藺草 鞠2020/06/15 11:04
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「嫌、嫌・・・。こんなの。お願い、見ないで、見ないで・・・!ごめんなさい、もう見せないから、お願い、見ないで頂戴・・・!」

「落ち着け。そんなに怯えなくても俺は何もしない。」

子供のように泣きじゃくり出したセレナにタイタンも動揺する。あのセレナが。

上品な立ち振る舞い、15、6歳にしか見えない見た目の幼さとは反した落ち着いた態度。それがタイタンがセレナに抱いていたイメージだったのだが、目の前のセレナはがたがたと震え、泣きじゃくり、飴玉の瞳が涙に濡れて溶け出しそうに潤んでいる。

「そうよ、わたしは化け物よ!分かったでしょう!?あっちを向いて!!」

「やめろ、そんな言い方は!俺はあんたを綺麗だと思うし、友人のあんたを化け物だなんて思うわけがない!」

綺麗。決して喜ばせようとしたわけでなく、それはタイタンが素直に発した感想だった。セレナの背から生えた羽根は白鳥よりも透き通っていて、水晶よりも輝いていて、その美しさを例える単語はタイタンの中には存在していない。

まさに唯一無二の美しさ。セレナが泣いていることは許せないはずのタイタンですら、涙すら趣があると評してしまいたくなるほどに。

しかし、綺麗という言葉を聞いたセレナは喜ばない。その言葉が禁句であるかのようにセレナの肩は大きく震えた。

「いや、駄目・・・お願い、私を綺麗と言わないで・・・」

セレナが静かに後ずさる。どうやらそれは本当に禁句であるらしかった。

セレナの怯えがますます増している。このままでは話も聞いてくれなくなるだろう。

「分かった、分かったが。あんたの隠し事というやつをいい加減教えてくれないか。セレナさんの嫌がることはしたくない。だけど何が嫌なのか分からないと俺もどうしようもないだろう。」

午後の柔らかな日差しはカーテンに遮られ、部屋は薄暗い。

カーテンの隙間から細く差し込む陽光を震える羽根が反射し、木目の床に虹色を描いていた。

「・・・そうね。タイタン、そこの本棚の緑の表紙の本を開いてみなさいな。全て教えてあげるわ。」

タイタンが言われた通りに本棚の本を手に取ると。

本をパラパラめくったその真ん中に、一枚の紙片が挟まれていた。

「やっぱり先に鞄を見ていたか。俺の荷物だろう、これは。」

紙片は血に塗れていた。あの鞄に入っていたもので間違いないだろう。

折り目だらけの紙を開く。字は判別できないが押された判子とハンター協会、という宛名だけは読めた。

セレナはベッドに腰掛け、足を組み、立ち尽くすタイタンを見上げた。

「・・・気づいていたなら責めればよかったでしょう。それはね、ハンターの仕事依頼書。多分貴方は、私を捕らえるためにここを訪れたハンターだったんでしょう。いくらここがお母様の結界で守られているのだとしても、それに綻びが生じればおしまい。私はこの森と共に地底に沈むしかないものね?」

「・・・む、待ってくれ、知らない単語ばかりだ。ハンターってどんな職なんだ。地底に沈むって・・・どういうことだ?」

「やっぱり。貴方、この世界の状況についても全て忘れてしまったのね?あまりに普通にここでの生活を受け入れているから、もしかしてとは思っていたけれど。」

「この世界の、状況?」

セレナはどう説明しようかと数秒考え込み、再びタイタンを見上げ、口をひらいた。



「全盛期80億人いた人類は、今は3千人に減っているわ。人間たちは今まさに滅亡しようとしているところなのよ。」



「滅亡・・・?この森の外に人間たちは住んでいないのか?街や村があるとか・・・」

「それはいつの時代のお話なの。普通の人間たちの街なんて、私が生まれるずっと前から存在しないわ。」

あまりに当たり前にセレナの豊かな生活が成立しているものだから、勝手に人間たちのコミュニティが存在していると思い込んでいたらしい。確かにタイタンの知識に、人間たちの普通の街の様子というものは存在していなかった。

「あの歴史書をどこまで読んだの?途中で私が取り上げてしまった、あの本。」

「世界大戦の辺りまでだ。二度目の世界大戦で、爆弾で世界がぼろぼろになってしまった辺り。」

「・・・半分辺りかしら。まあ、その本のラストはこう締めくくられているのよ。地球の内核まで続く深い大穴が地面に次々と開いて、人間と、人間の作り出した文明全てを飲み込んでしまった、とね。・・・今現在も続く、回避不能のその災害を、私たちは崩落と呼んでいるわ。」

タイタンはあまりに突拍子のない話に耳を疑った。地面に突然大穴が開いて、人間を飲み込んでしまう災害?

