翡翠の星屑

Chapter 28 - 迷える少女に愛の手を

季月 ハイネ2020/06/22 07:13
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 微かに開いていた扉が静かに閉じていく。慌ただしく出て行った背中を思い返して、元気だなと、妙に外れた感想を抱いた。数刻前のあの出来事が嘘だったかのように、心中がいでいる自身に驚いている。体調が万全であれば、また違った感想を抱いていたのかもしれない。


 ――心配しなくても、死ぬもんじゃないさ。嬢ちゃんもな。


 リディオルはそう言っていた。それをどこまで信じていいものか。

 あのとき。リディオルから返されたラスターを見つけて、とりあえず寝台まで運んだのである。正常な呼吸をしていることに安堵して、布団をかけたところで嫌な予感が浮かんでしまった。


 あのまま目覚めない可能性だってあったのだ。死にはしないと言われても、どこまでがリディオルの本心かわかったものじゃない。またのらりくらりとかわして、こちらを言いくるめることなど、彼にとってはたやすいものだろう。言いくるめられる側としては非常に複雑ではあるが。


 ともあれ、だ。今のところラスターは無事である。起き上がった様子からは怪我もないように見受けられるし、それがわかっただけでも良かったとしよう。

 ただ、ひとつだけ。


 ――まだ……治ってないの?


 そう尋ねてきたラスターが、シェリックに対しておびえているように見えたのだ。

 よもや、リディオルが言ったのではないだろうか。シェリックが飲んだ薬は酔い止めなどではないと、その事実を。いや、けれどもそれだけでは怖がられる説明がつかない。


 もしくは、ラスターにあることないこと吹き込んでいたりして――ありえる。ありえないとは言えないところがリディオルという人だ。なにせ嘘でさえも真実として語ってみせる手腕の持ち主だ。褒められたことではないが。

 何も話していないといい。願ったところで通じるものでもないけれど。

 さて、今心配するのは別のこと。とっさに薬を頼んでしまったけれど、果たしてラスターは作ってこれるのだろうか。



  **



 こしらえた薬と、もらった小さな包みと、グラスに入れた水と、持って行ったかばんと。全て両の手に持ちながら、ラスターはシェリックの元へと急いでいた。

 結果として作ることができてよかったのだけれど、なんだか荷物が増えてしまった。厨房を快く使わせてくれた船員の人から、シェリック宛の差し入れを預かったのだ。


 あれからご容態はいかがですか、なんて聞かれて、一瞬首をひねった。ラスターが覚えている限りで、シェリックの体調が悪いときに船員と出くわしたことはなかったし、出歩いたときだって、それを見たのはリディオルだ。あのあとシェリックは部屋から出たということだろうか。何のために――考えて、急く足が止まった。


 もしかして、自分のためではないだろうか。戻らなかった自分を探しに来て、体調が悪化して、それを船員が見つけたのではないだろうか。

 それは、あくまでもラスターの憶測でしかない。けれど、そうでもないと、シェリックが部屋から出た理由にならないのだ。あれだけ動くのにも億劫そうだったシェリックが、自分から外に出かけるなんて多分ない。そうしなければならない、よほどの理由でもなかった限り。


 抱えた荷物も、止まってしまった足も、どちらも重い。戻りたくない。けれどシェリックが待っている。頼まれた荷物も届けなければならない。彼の体調が、これ以上悪くなる前に。

 もやもやと迷う気持ちと、責任感から歩みを再開した足と。ラスターの思いとは裏腹に、部屋にたどり着くまでそう時間はかからなかった。そびえる扉が高く見える。あれほど心が落ち着けた場所に、今度は帰りたくなくなるなんて。


 沈んだ気持ちは隠せない。だから、やらなければならないことを優先してしまえば少しは取り繕えるはずだ。


「……ただいま」


 意を決して開いた扉は、引くだけの簡単な構造なのにたいそう重かった。


「おかえり」


 シェリックが眠っていてくれたらいいのに。そんな浅はかな願いが届くこともなく、ラスターは彼のひと言に出迎えられたのである。元気になってくれるのは嬉しい。そう、それは嬉しいのだ。

 後ろ手に閉めた扉が音を立てる。断たれた逃げ道に未練が残り、ラスターは振り切るようにして部屋の奥へと入った。


「具合はどう?」


「良くはないな。ただ、そこまで悪くもない。落ち着いてはきたか」


「そっか」


 じっとしているならあれ以上悪化することはないと思っていたけれど、ラスターの予想が間違っていなくて良かった。


「シェリック、起きれそう?」


「ああ」


 応えたシェリックが半身だけ寝台から起こし、枕を背当て代わりにして寄りかかる。

 その動作で見えてしまった。彼の、こめかみに浮いた汗はまだ乾いていない。


「えっと――こっちが薬で、あとお水と、船員さんから差し入れ預かってきたんだ」


「差し入れ?」


「うん。ご容態はいかがですかって言われて」


「ああ、律儀だな」


「何かあったの?」


「ちょっとな」


 彼が語る必要はないと言うのなら、それ以上は聞かない方がいいのだろう。それでも少し、ほんの少しばかり寂しいなんて思うのは、ラスターの自己中心的な考えだ。


「はい、これ」


「ああ」


 錠剤に詰めた薬を渡そうとして、うっかりシェリックの手に触れてしまう。瞬間。


「――あ」


 リディオルにつかまれた腕の感触を思い出し、手を反射的に引っ込めてしまった。音もなく寝台の上に散らばった錠剤と、一歩下がったラスターと。わずかに見開かれたシェリックの目が、やがて細められていく。ラスターはそちらを見ていられなくなって、勢いそのままに顔を背けてしまった。


