Chapter 1 - 大穴:前編
冬の森は静かで、平和だ。
自分を脅かす他の生命が存在しない世界、というのは心安らぐ。
危険な蛍光色の大蠍も、うねうねと蠢く蛆も、我が物顔で我が家に入り込む足の長い蜘蛛も。
今は等しく死骸となり、雪の下で静かに腐っている。
人の立ち寄らぬ深い森に住んでもう長いというのに、セレナの虫嫌いは相変わらずであった。
先週から降り始めた雪はすでにセレナの膝ほどまで積もり、そのずっしりとした重さは一生懸命に歩く小さなセレナの体力を確実に奪ってゆく。
美しい白銀の前髪は汗でべっとりと額に張り付いている。いくら冬でも晴れた昼の日差しは容赦がない。きらきらと陽光を反射する凍った雪が、セレナの白銀の瞳を焼く。
「・・・っ、はあ・・・。音がしたのはこのあたりだわ。誰か、誰かここにいるの?いるのならお返事をしてくださいな。」
返事はない。セレナの声だけが無情に深雪に吸い込まれてゆく。
「・・・痛いわ。氷で指を切ってしまったわ。・・・物音はきっと気のせいだったのよ。感応魔道を完璧に掻い潜って、人間がここまで来られるはずがないもの。ええ。帰って傷を手当てしましょう。」
動物たちは皆冬眠している。こんな時期に大きな物音をたてるのは侵入者か氷柱だけ。きっと後者だったのだろうと、セレナが疲れた顔で踵を返したその時。振り返りざま視界を通り過ぎた木陰に、真冬の雪原に似つかわしくない深紅が見えた。
血だ。
そっと近寄り、木陰を覗き込んで見えたのは、中から血が溢れ出すぼろ雑巾だった。
ちがう、人だ。ぼろぼろに傷ついた、男だ。
唇は失血と凍傷で紫に変色している。腹の大きな傷からどくどくと血が溢れ出し、雪を真っ赤に染めていた。右腕は千切れた筋肉一本一本と骨が見えているし、瞼は死体のようにかたく閉じられている。
「・・・っ」
思わずセレナは口を押さえた。頭がかんかんと警鐘を鳴らし、気持ち悪さで朝食が喉にこみ上げる。
「いえ、いえ。敵とは限らないし・・・ここは私が頑張らなくてはいけないのよ。ぼけっとしていたらこの人が死んでしまうわ。お家に運んであげて、手当てをしてあげなくちゃ・・・。」
セレナは足場の悪い雪藪を全力疾走で引き返し始めた。はっ、はっ、と少女の苦しそうな呼吸が静かな森に吸い込まれていく。
転がるように自宅にたどり着いたセレナは、家の裏手の倉庫の扉を力任せに開いた。そして倉庫から荷運びの雪車を引っ張り出し、男の元へと急ぐ。その間5分もなかっただろうが、セレナにはとてつもなく長い時間が過ぎてしまったかのように思えた。
案の定戻って来た時には男の容体はますます悪化していた。まだギリギリ呼吸をしているのが奇跡だ。この男は随分と頑丈であるらしい。
邪魔なものは後で拾えば良いのだ。男が背負っていた荷物を全て雪に投げ捨てる。そこまでしても脱力した男の重量は凄まじい。ずるずると引きずることでようやく男を台車に乗せることに成功した。
「・・・い、急が、なきゃ。はあ、はあ・・・っ!!家に着きさえ、すれば、あとはどうとでも・・・!!」
セレナは暖かい我が家に急いだ。深く積もった雪を、タイヤが押しつぶしながら進んでゆく。
「・・・・・、ここは。」
目を覚ました男は、激痛に顔を歪めた。
腹部が燃えるように熱い。起き上がることすらままならない体を右手でまさぐると、どうやら腹部に布がぐるぐる巻かれているようだった。
起き上がることを諦め、まずはゆっくりと辺りを観察する。
見えるのは木の天井と、柔らかいろうそくの明かり。
今は夕方で、どうやら自分は見知らぬ家でベッドに寝かされていることは理解できた。
「・・・怪我をしているのか、これは。全く思い出せない・・・」
深く息を吐き出し、枕に頭を沈めた。ふわりと花のような甘い香りが香る。
見えないがきっと酷い怪我だ。眠っていた方がいいのだろうが、激痛ですっかり目が冴えてしまった。このままもう一度眠るなんて無理そうだ。