「それが、そんなことが今現在も続いているのか?そんなもの避けようがないんじゃないか?」

「ええそうね。・・・旧人間時代のことは、私も本で読んだだけだけれど。最初は女神の像が。次は三角形の砂のお城が。古代遺産が飲み込まれた次は宗教施設、次は政府要人や有名な音楽家たちが。最後には名もなき民衆が次々に飲み込まれ、崩落を防ぐ結界が完成する頃には・・・ほとんどの人間が地底深くに飲み込まれていたそうよ。僅かに生き残った人間は、ここから遠く離れた対崩落用結界の中・・・人類保護区域で生き延びているわ。」

セレナは僅かに目を伏せ、笑った。

「・・・ここまで言えばわかるでしょう。この森がおかしいことに。ここは地球上でも貴重な自然が残る場所なの。結界なんて保護区以外の場所に存在しないはずなんだから。お母様が貼った結界のおかげで生き延びているこの地を調査しに、数多のハンターがはるばるこの地に来ては、罠にかかったり、時には直接私に手を下されて、死んでいったわ。あなたもそうなる運命の一人だったのでしょう。」

そう、私は人殺しなのよ、とセレナは言った。その声色に悲しみも、喜びもない。

ただ事実を告げているだけ、といった無感情な口ぶりだった。

なんだかその態度が気に障って、タイタンの語調がついきつくなる。

「そんなことは言わなくていい。それより・・・その、ハンターとはなんだ。警察組織みたいなものか。」

「ん・・・少し違うかしら。ハンター協会は崩落を解決するための特別組織みたいなもの、かしら。結界の外に調査に出たり、人類保護区域に結界を貼るのもハンターの仕事ね。だからこそお母様の技術を欲しがる、というわけよ。・・・つまりは、そうね。」

タイタンはそこで気づく。セレナの涙は止まっている。

セレナの雰囲気が一変していた。戦士の勘が告げる。これは間違いなく殺気。セレナはタイタンに敵意を示している。

セレナを守るように覆っていた羽根はピンと広げられ、月光のような薄明かりを放っていた。ピリピリとしたプレッシャーに気圧されタイタンは生唾を呑み込んだ。

「お母様の大切な森を暴こうとする、貴方たちハンターは私の敵。私はお母様の結界装置を解読し、この森を守りたい。その為に・・・私をここから連れ出し、保護区域に収容しようとする貴方たちに従うわけにはいかない!この素晴らしい森を木材資源と呼ぶような人間たちに、この森は預けられない!」

凛としたセレナの声に、窓の外で風が呼応する。この森の若き守護者を、森の動物が、植物が、大地が、風が祝福する。周囲を囲む殺気がどんどんと強くなるのが分かった。この森の全てがタイタンを拒んでいる。思わず身構えるタイタンを面白そうに見つめてセレナは告げた。

「・・・そんなに怖がらなくて大丈夫。お友達だものね、私たち。だから今すぐ森を出ていくなら見逃してあげる。・・・でもそうね。このままここに居座るなら、怒りでうっかりその首を捻りとってしまうかもしれないわ、可愛い人間さん?」

セレナの月光の瞳は爛々と輝いていた。ポーラを相手にしていた時とは気迫が違う。

殺してもよいのだと、銀色の瞳ははっきりそう語っていた。

「・・・ッ。待て、セレナさん。俺はきっと任務で死んだことになっているだろう。だったら今さら、そのハンター協会とかいう場所に戻る必要などない!」

「・・・本当にそうかしら?貴方にも大切な人がいるかもしれないのに?」

ずきり、とタイタンの胸が傷んだ。それはこの楽しい生活の中で、タイタンが目を逸らし続けていたもの。セレナの投げた言葉のナイフははっきりとタイタンを貫いた。

「友人が居るかもしれないわ。両親が居るかもしれないわ。恋人が居るかもしれないわ。・・・子供がいても不思議ではないかしら?・・・その場の情に流されるのは良くないわタイタン。私は遺体が近所に転がるのが嫌で貴方を助けただけよ、自分の足でここを出て行ってもらうために貴方を助けたのよ。出て行きなさい。私たちの運命は交わらないのよ。」

