翡翠の星屑

Chapter 39 - 答え合わせは君のいぬ間に

季月 ハイネ2020/07/01 05:38
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 ラスターが屋敷までたどり着くと、ちょうど入り口で掃除をしていた男性がすぐに気づいてくれた。箒を掃いていた手を休め、笑顔で迎えてくれる。


「やあ、おかえり。もう一人の彼は、一緒じゃないのか?」


「うん、休んでろって言われて――」


 答えてから思い当たる。この言い方では、まるでけんか別れしてきたようだ。


「えっと、ボクはちょっと疲れちゃって、先に戻ってきたんだ」


 うまい説明が出てこなくて、結局思ったそのままを伝える。


「そうか。それじゃあ主人と一緒にいるんだな。案内役をするってはりきっていたから」


「主人?」


「この屋敷の持ち主さ。ほら、さっき君たちに同行していた人だよ」


「あ。あの人なんだ」


 そういえば名前を聞いていなかった。ラスターが『主人』と呼ぶのも変だし、『男の人』でいいだろうか。


「君も大変だっただろう? 空いてる部屋でゆっくり休むといい。君が着替えに使っていたあの部屋は覚えているかな?」


「うん、大丈夫。ありがとう」


 彼に開けてもらった扉をくぐり、ラスターは中へと入る。高い天井を見上げ、奥へと一直線に伸びる廊下を歩き始める。入り口の広間までとはいかないけれど、ここの廊下の天井もだいぶ高い。ラスターが歩く度、靴音が反響した。

 それにしても大きい屋敷だ。これだけ広いと、掃除をするのも大変だろう。


「掃除って言えば、さっきの人以外に誰もいないケド……もしかして、あの人が一人で全部掃除してるのかな?」


 もしそうだとしたら、どれだけの時間をかけてこなしているのだろう。たった一人で、ほこりひとつ見当たらない、これだけ広い屋敷を。もしラスターが一人でここを掃除するとなればどうだろう。考えただけで日が暮れそうだ。いや、暮れるだけでは済まない。きっと、次の太陽が昇りきるまでかかるに違いない。

 けれどもやりがいはありそうである。なにせ、廊下の端が見えないのだ。ここまで広い建物は見たことがない。


「広すぎだよ。でも本当にすごいなあ」


 廊下の突き当たりには、ラスターの身長よりもずっと大きい窓があった。着色された光が床を照らす。

 不意に思い出したのは、ルパの風向計だ。教会によく似たあの場所。

 色つきの硝子が天窓にはめ込まれ、ここと同じように明るく照らしていた。ルパの風向計では、アルティナの初代国王を象った精緻せいちな細工に、思わずため息が漏れたのだ。ここも様々な色の硝子が使われており、絵柄を作り上げている。

 青空を背景に、翼を大きく広げ、飛んでいるのは鳥だろうか。


「――あれ」


 眺めながら、唐突に疑問が浮上してくる。何か、覚えが。

 今まで絶え間なく響いていた足音は、ラスターが立ち止まったことでとうに消えている。残響もなく、しん、と静まり返った廊下。


「楽園……」


 入口にいた男性とは遠いのか、他には何も聞こえてこない。見渡す限りラスターしかいないのだから当然だ。静寂がまとわりついて、耳に痛い。

 出会った彼らは言っていた。輝石の島は楽園だと。苦しいことも、辛いことも、悲しいことでさえもここにはないのだと。忘れ去られてもいいから、目指しているのだと。夢のような場所なのだと。

 憧れと理想が混じりあい、理想郷に似た楽園だと呼ばれる一方で、ささやかれていたのはもうひとつの呼称。目指した者は誰一人として戻ってこなかったという、忘却の島。


「……確かめなきゃ」


 ラスターは右手で、つかんだ左腕に思い切り爪を立てる。鋭利な痛みが走り抜け、右手の力を緩めた。

 痛みがある。つまりこれは現実だ。夢などではない。

 今来た廊下をもう一度たどる。ラスターの靴音だけがこつこつと鳴って、他にはやはり何も聞こえてこない。まだ明るい時間で良かった。暗くなった頃にここを歩くのはごめん被りたい。

