Chapter 29 - 訪れた人は、彼を知る
明るい笑顔で笑いかけてきたセーミャのその前。初めに顔を出した彼女に、今のところ見覚えはない。けれども、どこかで見たような気がするのだ。一体どこでだっただろう。そのラスターの疑問は、名も知らぬ彼女が答えてくれた。
「あの、覚えてないかしら? 私、あなたに助けてもらったの。そのお礼が言いたくて」
――ボクが、助けた?
今一度思い出す。この船に乗ってからしたことと言えば。
「あ。もしかして、昨日の?」
「ええ」
言われてみれば朝焼けに似た淡い色彩の短い髪も、くりくりと動く橙の瞳も、あの時横になっていたお嬢様に似ている。違う印象を受けたのは、今は元気な姿を見せているからだろうか。それでも、昨日の今日だ。
「大丈夫なの?」
熱にうなされていた彼女の姿しか記憶にないから、余計心配になってくる。曇らせた顔で訊くと、セーミャが答えてくれたのだ。
「ラスターからもらった薬が効いて、今朝、一気に熱が下がったんです。わたしもまだ早いとは言ったのですが、お嬢様がどうしてもということでお連れしました。わたしが少しでも駄目だと判断したら、引っ張ってでも帰りますからね」
最後のひと言を向けられた彼女は、笑顔でそれをかわした。二人の間でしばし無言のやり取りが交わされる。
「お嬢様?」
続いたセーミャの追撃に、彼女はひとつ息を吐いたのだ。
「はいはい。みんなして心配性なのよ」
「こちらの気も知らないで……」
「はーい。無理はしないわ」
注意して、されて。ただそれだけだ。それでもそこに二人の仲のよさげな雰囲気が見えて、ラスターは少しだけ羨ましくなる。
「あの、良かったら。狭いケド、入って」
「ありがとう。お邪魔します」
二人が中に入ってきた直後。ラスターの横をよぎり、そこから出て行こうとする影がひとつ。
「しばらく出てくる。いない方が話しやすいだろ」
「え? 待っ、シェリック!」
ラスターが引き留める間もなく、シェリックはさっさと出て行ってしまったのだ。音を立てて閉まった扉を最後に、そこには三人だけが残されて。
「ごめんなさい。私が来てしまったせいで……」
申し訳なさそうに謝るお嬢様に、ラスターは首を振った。
「ううん、気にしないで。いつもあんな感じだから」
「そうなの?」
「うん」
答えて、いつもではないかもしれないと思い直す。二人が来る前には少し気まずくなっていたけれど、それだって解消できないものではないし。
「椅子、どうぞ」
「ありがとう」
残った椅子はひとつだ。
「わたしは必要ありませんので、ラスターが使ってください」
「うん、ありがとう」
お嬢様の後ろ、控えるように立つセーミャがそう言い、ラスターはありがたく使わせてもらうことにした。二人がほぼ同時に腰をかけると、何となく沈黙が流れる。先に言葉を発したのは彼女の方だった。
「薬、あなたが作ってくれたんですってね。ありがとう。あなたのこと、セーミャとお母様から聞いたの。私とそんなに年が変わらないんだって言われて。だから、お話ししてみたくなって」
「そうなんだ」
考えてみれば、ラスターとシェリックもそこそこ年が離れていると思う。母親がいなくなってからはほとんど祖母とばかり一緒に過ごしていたし、そう考えると年の近い人はラスターの身近にいなかったかもしれない。
ちょっぴり新鮮な気持ちになる。
「私はキーシャ。あなたは?」
「ボクはラスター。さっき出ていったのがシェリックだよ」
「ふうん、そう……」
それを聞くと、なぜかキーシャは思案顔で黙りこくった。しばらく扉を見ていたかと思うと、こう尋ねてきたのだ。
「二人は親子なの? それとも兄妹?」
何を考えているのかと思えば。見当違いの言葉に、笑って手を振る。
「違うよ。旅の連れかな」
――そう、互いのことを何も知らない赤の他人なのだ。
「似てないなーとは思ったけど、ひょっとしたらなんて気持ちもあって。ごめんなさい」
「ううん。親子かぁ。年いくつか、訊いたコトないからわからないんだよね。シェリックは多分、セーミャと同じくらいだと思うんだケド」
年齢なんて、そんなこと気にもしなかった。
「そうなの? 一緒にいるから、結構仲が良さそうに見えたんだけど……お互いのことはそんなに話さないの?」
「そういうわけじゃないケド」
必要なかったのだ。互いの事情を明かさなくても十分だったというか。
「仲は悪くないと思う。良い方だよ、きっと」
旅の初め。二人の間での会話がほぼ皆無に等しかったあの頃。
当時は各々に動いていたので、単独行動をしていた時間の方が多かった。
特にシェリックは必要なこと以外は口に出さず、気がつけばどこかへと行ってしまっていたのだ。お互いの行動範囲は知れなくて、よくもまあそれでともに旅をしていると言えたものだと思う。
待ち合わせも示し合わせもしないまま。それでもいつかは必ず出くわして、新たな場所へ向かうという繰り返しだった。そうしていつの日か、ラスターの探し人を見つける目的となっていた。
ふと思う。シェリックはどうしてここまでついてきてくれたのだろう。
考えてみれば不思議な話だ。だって、牢屋から出たのならシェリックは自由の身であって、好きなところへ向かっていいのだ。ラスターにつき合う理由なんてこれっぽっちも――
