけれど。問題は次ね。」
「世界の承認、ってどういうことだ?さっぱり意味がわからないんだが。」
「明確な目的とそれをこじつける計算式があればどんな天変地異でも起きてしまう。それだと大変なことになるでしょう?計算式一つで世界が壊れてしまったら困るでしょう?エネルギーの代用さえできればどんな不可能だって起こせてしまうんだから。そうならないように一度、この魔道を行なっても良いか、自分以外のものに確認してもらうのね。それが防衛機構、承認の行程よ。」
突如、セレナの手のひらの木片が燃え上がった。じり、と燃えた炎はセレナの手を焼く。
「おい!」
「お母様の魔道具があれば治せるもの。わざとやったの、気にしないで。続けるわ。」
ぎり、と木片を握り潰すと炎は消える。ぱたぱたと炭を払った小さな手には案の定火傷の跡が残ってしまっていた。
「世界にとってその魔道は不利益では無いか。害を為すものでは無いか。その確認が取れた瞬間魔道は発動される。・・・ここまでが魔道の発動の行程よ。ここからが一番大切な・・・魔道には思い出が必要なのか、という部分ね。火傷までして、上手に説明できなかったら申し訳ないけれど。」
そこまで言ってセレナは黙る。どう説明したものか、と考えているようだ。
「貴方の目に映る世界と、私の目に映る世界は必ずしも同じものではないのよ。生きてきた環境、思い出によって世界の捉え方などいくらでも変化するものだわ。魔道を振るう人間によって、承認を求める世界は違うのよ。それが各々の魔道の個性というものになるのよね。」
「・・・世界は一つしかないだろう?」
「例えばポーラを見て。私は自分の手で育てたポーラを可愛いと思うけれど、貴方は自分を食おうとしたポーラを恐ろしいと思うでしょう。その時点で私の目に映るポーラと貴方の目に映るポーラは違うものになっているわ。貴方はポーラを焼く炎の魔道を容赦なく振るえるでしょう。でも私は?種から大切に育てたポーラを焼いてしまうことを、果たして私の世界は承認できるかしら?」
「・・・それじゃ防衛機構の意味がない。人によって違う基準など、真に世界の防衛機構として機能するものではないだろう」
「ふふ、世界の捉え方というものがまだ凝り固まっているわよタイタン。ある意味では破綻しているし、ある意味では完璧なシステムと言えるわ。これ以上続けると哲学のお勉強になってしまうし、話を戻すわよ。・・・魔道の個性の分かりやすい例としてお母様と私を挙げるわね。タイタン、台所の魔道装置をつけてみて。そう、その火をつけて、手を入れてみるといいわ。」
おそるおそる言われた通りにする。しかし心配とは裏腹に、煌々と燃える炎は暖かいだけで、タイタンの手を焼くことは無い。
「それがお母様の作った魔道装置の・・・お母様の炎ね。さて、私がさっき起こした炎はどうだったかしら?」
「・・・セレナさんの手を確かに焼いたな。同じ炎でも全く違う。」
確かに、セレナの手には火傷の赤い跡が残っていた。
「そう。それが個性。・・・優しいお母様と、辺境の貧困地帯で育った私は同じ魔道を振るうことはできないわ。お母様は何かを破壊する魔道がとにかく苦手・・・というか全く使えなかったし、逆に私は何かを修繕するのに魔道を使うことができないの。水道の部品も、ハンマーを振るって地道に金属を叩くことでしか作りだせない、というわけよ。ここまではわかったかしら?」
「ああ、大体は。・・・しかし、そうか。意識を取り戻してからのここでの記憶で魔道を振るうことはできないのか?」
「無理ね。単に記憶があれば良いというわけではないもの。魔道に必要なのは、強固な世界の形。貴方がそれを固めるには、あまりに思い出が足りなすぎるわ。そして承認を省いた魔道は絶対に成立しないようにできている・・・というわけよ。・・・言っておくけれど、こんな残酷なこと、本当は言いたくないのだからね?知らないのだから仕方ないけれど・・・」
「別に構わない。適材適所だと諦めがついた。ありがとうセレナさん」
いいのよ、私も楽しかったわ、とセレナはお茶を淹れるために席を立った。
