Chapter 34 - 奇跡だなんて、君は言う
こつんと。
肩に当たる重みを感じて、シェリックはその塊からそっと自分の外套を取った。
ラスターはそのまま眠ってしまったのだろう。残る涙の跡には気づかないふりをし、取った外套でラスターをくるむ。寝やすいように体勢を横にしてやり、シェリックは木に寄りかかった。
しかし晴れていて良かった。もしこれで悪天候だったら雨をしのげる場所を探さなくてはならない。仰いだ空には幸い降る気配がなさそうだし、今日はこのままここで野宿するしかなさそうだ。この三年の間で、野宿をするのにはすっかり慣れたことだし。
嫌な慣れだと思いながら、ちらと頭上を見やる。生い茂る葉が空を隠し、時折思い出したかのように枝を揺らしていた。屋根と呼ぶにはお粗末だが、ないよりはましだ。
歩いてみてわかったのは、ここは自分の知らない場所だということ。それほど遠くまで行けていないけれど、誰かとすれ違うことはなかった。ここに人がいるかどうかすら疑わしい。ひょっとしたら無人島にたどり着いた可能性も捨てきれないのだ。
こんなところに無人島などあっただろうか。たどる記憶はしかし何にも出会わず、シェリックはそれ以上思い出そうとするのを止めた。ここがどこかなんて、さしたる問題ではないだろう。
遠くにまで足を向けていないのは、目覚めていないラスターがいたからと、そこまで距離を稼げなかったからだ。砂浜のそこかしこに転がる石のせいで、足元がごつごつしていて非常に歩きにくかったのである。
路傍に落ちている石だから踏みつけても構わないのだが、通常の石と比べて透明度が高く、光を反射するので、無遠慮に踏むのはもったいないと思ってしまったのだ。眺めているだけでも映える景色なのに、そこを自分が踏み荒らしてしまうと考えると、なおのこと。
足元に神経を使っていたので、思っていたよりも時間がかかってしまった。本当はもう少し離れたところまで行く予定だったけれど、やむを得ない。遠くから見えた姿があまりにも心許なくて、ラスターの傍から離れるべきではなかったと、自責の念に駆られたほどだ。
くしゃりとなでた彼女の髪は、お世辞にもさらさらとは言い難い。荒ぶる海を乗り越えてきたせいかごわごわとしていて、いつもの手触りではなかった。
喉まで出かけた詫びの言葉を呑み込む。責任転嫁をしているわけではないが、寝ている彼女に言っても仕方のないことだし、ここにいるのはどちらのせいでもない。強いて言うならば、自分たちを船から落としたリディオルのせいだ。
気が緩んだせいか、あくびがひとつこぼれる。
次に目覚めたその時は、ここからもう少し離れたところまで行ってみよう。一人で置いていくことはもうしない。今度はラスターも一緒に。
そう決めて腕を組み、シェリックは目を閉じた。
**
ふわふわと。
遠くから聞こえてくるのは、耳に心地よく、穏やかな音。近くまで寄って聞こえてきては、今度は遠くの方で鳴って。
うっすらと開けた景色がきらきらと光っていて、まるで物語の中、別世界にでも入ったかと思うほどだった。あるいは。
「――夢」
ふわふわと。ふわふわと。
おぼろげな世界はそこにたたずんでおり、きらめく風景に誘われているような感じがして、思わずそちらへと手を伸ばして――
「いつまで寝ぼけているんだ、ラスター」
かけられた声で、一気に現実へと引き戻された。
「へ? ――あれ?」
「あれ、じゃねえよ。起きれるか?」
ぱちぱちと瞬かせ、めぐらせた目がシェリックを映す。夢うつつ、不明瞭で安らぎに満ちたそこから抜けたくなくて、手にしていたものを握りしめる。
「……もうちょっと」
「気持ちはわかるが、起きろ」
「……むう」
弾かれた額を押さえ、しぶしぶ身体を起こす。骨がみしみしと鳴り、訴えられる痛みに顔をしかめた。
「怪我は?」
身体のあちこちを叩いて確かめる。それほど酷い怪我はなさそうだ。
「ある、ケド、かすり傷だと思う……ここ、どこ?」
「さあな」
外套を脱いだ旅装で立つシェリックは、辺りを見回し首を振る。
「どこかに着いたのは確かだが、ここがどこなのかはわからない」
シェリックが知らないのなら、ラスターにはもっとわからない。なぜなら、ルパへとやってきた時に、海を目にしたのが初めてだったのだから。
祖母の家があった村と、その周辺の森と。ラスターの世界はそれだけでこと足りていて、それ以上は知らなくても別に問題はなかった。今まで知っていた世界がとても狭い場所だけだったのだと、そう理解したのはつい最近のこと。いなくなった母親を探し求めてからだ。
ふと、気になったことを訊いてみる。
「シェリック、上着は?」
シェリックが着ていたのは簡素な旅装だけではなかったはずだ。初めに目覚めたときに、ラスターはシェリックの外套だけを見つけたのだし。
シェリックは何とも言えない顔をしてラスターを指さす。
「おまえが持ってる」
「――ボク?」
視線を下に落とす。正しく言うと、シェリックが示したのはラスターの手中。そこに握られているものだった。見覚えのある外套と、自分が羽織っている分をも確認して。ラスターが握っている一枚が誰のものか、正しく理解した。
