翡翠の星屑

Chapter 45 - お嬢様と従者

季月 ハイネ2020/07/24 15:32
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 降り立ったその地で、その足で。探した姿はいずことも知れず。

 ただただ夢か幻の巡り合わせだったのだと、佇む船は告げていた。

 ぱたぱたぱたと。

 軽快というよりは緩みなく、それでいて優雅さを崩すこともなく。


 常日頃から誰に見られてもいいように、その心構えを持っていてくださいと言われ、身に着いた所作だ。それでも見る人が見れば簡単に悟られてしまうだろう。

 自分の背の三倍は悠に超えるであろう廊下を急ぎ足で歩く。少しばかり上がった息で目にした前方、そこに人がいるのを見つけて、キーシャは慌てて速度を緩めた。

 こんな早足で歩いているところを誰かに見られたら、『はしたない』なんてとがめられてしまう。『誰か』なんて言っても、実際に注意するのはどうせ一人しかいないだろうけれど。


 弾んだ息をなだめながら、少なくとも笑顔でいようと心がけて、その人に近づく。どうやら、そこにいるもう一人と話をしているようだ。

 見えてくるうしろ姿は、足元まであるゆったりとした白い外衣。それを背に羽織り、ちらりと見える袖口には、濃藍と白い線の入った模様がある。腰にひと振りの剣をはいているその姿は、この国の騎士の正装だ。服装と外見から判別するに、そこにいる人たちはどちらも男性だ。

 上流階級でもない限りは、その意匠は全て同じもの。手前にいる人物は、下流階級の者か、あるいは見習いの騎士か。一見すると、そこまで高い身分の者ではない。


 そんな彼と話をしているのは、彼より背の低い少年だ。少年の面差しは、羽織る真黒な外套がいとうとは不釣り合いなあどけなさ。自分よりも年下だろう。彼は確か、天才少年と噂をされていた人物ではないだろうか。

 こちらに気づいた少年が会釈をしたのに合わせて、キーシャからも笑みで返す。その少年の動作に何かを察知した男性が、こちらへと振り向いた。


「キーシャ様?」


「――ナクル?」


 その顔が見覚えのある人物で、思わず声を上げてしまった。

 見張った目に呼ばれるも、彼の表情はすぐに引き締められる。


 ――まずい。


 そう感じてきびすを返そうとしたのだが、もう遅い。


「一人でお歩きになどならないでください。ここ最近は、ただでさえ不審な事件が多いのですから」


「……知っているわ」


 そもそもナクルに出くわした時点でおしまいなのだ。逃げる間隙すら与えられず降ってきた小言に、キーシャは思わず肩をすくめる。キーシャをとがめてくる数少ない人物。それが彼、ナクルだ。

 うしろ姿で気づかなかったなんてとんだ失態だ。ナクルだとわかっていたら、他の道を使ったのに――全てはあとの祭りである。


「ご存じでしたら、部屋を出る時に必ず供の一人はつけてください。何もなければそれに越したことはありませんと、私が再三申し上げたでしょう。シャレル様も気が気でないようですよ」


「お母様は心配性なのよ。私がこの前熱を出した時だって、大げさに心配しすぎだったわ」


 あれは数日前のこと。旅先から帰ってくる船の中で体調を崩し、キーシャは熱を出してしまった。出かける先が近いからと、治療師の同行を断ったのが失敗だった。船内に医師はおらず、治療師見習いはいても薬がなく――

 医師を探していた船員たちがたまたま乗り合わせた薬師と出くわし、おかげで薬が得て、事なきをも得たのだけれど。


「そんなことはありません。御身を大切になされてください。シャレル様にとって、あなたは大事なお嬢様なのですから」


「お母様にとってではないでしょう?」


「どういうことです?」


「それを言うなら、この国にとって、だわ」


「――キーシャ様」


「冗談よ」


 低くなった声音から目を逸らす。これだから、小言の多いナクルに捕まりたくないのだ。見つからないようこっそりと抜け出して、遠回りをして、さらに急ぎ足でもってここまでやってきたのに。全てが台無しだ。

 せっかくナクルのいなそうなところを通って来たのに、これでは水の泡である。


「……ナクル殿。その」


 戸惑とまどった声が彼を呼ぶ。そうだ、ここにはもう一人いたのだった。


「ああ、すまない。先のようにお願いできますか?」


「はい、わかりました。伝えておきます」


 二人に頭を下げて、少年はそこから去っていく。


「あの子、天才少年って呼ばれてた子よね。魔術師見習いの」


「ええ。私と年が近いので、たびたび話し相手をさせていただいています」


「そうなの」


 いつも眉間にしわを寄せているナクルが、あんなに穏やかに話していたものだから驚いてしまった。顔立ちははっきりとしていて、決して見目悪くはない。まとう雰囲気のせいか、あるいはしかめ面ばかりしているせいか――ともすれば気難しい顔にも見えてしまうのだから、もう少し愛想を振りまけばいいものを。


