翡翠の星屑

Chapter 33 - その名をなんと呼べばいい

季月 ハイネ2020/06/26 14:56
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「――ふはっ」


 シェリックが長い長い水中から顔を覗かせると、辺りの様子は一変していた。

 近くにいたはずの船は影すら見えなくなり、代わりに見覚えのない陸地が見えていた。ここがどこだかわからないけれど、少なくともルパではないのは確かだ。景色が違う。

 このまま水に浸かり続けているのもまずいので、ひとまずそちらに向かうことにする。


 おかしいと思ったのだ。あれだけ荒れ狂っていた海がいつの間にやら収まり、何事もなかったように凪いで。でなければこうもたやすく陸までたどり着けるわけがない。そもそも無事でいられたかどうかも怪しい。一人ならあるいは辛うじてなんとかなったのかもしれないが、二人一緒でなど不可能に等しい。

 考えられる可能性はひとつ。


「あいつか……」


 脳裏に浮かんできた旧友の顔に、舌打ちをする。

 ラスターの話を聞く限りでは、ラスターを呼べば自分もついてくるのではないかと思われていたということだった。シェリックが考えていたのは別のことだ。


 リディオルは牢屋からいなくなった自分を戻そうとしていた。だから「戻らない」と答えた自分を、排除したかったのではないのかと。けれどもシェリックが答えたあの時、リディオルにあれほど驚かれた説明がつかない。ならばルパで、あの船で、ラスターに、自分に取っていた彼の行動は、自分たちを船から落としたその意図は一体。


 足に着いた固い感触に安堵あんどする。意外と浅い場所だったようで助かった。考えていたことをあと回しにして、思考を切り替える。今はとにかく休める場所を探さなくては。ずぶ濡れの状態では、さすがに風邪を引きかねない。

 ぐったりとしているラスターの首に手を当てる。大丈夫、脈はある。息もしているし、ひとまずは大丈夫だろうと彼女を背負いあげた。

 口の中が塩辛い。落ちた時に海水を飲み過ぎたのか、喉の奥までひりひりと痛む。開けている目も染みるし、今ほど真水を欲しはしなかったろう。


 船上であれほど酷かった症状は和らいでいて、そちらは不幸中の幸いだ。強制的にとはいえ船から降りたおかげか、リディオルの薬が切れてきたからか、それともラスターの薬が効いてきたのか、はたまたそのどれもなのか。

 不意に、リディオルに告げた言葉を思い出す。全てアルティナに置いてきた、だから自分が失くすものは何もないのだと。


 失くすわけではない。近くにあったものを手放すか否かだ。

 今ここで投げ出すのは簡単なのだ。もともと自分の目的なんて、あるようでないものだったのだから。背に負う重さも、捨て置いてしまえばどんなに楽だろう。けれど、失ったものは二度と戻らない。だからこれは、ラスターを助けるのは薬をもらった恩だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 そう言い聞かせでもしなければ、よぎった彼女の残影が消えそうになかった。



  **



「――ん……けほっ」


 漏れた言葉。途端に感じた塩辛さは、一回や二回吐き出しただけでは取れないものだった。開かない目の代わりに、指先が感覚を取り戻す。脳の活動が停止を告げないうちに、何度も握ったり開いたりを繰り返してみる。開いた手から滑り落ちるものを感じて、今度はそれを握りしめてみた。

 柔らかく、少し温かい。しかし指の隙間からぽろぽろとこぼれ落ちていくものに、特定の形はない。


 ――砂?