そのとおりだ。まごうことなき正論だった。

タイタンは楽しい生活を失いたくない一心で、過去から目を逸らし続けた。逸らしているだけで、不安は常にタイタンと共にあった。

もしかしたら、自分を待っている家族がいるかもしれない。もしかしたら、自分が死んだと泣いている友人がいるかもしれない。

それは何度も何度もタイタンが脳裏で繰り返してきた言葉だった。それでも隣にセレナが居てくれたから、タイタンは曇ることなく生きていられたのに。

セレナの表情は無であった。顔を歪めたタイタンを、冷徹な月光が静かに見つめていた。

「・・・それでも。」

僅かに時間を置き、言葉を一つ一つ並べるようタイタンは告げる。

「嫌だ。今ここであんたを放っておいたら、俺は後悔する。だから、嫌だ。」

楽しそうに物語の話をする笑顔を。森の植物たちを慈しむ表情を。

青空を見上げた寂しそうな背中を。自分は化け物だと泣き崩れたセレナを、絶対に1人にはしたくないと、彼女を再び孤独に置き去るのは嫌だと魂が叫んだのだから。

ここで折れては絶対にいけないのだ。例え大切な彼女を殴ることになろうと、納得させなければならないのだ。

決意に満ちた表情を見て、セレナは僅かに笑った。貴方のそういう所が好きなのよね、と。

そして指先をタイタンに伸ばし、告げる。

「そう。なら仕方ないわね?」

瞬間。タイタンの足元に光が走る。

「っ・・・!?おい、何をした!?」

まるで見えない何かがペンを持って居るかのよう。読むことのできない謎の言語が木の床に書き綴られ、高速で足元に完成したのは、魔法陣。

「お別れよ、お馬鹿な人間さん。結界装置には救難機能も地図機能もあるわ。ハンターの探索装置は優秀よ。見つけてもらいさえすれば、きっと無事に帰れるはずよ。・・・ああ、戻ろうなんて考えては駄目よ。ここは怪異の森、お母様と私が生涯をかけて作り続けた、人間を殺すための数々の装置から逃げられるわけがないもの。」

セレナはそう言い、わずかに俯いた。

「次に会ったらきっと殺し合い。私が貴方を殺すか、貴方が私を殺すか。どっちの方が素敵かしらね?」

「・・・っ、する訳ないだろう、そんなこと!」

タイタンの声が動揺で震えている。その問いには答えない。

この無言が答えだとばかりに、セレナの冷酷な目がタイタンを射抜いた。

貴方は、私が本気で殺しにきたら、自分の命と私の命、どちらを選ぶのかしら?

セレナの目がそう問いかけている。私を殺したくないでしょう、と、今までの友情すらも利用して、セレナはタイタンを脅す。

お友達だものね、私たち。先程は一縷の希望であった言葉がタイタンの膝を震わせた。

「ふふ、タイタン。二度と貴方に会わないことを願っているわ。」

視界が光り輝き、あまりの眩しさに目を閉じ、目を開くと、身に覚えのある風景。

雪の少ない地面、低木、暖かい気温。これは間違いなく。

「・・・森の南側!?飛ばされたのか!!おい、セレナさん!?聞いているのか!!」

続いてどさどさと、タイタンの荷物が空中に降ってくる。そして最後に、水とパンがたくさん詰められた布袋がばさりと足元に落ちた。・・・これでも食べなさい、ということだろうか。

「・・・くそ、部屋に仕掛けてあったのか。魔道の気配には疎くていけないな。あの木の途切れている方が、森の入り口なんだろう。チッ、ああクソ・・・やられた。」

構うものか。手間は増えたが、それでも自分はセレナと話をしなくてはならない。

胸にあるのは諦めではなく、余計な手間を増やしやがってという苛立ちだけだ。

大丈夫だ。俺はこの程度で折れたりしない。

とにかく一度落ち着こうと深呼吸をした。そしてタイタンは気づく。

正体不明の異臭がする。何かが腐敗したような・・・だとするとこの辺りに何かあるのかもしれない。

タイタンは周囲を確認しようと森の入り口に近づき、そして愕然とした。

「な、なんだこれは・・・?」

森の出口から見えるものは三つだけ。

荒れ果てた大地と、空と、そして地面に無数に開いた巨大な穴。

穴の大きさは様々だが、小さなものでも4、50メートルはあり、そのどれもがまるで道具を使って刃物で切り取ったような正確な正円。自然物にはとても見えない正円の群れが大地を覆い尽くしている様はあまりに奇妙だ。

地平線の果てまで、両手の指では足りぬほどの大穴が、まるで蛆虫の穴のように、蜜蜂の巣のように、大地にぼこぼこと開いていた。

それが明らかな異端、世界の異物、冒涜的なものであることをタイタンは一瞬で理解した。

「惨い、これが崩落・・・!こんなに薄気味悪いものが世界を覆っているのか!?・・・これほどの災厄が世界を襲っているのか!?」

タイタンは勇気を出し、森から一歩踏み出した。右手に握りしめた結界装置は手汗でジワリと熱を持つ。踏み出した瞬間に装置がじじじと羽音のような音を立てたので、恐らくは起動しているのだろう。そう信じたい。

森を踏み出した途端に異臭は耐え難いほどに酷くなった。森に張られた結界は異臭を防ぐ効果もあったらしい。

気がおかしくなりそうな腐敗臭を袖で防ぎながら、タイタンは一番近くに空いていた大穴を覗き込んだ。そしてすぐに後悔する。

そこを覗き込んで見えたものはただの暗黒。無限の暗黒から、袖で防いでも思わず顔を顰めてしまうほどの耐え難い異臭の風が吹き出していた。

ここは地球の内核から見れば数千キロメートルの高所なのだ。今もし突然強風が吹いたら。もし背後から誰かが押したら。その想像だけで足が棒のように固まり、タイタンは身動きが取れなくなった。

そしてタイタンの良い視力は僅かな岩の段差に、何かが引っかかっているのを見つける。最初は樹木の根か何かだと思い、じっとそれを観察し、その樹木に手袋が被せられていることに気づく。