男は周囲に意識を巡らせ、ふと気づく、ベッドの下に気配を感じる。
激痛をぐっとこらえ、寝返りをうち、ベッドの下を覗き込むと。
「・・・毛布?」
落ちていたのは大きな薄緑色の毛布の塊。しかしその毛布の塊が、硬い床の上で何故かすよすよと規則正しい寝息を立てている。
・・・これは、どうしたらいいんだろうか。
おそらく寝ているのは自分を治療した人物で、もしそうならば状況の説明をしてほしい。
しかし、この人はきっと床で眠るほど疲れているのだ。叩き起こすのも申し訳ない。
男がどうしようかとおろおろとしているうちに、毛布が寝返りを打ち、中の人物の顔が覗いた。
毛布で眠っていたのはふわふわと柔らかそうな銀髪が印象的な少女。男は先ほどの予想が外れたことを理解した。彼女はきっとこの家に住む医師の手伝いで、男の様子を見守るうちに眠くなってしまったのだろう。
男は少女を起こすことも忘れて少女を食い入るように見ていた。何故ならその少女はまるで人形か美術彫刻であるかのような美しさだったからだ。
白磁の頰に今はだらしなく毛布の跡がついてしまっているが、整った顔立ちといい、透き通るような色素の薄さはどこか儚い。天使が木の床で毛布に丸まって眠るなど、どんな聖書にも書いていないだろう。聖職者がこの風景を見たら目を剥くに違いない。
首元には真っ白な素材のストールが巻かれ、彼女の唇を慎ましく隠し、同じく真っ白な素材のワンピースは銀色の糸で花の刺繍が施され煌めいていた。
身にまとう全てが白。それが彼女の神秘さを一層際立てているように思う。
「・・・綺麗だ。」
思わず感想が口に出た。少女は男の記憶にあるものの中で、最も美しい存在であった。
そんな男の震えた声に反応したのか。少女の瞼が震え、白銀のまつ毛がゆっくりと開かれる。
眠気でぼんやりとしているが、しかし強い光を秘めた瞳もまた白銀。
大きな瞳が辺りを見渡し、そしてゆっくりと男を視界に捉え、はっと見開かれた。
「動いては駄目!まだ傷が塞いだばかりなのだから、寝返りを打つのも駄目なのよ!」
慌てて起き上がった少女の細腕が屈強な肉体をベッドに押し返す。
「・・・っぐ。」
今の衝撃で傷が開いたのではないか?
屈強な男が涙目になるくらいには容赦のない一撃だった。
「あ、その、ごめんなさい。・・・まさかこんなに早く意識を取り戻すなんて、貴方の体は凄いわ。あと二日はこのままだと思っていたのよ?」
ふふ、と上品に少女は笑い、男の頰に触れた。
「・・・あ、あんたが治療したのか?」
「そうよ。意識不明の患者を放って居眠りをしてしまうのは医師失格だけれど、本職は医師ではないのだから許して頂戴?」
自分の命を預かった以上は医師の責任を持ってほしい。落ち着いた上品な言葉遣いとは裏腹に、随分と茶目っ気のある人物のようだが、医療にお茶目は絶対に必要ないはずだ。
「鎮痛剤を飲んで頂戴。少しは楽になるはずよ。・・・痛みが落ち着いたら、貴方のことを聞かせてね」
ひやりとした少女の手が心地よく、男は細いため息をついた。悪い人ではないようだが、何というか、この少女は寝起きに接するにはカロリーの高すぎる人物であった。
「・・・何も覚えていないの?」
「ああ、どうして怪我をしているのかも、どうやってここに来たのかも、そもそも自分が何者なのかも・・・。セレナさんは何か知らないだろうか。」
真っ白な少女は自分をセレナと名乗った。そこで名前を聞き返され、男は自分の名が思い出せぬことに気がついたのだ。
「・・・頭を強打したのかしら、見せて頂戴。私は何かが倒れるような物音を聞いて様子を見に行って貴方を見つけただけよ。貴方のことは何も知らないわ。・・・ううん・・・外傷はないけれど。どう?頭部を触られて痛みはある?」
「いや、特には。どうしたものか。何か思い出せたら良いのだけれど。俺はどんな怪我をしていたんだ?」