 地面の上に、どうしてこんなに大量の砂があるのだろう。当たり前のように踏みしめていた土に欠片も触れることがなく、手に当たるのは砂と、それよりも少し大きな石しかない。

 かさかさに乾いた目を開けようと必死で目蓋を押し上げてみるが、どうしたことかそう簡単に開いてはくれない。異物感に涙があふれ、その水が幸いしてか、ようやく視界が明けた。


「――っ、いった……!」


 ラスターが身をよじると同時に、身体の節々が悲鳴を上げる。よく見れば手足のあちこちが血でにじんでいた。こんなにたくさん、どこでぶつけたのだろう。それも完全に乾いているとは言えず、服にべったりと張りついているのだ。


「うえ……気持ち悪い……」


 へばりついた服も、塩味が残る口の中も、全身ずぶ濡れな状態も、全てが。


「……さむ」


 風はそれをあざ笑うかのように通り過ぎていった。

 ぼんやりとした頭で考える。ここは一体どこだろう。辺り一面は砂で覆われ、仰いだ頭上には一本の木がある。

 ラスターたちは輝石の島を探していて、戻ってきた人がいるという情報をつかんで、話を聞いて、ルパから船に乗って、薬を作って、リディオルが――


「そっか、船から落とされたんだっけ……」


 あれだけ暴れていた海の最中に落とされたのだ。よく生きてたよなあなんて、今になって思う。頭がはっきりとしておらず、感覚が薄い。嘘みたいな現実を味わったからだろうか。そもそも今ここが夢ではないという確たる証拠もない。

 身を起こそうとしたラスターの身体から、ぱさりと何かが落ちた。


「――あ……」


 見覚えのある青褐色あおかちいろ外套がいとう。ルパで購入したのがもうずいぶんと昔のように思える。ラスターは身に着けているし、これは――


「シェリック?」


 そういえばシェリックはどこだ。一緒にいたはずなのに、姿が見えない。

 ここにシェリックの外套があるということは、ラスターとともにこの場所へたどり着いたということ。無事ではあると思うのだけれど――そう思いたいだけなのかもしれない。

 ラスターは首を振る。消極的ではいけない。


 とにかく、きっとこれはシェリックのだ。ラスターは自分のものを羽織っているし、シェリックに返さなくてはならない。

 見れば、砂が大量についてしまっていた。このまま返すには少々忍びない。外套を大きく広げ、はたいて砂を落とそうとしたその時、そこから何かが落ちてきた。


「あ」


 ラスターの上げた声につられて、ころりと転げたのはひもについた黄色の石。そして、一緒だと言わんばかりに落ちた一枚のカード。

 拾い上げた石はラスターが持つ緑石と同じ、向こう側が透けている鮮やかな黄色だ。ルパで見せてもらった、シェリックの星命石である。まさか、ここでこうして再会を果たすとは思ってもみなかったけれど。


 外套に小物を入れる隠しはあったけれど、こんなところに入れておくなんて。シェリックにとって、星命石は大事なものではないのだろうか。それに、失くしたら困るのはシェリックなのに。

 さて、こちらは何だろう。仕方ないなあと、ラスターはカードを裏返してみて。


「――え、これって……」


 ルパで見た模様。剣と、銀竜と、青い空。アルティナ王国の紋章だ。――そして。

 カードに書かれていた、『占星術師シェリック=エトワール』の名がひとつ。

不意に吹いた風が、呆然としていた手からそれを奪い取っていく。砂に落ちたカードを目にして、ラスターは我に返った。これ以上飛ばされてはまずいと、慌てて拾いに行く。

 どうしてここに。よぎった可能性が思考回路を塗りつぶしていく。


 どうしてなんて、そんなのは簡単だ。シェリックが『シェリック=エトワール』本人だからだ。同じ名前なんてそうそうあるものではない。さらわれないよう、手にちゃんとつかんだカードを何度見返しても、先ほど見た名前は変わらずそこにあった。


「アルティナの、占星術師……」


 それもきっと、アルティナでは名誉ある名なのだろう。

 シェリックはあの時、リディオルに言っていた。『アルティナには戻らない』と。三年前にシェリックが牢屋に入っていたこととそれは、さすがに無関係ではないはずだ。

 ラスターが知ってしまったのは偶然だけど、それを知りたくないと思ってしまったのは、自分の勝手な感情で。どうしてこんなところで、どうして今なのだ。知りたくなかった。こんな事実を。シェリックがいないところで。知りたくなんて、なかったのだ。


