Chapter 39 - 答え合わせは君のいぬ間に
ラスターが屋敷までたどり着くと、ちょうど入り口で掃除をしていた男性がすぐに気づいてくれた。箒を掃いていた手を休め、笑顔で迎えてくれる。
「やあ、おかえり。もう一人の彼は、一緒じゃないのか?」
「うん、休んでろって言われて――」
答えてから思い当たる。この言い方では、まるでけんか別れしてきたようだ。
「えっと、ボクはちょっと疲れちゃって、先に戻ってきたんだ」
うまい説明が出てこなくて、結局思ったそのままを伝える。
「そうか。それじゃあ主人と一緒にいるんだな。案内役をするってはりきっていたから」
「主人?」
「この屋敷の持ち主さ。ほら、さっき君たちに同行していた人だよ」
「あ。あの人なんだ」
そういえば名前を聞いていなかった。ラスターが『主人』と呼ぶのも変だし、『男の人』でいいだろうか。
「君も大変だっただろう? 空いてる部屋でゆっくり休むといい。君が着替えに使っていたあの部屋は覚えているかな?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
彼に開けてもらった扉をくぐり、ラスターは中へと入る。高い天井を見上げ、奥へと一直線に伸びる廊下を歩き始める。入り口の広間までとはいかないけれど、ここの廊下の天井もだいぶ高い。ラスターが歩く度、靴音が反響した。
それにしても大きい屋敷だ。これだけ広いと、掃除をするのも大変だろう。
「掃除って言えば、さっきの人以外に誰もいないケド……もしかして、あの人が一人で全部掃除してるのかな?」
もしそうだとしたら、どれだけの時間をかけてこなしているのだろう。たった一人で、ほこりひとつ見当たらない、これだけ広い屋敷を。もしラスターが一人でここを掃除するとなればどうだろう。考えただけで日が暮れそうだ。いや、暮れるだけでは済まない。きっと、次の太陽が昇りきるまでかかるに違いない。
けれどもやりがいはありそうである。なにせ、廊下の端が見えないのだ。ここまで広い建物は見たことがない。
「広すぎだよ。でも本当にすごいなあ」
廊下の突き当たりには、ラスターの身長よりもずっと大きい窓があった。着色された光が床を照らす。
不意に思い出したのは、ルパの風向計だ。教会によく似たあの場所。
色つきの硝子が天窓にはめ込まれ、ここと同じように明るく照らしていた。ルパの風向計では、アルティナの初代国王を象った精緻な細工に、思わずため息が漏れたのだ。ここも様々な色の硝子が使われており、絵柄を作り上げている。
青空を背景に、翼を大きく広げ、飛んでいるのは鳥だろうか。
「――あれ」
眺めながら、唐突に疑問が浮上してくる。何か、覚えが。
今まで絶え間なく響いていた足音は、ラスターが立ち止まったことでとうに消えている。残響もなく、しん、と静まり返った廊下。
「楽園……」
入口にいた男性とは遠いのか、他には何も聞こえてこない。見渡す限りラスターしかいないのだから当然だ。静寂がまとわりついて、耳に痛い。
出会った彼らは言っていた。輝石の島は楽園だと。苦しいことも、辛いことも、悲しいことでさえもここにはないのだと。忘れ去られてもいいから、目指しているのだと。夢のような場所なのだと。
憧れと理想が混じりあい、理想郷に似た楽園だと呼ばれる一方で、ささやかれていたのはもうひとつの呼称。目指した者は誰一人として戻ってこなかったという、忘却の島。
「……確かめなきゃ」
ラスターは右手で、つかんだ左腕に思い切り爪を立てる。鋭利な痛みが走り抜け、右手の力を緩めた。
痛みがある。つまりこれは現実だ。夢などではない。
今来た廊下をもう一度たどる。ラスターの靴音だけがこつこつと鳴って、他にはやはり何も聞こえてこない。まだ明るい時間で良かった。暗くなった頃にここを歩くのはごめん被りたい。
そうして戻ってきた玄関口に、果たしてその男はいた。少し前に会話したのと同じように、そこに立って箒を動かしていたのだ。
「ねえ、あの――」
呼びかけようとして、名前を知らないことに思い当たる。そのせいでよくわからない呼びかけになってしまったけれど、男にはそれだけで通じたようだ。
「おや、どうかしたかい? 部屋がわからなくなったのかな?」
屈託のない笑みを見て、ラスターは口を開く。
「ううん、そうじゃないんだ。ちょっと訊きたいコトがあって」
「なんだい?」
「あの廊下の硝子なんだケド、あれって、鳥なの?」
翼を大きく広げた生き物。小さくてどんな鳥かはわからなかったけれど、ラスターの見たことのない鳥だった。
この島にいた鳥なのだろうか。それを、あんなに大きく?