すっぽりと被せられたそれは・・・というかあの樹木、五本指が生えて

「・・・ッ!」

そこまで推理してタイタンは樹木から急いで目を逸らした。

しかし遅かった。目を逸らすと同時にタイタンは異臭の正体に気づく。気づいてしまった。

この穴から吹き出す、この耐え難い臭いは。今タイタンの皮膚にべったりと触れているこの空気に含まれる、異臭の成分の正体は、崩落に飲み込まれていった、数多の人類の



「げええええええッ!!!!」

耐えられなかった。黄色い胃液がぼたりと吐き出され、崩落に飲み込まれていった。

きっと自分は数多の人間を殺したのだと思っていた。剣を振るうことになんの疑念もなかった!それでも、崩落を目の当たりにしてタイタンは吐いた。この先には腐り果てた数多の命が確かに居ることを理解し、自分が殺してきた名も思い出せぬ数多の亡霊が今にもタイタンの背中を蹴ることを想像し恐怖する。

「・・・っ、クソ・・・!」

タイタンはふらふらと森の入り口に戻り、膝をついた。

頭がくらくらとする。酷い吐き気がする。あまりに気分が悪い。

タイタンはヤケクソ気味にがぶがぶと水を飲み、大地に横たわる。深い穴を覗いただけであるはずだが、まるで悪魔でも見てしまったかのような気分だ。

それでも結界内は腐臭がマシになるだけいい。しばらくここに居れば体調も良くなるだろう。

「・・・あの腐り落ちた命の中に、俺の知っていた人間がいるんだろうか。いや。失った過去を切り捨てようとしている俺が・・・考えていいことじゃない。」

あのぽっかりと大地に開いた穴を、恐怖することはあっても憎む権利はタイタンにはない。憎む時がきたら、それは、この森が、セレナが崩落に呑み込まれた時だけだ。

第一自分がしようとしていることもあの崩落と変わらないだろう。

心にぽっかりと開いた虚無に、過去の友人も、家族も、それを取り戻したいという気持ちさえも投げ込み、それはゆっくりと虚無の中で腐り落ちる。

「・・・どれだけ憎まれようとも、恐怖されようとも、いい。あの人が隣に居てくれさえするなら。俺はそれだけが欲しい。この気持ちに嘘はつかない。過去を滅ぼしてでも、俺は俺に嘘をつきたくない。」

タイタンの瞳に、楔の光が取り戻されていた。

セレナはここには恐ろしい数の罠があると言った。ここは気候が変わるほど遠いのだと言った。戻ってきたらたとえ殺されてもタイタンを殺すと言った。それでも。

「大丈夫だ。何のために毎朝鍛錬していると思っている。暇さえあれば寝惚けているか機械いじりをしている引きこもりに折れるのは・・・悔しいからな。」

タイタンは立ち上がった。負けず嫌いの背中の剣が、太陽を浴びて強く輝く。







「・・・無事に帰れたかしら。確かハンターの前線基地が、あの方面にはあったはずだわ。救難は拾ってもらえなくても、地図を見てあそこにたどり着けば簡易食はあるはずだもの。きっと心配はいらないわ、ええ。」

タイタンを送って丁度2週間ほど経った。

この森はありとあらゆる場所に魔道式の感応装置が仕掛けてあった。この森の外から入ったものがそれに引っかかれば、セレナの耳には音が聞こえるようになっている。

ここ2週間、その音が鳴ったことは1度もない。最後の脅しが効いたのだろう。諦めの悪い彼も、さすがに出て行ったのだと安心していた。

今日は酷い吹雪。セレナは作業部屋で、くるくると細い金属片を弄んでいた。

ああは言ったが流石に心配だった。敵意のない人間を殺したいわけではないし、ましてや彼はともにここで生活したかけがえのない友人であったのだから。

「タイタンは優しいわ。・・・私のことを知っても、拒んだりしなかった。だから、だから。タイタンをここに縛ってしまうのは良くないわ。だから・・・これで良かったのよ。寂しくなんてないわ。お母様がいなくなってもずっと、私は一人で生きられたわ。だからこれからも、きっと大丈夫なのよ。」

優しいタイタンにはきっと沢山の友人がいただろう。素敵な恋人がいただろう。

彼を待つ人はきっと沢山いる。だから彼の失くしてしまったものを埋めるのは、たまたま彼を拾っただけのセレナであってはいけないのだ。

「大事なひとがいなくなるのは、悲しいものね。」

ぽつりと、セレナは吐き出した。

お茶でも淹れようと、セレナは台所へ向かう。そして水弁を開き、気づく。

「・・・あら、水道が凍ってしまったかしら・・・?加熱装置が壊れたのね、もう。こんな日にお外に出るなんて危ないことはしたくないけれど・・・」

外は間違いなく今回の冬で一番の吹雪。こんな時のために汲んだ水を溜めてあったがそれは全てタイタンに渡してしまったまま、新しく汲むのをうっかり忘れていた。

工具と非常用の砂糖飴をポケットに入れ、手袋はお気に入りのふわふわのものを。

準備を済ませ、セレナは猛吹雪の外に出た。







「・・・っ、寒いわ、唇が凍りそうだわ。ああもう、嫌。手袋はびしょびしょでもう意味がないわね。手が冷たいわ・・・」

そう言い、セレナは苛立ちのまま手袋をその辺りに投げた。

家の裏手には川がある。そこから腹を下さぬように水を蒸留し、家まで水を運ぶ装置が土の下に、鉄の蓋をして隠されていたが、蓋が吹き飛ばされ装置に雪が積もってしまっていた。熱された金属が雪で一気に冷え収縮したことでうまく装置が回らないらしい。