今日の茶葉は、緑色の袋。あれは確かさっぱりとした柑橘系の茶だったから、茶菓子はクッキーでいいだろう。
作り置きのクッキーが仕舞われた棚を開く。
「・・・記憶を取り戻すのか、ここでの生活が貴方を思い出で満たすのか、それは分からないけれど。」
突然。背を向けたままのセレナがぽつりと呟いた。
「タイタンが世界の形というものを強固にした時・・・一体どんな魔道を振るうのかしらね?」
そしてセレナはクスリと笑う。一体何を想像したのやら。
「・・・む、難しい。」
その日の夜。タイタンは自室で机に向かっていた。
ちなみに現在タイタンが借りているのは、ここに来た当初怪我をして寝かされた部屋ではない。
後から聞いたらそこはセレナの自室だったらしい。タイタンは気付かず、怪我が完治してもずっとセレナの自室を使ってしまっていたのだが、その間セレナはずっと作業場の簡易ベッドで寝ていたらしい。知った時は謝り倒した。
現在タイタンが借りているのは、セレナの母親が使っていた部屋だ。
母親が亡くなってからも客間にするために放置していたらしい。・・・放置しすぎてはいたが。
カビと埃だらけの布団を取り替えた以外はほとんど当時のままらしい。長年降り積もった埃掃除には丸一日かかったが、ベッドも足がはみ出すことのない大きさだし、日当たりも良く、随分と快適な部屋を与えてもらったことにタイタンは若干の申し訳なさを感じていた。
「貴方の部屋に本棚があるでしょう?確かお母様の書いた魔道の教科書がそのまま置いてあるはずだから・・・そんなに興味があるなら読んでみると良いわ。魔道式の組み立てだけなら今だって勉強できるもの。」
夕食の席でセレナにそう言われ早速本棚を漁ってみると、多少劣化してはいたが楮の紙が束ねられた手作りの本がすぐに見つかった。
見つけた限り本は四冊。基本が一冊、応用編が三冊だ。
「・・・本当に基本編なんだろうなこれは。これより前に超基本編が一冊あるわけではないんだろうか。」
タイタンが理解できたのは冒頭3ページまで・・・セレナが朝に解説してくれた部分だけだ。
そこから本格的な魔道式の組み立ての解説が始まると、物質の組成の話やら、体内エネルギーの話やら、ありとあらゆる理科の話がごちゃ混ぜになり始める。
「・・・説明下手なんだろうか、セレナさんのお母様は。冒頭だってセレナさんの説明の方がよっぽど分かりやすかったし・・・。」
ますますお母様の人物像がぼやける。セレナはどうも母を神格化しすぎている面があるせいか、タイタンも勝手に完璧超人だとばかり思っていたが・・・意外とそんなことは無いのかもしれない。
「水でも飲もうか。休憩してからもう一度読めば、分かるものもあるかもしれない。」
立ち上がり居間へと向かう。長時間座っていたせいか背骨がバキバキと音を立てた。
今のすぐ隣の作業場からはいつのまに音が止んでいた。いつもならトンテンカンテンと気味良く夜まで音が響いているのだが・・・セレナは疲れて眠ってしまったのだろうか。
「・・・どうせまた床で眠っているんだろう。布団まで運ぶか。」
全く、いつもいつも・・・と作業場をノックしドアを開ける。案の定、床に毛布の塊が・・・
「・・・居ない?」
簡易ベッドにも、床にもセレナの姿はない。
一応自室を見てみるが、そこにも勿論居ない。
そして、自室からセレナの真っ白な外套が消えていた。
「まさか、この深夜に出かけたのか?何も言わずに?」
余程の緊急事態だったのだろうか。ドアを開くと積もったばかりの雪に一人分の足跡がついていた。
嫌な予感が膨れ上がる。タイタンは迷わず外套を手に取り足跡を追った。
今回の任務は曰くつきのものであった。
何故なら、その地の調査に向かったハンターは誰一人本部に帰還したことがないのだから。
持ち帰られた情報はゼロ。崩落の頻発地帯に存在する謎の魔道結界の内部は未だにハンター協会にとって未知のものであった。
先日調査に向かった剣士は生き延びているだろうか。彼と現地で合流できるのが理想なのだが。
「・・・しかし、崩落跡が酷い。こんなところに本当に結界が?」