「いいお兄さんね?」


「何をおっしゃいます。私に兄弟がいないのはご存じでしょう」


「そういうことじゃないわよ」


 キーシャが言いたいことはそうではない。


「――ところでキーシャ様」


「なにかしら?」


「なにかしら、ではありません。執務室から抜け出して、どちらへ?」


 唐突に訊かれ、キーシャの応答がぐっと詰まる。


 ――ほらきた。


「……ちょっと、そこまで」


 何かある度にガミガミとお説教、苦言、おとがめ、そればかり。何もなくとも言ってくるのだから、もうこれは全てナクルの趣味ではないだろうかと思い始めてくる。


「そこまで、が、執務室から離れたこの場所にいる理由になりますか。私がいない間もしっかりと勤めてくださいと言ったでしょう。それとも、私が隣で四六時中見ていないとできませんか?」


「そう言われるだろうと思って本日分は終わらせてきたわよ。用事があってここまで来たの。いい、これは責務よ、せ、き、む!」


 ちなみにそんな責務などはない。声高に主張しておけば、案外なんとかなってしまうのだという、自分の立場を利用した考えである。


「あなたがここまで、ご自分の足でおいでになるほどの?」


「ええ。人づてでなく、自分で確かめたくて」


「一体何用です?」


 キーシャの言葉に興味を引かれたようで、ナクルはそう尋ねてくる。いつもだったら内容すら訊かれず、一刀両断されて終わってしまうのに。珍しいこともあるものだ。


「六年前に起きた禁術について」


 だからキーシャも、訊かれた内容をさらっと答えた。

 ところがキーシャが口にした途端、ナクルからすっと表情が消え失せた。怒られるのかと思ったけれど、どうもおかしい。青ざめた様子からは、迷う素振りすらうかがえた。


「――なぜあなたが、それをお調べなのかはお尋ねしませんが」


 一度閉じられた唇が、言い回しを選んでいるようにも見えた。外された視線が再びキーシャに向けられ、探されていた言葉が紡がれる。


「その事件に関しては、箝口令かんこうれいが敷かれていたはずです。下手に口に出さない方がよろしいかと――ここでは、誰に聞かれているかわかりませんし」


 耳を澄ませても、二人の声以外には何も聞こえてこない。元より人通りは少ない場所だ。誰か通りがかる方がまれだろう。


「今の時間だったら、誰も通らないわよ。ここまで来る方が珍しいわ」


「そういうことではありません……禁句、なんですよ。その事件に関しての一切は」


「どうして?」


「――私からは、なんとも申し上げられません」


 それほどまでに、話されてはならないひということなのだろうか。口に上げることすら許されず、秘匿ひとくされなければならないのだろうか。シェリック=エトワールという人物の経歴は。

 ――ならば。


「会ったわ、彼に」


「彼?」


「シェリックと呼ばれている人に」


「――あり得ない」


 上擦った声がナクルからこぼれ、キーシャは少しばかりむっとする。

 それは、キーシャの言葉が嘘だと言いたいのだろうか。


「その事件はそこまでして隠されなければならないの? 彼に関することも、何もかも」


 伏せられて、覆われて、くるまれて――そうして薄れた記憶は、当事者でもない限りそうそう思い起こされない。人の口に出されなくなった物事は、やがて忘れ去られてしまう。


「いいえ、そうでは……彼は、まだ」


 キーシャに聞かせないようにか、何かを言いながら口元を覆い隠す。

 出会った彼が本人だとは限らない。キーシャが出会ったのは、彼ではないかもしれない。同じ名の、別人という可能性もある。ともにいた彼女がわからないと話していたし、キーシャだってシェリック=エトワールの顔は知らない。けれど、彼が『シェリック』と呼ばれていたのは事実なのだ。

 シェリック=エトワールに関してキーシャが知り得ているのは、今から六年前に禁術を犯した人がいるということ、それがシェリック=エトワールだということ、それくらいの情報だけだ。