「思い出したくないくらいには酷かったわ。腹に引き裂かれたような大きな傷。足の腱は切れていたし、腕なんてほとんど千切れかけていて・・・心臓が止まっていないのが不思議なくらいだったわ。発見が早かったのが幸いだったかしらね。」
「我ながらよく生きていたな、それ。・・・しかし」
それほど酷い怪我をしたのに何も思い出せないのか。
何かを思い出そうとしても、何もかもがすっぽりと抜け落ちてしまったように、頭の中が空虚になる。
彼の知識では、記憶喪失とは頭部に強い衝撃を受けたりすると起きるものということになっていたが。セレナが軽く男の頭皮に触れたり、手持ち無沙汰に男の長い髪を三つ編みしたり、ふわふわと男の髪を指先で弄んだりしても頭部に痛みは全くない。
漠然とした不安が三つ編みの男を包む。とにかく不気味だ。自分のことがわからぬとはこれほど恐ろしいのか、と男は他人事のように思った。
「ひとまずは動けるようになってからよ。貴方の持っていたものは今血を落として綺麗にしようとしていたところなの。とりあえず今日はもう少し眠って頂戴?魔道の治療は疲れるもの。ゆっくり眠って、明日は朝食を食べて・・・そうして気持ちが落ち着いたら、きっと大丈夫。持ち物を見たり、倒れていた場所まで行ったら何かヒントがあるはずだもの。ああ、時間のことは心配しないで。しばらくここに居て構わないわ。」
「・・・ありがとうセレナさん。面倒をかける。」
男が考え込むのを見て、1人にしてあげた方がいいだろうと判断したセレナは部屋を出た。
ドアの先は玄関と直接つながった居間になっている。簡素なテーブルと椅子の奥には簡単なキッチン。居間から繋がるドアは3つ。全てのドアの横には壁に直接棚が打ち付けてあり、よく読む本や薬品、春は摘んできた花を飾ることもあった。
セレナはキッチンに向かう。上部に四角い穴の空いた石に指を伸ばすと、ぱちぱちと穴の中に小さな火が燃え上がった。そこに水を入れた鉄鍋を置く。石と鉄が小気味いい音を立てた。
湯が沸いたら火を止める。少し冷ましてから、そこに茶葉をひとさじ振り入れ、鍋に透明な蓋を。
ポットは持っているが、セレナは鍋で茶を淹れるのが好きだった。洗うのも楽だし、茶葉が大きく香り立つのが良い。曇る蓋越しに茶葉が踊るのを眺め、セレナは考え込んでいた。
「・・・気が引けて鞄は開けていないけれど、見てみたら身元がわかるかもしれないわ。あまり長居されたら、いろいろバレてしまうし。何より、早くお家に帰してあげないと可哀想だものね。さあ、もう一仕事頑張りましょうか。」
ぱかりと蓋を開ければ、花のような、菓子のような甘い香りの湯気が鍋から溢れ出した。
それを小さな陶器のカップに注ぎ、セレナは男が眠る部屋とは反対側の扉を開く。そこはセレナの工房、作業場。その部屋には、男が意識を取り戻す間にクリーニングを進めていた、男の持ち物がいくつか置いてあった。
布にこびりついた血はどうしようもないだろうが、セレナの背よりも大きな剣は怪我をしながら一生懸命磨いたし、鋼の防具はちぎれた革紐を取り替えてもう一度使えるようにしてあった。
これは明らかに戦うための持ち物、そして男の全身に刻まれていたひどい戦傷。彼が武人、剣士であることは明白だった。
この辺りの小集落の傭兵か。・・・それか公的機関の人間か。
もし公的機関の人間であったなら。
不慮の事故が起きたものの、本来はその剣をセレナに向けるためにやって来た人間だったとしたら・・・。
せっかく助けた命を奪いたくはない。
セレナは祈るような気持ちで、男の鞄を開いた。
翌日。
男の傷はかなり塞がっているようで、鎮痛剤のおかげかゆっくりならば歩き回っても問題ないようだった。食事を摂ることもできるようになった。
腕が千切れかけたと聞いたがとてもそうは見えない。確かにシャワーを浴びて体が温まると裂けたような赤い跡が腕に浮かび上がるが、朝食の皿を運ぶことも、ポットから茶を注ぐことも問題なく男はできた。