結界があるということは、それを内部で維持している人間がいるはずだ。だとしたらその人間を保護して連れ帰る必要があるし、ここまでの見事な結界を張れる人間ならば、保護区域の結界をより拡大することもできるかもしれない。
そう、保護区域は今、人口増加という切実な問題に直面しているのだ。
長らく放置されていたこの結界の秘密を早急に暴かなければならないのはそういうわけだった。
「・・・見えた。聞いていた通りだ。崩落跡の真ん中に、突然現れる森林・・・天然の森林なんて初めて見たけれど。」
ハンターになって四年。後輩もでき、一人前と認められるようになった。保護区には身重の恋人を残してきた。
このままでは保護区で、命の選別が開始されるだろう。人口増加による物資不足で身重の恋人は十分な栄養を摂れずにいたし、出産が禁じられればせっかく授かった我が子を堕ろすことになるのだ。
「結界を拡大するヒントは間違いなくここにあるんだ。くそ、気味の悪い森だな」
悪態をつき、ハンターは森の入り口へと踏み込んだ。
「・・・なるほど、この森の魔導使いが明らかに敵意を示していることはわかった。これだけの魔道罠をいったいどうやって用意しているんだ?」
ハンターは魔道使いであった。ある程度なら魔道罠を感知できる。
森に侵入して数十分。ここまででもう両手の指では足りないほどの罠が仕掛けられていた。
「まさかこの辺りに鉱脈があるのだろうか。だとしたら収穫だぞ。結界内の金属不足が一気に解消するじゃないか。宝の山だなこの森は!」
金属不足もそうだが、魔道具の技師も不足している。魔道使いの協力が得られればハンター協会の技術も一気に進歩するだろう。
木材資源に金属資源。魔道の進歩に結界の拡大。
この森を得られればありとあらゆる問題が解決する。
そう自分を励まし、一歩踏み出された震える右足を鉄槍が貫いた。
「ーーーーーっああああああ!?」
「・・・やっぱりタイタンが異常なだけよ。今回は入り口で気付けたもの。私の感応が鈍っているわけじゃなかったわ。」
続いて左腿を同じ鉄槍が貫く。
ぶちり、と嫌な音。とっさに引き抜こうとして男は気づく。
鉄槍はまるで釣り針のように返しの棘が付いており、力任せに引き抜こうとするととんでもない激痛が走るように設計されていた。
崩れ落ちようも鉄槍で地面に足をまっすぐに固定されている。
両足が熱い。倒れこむこともできず、男はただただ前傾姿勢で立ち尽くしたまま、脂汗を流し絶叫する。気配は全くなかった!
「53回よ。」
「な・・・に?」
「53回。貴方がこの森の警報を踏み抜いた回数。・・・ああ、魔道で反撃など考えないで頂戴。今貴方の右手に熱量が流れたけれど、炎なんて出そうものなら火災を知らせるベルが家で鳴って・・・まあ、分かりやすく言うと援軍が来るわ。それにそんな状態で出せる魔道など高が知れているでしょう。やめておきなさい?」
魔道使い同士の殺し合いで一番大切なのは精神の制圧。
魔道に必要なのは計算、理論。そして承認は祈祷、精神統一に近い行為。
いずれにせよ高い集中が必要な行為。ならばそれを切り崩せばいいのだ。
姿を見せず、一撃必殺の急襲。痛みで思考を奪い、言葉で精神的優位に立つ。
目の前の魔導師は、魔導師を殺す方法を知っている。間違いなく、数多のハンターを葬ったこの森の主人はこの魔導師だ!
「もう。お話が聞きたくて生かしたのよ。ああ、暴れたら深く刺さって余計に・・・ほら、叫んでお話も聞いてくれないじゃない。・・・もう、仕方ないわ」
セレナはまるでキスをするかのように男の顎に手を添え、右目に鉄槍を突きつけた。びくり、と男が震える。そこで初めて男は目の前の白ワンピースの魔導師の姿を見た。
美しい。月光を浴び爛々と光る瞳も、水晶のように光を放つ美しい髪も。
激痛と感動でぼんやりとする男の脳に、魔道使いの冷徹な声が淡々と流れ込む。
「いいかしら。槍が貴方の右目を抉るのが嫌だったら・・・お話を聞いて貰える?貴方、ハンターでしょう?」
そこで男ははっとする。この魔道師は自分がハンターだと知っている、交渉の余地がある!