とにかく雪を取り除き、外からセレナが魔道を回せば解決するが・・・繊細な装置ゆえ手で雪を取り除くことを余儀なくされ、セレナの手は感覚を失うほど冷え切っていた。

「うう、泣きそうだわ。でももう少しよ、ここを一度締め直して・・・あっ!?」

その時、ひときわ強い風が吹き、積もりたてのパウダースノーが吹き上げる。

突然の地吹雪は穴を覗き込んでいたセレナの顔面を直撃。目を潰されたセレナの視界が復活する頃にはもう。

「・・・!?無い!!パーツはどこ!?あれはお母様の作った一点ものよ!?見つけないと夜まで水汲みよ、そんなの絶対に嫌よ!」

幸いそこまで小さな部品では無い。遠くに飛ばされていなければここから目視で見つかるはずだ。セレナはふらふらと辺りを歩きまわる。視界はますます酷くなり、あの目立つ金色のパーツが、どこにあるのかわからない程。

「・・・あ、あれかしら。ちょっときらきらして・・・っ!!」

瞬間、ズボリ、と足元が崩れる。セレナは完璧に油断していたのだ。

そこは雪が積もり凍っているが深い川の上、小柄なセレナでは到底登れない、溺死する可能性すらある深さの川を、思い切り踏み抜いてしまったのだ。

「・・・っ、鎖を・・・!」

慌てながらも精神を保ち、魔道を放つことには成功した。手のひらから飛び出した鎖が、近くの大木にまきつく。

鎖に縋ることで、なんとか沈むことは逃れたが。

「・・・ごぼ、っ、冷た・・・!?」

真冬の凍った川は当然冷たい。水温は一桁台だろう。極寒の川に投げ出されたショックで、心臓が縮み上がる。

気絶しかけた意識を、太ももをつねって呼び戻し、セレナは天を睨んだ。

セレナは頭と手がかろうじて水面から出ているような状態だ。濡れた外套と、驚きで飛び出してしまった羽根の重量が、みるみるセレナを水底へ引きずり込んでゆく。

よじ登ろうにも悴んだ手は全く力が入らない。ずるずる、ずるずると少しずつ滑り落ちていく恐怖にセレナは悲鳴を上げた。

「っ・・・あ、いやーーーッ!!!お母様、助けて・・・!!」

声は無情にも森に飲み込まれて行く。



陸に上がれぬまま、かなりの時間が経過していた。

水に入った体はもうまともに動かない。

何より手から鎖がはなれぬようにと、無理やり鎖を手に巻きつけてしまったのがまずかった。体重で締め付けられた手は紫色に変色している。これは魔道具での治療が間に合うかもわからない。

凍傷になったら足を切り落とすしかなくなることもあるのだからねと、昔お母様に言われた言葉が脳裏をよぎった。

助かっても私は手を切り落とすのかしら。片手がない状態でここでどう生活したらいい?そもそもここから抜け出す手段は?ここから飛び出せるような魔道術式を私は組めるのだろうか?この混乱した頭で?