「何も禁術の方法が知りたいわけではないの。どうしてその事件が起きたのか、その事件のあと彼がどうなったのか、それが知りたいだけよ」


「――知って、どうなさるおつもりです。秘された情報は、探すだけでも骨が折れます。それに、危険が伴わないとも言いきれません。好奇心で何にでも首を突っ込むのはおやめください」


「興味本位ではないわ。だけど、どうしても知りたいのよ」


「物珍しい事柄だから知りたくなっているだけです。過ぎた好奇心は、いつかその身を滅ぼします」


「なら、何も知るなと言うの? いつも見聞を広めて知識を蓄えなさいと言っているあなたが、学ぶことはいけないとでも言うつもり?」


「それとこれとは話が違います。今、ここで何が起きているか、あなたがご存じないわけではないでしょう」


「だからよ!」


 まなじりをつり上げ、肯定の返事をしてくれないナクルをにらみつける。

 ここで――この王宮で起きていることは知っている。その件で皆が張りつめていることもわかっている。六年前の事件が関係しているというのなら、なおさら。

 それなのに、ナクルはどうしてわかってくれないのだ。


 六年前に起きた禁術、それ自体を知ることが目的ではない。キーシャはそこから先に行きたいのに、通過点すら通らせてくれないのはナクルの方だ。

 頭ごなしに決めつけて、危険を想定させるような場所から遠ざけて。


 ――何も、知らないくせに。


「知るために危険が及ぶというのなら、降りかかってくればいいわ。この身で良ければ、いくらでもくれてやるわよ」


「キーシャ!」


 鋭く呼ばれ、負けじと視線を外さずに答えた。


「ならどうして……っ、どうしてあの子は姿を消したの!」


 キーシャの両肩をつかんだナクルが、ぽかんと口を開く。


「――あの子?」


 あの事件が、禁術が、シェリック=エトワールが――その全てが隠されなければならないならば。

 それならば、シェリック=エトワールだと思しき彼と、ともにいた彼女は?


「私はあの子に助けられたわ。私が熱を出した時、その子が薬を作ってくれて、症状が軽くなったの。その恩に報いたいのに、あの子はここに着く前に消えてしまった。一緒にいた、彼もろともに」


 アルティナに着いて、船を下りた際にようやく気づいたのだ。いつの間にか、二人とも消えてしまったことに。船内を捜し歩いて、こつ然といなくなってしまったのだと思い至っても、その意味までは見いだせなかった。

 同乗していた魔術師に尋ねてみても、はぐらかされて、それ以上は何も聞けなかった。

 あの船に乗っていたなら、彼女たちもアルティナを目指していたに違いないのだ。船はアルティナに直通で、他に停泊する場所などなかったのだから。

 それにも関わらず、二人は行方をくらませてしまった。煙のように、跡形もなく。


「その、消えた彼がシェリック=エトワールだと?」


「きっと。あの子がシェリックと呼んでいたし」


「それだけですか?」


「ええ」


 深いため息が吐かれるとともに、脱力したナクルの両手が離される。


「……同じ名前で、まったくの別人という可能性もあるでしょう」


 キーシャもそれを考えなかったわけではない。それに、彼がシェリック=エトワールかもしれないと初めに話題に上げたのは、キーシャではない。一緒にいた治療師見習いの者だ。


「そういえば、リディオルが知己だと話していたわ」


「リディオル殿が?」


「昔なじみだからって、ルパにいた時、お母様に乗船の許可を取っていたもの」


 遠くを眺めるナクルの視線が、思考をもどこか別のところへとめぐらせている。


「――あの方がそうおっしゃるなら、本人かもしれませんね」


 つまりは、やはり彼がシェリック=エトワールだということか。


「その根拠は?」


「リディオル殿とシェリック殿は、旧知の間柄だったと聞き及んでおります。なので、あり得ないことではないかと」


「そうなのね……」


 キーシャは目を伏せる。彼の正体がわかっても、二人の行方にたどり着きはしない。どうしていなくなってしまったのか、どこに消えてしまったのか。ナクルと押し問答しても、何もわからないままだ。

 このまま、会えないのだろうか。せっかく出会ったのに。もう、互いの名を呼ぶことすら望めないのだろうか。

 沈んでしまいかけた気持ちを押し込め、これではいけないと自分を叱咤《しった》して、ナクルに目をやって――先ほどのことを思い出し、思わず顔が綻んでしまった。


「なんですか、唐突に」


「いーえ、久しぶりに呼ばれたなーなんて思っただけよ」


 怪訝けげんな顔で訊いてきたナクルに、あえて意地悪く教えてみる。何のことを言われているのかようやく気づいたのだろう、ナクルははっと口元を押さえた。ナクルの迂闊うかつな態度はそうそう見られる光景ではない。