この絶望的な状況で差し込んだ一筋の光明は、幸福なことに、男の目を鈍らせた。
「・・・っ、そうだ!あんたが魔道使いだろ!?協力を仰ぎに来たんだ、話を聞いてくれ!!」
「質問は許していないわ。聞いたことだけに答えて。少し前にここに向かった剣士のハンターのことは知っている?彼について知っていることを全て教えて欲しいの。」
「っ、生きているのか!?」
「・・・質問にだけ答えてと言ったでしょう。もう、聞き分けがないんだから。」
ぐり、と男の額に槍が押し付けられる。額が割れ、たらたらと流れる血が視界を真っ赤に染め始める。
真っ白な魔道使いが真っ赤に染まる。その無表情はなにも変わらないのに、目の前の小柄な少女が何故だかとても恐ろしいものに変質したような気がした。
「っ、そいつは、身内にも鬼と恐れられる凄腕のハンターだそうだ。剣神と呼ばれて・・・協会でも一番と言っていい剣の使い手で・・・ハンター歴もすごく長い。かなり若いが協会で何か役職も持っていた。いつも結界の外で遠征をしているから顔は知らない・・・」
「名前は?名前は知っている?」
この質問はいつまで続くのだ。痛みで焦る男は遂に声を荒げた。
「知らない!名ばかりで偉ぶる上層部の人間の名前などいちいち覚えているものか!知っていることはこれで全部だ!わかったら話を聞いてくれないか!」
「・・・ええ、分かったわ。ありがとうね。助かったわ。」
瞬間。男の顔面に槍が突き刺さる。それが合図だったかのように、次々と、男の体に数十本の槍が、軌道もなく、空間に直接割り込むように現れた。
「・・・っ、が!」
「協会が嫌いなのは私も同じなの。・・・ごめんなさいね。」
「っ、が、は・・・痛い!!!痛いやめてくれ!!ごめんなさ・・・ッ」
次々と。容赦なく。的確に男の命は鋭い鉄で潰されていく。
しとしとと、赤い肉片が白い雪を溶かしていく。
まだ見ぬ子供の顔。そして小さな部屋で一人男の無事を待つ、婚約を決めたばかりの恋人の顔。
会いたい。会いたい会いたい会いたい。
しかし男の祈りに世界は呼応しない。理論の無い、憎しみだけで作られた炎は目の前の魔導師を焼かない。
恋人は幼い頃から病弱な女だった。幼い頃は保護区指定の病院の一室に閉じ込められる日々だった。10歳を過ぎた頃、ようやく病室の外を知ることができた彼女は、狭い保護区域の中でも毎日瞳を輝かせていたように思う。
崩落がなくなったら、この結界の外にも旅に行けるのかもしれないね。
ハンターになったのもそんな彼女の言葉がきっかけだっただろうか。
「が、ががががが、あ」
病が治っても元々の病弱は変わらない。出産も無事にできるかわからないと言われた。
彼女の両親には婚前に娘を孕ませたことを責められた。出産でこの子が死んだらどうすると。
ひたすらに頭を下げるしかない男を背にかばい、女ははっきりと言い放った。
私ももう大人です。2人できちんと責任を取り、生まれる子を幸せにしますと。
「ひゅう、ひゅう、」
俺はどうしようもない男だ。
魔道を学ぶために両親にも苦労をかけた。彼女にも、彼女の両親にも心配をかけた。
だからこそ、体の弱いが心優しい恋人と、生まれてくる子供を絶対に幸せにする。それが俺の償いで、唯一2人にしてやれることだったというのに。
最期に男が見たのは、空に浮かぶ青白い満月だったか。それとも魔導師の柔く濁った瞳だったか。
喉を潰され、鼻と口が空洞になり、頭と体がかろうじて槍でつながっている。
ほとんど肉塊になってしまった男の目玉だけがこちらをじっと見つめている。
「・・・そんな目で見ないで頂戴。」
ぼとり、と男の薬指が白かったはずの大地に落ちる。それ以外はほとんどが部位もわからない大きな肉の塊になり、細かな肉片と血が、槍とセレナにこびりついていた。
「・・・お墓は・・・この辺りだと、爺様の根元かしら。ああ、血を見るのは嫌いだわ、嫌だわ・・・。でも、私が頑張らないと・・・この森を守らなくちゃ・・・。」
形の残っている体を、持って来ていた布袋に集め、セレナはそれを引きずり歩き出す。
魔道を使った疲労で重い体を、男の遺体が血だまりに引き戻すかのようだ。
「・・・っ、よい、しょ・・・はあ、はあ・・・」
たどり着いたのはセレナが爺様の樹と呼ぶ大樹。根元の土は凍って硬いが、魔道の槍を使ってそれをうまく掘っていく。
「・・・あ」
ざくり、と。槍に何か刺さったと思ったが・・・以前埋めた布袋だ。
布袋の中、分解されず残った骨を思い切り砕いてしまったらしい。
「い、いけないわ。ごめんなさい・・・痛かったわよね。はあ・・・っ、もう、しないわ。そこで眠っていて頂戴。ごめんなさい、ね・・・。」