ああ、あの時は、獣を追って冬の川に落っこちたあの時は、お母様が血相を変えて飛んできて、毛布で私をぐるぐる巻きにして・・・あの無口なお母様が声を荒げたのだったわ。

こんな風に、ザクザクと走る音があの時も、いえ、お母様の足音はもっと上品だったけれど。

・・・走る音?目玉を一生懸命動かすと、見覚えのある浅黒い大きな手が鎖を掴んでいた。まさか。

「・・・ッ、何をやってんだあんた!?死んじまうぞ!?」

「・・・た、タイタン!?なんで・・・?」

二週間前に確かに送り出したはずのタイタンがそこにいた。まさか自力で帰ってきたのか。

ここから見るだけでもタイタンは見たことがないほど疲弊しているのがわかった。

塞がってはいるが瞼に大きな傷があるし、意識も朦朧としている。そんなぼろぼろの状態でもタイタンの瞳の光だけは消えていない。

なぜなら、この手を離さないために、タイタンはここに帰ってきたのだから。

「絶対に鎖を離すな!沈んだらおしまいだからな・・・ッ!」

鎖が引っ張られる。いくら頑張ってもよじ登れなかった厚い氷の上に、棒になったように動かない体が雪の上に投げ出された。

「ごほ、ごほ・・・っ!!はあ、はァ・・・」

「・・・抱えるぞ。こんな吹雪の日にフラフラ外を出歩くな、危ないだろう!その手、治療は間に合うんだろうな!?」

「た、タイタンこそ・・・その傷。私はいいから、治療を・・・」

見上げたタイタンは酷い有様だ。長かった髪は罠か何かで切れてしまったのだろう。

致命傷こそないが全身血と泥でぐちゃぐちゃに汚れている。何より瞼から頰にかけての傷が一番酷い。下手したら失明している可能性だってある。それなのにタイタンは一言

「俺は鍛えてるから平気だ。」

と言ってセレナを片手に抱えのしのし歩き出した。

そんな訳があるかと突っ込んでもタイタンは無視だ。

羽根は引っ込んだが濡れた外套の重さは相当だろうに、軽々と持ち上げるタイタンは流石だ。・・・などとセレナはぼんやり考えているその間も、頭上でタイタンの雷が落ち続ける。

「何があったか知らないが、人が必死に徒歩でこっちに戻ってきたらいきなり死にかけているし・・・自分の面倒も見られないくせに何が出ていけだこの馬鹿!偉そうにベラベラベラベラ言いやがってッ!あんたが軽率な行動を辞めない限り絶対にここに居座ってやる、何度追い出されてもあんたが諦めるまで何回でも戻ってきてやる!いいなこの大馬鹿が!!」

「・・・あんまり人を馬鹿馬鹿言わないで頂戴!黙っていれば好き勝手・・・っ、げほっ・・・!」

「っ、おい暴れるな、大人しくしていろ。本当に余計なことばかりするなあんたは・・・ッ!!絶対あんたをお姉さんなんて呼ばないからな!!お姉さんぶりたいなら少しは大人らしく振る舞え!このクソガキ!馬鹿!馬鹿!!馬鹿!!!」

「ば、馬鹿って言った方が馬鹿なのよ!ひっぐ、ぐず、怖かったのに、すっごく心配したのに、なんでそんなに酷いことを言うのよーーーッ!」

タイタンがぎょっとして抱きかかえたセレナを見る。まずい、また泣かせた!

ぼろぼろ、ぼろぼろと、涙と鼻水と川の水でぐしゃぐしゃのセレナに、もう森の守護者の威厳は全くなく。

「あーーー悪かった、悪かった。言いすぎたから、泣かないでくれ・・・。ほら、もう家だ。だからその、ああ、もう泣くな!怒りたいのは俺の方なのに!」

「タイタンの馬鹿、馬鹿・・・!目が見えなくなったら、どうするの・・・!ぐすっ、タイタンの目が、見えなくなっちゃう・・・!」

家に着くなり、タイタンの腕から飛び出したセレナが作業部屋へ駆け出して行く・・・行こうとするが当然棒になった足は思うように動かず、玄関で思い切り転んでしまう。

「おい、落ち着け!瞼が切れて開かないだけだ、目が潰れている訳じゃな・・・聞けよ!あんたの方がよっぽど重傷だろ!」

セレナがそれでも這って作業場に行こうとするので無理やり抱き上げ居間に運び込んだ。セレナの涙は止まらない。拭うこともできない涙が、ぼろぼろスカートに吸い込まれて行く。

「あんたは暖炉の前で座ってろ!俺が必要なものを取ってくるから・・・」

「なんで、なんで帰らなかったの!?ここまでの距離は知っていたでしょう!危険な罠が沢山あることも教えたでしょう!?結界があるなら森の外の方がよっぽど安全だから、だからちゃんと送り返したのに、なんで・・・」

私が作った罠が、あなたを殺してしまったらどうするのよ。セレナの口から溢れた悲痛な声が、涙とともにぽとぽと落ちて行く。

「俺が帰る家はここだけだ。理由もあんたにちゃんと言っただろ。」

びたりとセレナの動きが止まった。おとなしくしてくれているなら好都合だ。

「後でタイタン様の愉快な冒険譚を聞かせてやる。この家にあるどの冒険物語より面白いぞ。」

凍傷はぬるま湯で少しづつ温めるはずだ。

タイタンは湯を汲んでセレナに渡し、着替えと魔道具を用意するため再び背を向けた。





「・・・それでわざわざ吹雪の外に出たのか。やっぱり男手がいないと生活が回らないじゃないか。」

暖炉の前で毛布にぐるぐる巻きにされても、セレナは強情だった。

本当にただのずぶ濡れの子供にしか見えないが、それでも強情だった。

結果的にどちらの治療も間に合った。セレナの右手は骨折しているので二日ほど時間がかかるが、タイタンの介抱で動けるようになったセレナがてきぱき治療をこなしたことで、タイタンは瞼に包帯は巻いているが、ほとんど無傷に近い状態まで回復していた。

「ちょっと油断しただけだもの。ああもう、いいから貴方は帰りなさい!へくちっ・・・!貴方を大切に思う人はどうなるの!?帰ってこない貴方を想って泣いている誰かがいたら・・・私は、その人の悲しさを知っているわ。だから、駄目よ!」