魔道の治療というものは劇的だ。男はそういったものに詳しくないが、体の治癒力を無理やりに上げているようなものだろうか。
昨晩、そこまで回復しているなら・・・とセレナは怪しげな道具を両手に抱えて寝室に戻って来た。
「・・・なんだそれは。」
「魔道には詳しくないの?これは魔道具よ。魔道が使えない人間でも、少し魔力を流し込めば設定された魔道が使えるようになる道具・・・かしら。要は魔道式の組み立て作業を代用してくれるのね。私は治癒魔道を使えないからこれを使って貴方の体に直接魔道を刻むわ。」
「・・・大丈夫なんだろうな。治療道具には見えないんだが。」
金色の金属が組み合わせて作られたその道具は、治療道具というより、明らかに農具とか、武器の見た目をしている。
ツルハシのようだが、ツルハシの金属部にあたる部分が上下逆さま。中心からは鳥の足のような装飾が生えていて・・・言ってしまうと正直薄気味悪い。
「心配しないで。私が何度も使っているから安全は保証するわ。・・・いくわよ!」
「ちょ、ちょっと待て、刺すのかそれを!?おい、待てって言ってるだろ!?」
男の悲鳴が深夜の森に響いた。聞いていたのは爆笑するセレナだけだったが。
確かに、傷は治ってきている。
・・・治っているが、体に負荷がかかっていることはひしひしと感じる。何もしていないのに体に倦怠感があるのは、決して怪我のせいではないのだろうという気持ち悪さがある。
「仕方ないのよ、命を繋ぐためだわ。今は貴方の魔道に慣れていない体に直接術式を刻んで、魔道を動かしているのだもの。貴方の体を治すために私は魔道具を使って水車を作ったわ。だけど私の作った水車を回す水力は貴方の体力から支払われている・・・と言えば伝わるかしら?」
「・・・本当にどうにもならないのか、これは。風邪をひいているみたいな感覚だ」
セレナはがぶりとトーストにかじりついた。口元に赤いジャムが付いているのに気づかぬまま、こちらを睨みつけているのが面白い。
「駄目よ。私が四六時中、貴方が眠っている横で、魔道具を抱えて、不眠不休で顔をしかめているのが見たいならそうするけれど。」
「・・・悪かった。我慢する。」
分かればいいの、とセレナのフォークが満足げに、カチャンと音を立てた。
「容体が落ち着くまでは実際そうしていたのだけれどね?ここまで安定したなら自力で魔道を回せるでしょう。下手に好調になって動き回って、結果怪我を悪化させるよりはよっぽど良いわ。食事を摂ったら大人しくベッドで眠っていなさい。」
「そうする、そうするが。昨日言っていたあの・・・そうだ、俺の持ち物があるんだろう?荷物を俺に返してくれないか。あとは大人しくしているから。」
じっとしているのは性に合わない。気になることがあれば解決してからでないと眠れない。せっかちな性分はきっと記憶をなくす前からだったのだろう。
セレナも言われて思い出したように頷いた。
「そうね。台車がないと重くて持っていけないから、あれは貴方に取りに来てもらうしかないのよ。血まみれの布を見てトラウマになって・・・なんてことがないのなら、そうしましょう。」
今日の方針は決まった。だがまずは朝食だと男はスープを啜る。暖かい野菜スープが舌に優しい。塩漬けの野菜の発酵した旨味がなんとも言えず癖になる。
病み上がりなのだからと固形物を摂ることは禁じられた。少々量は少ないが、この絶品のスープならば十分満足できる食事だっただろう。目の前のセレナがいなければ。
なぜなら、目の前のセレナの皿には、スープの他に果物のジャムがたっぷり乗ったトーストと、塩漬け肉の添えられたオムレツがほかほか湯気を立てているから。こんな旨そうなものを目の前でもぐもぐと食べられては、流石に命の恩人でも恨めしさが募ってしまう。
「ここは山奥なんだろう?随分充実した食事だな。この辺りで採れるものなのか?」