ぽたぽたと、掘られて柔らかくなった土に汗が吸い込まれてゆく。
ざくざくと、短く持った槍を振り下ろす単調作業が数十分。
爺様の樹の下、布袋を埋めるには十分な穴が出来上がる。
「・・・爺様、爺様。この人がどうか天国に行けるようにお祈りしてください。次に生まれてくるときに、この森の子鹿になって、蓬山のシロツメクサの草原を楽しく駆け回れますように、って。」布袋を穴に落とし、柔らかく土を被せ、手を合わせる。祈りの方法はお母様から教わったもので、正しいものかは知らないが、こういうものは気持ちが大切なのだと思う。
「戻りましょう。内緒で川に入って血を落とすなんて、お母様が生きていた頃以来ね。・・・まあ、流石に冬に自分から川に入るのは初めてだけれど・・・」
血を被る前に脱ぎ捨てた外套を手に取り、セレナは川に向かって歩き出す。
日が昇る前に帰れたら良いのだけれど。残念ながら空は既に紫色。
「帰ったらどう言い訳したらいいのかしら。・・・はあ。タイタンが今日だけお寝坊さんでありますように・・・」
カンカンの小姑が玄関で仁王立ちしているのを想像し、セレナはげっそりとするのだった。
玄関ではなかった。
念のために転移装置に乗る前に血を落として正解だった。まさか朝日が昇っても転移装置の前で座り込んで待っているとは。
「・・・やっぱり魔道を勉強することにしよう。あんたが居ないと装置すら動かせないなんて。」
「その装置が特別魔力が必要なだけよ。台所の簡単な装置なら動かせるのだから問題ないでしょう?」
軽口を叩いても返事がない。これは相当怒っている。
「・・・その、タイタン。急な用事だったの。もう眠っていると思って、だから起こすのも申し訳なかったし・・・その、怒らないで頂戴?」
あのなあ、と立ち上がりセレナに詰め寄ろうとしたタイタンがピタリと止まる。
眉間の皺が深くなる。叱り飛ばされるとばかり思っていたが、タイタンはただ一言告げる。
「誰を殺してきた。」
ぴしゃり、と言い放たれた声に身が竦む。もさり、と肩甲骨に重量が増し、セレナはどっと冷や汗をかいた。
こうなってしまってはもうバレバレだ。どうして。
「血の匂いがする。洗い流して服を乾かしても簡単に消えないんだ、そういうものは。」
「・・・・・・。」
一体どんな感覚器官をしているのだ。
セレナは黙るしかない。
確かに今までそういう行為をしてきたことはタイタンに公言していたし、必要なこととタイタンも理解してくれていたと思う。
しかし、いざ人を殺して来た自分を目の当たりにして、タイタンは自分を嫌ってしまわないだろうか、という怯えがセレナを支配した。
「次からは叩き起こしてでも俺を連れて行け。心配した。・・・帰ろう。」
そう言い、背を向け、タイタンは歩き出した。
タイタンが森を去る時の情景が、その情景に重なりセレナは震える。
最初こそ渋々タイタンを受け入れた。
彼をここに置いて良いのか、正直今でもセレナは迷っている。
この生活を続けていくことが果たして善いことなのか、セレナにはわからない。
それでもひとつだけ確かなことは、タイタンに幸せになってほしいと言う祈りだ。
タイタンの幸せを決めつけ、それに干渉することはやめようと決めた。
ここにいることがタイタンの幸せであるなら、そうしてあげたい。
それと同時に、ここを去ることがタイタンの幸せなら、そうしてあげたいと思っていたはずだ。
それでも、タイタンが人殺しの自分を見捨てて、ここを去っていく想像は、今セレナを置いて歩みだしたタイタンの背中は・・・恐ろしい。
この背中を追う権利は、きっとセレナにはないはずなのに。
「・・・セレナさん、どうした。」
そんなものはもちろんただのセレナの妄想だ。
ずんずんと戻って来たタイタンはセレナの手首を掴み、不思議そうな顔をする。
ぐい、ぐい、と何度か引いてもセレナは俯いたまま。
「寝てないんだろ。早く家で休んだほうがいい。・・・はあ。」
セレナさん、とタイタンが少し屈んで目線を合わせた。
「タイタ・・・いたっ!?」
デコピンだ。しかも結構容赦のない。
「な、何するのよ・・・!?」
「あんたは森を守るために戦ったんだろう。そんな顔をしなくていい。だけど、あんたが人を殺すたびにそんな顔をしてしまうなら・・・それは俺にも半分背負わせろ。俺は魔道はできないが、人は殺せる人間だから。」
子供に言い聞かせるように、タイタンはそう告げた。
「いいな。」
「・・・分かった、わ。次からは、そうするわ。」
「・・・本当人殺しに向いていないな、あんた。嘘が下手だ。」
そう言ってにや、と笑ったタイタンに怒りのような激情が吹き上げた。
友人に人殺しの片棒を担がせるなんて、そんなことをしたいわけがないだろう!