「あれは想像上の生き物だよ」
横に振られた首。想像上、ということは。
「本当にいるわけじゃないんだ」
「そうだよ。遥か昔、ここに降り立ってその羽を休めたという。それはそれはきれいだったそうだ。休ませてくれたお礼として、この島に輝石をもたらしてくれたという話が残っている。輝石の島、という名称はそこから来ているんだ」
「そんな鳥がいたんだね」
しかし休んだだけでそんなに恩恵をもたらしてくれるとは、なんて親切な鳥なのだろう。
その鳥は、よほどありがたみを覚えたのだろうか。たとえば大けがを負っていたとか――なんて想像していたら、「いや」というひと言が聞こえてきた。
「ああ、すまない。想像上の生き物とは言ったけれど、あれは鳥じゃないんだよ」
「――え?」
「聞いたことあるかな? あれは竜だ」
鳥ではない。想像上の生き物。竜。剣とともに描かれた、銀色の――
すごいと、格好いいと、そんな感想を述べた記憶がある。あの時、リディオルは何と言っていた。それが何だと。どこの紋章だと。
上げた顔が彼を真っ直ぐに捉えた。
「それ、もしかして、アルティナの――」
「よく知ってるね? アルティナと同じ、あれは竜だ」
ラスターはがく然とする。ここでもその名を聞かなければならないのか。どこまでついてくるのだ、その地名は。初めはただの名前でしかなかったのに、今ではまとわりついて離れない。判然としないものに、気づかぬ間にじわりと侵食されているような、そんな感覚がしていた。
シェリックは今ここにいない。握るものを探す右手に気づき、どれだけあの棒に支えられていたかを今更思い知らされる。何もない代わりに、両手を合わせてきつく握りしめる。
確かめるのが怖い。それでも、確かめなくてはならない。どこまでその名に縛られるのかを、どこまでその名に縛られてしまっているのかを。
「それじゃあ、ここはアルティナの島なの?」
「いいや違う。この島は、どこでもない場所だよ」
「どこでもない場所?」
「ああ。誰のものでも何のものでもない場所。誰からも忘れ去られた場所さ」
「忘却の島……」
思い起こさせた名称がラスターの口から出てくる。見つめた彼は悲しそうに笑うだけで、何も言葉にしなかった。
胸が締めつけられる。この場から逃げたくなる気持ちを押しとどめ、ラスターは声を振り絞った。
「――もうひとつ、訊きたいコトがあるんだ」
「僕に答えられることだったら何でも訊いてくれ」
彼の言葉を聞いてもやはり同じで、何も変わらない。今もなお、ラスターは感じ続けている。
それは――冷や汗にも似た寒気。
「あなた、本当に人間なの……?」
「何だって?」
希薄過ぎる気配。彼の、存在感のなさ。
「何を言ってるんだ。人間以外の何に見えると言うんだ?」
数瞬の間が空き、何事もなかったかのように会話が進められる。目の前の彼が人間以外の何かに見えはしない。けれども、普通の『人』とはどこか違うように思えるのだ。
「言葉のとおりだよ」
ラスターは足に力を入れる。自分はちゃんと、ここにいるのだと。
「この屋敷、人がいなさすぎるんだ。これだけ広いのに、あなた以外には誰ともすれ違わない。どうして? 隅々まできれいだし、なんだかおかしいよ」
矢継ぎ早に告げる。
「一体何を言い出すのかと思えば。そのことと、君が先に言ったこと、根拠もなければ、繋がりもないだろう」
「人がいないから気配なんて感じられない。だけど、それはここだけじゃない。外に出ても同じだったんだ」
「同じ、とは?」