「すべてそうよ。小麦は魔道で育てたものを貯蓄しているけれど。・・・そんな目で見てもあげないわ。3日間何も食べていないのにいきなり固形物を食べて良いわけないでしょう?」
「・・・分かっている。分かっているんだが。」
まさかセレナに自分に合わせて食事をしろという気はないが、それでも思うところがないわけではない。あるに決まっている。
男が口ごもっている間にカリカリに焼かれた塩漬け肉がセレナの口に放り込まれた。ああ。
せめてもっと味わって食べてほしい。そんなに旨そうなものを、そんな無感動にさっさと飲み込まないでほしい。
「食べ終わったなら鎮痛剤を飲んで。お茶ではなく水でよ。」
セレナがいたいけな美少女でなければ男はもう少し気を使えと怒っていたに違いない。
男は素直だし美人は得だ。
口にジャムが付いていても美人は美人のままなのだなあ、と男はため息をついた。
「・・・ここよ。鞄も剣もあまりに大きいんだもの。玄関からここに持ってくるだけで、引きずって床を傷つけてしまったわ。」
案内された部屋にあったのは、男の身の丈ほどの大きな剣と、金属の防具、そして黒い大きな布鞄。
そして何の用途なのかもわからない謎の器具が並ぶテーブルに、赤黒く染まったボロ布が置かれていた。
「ぼろぼろの服も一応保管しているけれど。脱がせるときにナイフで切ったし、血まみれでもう使えるものではないわ。鞄も中身を出したら燃やしてしまっていいかしら?冬だからまだいいけれど、放っておいたらひどい臭いになるもの。」
「・・・確かに、これではな。元がどんな鞄だったか判別することもできない。」
黒い鞄だと思ったそれは、血が染み込んだものだったらしい。布鞄を開くと固まった血が、細かい砂状になって床にぼろぼろと落ちた。
「私も見て構わないかしら?」
「ああ・・・といっても、着替えと携帯食くらいしか入っていないようだ。これは剣を研ぐための砥石だし。・・・この金属の魔導具・・・?はなんだろう。」
鞄の奥には、手のひらほどの金属機械が入っていた。昨晩の治療器具と似たような金属だ。予想は正解だったらしく、セレナは頷いた。
「簡易結界でしょう。そうじゃなきゃここに来られるわけがないもの。・・・全く、まだこんなものが協会では支給されているの?サイズといい、起動速度といい・・・B級品もいいところだわ。回路も美しくないし・・・」
そこまで口にし、セレナははっと口をつぐんだ。
「・・・その、忘れて。魔道具の話をすると長いって、前にも怒られたというのに、いけないわ。」
「ああ、ここは魔道具を作る工房なのか?凄いな。料理といい治療といい、セレナさんは手先が器用なんだな。」
なるほど確かに。この馴染みのない怪しい器具達や、刃物傷だらけの作業机、その上に散らばった金色の金属部品。・・・そして作業に夢中になってそのまま眠ってしまうためであろう、簡易な寝床。
「森で一人暮らしなんて随分無謀だと思っていたけれど。あんたはこういう機械の力を借りて自給自足の生活を成立させている、ってわけか。」
「そうね。水を運ぶのも、小麦を育てるのも、洗濯も・・・生活の一部は完全に機械化しているわ。気持ち悪い虫が出る以外は快適よ。静かだし、夕方まで眠っていても怒られないものね。」
「・・・それはどうかと思うが。」
人に健康を説いているくせに、と喉まで出かかった言葉を男は飲み込んだ。
「・・・情報がないのは覚悟していたが。しかし、俺の名前もわからないままか。」
このくらいは覚悟していたしどうということはない。まだ記憶を無くしてたった二日。倒れていた現場を見れば何か思い出すこともあるだろうし、ここに住むことを許されるうちは時間をかけてゆっくり記憶を取り戻そうと最初から腹を決めていた。
しかし、名前がないのは不便だ。セレナもいつまでも「貴方」では呼びにくいだろうし・・・とそこで男はぽんと手を打った。これは名案かもしれない。