「誰か誰か、って。俺の気持ちはどうなるんだ!あんたの気持ちもどうなるんだよ!・・・俺は崩落の跡をこの目で見てきた。恐ろしかった!あんなものとあんたを一人で戦わせるなんて、俺にはできない!俺を助けてくれたあんたが、俺に名前をくれたあんたが、一人ぼっちで泣いていることを俺は許せない!」

タイタンの強い目が、まっすぐにセレナを見ていた。

心の底まで見透かされそうなその緑色の目がなんだか怖くて、目を逸らしたいのに、逸らすことを許されないような気がする。

「・・・それに、質問にも答えてもらっていない。さっきも出ていたが、あの羽根は結局なんなんだ。何者なんだ、あんたは。」

「う、忘れてくれたら良いじゃない。」

「はぐらかすな。」

怒ったタイタンは怖い。こんなのほとんど尋問じゃないの。セレナは仕方なくぽつりぽつり話しはじめた。

「・・・その、びっくりすると、羽根が出てしまうの。自分の正体は、私自身よく知らないわ。私を産んだもう一人のお母様は、私を捨ててしまったから。」

セレナは毛布の端をぎゅっと握りしめて俯いた。

「実はね、保護区の外でも、様々な手段で生き延びている人たちはいるのよ。ここにもたまにそういう人が迷い込んでくるし・・・私はそういう人たちのところを転々として生きていたから、そのことを知っているの。そこには私が変な子だって分かれば、私を殴る人もいたし、綺麗だからと羽根を毟ろうとする人もいたし、天使に似ていると言われて施設に閉じ込められてしまったこともあったわ。・・・だからお母様のことも最初は信用していなかったわ。魔道の材料にされてしまうって、怯えて。毎晩森を逃げ回っては捕まえられていたの。」

ふふ、とセレナの声は震えていたが、しかし表情は柔らかく微笑んでいる。

「誰にも欲されず、愛されず、崩落にすら人と認めてもらえなかった私を・・・お母様は、目一杯愛してくれたわ、毎朝美味しいご飯があって、悪いことをしたら叱られて、一緒に道具作りをして。ええ、今は、昔をそんなに悲しいことだと思っていないの。だからそんな顔をしないでタイタン。・・・ふふ、ハンサムが台無しよ?」

優しい貴方はきっとそんな顔をするから。だから話したくなかったのに。

「ああ、クソ。人は滅びを前にしても変わらないのか。助け合わないと生きられない世界で、どうしてそんなことが出来る・・・」

「滅びを前にしているからこそよタイタン。異常が危機として迫る世界だからこそ、どんな異端も許せなくなる。それが自分の不幸につながってしまうのが怖いから。・・・ええでも、貴方が怒ってくれたのは、嬉しかったわ。」

「・・・いや、話してくれてありがとう。聞いておいてよかった。おかげで決心がついた。」

「あら、出ていくなら吹雪が止んだ後で構わないわよ。1日くらいなら水汲みで許してあげるわ?」

「逆だ馬鹿。尚更あんたを一人にできない。俺はここに残る。」

セレナはぽかんとして、再び眉を吊り上げた。

「・・・もう、強情ね。同情するならよして。」

「本当に俺をここから出して良いのか。」

「どういう意味かしら。」

セレナはムッとしたまま問う。

「・・・あんたが保護区に行きたくない理由も今の話で分かったから、尚更。この森の情報を俺が持ち帰ってしまったら、確実にあんたの不利になるだろうが。この二週間、この森の南方を歩き尽くして、森の入り口付近の罠は把握した。あんたの生活に必要な施設も知っている。あんたは俺を殺すか、この森に閉じ込める方が安全だろう?」

どうだ、俺を殺すか?と冗談っぽく分かりきった問いをかけるタイタンの目は、しかし真剣だ。

セレナだって魔道で数多くのハンターを葬ってきた無敗の猛者だ。しかし、タイタンと真正面から戦って、正直勝てる気はしなかった。

2回も完璧に警報装置を掻い潜って、セレナの元に辿り着いてしまったことが異常すぎるのだ。この男は魔道の知識もなく、ただ野生の勘だけで魔道の匂いを感じ取ってしまうことが今日証明されてしまった。

もしあの日、事故がなかったら。万全のタイタンがセレナに襲いかかっていたら、きっとセレナは死んでいたのだ。

いや、そんな問答に意味はない。

殺し合いなんて脅しだ。ただの嘘だ。

セレナはタイタンを殺せない。頑固で、大雑把で、言うことを聞かないところは憎たらしいが。それを補って余りある彼の優しさを知っているから。

「・・・脅しているつもり?」

「違う。」

悔し紛れに吐き出した言葉はあっさり否定された。

「そこは筋を通す。自分からあんたを不利にするようなことはしない。だけど。」

タイタンは心底嫌そうに、息を吐きだした。

「・・・気づいてしまったんだ。俺の頭には残忍な拷問の手順や薬物の知識が染み付いている。そういった類の・・・自白剤のような魔道も存在することも知っている。・・・ハンター協会には、暗部が存在するんだ。多分な。」