 そうして戻ってきた玄関口に、果たしてその男はいた。少し前に会話したのと同じように、そこに立って箒を動かしていたのだ。


「ねえ、あの――」


 呼びかけようとして、名前を知らないことに思い当たる。そのせいでよくわからない呼びかけになってしまったけれど、男にはそれだけで通じたようだ。


「おや、どうかしたかい? 部屋がわからなくなったのかな?」


 屈託のない笑みを見て、ラスターは口を開く。


「ううん、そうじゃないんだ。ちょっと訊きたいコトがあって」


「なんだい?」


「あの廊下の硝子なんだケド、あれって、鳥なの?」


 翼を大きく広げた生き物。小さくてどんな鳥かはわからなかったけれど、ラスターの見たことのない鳥だった。

 この島にいた鳥なのだろうか。それを、あんなに大きく?


「あれは想像上の生き物だよ」


 横に振られた首。想像上、ということは。


「本当にいるわけじゃないんだ」


「そうだよ。遥か昔、ここに降り立ってその羽を休めたという。それはそれはきれいだったそうだ。休ませてくれたお礼として、この島に輝石をもたらしてくれたという話が残っている。輝石の島、という名称はそこから来ているんだ」


「そんな鳥がいたんだね」


 しかし休んだだけでそんなに恩恵をもたらしてくれるとは、なんて親切な鳥なのだろう。

 その鳥は、よほどありがたみを覚えたのだろうか。たとえば大けがを負っていたとか――なんて想像していたら、「いや」というひと言が聞こえてきた。


「ああ、すまない。想像上の生き物とは言ったけれど、あれは鳥じゃないんだよ」


「――え?」


「聞いたことあるかな? あれは竜だ」


 鳥ではない。想像上の生き物。竜。剣とともに描かれた、銀色の――

 すごいと、格好いいと、そんな感想を述べた記憶がある。あの時、リディオルは何と言っていた。それが何だと。どこの紋章だと。

 上げた顔が彼を真っ直ぐに捉えた。


「それ、もしかして、アルティナの――」


「よく知ってるね? アルティナと同じ、あれは竜だ」


 ラスターはがく然とする。ここでもその名を聞かなければならないのか。どこまでついてくるのだ、その地名は。初めはただの名前でしかなかったのに、今ではまとわりついて離れない。判然としないものに、気づかぬ間にじわりと侵食されているような、そんな感覚がしていた。