「なあセレナさん、頼みがあるんだが。」
「え、何?急にどうしたのかしら?」
「・・・あんたの方が教養がありそうだし、俺を呼ぶ必要がある人間もセレナさん、あんただけだし。俺の名を決めてくれないかセレナさん。あんたが呼びやすければ適当で構わないから。」
「え、ええ?私が?」
いきなりそんなことを言われても。確かに森に住む動物に名前をつけることはあったが、自分より頭一つ大きい屈強な大男の名前をつける日がくるとは。
セレナは困ったように男をちらりと見上げるが、男は期待に満ちた眼差しでこちらを見ているだけだ。
適当でいいなんて嘘じゃないの。しかし普段は表情の変化が少ないこの男のワクワクした表情は、正直とても可愛く見える。子鹿に懐かれたみたいだ。
絆されている。分かっていてもセレナは男の期待を裏切るような真似ができなかった。
「・・・もう。」
諦めてセレナは男を観察し始める。浅黒い肌。肩まで伸ばされたくせ毛の色はどこか透けた色のブルーグレー。あらためて顔を見つめてみると、男はかなりの美丈夫だ。
屈強だがしなやかな筋肉に覆われた肢体は、巌のようでありながら、どこか狼の立ち姿を思わせる。狼を名に取るのは悪くないだろうか。しかしそれ以上に印象的だったものがある。
それは男の切れ長で美しい目。
緑色の瞳の奥に、金色、オレンジ、赤。多色の光が渦巻くその瞳は印象的だ。今はリラックスしてまろやかだが、もしこの強い光に睨まれたら恐怖で身が竦んでしまうだろう。
炎のような、光を弾く水面のような不思議な光を見て、セレナは思い出す。
「貴方の瞳は、お母様が昔つけていた宝石にそっくりだわ。ええと、なんという名の石だったかしら。」
セレナは背後の本棚を漁る。ここに確か、鉱石の図鑑があった。あまり興味がないのでここに放置したままだったはず。
「鉱石から名を取るのか。洒落ているな。」
「私もそうなのよ。月の光の石のことを、セレナと呼ぶんですって。・・・ええと、そう、この本の・・・これだわ。タイタン、楔の石・・・ふふ、タイタン、なんて素敵ね?神話の巨人の名でもあるわ。力強い貴方にぴったりの名ではないかしら?」
図鑑には楔石の図が描かれていた。原石の結晶は楔のような形の石だが、黄や緑の原石を丹念に磨き上げれば、赤、橙、黄色と多彩な色を放つ美しい宝石になるのだそうだ。
宝石に準えられるのは照れ臭かったが、楔という名はとても良い。第一セレナが一生懸命考えてくれた名が嬉しくないはずがないのだ。
「タイタン、か。うん、いいな。俺のことはタイタンと呼んでくれ。ありがとうセレナさん。」
「ええ、タイタン。ふふ、つけた名前を気に入ってもらえるのは、こんなに嬉しいことなのね!動物達を名付けても、喜んでいるかはわからないもの。」
月光に例えられた少女は、太陽のように明るく笑う。
笑った彼女の、柔らかく緩められた目元が、タイタンの目にはひどく可愛らしく映った。
それから数日。
タイタンの怪我は完治し、軽い力仕事を進んで請け負うようになっていた。
あの後荷物を片っ端から調べなおしたり、タイタンの倒れていた場所を調べなおしたりしたが収穫はなく、タイタンはのんびりとした森での生活を楽しんでいた。
その間セレナともかなり親しくなり、彼女が22歳の立派な大人であることや、本好きであることなどを聞き出した。食事の席で本のことを語る彼女の穏やかな声が、ひんやりとした空気に溶け込んでいく瞬間がタイタンは好きだった。
最近はタイタンを勝手に未成年だと思っているのか「私をお姉さんと呼びなさい、お姉さんを敬いなさい」などと言い出した。・・・ますます遠慮がなくなって来たのはどうにかしたいが、親しくなっていること自体は嬉しい。軽口を言いあうことも増えていた。
無くした記憶への執着がだんだんと薄れてきている。