変わらずに微笑みが向けられる。その変わらない笑顔が、今はもう張りつけられた笑みにしか見えない。うすら寒いものを覚えて、ラスターは一歩後退した。
「あなたからだって、人間の気配がしないもの。行動、会話、お手本どおりできれいすぎる。完璧すぎるんだ、何もかも。それに」
「それに?」
心臓がぎゅっと縮こまる。それに気づいてしまったから、震えが止まらないのだ。
「一度も瞬きをしない人間なんて、いるはずがないよ!」
何かがおかしくて、ずっとわからなくて。気付いてしまったら、もう止められなかった。感じた悪寒と激しい動悸と。静めたいのに平静ではいられなくて。
どうして今、ここにシェリックがいないのだろう。
シェリックが戻ってきてからにすれば良かった。そんな後悔をしてももう遅い。
彼の瞳が大きく見開かれて、うつむいた彼の口から驚きの声が漏れた。
「そうか……ばれてしまったか……」
そうしてこちらを向いた彼の頭が、前触れもなくかくんと横に倒れた。
「ひ……っ」
「人の顔を見て怖がるなんて、ひどいなあ」
徐々に高くなっていく声音。笑顔のまま高音で喋る彼は、ラスターに壊れた人形を彷彿とさせた。へたりこみそうになる足と、粟立つ腕に力を込めて、もはや『人』と呼べなくなった彼を見据える。
何が起こるか予想もつかない。だからここから動けない。視線を外しでもしたら、その隙を突かれそうで。
逃げたい。ここから、この場から。シェリックを探しに行きたい。すぐ戻ってくると言ったのだ。無理はしないと、約束したのだ。
けれどここにはラスター、一人しかいないのだ。どうにかすることも、ラスターだけにしかできない。
「――解除」
「えっ――うわっ!」
次に発された言葉は彼の声ではなかった。とっさに目をつむれば、その一瞬あとに突風が巻き起こる。
――風。
植えつけられた恐怖が甦り、風だと認識した途端に身体が畏縮する。
また、呑み込まれてしまうのか。暴力的な風の渦に。無理やり意識を奪われてしまうのか。嫌だと思う気持ちとは裏腹に、足はちっとも動いてくれない。自分の意志ではどうにもならなくて、なすがままにされてしまう。
「いった……!」
身を守るように抱えた左腕が、小さな痛みを訴えた。爪を立てたところに、何かごみでも当たったらしい。
いつまでも襲いかかってこない風にそろそろと目を開ける。これは、リディオルの術ではない――?
「あ、れ……海? なんで、屋敷は……」
ラスターが今までいたはずの屋敷など跡形もなく、海沿いの道、拓けた場所の真ん中に立ち尽くしていた。それに、今ラスターの目の前にいた男性の姿すら見当たらない。まるで化かされた気分だ。それでも、この得体の知れない悪寒が嘘だなんて思いたくない。
それに、さっきの声は誰の――問いかけようとしたその時、乾いた音が何度も響いた。
「お見事、さすがリディオル殿の勧誘を退けただけありますね」
「――え」
向こうからやってくる人影がある。ラスターは目を疑った。彼が羽織るのは闇に溶け込む色の外套。それは、リディオルが着ていたのとまったく同じ――アルティナの。
ラスターが言葉を失くしたのはそのせいではない。その声に、その人物に、覚えがあったのだ。聞き間違いかと思っていた。先の声は幻聴ではないかと。
だって、どうしてここにいるのだ。あの時、別れたはずなのに。
信じられない思いのまま、ラスターは呆然と口を動かす。
「フィノ……?」
「はい。少し前ぶりですね、ラスター殿」
ラスターに呼ばれ、拍手を止めた体勢で、穏やかに微笑む彼がそこにいた。