 シェリックは今ここにいない。握るものを探す右手に気づき、どれだけあの棒に支えられていたかを今更思い知らされる。何もない代わりに、両手を合わせてきつく握りしめる。

 確かめるのが怖い。それでも、確かめなくてはならない。どこまでその名に縛られるのかを、どこまでその名に縛られてしまっているのかを。


「それじゃあ、ここはアルティナの島なの?」


「いいや違う。この島は、どこでもない場所だよ」


「どこでもない場所?」


「ああ。誰のものでも何のものでもない場所。誰からも忘れ去られた場所さ」


「忘却の島……」


 思い起こさせた名称がラスターの口から出てくる。見つめた彼は悲しそうに笑うだけで、何も言葉にしなかった。

 胸が締めつけられる。この場から逃げたくなる気持ちを押しとどめ、ラスターは声を振り絞った。


「――もうひとつ、訊きたいコトがあるんだ」


「僕に答えられることだったら何でも訊いてくれ」


 彼の言葉を聞いてもやはり同じで、何も変わらない。今もなお、ラスターは感じ続けている。

 それは――冷や汗にも似た寒気。


「あなた、本当に人間なの……?」


「何だって?」


 希薄過ぎる気配。彼の、存在感のなさ。


「何を言ってるんだ。人間以外の何に見えると言うんだ?」


 数瞬の間が空き、何事もなかったかのように会話が進められる。目の前の彼が人間以外の何かに見えはしない。けれども、普通の『人』とはどこか違うように思えるのだ。


「言葉のとおりだよ」


 ラスターは足に力を入れる。自分はちゃんと、ここにいるのだと。


「この屋敷、人がいなさすぎるんだ。これだけ広いのに、あなた以外には誰ともすれ違わない。どうして? 隅々まできれいだし、なんだかおかしいよ」


 矢継ぎ早に告げる。


「一体何を言い出すのかと思えば。そのことと、君が先に言ったこと、根拠もなければ、繋がりもないだろう」


「人がいないから気配なんて感じられない。だけど、それはここだけじゃない。外に出ても同じだったんだ」


「同じ、とは?」


 変わらずに微笑みが向けられる。その変わらない笑顔が、今はもう張りつけられた笑みにしか見えない。うすら寒いものを覚えて、ラスターは一歩後退した。


「あなたからだって、人間の気配がしないもの。行動、会話、お手本どおりできれいすぎる。完璧すぎるんだ、何もかも。それに」


「それに?」


 心臓がぎゅっと縮こまる。それに気づいてしまったから、震えが止まらないのだ。


「一度も瞬きをしない人間なんて、いるはずがないよ!」


 何かがおかしくて、ずっとわからなくて。気付いてしまったら、もう止められなかった。感じた悪寒と激しい動悸どうきと。静めたいのに平静ではいられなくて。

 どうして今、ここにシェリックがいないのだろう。

 シェリックが戻ってきてからにすれば良かった。そんな後悔をしてももう遅い。

 彼の瞳が大きく見開かれて、うつむいた彼の口から驚きの声が漏れた。


「そうか……ばれてしまったか……」


 そうしてこちらを向いた彼の頭が、前触れもなくかくんと横に倒れた。


「ひ……っ」


「人の顔を見て怖がるなんて、ひどいなあ」


 徐々に高くなっていく声音。笑顔のまま高音で喋る彼は、ラスターに壊れた人形を彷彿ほうふつとさせた。へたりこみそうになる足と、粟立あわだつ腕に力を込めて、もはや『人』と呼べなくなった彼を見据える。

 何が起こるか予想もつかない。だからここから動けない。視線を外しでもしたら、その隙を突かれそうで。


 逃げたい。ここから、この場から。シェリックを探しに行きたい。すぐ戻ってくると言ったのだ。無理はしないと、約束したのだ。

 けれどここにはラスター、一人しかいないのだ。どうにかすることも、ラスターだけにしかできない。


「――解除」


「えっ――うわっ!」


 次に発された言葉は彼の声ではなかった。とっさに目をつむれば、その一瞬あとに突風が巻き起こる。


 ――風。


 植えつけられた恐怖が甦り、風だと認識した途端に身体が畏縮する。

 また、呑み込まれてしまうのか。暴力的な風の渦に。無理やり意識を奪われてしまうのか。嫌だと思う気持ちとは裏腹に、足はちっとも動いてくれない。自分の意志ではどうにもならなくて、なすがままにされてしまう。


「いった……!」


 身を守るように抱えた左腕が、小さな痛みを訴えた。爪を立てたところに、何かごみでも当たったらしい。

 いつまでも襲いかかってこない風にそろそろと目を開ける。これは、リディオルの術ではない――?


「あ、れ……海? なんで、屋敷は……」


 ラスターが今までいたはずの屋敷など跡形もなく、海沿いの道、拓けた場所の真ん中に立ち尽くしていた。それに、今ラスターの目の前にいた男性の姿すら見当たらない。まるで化かされた気分だ。それでも、この得体の知れない悪寒が嘘だなんて思いたくない。

 それに、さっきの声は誰の――問いかけようとしたその時、乾いた音が何度も響いた。


「お見事、さすがリディオル殿の勧誘を退けただけありますね」


「――え」


 向こうからやってくる人影がある。ラスターは目を疑った。彼が羽織るのは闇に溶け込む色の外套。それは、リディオルが着ていたのとまったく同じ――アルティナの。

 ラスターが言葉を失くしたのはそのせいではない。その声に、その人物に、覚えがあったのだ。聞き間違いかと思っていた。先の声は幻聴ではないかと。


 だって、どうしてここにいるのだ。あの時、別れたはずなのに。

 信じられない思いのまま、ラスターは呆然と口を動かす。


「フィノ……?」


「はい。少し前ぶりですね、ラスター殿」


 ラスターに呼ばれ、拍手を止めた体勢で、穏やかに微笑む彼がそこにいた。