そんなに大事なものだったのだろうか、その記憶というものは。セレナとの穏やかな生活よりも大切なものなのか?そう思ってしまうくらい、タイタンはこの生活が好きであった。
タイタンの起床はだいたいセレナより先だ。顔を洗って着替えると、タイタンはさっさと外に出る。
まずは体を軽くほぐしてから、家から少し離れた丘・・・丘なのに蓬山と呼ぶらしいが、そこまで走って戻って来る。そしてあとはひたすら剣を振る。
朝は鍛錬をしないと心が落ち着かない。やっと動けるようになったばかりなのにと怒るセレナを説き伏せ鍛錬の許可をもらったが、やはり体を動かすのは良い。肉体に染み付いた癖であるようだ。自分はやはりかつて戦士であったようだ、と、自然にタイタンも理解した。
一時間ほど剣を振っていると、朝食の匂いが台所の窓から漂ってくる。
冬の食事は、秋に作り溜めた保存食がメインになるそうだ。岩塩で漬けた野菜をスープにしたり、炒めたり。朝食はそれにパンと、家で飼われている二匹の鶉・・・カミンとハリーの産んでくれた卵、塩漬けの猪肉が用意される。ずっとセレナに食事を任せきりなのは申し訳なかったが、彼女の料理は絶品だし彼女も料理好きなようなので、タイタンは食後の皿洗いだけを手伝うようにしていた。
午前は家事を手伝う。昨晩積もった雪を片付ける日もあれば、セレナが採掘してきた魔道機械の材料の金属を運んだり、雪蔵に詰められた保存食を家に運ぶこともある。普段は力仕事だけで1日が終わってしまうのよ、とセレナが喜んでくれたのが嬉しかった。
昼食を食べた後、作業場に篭ってしまうセレナを横目に、タイタンは本を読む。
ここには暇つぶしには十分すぎるほどの本があった。旧人間時代の小難しい歴史書や、冒険書、植物図鑑。タイタンは活字が好きであったし、セレナとの話題も増える。暇さえあれば本を読み漁った。
とんとん、ガンガン、と作業場から響く小気味いい音を聞きながら、タイタンは物語の世界に没頭する。気づくと日が暮れていることもしばしばだった。
夕食は一人で摂ることが多かった。夢中になるとセレナは何時間経っても作業場から出て来ない。それを見越して昼食を多めに作って、夕食はよく作り置きがされていた。次は金属採掘を魔道で自動化してみせるわ、と彼女が息巻いていたのが脳裏に浮かぶ。
味は変わらないはずだ。この家の食事は全てセレナがつくるのだから。
それでも、一人の夕食はどこか味気なく、タイタンはこの時間が少し嫌いなのであった。
今日は天気が悪い。嵐が来ることを見越していたセレナのおかげで生活必需品は十分に運び込んでいたので心配ないが、朝の鍛錬がないのは落ち着かない。
家事も一通り済んでいたので、気を紛らわそうとタイタンは本を読んでいた。
「・・・かつてこの世界には戦乱があったのか。爆薬・・・銃。魔道が発明される前の時代は野蛮で、趣も無くて好かん。昨日読んだ、剣で勝敗を決めていた時代の方が俺は好きだな・・・。電気というのも、非効率的だ。線が切れるだけで供給できないエネルギーなんて・・・」
過去の時代は不便だったのだな、とタイタンは居間を見渡ししみじみ思う。
タイタンが座っている食卓のテーブルから見える、生活を支える数多の魔道具。
料理のための火は、魔道ができないタイタンでも指先で僅かに念じれば着火するし、水を運ぶためのポンプは月に一度セレナが魔力を流し込むだけで半永久的に動き続ける。
居間のドアの向こうには、薬液と湯を瞬時に切り替えられるシャワーと風呂があり、トイレから伸びる下水は浄化槽で完璧に浄化され、水分の抜かれた汚物は燃やされた後土に撒かれ養分となるのだそう。
当たり前に受け入れていたが本当に便利な生活をさせてもらっている。歴史書を読み終わったらセレナに改めて礼を言わなくてはならない。
「・・・タイタン、今日は出かけてくるから・・・って、その本。」
「休憩かセレナさん。ああ、俺は歴史書を読んでいたんだ。面白いな、過去の時代というのは。魔道の無い時代は不便だが、それを補う工夫が素晴らしくて。・・・セレナさん?」