セレナもなんとなくそのことは察していた。

ハンター協会は表向き正義の団体だが、結界の外では暗い噂が絶えなかった。結界を維持するのに人柱が捧げられているとか、保護区で配給されている肉は死んだ住人の肉だとか。

もちろん根も葉もない噂ばかりだ。結界の外の人間は協会に悪意を持つ人間が多いのだから。それでも火のないところに煙は立たない。

「・・・昔のことだけれど。結界の外にあった集落が、ハンター協会に見つかったことがあって・・・住民は皆殺しにされたわ。理由は分からないけれど。保護区の外の人間は皆ハンター協会を恐れてる。タイタンの予想は、間違っていないと思うわ。」

「当たっていて欲しくなかったがな、正直。・・・うっかり尻尾を出したが最後、そこから逃れ切る自信は正直ない。肉体の拷問ならまだしも、魔道は耐性が無さすぎて無理だ。このまま死んだことにしておいた方が、お互いに安全だ。」

「・・・・・」

「まだ不満か。」

セレナは必死に考える。目の前の男をここに置くリスクを。メリットを。

羽根のことはバレてしまったし。

彼が協会のスパイであることも考えたが、魔道に精通していない人間をここに送るわけがないし。それ以上に彼のことは信用しているし。

残して来た人のことを言っても、言いくるめられるに決まっているし。

ああもう、説得する余地がない。こんなのどうしようもないではないか。

「・・・言っておくけれど。私は貴方をお家に帰してあげたくて助けたのだからね?」

「知っている。その上で頼んでいる。俺はきっとこれから山ほど迷惑をかける。かつて俺を大切に思ってくれていた人に不誠実なことをしているのも分かっている。・・・でも頼む。俺をここに置いてくれ。俺はあんたが好きだし、あんたのことをもっと知りたいし、あんたが一人で泣いているのは嫌だ。何も無い俺が唯一持っているものなんだ。俺の気持ちを、どうか無下にしないでくれ。頼む!」

言いたいことは全部言った。これでもセレナが折れないなら、後はもう打つ手はない。

タイタンは判決を待っていた。どこかやりきったような凪いだ気持ちと、凄まじい緊張が胸に渦巻く。

長い時間の後、セレナはぽつりと、怒ったような声色で声を零した。

「・・・なにそれ、プロポーズみたい。・・・タイタンは本当に変な人ね。」

「・・・揶揄うな。こっちは大真面目なんだ。」

照れたように目を逸らすタイタンが面白くて、セレナは吹き出した。

「おい笑うな!」

「あはは、ふふ、だって、そんな顔のタイタンを初めて見たんだもの!貴方は照れると耳が赤くなるのね!・・・ふふ、ああ。面白くて、涙が、出てしまうわ・・・」

セレナの瞳からまた、ぽろぽろ涙が溢れていた。それは笑いすぎて泣いているというよりは。

「・・・あんた、結構泣き虫だな。」

「・・・だって、嬉しいんだもの。ふふ、私も、貴方が帰ってしまうのが、寂しかったのね。・・・今まで気づかないなんて。貴方の前だと調子が狂いっぱなしだわ・・・」

セレナの月光の瞳が、嬉しそうに、幸せそうに雫を零す。

唇は震えながら微笑みを湛え、濡れた銀糸が、耳元の羽根が静かに揺れる。

ようやく笑ってくれた。3回も彼女を泣かせてしまった分際で言うことではないが、やはり彼女は笑顔が一番美しいように思う。きっとこの頰についた涙の粒も、ない方が美しいだろう。

そう思い、なんの気なしにタイタンはセレナの頰に触れた。すると。

「わ」

ばさっ、と背中に再び羽根が現れた。毛布が弾き飛ばされ、遠くにぽふっと落ちる。

翼は暖炉の明かりに照らされ、所在なさげにばさばさと二、三度はためき、そして照れ臭そうに小さく広げられた。そこでセレナの頰が赤い理由が、暖炉の明かりのせいではないことに気づく。

「・・・もう、顔に触られるなんて久しぶりでびっくりしたわ。駄目よタイタン。おイタは今日だけよ?」

そう照れたように笑った月光の白鳥は、タイタンの手に小さな左手を静かに重ね、くすりと笑った。



ああ、いったい自分はその後どんな顔をしてセレナに接していたのか。

彼女といったいなんの話をしたのか。全く思い出せない。

タイタン様の素敵な冒険譚も明日に持ち越しだ。どうせなら本調子の時に語って彼女を笑わせたい。



その後、ベッドに横たわっても、疲れているはずなのだがうまく眠れない。極寒の川に落ちたわけでもないのにばくばくと音を立てる心臓の音と、暖炉もないのに熱く火照る顔のせいで、自分が眠れない理由にタイタンは気づいてしまっていたが。

「夢に出てきそうだ。勘弁してくれ・・・」

瞼の裏には、未だ月光の瞳がきらきらとちらついている。

タイタンの胸に開いていたぽっかりとした虚無も、その中に投げ捨ててしまったものたちも、もうどこにも見えなくなってしまった。