「……ごめん、借りてた」
「別に構わない。渡したのは俺だしな」
シェリックにならってその場に立ち上がる。
「はい、ありがとう」
「ああ、どういたしまして」
手に取った二人分の外套、うちのひとつをシェリックに手渡す。自分のは袖を通さずに羽織っていたのだが――ラスターの手からカードを奪い取っていった風を思い出し、ちゃんと袖を通して羽織り直した。
二人の荷物はこれだけだ。ラスターが持っていた荷物は船室に置いてきてしまったので、今ここにはない。手に持っていた棒も海に落ちた時になくしてしまったようだし、色々と悔やまれる。それよりも、何よりも、今一番気にしているのは。
「……お腹減った」
「おまえね……」
鳴りそうで鳴らないこのお腹だ。ちなみにいつ鳴ってもおかしくはない。
「だって、どこかわからないし、人がいるかもしれないし、わからないコトだらけじゃん。わかるコトから先に挙げていったんだよ?」
「まあ、確かに腹は減ったな」
「思ったケド、二日くらい食べてないもんね」
改めて思い返してみれば、まともに取った食事はルパで食べて以来だ。シェリックはきっと、乗船してから何ひとつ口にしていないのではないだろうか。口にしたものの中に薬を入れていいのかはなはだ疑問ではあるけれど、少なくともそれは食事の類ではない。
「食いっぱぐれるとこういうことになる」
「むう……やっぱり食べれる時に食べておかないと。ルパで食べたご飯、美味しかったなあ……」
名残惜しげにつぶやく。よぎらせたのは、ルパに到着した夕刻で口にした食事だ。久々の豪華な食事だったから、記憶にも鮮明に残っている。
「良かったじゃないか、ひとつ賢くなれて」
「こういうところで学んでも嬉しくないよ」
実地体験なんて本当に笑えない。
ラスターは冷えた両手を外套の隠しに突っ込み、暖を取る。陽は照っていても、目が覚めたばかりだからか、体温が低いのだ。やっぱり手袋を買っておくべきだったと、今更ながらに後悔が浮かんでくる。
「――ん?」
隠しに入れた手が何かに触れ、それをつかんで引っ張り出す。そこから出てきたのは、透明な袋に包まれた飴だった。口の部分が赤い紐で蝶結びにされていて、見た目にも可愛らしい。
「すっかり忘れてた」
「お前、それも買ってたのか?」
「うん。おばあちゃんのお土産にと思って……」
ルパを出発する前日、空いたその一日を使って、ラスターたちは観光としゃれこんだのだ。これはそのとき、シェリックに案内してもらった露店で購入したもののひとつだ。その場で職人に作ってもらったものは口の中に入ってしまったから、もうなくなってしまっている。けれど、ラスターが買ったのはもうひとつ。祖母へのお土産として買い、ここに入れていたのを、今の今まですっかり忘れていたのだ。
赤や黄、青に緑と、色とりどりの小さな飴がそこに入っている。食事にはほど遠いけれど、これなら――
「それ、しまっとけ」
被せられた手が、ラスターの開けかけていた動作を封じる。
「なんで?」
「お前のばあさんへの土産なんだろう? 大事に取っておけよ」
シェリックはどこまでも優しい。だからこそ、ラスターは首を振るのだった。
「ううん。ここでボクが倒れたら元も子もないもの。おばあちゃんには別のお土産を探すよ。それにさ」
へへっと笑ってみせる。
「もう一度、ルパで同じものを買ってもいいじゃん」
見開いたシェリックの手をそっとどかし、透明な袋をためらいなく開けた。
「お土産話ならたくさんあるし、まずは今が大事だよ。そうでしょ? はいっ、どうぞ」
そう言いながら、ラスターは袋を差し出す。と、ようやくシェリックも笑ってくれた。
「そうだな、今を何とかしないとな。――ありがたく」
「どういたしまして!」
シェリックが黄色い飴を取ったのを見て、ラスターは緑色の飴をつまみ上げ、口の中へと放り込む。
「甘ーい」
舌先で転がすと、途端に爽やかな甘さが広がっていった。ルパで食べた飴とはまた違った甘さで、どこか懐かしい味がした。
「――シェリック?」
反応のなくなった長身を仰ぐ。顔をしかめたシェリックは、何やら口元を押さえていた。それを目にしてぎくりとラスターの身体が強張る。また、何か――
「……すっぱいぞ」
そうしてこぼされた感想に、ぽかんと口を開けた。――すっぱい?
「――それ、すっぱいの?」
「あとでこの色の飴食べてみろ」
真剣に話すシェリックがおかしくて、ラスターの強張った頬が和らいでいく。
「えー、なんだ。ボク、そっちにすれば良かった」
「まさかすっぱい味があるとは思わなかったんだよ」
「苦手?」
「少しな。食べられないわけじゃないが」
「あはは、次は好みの味だといいね。こっちは甘かったから、どうぞ」
ラスターは緑色の飴を手渡し、彼を追い越した。飴の入った袋をぎゅっと抱え、一心に歩いていく。
――何でもなかった。何でも、なかったのだ。
なで下ろした胸と、早鐘を打つ心臓。
臆病になっているのは自分でもわかっている。それでも。いや、だからこそ。シェリックの反応がこんなに怖いなんて思いもしなかった。
もう一度何か起きたら――
ラスターは力いっぱい目をつむる。
そんなこと、想像したくもなかった。