セレナの喉元まで、その叫びは込み上げていた。
・・・でもきっと、タイタンも同じ気持ちなのだろう。
それでも私はいいのだ。私の魔道は人殺しのためにある魔道なのだから。
・・・でもタイタンは違うでしょう?
今までのタイタンのことは知らない。けれど、今のタイタンはまっさらになって、今までの血濡れた人生をやり直す機会を手に入れたのでしょう。
だったらこちら側に戻ろうとするのは間違っている。
タイタンがもし魔道を振るう時が来たら、その魔道は優しいものであってほしい。
なんて、勝手に祈ってしまうのは当然でしょう。
「・・・タイタン。」
セレナはぶちまけてしまいたい感情をぐっと飲み込んだ。きっと困らせるだけだ。
「私が殺した人に、タイタンのことを尋ねたわ。名前はわからなかったけれど、ええと、剣神と呼ばれるすごい剣使いで、身内にも鬼と恐れられる厳しい人で、協会にも役職がある、地位のある人間だって・・・」
「セレナさん。」
タイタンが遮る。見上げたタイタンは、困ったような、何かを堪えるような、表情。
「・・・いい。俺の記憶のことは気遣うな。敵を殺さないように手間を増やして・・・それでセレナさんが危険を冒す必要なんかない。」
それはもう投げ捨ててしまったものだから、などとはセレナにとても言えなかったが。
嘘が下手なのは自分も同じかもしれない。セレナは良い人だから、タイタンを疑うことを知らないだけ。
目を逸らした過去のヒントを得るたび、胸の内にぽっかりと空いた大穴から亡霊が迫るような心地がするのだと。セレナにそんな情けない不安を正直に打ち明けるなど・・・とてもタイタンにはできない。
そんなタイタンの気持ちを露知らず、セレナは申し訳なさそうに俯いた。
「あ、その・・・ごめんなさい。駄目ね、今日は空回ってばかりだわ。」
「いや・・・記憶を取り戻したくないわけではない、その、ありがとう。」
すまない。セレナさんは何も悪くないのだ。そんな顔をさせてすまない。
罪悪感に耐えきれず、タイタンは無理やり明るい声を作った。
「・・・しかし、剣神なんて。・・・褒めすぎじゃないのか。」
「・・・ふふ。私は想像がつくわよタイタン。きっと記憶を取り戻す前からそんな調子だったんでしょう?周囲が勝手に剣神と呼んでいたけれど、実のあなたはそんなこと気にも留めていなかったんじゃないかしら?記憶にも深く残っていないくらいに。」
「いいな、調子が出てきたじゃないか。その調子で朝飯も頼む。」
今日はオムレツでなく目玉焼きがいいと、大真面目な顔でタイタンが言う。
「・・・流石に眠らせて頂戴?眠らせてくれるわよね・・・?」
「やっぱり、こんなにすぐ騙される人間を戦場に出すわけにいかないな。帰ったらもう一度身を清めてからゆっくり寝てくれ。家事はやっておく。」
そうやってすぐに私を揶揄って。私はあなたより年上のお姉さんなのよ。
セレナが文句を言えば、はいはいと空返事。しかし顰められていた眉は緩み、くしゃりと笑った顔が朝日に眩しい。
現実から目を逸らし、胸の内を秘め、作られた仮初めの明かりであるとしても。
できることならばタイタンには、こうして日の元で笑っていてほしいのよ。
できることならばセレナさんには、こうして日の元で笑っていてほしいのだと。
そのささやかな祈りだけは本物だ。