「ご、ごめ――」


 しまった。体裁を整えようとしてももう遅い。手が、耳が、肩が、目が。まだ覚えている。ラスターが選ぶまで、決して忘れさせはしないと言うかのように。

 とん、と軽い音が鳴った。視界の端で、シェリックが足を床に下ろした。


「お前、リディオルに何かされたのか」


 シェリックはそれ以上動かず、ただ静かに尋ねてきたのだ。空いた距離と落ち着いたシェリックが――怖い。


「どうして、知って……」


 いつから、どこで、なんで――

 聞きたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。


「呼ばれたからだ。あいつはわざわざ俺に知らせて、お前を連れ去ろうとしているところを呼び寄せたんだよ」


 ざわりと。冷水を浴びせられた感覚がした。同時に思ったことがひとつ。知られてはならない。決して、知られては。


「――何も」


 そうして口を吐いて出たのは、肯定とは全く別の言葉だった。


「されてないよ。ただ、」


 ――さて、選んでもらうぜ。


「ただ……」


 問われただけだ。それは彼の暇つぶしであって、ラスターはただ、選択を受けただけなのだ。

 ――要求。そう、あれは選択なんかではない。一方的な要求だ。

 受けたくない。けれどもそうしなければ、この船は、シェリックは――

 ぽん、と。ラスターのうつむいた頭上に、大きな手が乗せられた。誰かなんて、一人しかいない。


「どうした」


 問われたひと言に、うっかり全てを話してしまいたくなってしまった。今ここで話せたなら、どんなに楽だろう。

 ラスターはきつく目を閉じる。まだ駄目だ。今は、駄目なのだ。吸い込んだ息とともに言いかけたことすらも呑み込んで、別の言葉を絞り出す。


「――ごめん、言えない」


 降りてきた沈黙にただただ息を凝らすしかなく、やがて聞こえた盛大なため息に、ラスターは肩を縮こまらせた。言いたいけど言いたくないのだ。どうしても。


「無理には聞かねえよ。俺に話せることがあれば、いつだって聞いてやるから」


「……ごめん」


 離れていく手に謝る。そもそもどう話したらいいのかわからないのだ。人に――シェリックに話してしまったら、リディオルは約束を破るのではないかという気がかりもあって。

 上げた目がシェリックを捉え、ラスターはぎょっとした。


「ちょっ、シェリック!?」


 散らばった錠剤はすでに彼の手の中にあった。何の断りもなく口に運ぼうとするものだから、慌ててその腕にしがみつく。


「待って、新しいものを」


「これでいい」


「でも!」


 ラスターの必死さが伝わったのか、ようやくシェリックは動きを止めてくれたのだ。


「何か、変なものが入ってるかもしれないじゃん」


 虚を突かれた顔がラスターを映す。自分は一体何を言っているのだろう。シェリックの顔にも、怪訝けげんな色が描かれていた。


「なんで? おまえが作ったんだろ? 何か入れたのか?」


「ううん、入れてない。作ったのは、ボクだケド……」


「だったら問題ない。何年お前と一緒にいると思ってるんだよ。ちゃんと効果があることくらい、立証済みだ」


 それはつまり、ラスターを信用してくれているということだろうか。


「でも……」


「でもも何もねえよ。お前に頼んだのは俺だ」


「あ……」


 彼の口内へと消えていく光景を最後に、錠剤はそこからいなくなる。これほど名残惜しくなるなんて思わなくて、空虚な思いだけが残された。


「水」


「う、うん」


 乞われるままにグラスを渡して、減っていく水をぼんやりと眺める。空になったグラスを受け取ったラスターに、ずっとしかめ面だったシェリックはとうとう吹き出したのだ。


「お前、今、相当酷い顔してるぞ」


「……もともとこんな顔だよ」


 シェリックが悪いのだ。ラスターの制止を振り切って、薬を飲んでしまったから。

 症状を悪化させてしまったラスターの薬を、再び飲んだりするから。


「考えすぎて思いつめるなよ」


「思いつめてなんか――」


 不意に扉が叩かれ、反射的に肩が跳ねた。

 動けずにいたラスターの頭を叩きながら、シェリックはその横をすり抜けていく。応対に向かった彼の背中を見送り、早鐘を打つ心臓に息を詰めた。


「――はい」


 誰だろう。ラスターは首だけ動かして、傍観の姿勢を保つ。腕や足、顔の表面に力が入ってしまうのは、ちらりとよぎった警戒心からだ。

 リディオルだろうか。

 思いを言葉という形にした途端、例えようのない息苦しさが喉を締めつけ、今すぐにでもここから逃げたくなった。


 ――あとどれくらいなのだろうか。


 上向いた視界に入った時計は、正午まで残り二刻を指している。もうあとふた回りしか残っていない。いや、悲観はよくない。まだ、時間はある。


「――ああ、そうだ。会うか?」


 シェリックの声に戻される。訪問者は、リディオルでは、ない?


「ラスター、客」


「こんにちは」


 シェリックがそこから一歩下がる。開かれた扉の向こうにいたのは、一人の少女だった。それと――


「こんにちは、お邪魔しますね」


 後ろからひょっこりと顔を覗かせた女性に、ラスターは目を丸くする。どうしてここに。疑問より先に彼女の名が出てきた。


「セーミャ!」


 そこにいたのは、治療師見習いの彼女だったのだ。