「素が出てたわよ、ナクル」


「……誰のせいだとお思いですか」


 抑えられた声音が漏れる。苦虫をかみつぶしたような答えに、なんだか懐かしさを覚えてしまった。


「いつぶりかしら」


「勢い余って呼んでしまっただけです。忘れてください」


 ずっと幼い頃は、いつでも呼ばれていた。今では『様』づけでしか呼ばれなくなり、互いに隔てられた立場となってしまったけれど。


「別に呼んでもくれてもいいのよ? 公式の場以外なら」


「――お戯れはおやめください、殿下」


 許容しているのに、それをさらに遠ざけるとはどういうことだろう。


「戯れじゃないわよ、失礼ね。お母様じゃあるまいし」


「……ご要望でしたら、二度とお名前でお呼びしませんように致しますが」


「望んでいません!」


「そうですか」


 滅多に見られるものではない柔らかな笑みが返されて、キーシャも怒らせていた肩を下ろす。ナクルの言は冗談なのかそうでないのかわかりづらい。


「からかうのはやめてちょうだい」


「それは私の台詞です」


 ――わかりづらく、なってしまった。

 もう昔ではない。キーシャの今は、こちらなのだ。


「――ねえ、お願いしていた書物はどうなったかわかる? 早ければ今日明日中には届く予定だったけれど」


「それでしたら今、治療師の方にお使いを頼んでおります。もうじきお戻りになるのではないかと」


「ふうん。ならいいわ」


 治療師。そう聞いて見習いの彼女を思い出してしまうのは、少し前に出かけていた用事で同伴していたからだろう。いなくなってしまった二人を知る、数少ない人物。彼女なら、二人の行方も聞いているのだろうか。今度どこかで彼女に遭遇したら、二人の行方を訊いてみようと心に決める。

 そしてもし、彼女が六年前の禁術についても知っているのなら。教えてくれるだろうか。それとも、ナクルのように口を閉ざすのだろうか。それはキーシャにもわからない。


「キーシャ様――その、お身体の具合はいかがですか」


「問題ないわ。私が戻ってきてからナクルが一番近くにいたのだから、知っているでしょう」


「それもそうですね」


 キーシャが王宮に戻ってきたとき、誰よりも早く出迎え、息せき切ってやってきた姿を忘れはしない。

 本当に辛かった。それでも血相を変えたナクルを見た途端、辛かった気持ちが緩和されたような気がしたのだ。自室にたどり着くまで、いつものように振る舞える気力が潰えなかったのだから。

 薬ですぐに熱が下がったのは幸いだったと言えよう。そうだ、自分の容態だけではない。帰りの航路で大荒れに荒れていた天候は、今日とは大違いで――

 ふと転じた窓の外で、キーシャはそれを見つける。


「――あら」


 寄った窓から見ても、その光景は変わらない。しとしとと、静かな音が聞こえてくると思ったら。


「雨ですね」


「ええ。そういえば予報が出ていたわ」


 本日は朝一番に雨予報が出ていた。それによると、しばらくぶりの雨になると言っていたか。


「この調子ですと、午後に予定していた視察は延期ですね」


「そうね」


 咳払いが聞こえたかと思えば、澄ました表情でナクルがこんなことを言う。


「急ぎの用事もないですし、午後はお休みにしてはいかがです?」


「――珍しい。いつもはそんなこと言わないくせに」


「たまにはいいでしょう」


 ナクルにしては、滅多なことでは聞けない提案だ。

 雨だからだろうか。そんなことを言ったら怒るに違いないから、絶対に言わないけれど。


「仕事ばかりでは気が滅入りますでしょう。またすぐ忙しくなるのですから、少しくらいは息抜きしてもいいのではないでしょうか」


「そうね」


 そのとおりだ。

 ならば、今回はその提案に甘えてもいいだろうか――いや、いいに決まっている。ひと休みして、くつろいで、またそこから始めればいいのだから。


「ナクル。戻ったらこの前出してくれた、あのお茶を淹れてちょうだい。一緒に何か甘いものも食べたいわ」


「ええ、かしこまりました。ご用意致します」


 降り続く雨を視界の端に収めて、キーシャたちは長い長い廊下を歩いていく。

 考えるのも、行動に移すのも、自室にたどり着くまでだ。何ひとつ終わってないし、解決してもいない。だから、始めるのはそのあとで。

 戻ったなら穏やかな時間と、ほんの少しばかりの休息を。