「・・・ちょっと、その本を貸してもらえる?」
「ああ、構わないが。」
本を受け取ったセレナは、終盤のページをパラパラと捲り、目を見開いた。
「やっぱり!ずっと探していたの、この本!終盤の魔道の成り立ちの辺りが魔道理論の組み立てに役立つのに、お母様が適当に仕舞うから・・・。この本、どこにあったの?」
「どこにって・・・居間の本棚に置いてあったぞ。ああ、背表紙が逆になって仕舞われていたから見つけにくかったかもしれないな。」
「嘘でしょう・・・?倉庫の本まで片っ端からひっくり返したのに・・・。ま、まあいいわ。本が無事なら何でもいいのよ。あればいつだって読めるんだから!」
本を見つけたセレナは嬉しそうに本を抱きしめている。
「セレナさんが先に読んでいい。俺は何となく手に取っただけだしな。勉強が終わったらまた貸してくれ。」
「ふふ、いいの?ありがとうタイタン。・・・申し訳ないけど、読んだページを忘れたら困るから、作業場に置いてあってもあまり手を触れないで頂戴ね?」
そう言ってセレナは作業場に本を置きに去って行く。作業場に入る直前、安堵で胸をなで下ろしているのが居間のタイタンからも丸見えだ。
・・・嘘はもう少し上手についた方がいいと思う。ここまで来ると馬鹿正直。読まれたら不都合があるのが丸わかりだ。
セレナが嘘をつく時の声色を、タイタンはそれなりに長くなった付き合いで完璧に理解してしまっていた。例えば時折1人で出かけていくとき。セレナの部屋に立ち入ろうとしたとき。焦りで若干高くなる声を聞くたび、タイタンの胸にもやもやと苦い感情が渦巻くのだ。
嫌なことだ、と内心呟くタイタンを横目に、何も知らないセレナは昼食を作り始める。
今日はサンドイッチらしい。焼いた塩漬け肉を切ったパンに挟み、何故かセレナはそれを袋に詰め始めた。
不思議そうにそれを見ているタイタンに、言い忘れていたわ、とセレナが呼びかけた。
「タイタン、今日は森の少し遠いところに行ってくるわ。暗くなる前には戻るけれど、すこし長く家を空けるわね。」
「・・・この天気だぞ。危ないだろう。何の用事か知らないが・・・明日では駄目なのか?」
どしゃどしゃと、窓の外では容赦なく雪が降っている。酷く視界が悪いこんな日に遠方に行くなど、タイタンには正気に思えなかった。
「風は強くないもの。大丈夫よ。」
そう言って昼食のサンドイッチだけをポケットに詰めて出て行こうとするセレナに嫌な予感が突き抜ける。まさか、この軽装で悪天候の森に行く気か。慌てて首根っこを掴んで止める。
「・・・待て、俺も着いていく。食料と簡易の防寒具を俺が背負って行くから。」
「貴方を連れていくには、少し危ないわ。いざという時貴方を守ってあげられる自信がないもの。家で大人しく待っていて。」
触れられたくない何かがあるのだろうと、セレナが1人で出かけようとするときは要件は聞かないようにしていたし、着いていくなど以ての外だった。
だが流石にこれは見過ごせない。それに今何か、気になることを言わなかったか。ああそうだ、確か彼女は。
「守るって・・・?戦いなのか?なら尚更一人で行かせられない。体は利く方だ、俺を連れて行けセレナさん。」
立ち上がって外出の準備を始めるタイタンを、どう宥めようかとセレナは困った顔をする。
・・・確かに、素人のセレナから見ても、タイタンの剣を振る太刀筋は洗練されたものだとわかる。彼の働きぶりを見ていれば雪の足場の悪さに慣れているのも見て取れた。
「・・・まあ、良いわ。貴方も知っておいた方が良いことだもの。タイタン、本当にそんな重装備はいらないわ。上着と昼食と、武器だけ持って、着いてきて頂戴。ふふ、ピクニックは晴れていなくても楽しいわね?」
そう言うと、セレナはモコモコした素材のコートを羽織った。装飾であしらわれた白い鳥の羽が楽しげに揺れた。