 それ以上見ていたくなくて、ラスターは星命石とカードを元の隠しに戻す。

 夢ではない。今ラスターがここにいることも、シェリックがシェリック=エトワールであったその事実も。


 せっかく聞かずにいたのに。キーシャも話すのを止めてくれたのに。知ってしまったら、そうだと思ってしまう。そういう目で見てしまう。何か事件を起こして牢に入れられた罪人なのだと、実感してしまう。

 シェリックはシェリックだ。それ以外の何者でもないのだ。


 ――どうして俺を助けた?


 空耳がラスターに問いかける。それはシェリックに、以前一度だけ尋ねられた質問だ。

 あの時はなんと答えたのだったろう。ラスターはシェリックに何を言ったのだろう。シェリックを助けた理由は。


「……だって、そんなの」


 あるようでないものだ。助けたその理由は、理屈では説明つかない。

 どうして。そこにシェリックがいたから。

 なぜ。他に生きている人がいなかったから。

 あの時、殺されかけたのに?


 何を考えるのも嫌になって、戻ったところにしゃがみ込み、背を預けた木から遠くを臨む。ルパはそちらにあるのだろうか。位置も場所も定かでない今では、どの辺りにルパがあるのかわからない。けれども、海の向こうにあるのは確かなのだ。

 抱えた膝に頭を預ける。


 今まで変わらずにいたこと何もかもが変わっていくような感覚がして、自分がそこに取り残されているような気がした。

 頭が混乱している。うずめた脳裏によぎるのは、先ほど目にした一枚のカード。

 キーシャとセーミャの話を聞いて。それからずっと、もしかしてとは思っていた。けれど、想像と聞いた話と実際に見るのとはそれぞれわけが違う。シェリックがシェリック=エトワール本人でなければ、あんなカードを持っているわけがない。


 石とカードが元の位置にあるのを確認して、ラスターは何事もなかったように、青褐色の外套を木にかけておいた。あの外套は自分が使っていいものではない。ルパで購入した同じものなのに、価値が違う。そう思ってしまって。

 シェリックはどこに行ったのだろう。このまま戻ってこないのだろうか。ラスターを置いて。


 もしかして――


 嫌な想像が駆けめぐる。

 そもそもシェリックはここにいるのだろうか。一緒に流れ着いたと思っていたけれど、実はここに着いたのはラスターだけで、シェリックはまだ海の中ではないだろうか。ラスターがシェリックだと思って離さなかった、彼の外套だけを握りしめたまま。

 そんなことあるわけがない。けれど、ないなんて言いきれない。だって、彼の姿がここにないのだ。信じたい。でも信じられない。シェリックはどこにいるのだ。


 かちかちと音が聞こえてくる。合わなくなった自分の歯の根が震えて、冷えだけじゃない寒さが身体の芯からはい上がってきて、力いっぱいに目を閉じる。

 ラスターの頭に何かがかけられたのはその時だった。唐突にやってきた衝撃と、暗さを増した視界に息が詰まった。


「おまえ、なんで着てないんだよ」


 今一番聞きたかった声。上から降ってきたそれには、反応できずに。


「寒いだろうから置いてったのに、これじゃあ意味ないじゃねえか。これから陽が落ちるってのに、風邪引くぞ」


 変わらない調子。あきれた声音。上げられない顔が、それらが本物だと確認できずにいて。本当に? 幻ではなく?


「ラスター。聞いてるのか、寝てるのか」


「……聞いてるよ」


「ならいい。それ、そのまま被ってろ」


「――うん」


 震えた肩も、熱くなった目頭も見せたくなくて、被せられた外套を握りしめる。それでも、隣に座る音だけはしっかり耳にした。

 自分が生きているとわかったことよりも、シェリックがいたとわかったことの方が嬉しかったなんて、絶対に言わない。


 言ってなんかやらないのだ。