「――セーミャ。あなた、どうしたの?」
キーシャの声で我に返る。ふと彼女の隣に視線を送ると、何か考え込んでいる様子のセーミャがいた。
何か思い出しそうで、思い出せずにいそうな。そんな彼女へと問いかけるより先に、セーミャはラスターの方を向いた。
「――あの人、シェリックっておっしゃるんですか?」
「え。うん、そうだケド……」
彼女の音調がわずかに低くなったように思えて、ラスターはたじろぐ。怒っているわけではなさそうだけど。
言いようのない不安に襲われるのはどうしてだろう。
「シェリック=エトワール、ですか?」
セーミャの双眸が険しい。彼女の真剣さに押されそうになる。
シェリックの正式な名前は――思い出そうとして、彼の名前の全てを聞いたことがなかったのに気づいた。
「わからない。ちゃんとした名前は聞いたコトないから」
ざわりと。冷たい手でなでられたような嫌な感覚がした。名前が、どうしたのだろうか。キーシャを見て、彼女の戸惑った表情がそこにあって、ラスターの不安が膨れ上がる。
セーミャは、何を知っているのだろうか。
「あの人が、シェリック=エトワール……? けど、それじゃあ……」
「知ってるの?」
キーシャのつぶやきが聞こえてくる。言いにくそうな、口に出すのがためらわれるような、それでいてどこか困っているような――
どうしてこんなに嫌な予感が拭えないのか。牢屋にいた彼を連れ出して、ともに旅をし始めたのは三年前で――牢屋?
もしかして、知っているのか。罪人だったシェリックを、二人は知っているのだろうか。
「お嬢様、それはわたしが。ラスター、わたしたちがアルティナの人間であることはご存知ですね?」
「うん」
牢から出したことをとがめられるのかもしれない。そんな思いも少なからずラスターの中にあって。恐る恐る続きを待つ。
キーシャはアルティナのお嬢様である。ならば、キーシャの傍についているセーミャも、恐らくはアルティナの人間だ。
前置きしたセーミャは語り始める。
「王宮には、アルティナに仕える人たちが大勢いるんです。中でも、全部で十二の職に就いている人たちは一目置かれた存在で、上級職、なんて呼ばれています」
「うん」
「わたしのお師匠様もここの十二人の一人なのですが、全然そうは見えないんですよ。あの人、ちゃんとしていれば見た目だけはまともなのに、ぐうたら全開で普段昼寝ばかりしていて本っっ当に働こうとしないんです。上級職なのをいいことに自分専用の昼寝室を用意させたり、快適な枕を特注で作らせたり、職権濫用にもほどがあるんですよ。仕事が来たら呼びに来いなんて言うくせに、いざ呼びに行ってみたらわたしたちに丸投げするし。それでも腕は確かですが、ぶっちゃけた話、あの人のいいところはそれだけと言いますか」
「……う、うん」
彼女が普段大変だということはなんとなくわかった。
「――すいません、話がだいぶ逸れました。その十二人の中に、占星術師、シェリック=エトワールという人がいて。それがあの人ではないかと思いまして」
「――シェリック?」
シェリック。確かに同じ名前だ。それはもしかして、同一人物なのだろうか。
占星術師。
頭に浮かんだのは、道の途中で幾度も空を見上げていたシェリックの姿。万全な体調ではなかっただろうに、船に乗ってからもそれは続いていて。少なくとも陸上において、方向を決して間違えなかった術を持っていたのは確かだ。
聞いたことがある。星で位置を確認できるのだと。そうして方角のわからない場所でも進んでいけるのだと。また、まだ見ぬ未来を予測できるのだと。ラスターにそれを教えてくれたのは、シェリックとは別の人物だったけれど。
キーシャがおずおずと口を開く。
「王宮で――禁術を、犯した人なんですって」
「――え」
聞き慣れない言葉。申し訳なさそうに語るキーシャの向こうに、いつかの鉄格子が見えた気がした。
最果ての牢屋。シェリックはどうしてあそこに捕まっていたのか、何があったのか。出会ったあの時聞ける雰囲気ではなくて、いつの間にか気にも留めなくなっていたのだ。互いのことに関しては何も詮索しないようになっていて。
ここで聞いていいのだろうか。シェリックのいない今。彼の口からではなく。ラスターが聞いてしまったら、シェリックはどう思うだろう。もし、ラスターがシェリックの立場だったなら。
「今から七年……いえ、六年前に――」
「――待って!」
とっさに、彼女の前へと両手をかざしていた。きょとんとするキーシャに告げる。
「ごめん、それは聞きたくない。ボクが今聞いちゃ、いけない気がするから」
シェリックではないかもしれない。同じ名前であっても、本人でない可能性だってある。
けれど、もし同一人物だったなら? シェリックが、占星術師シェリック=エトワールだったなら?
彼の承諾なしに、彼の知らないところで彼の過去を勝手に聞くなど、裏切りの行為だ。
「そっか……ごめんなさい。余計なこと言いかけたわ」
「ううん。止めてくれてありがとう」
キーシャがふふ、と笑うのだ。
「あなた、いい人ね。みんな他の人の秘密を知りたがるのに、あなたは違うわ。あなたの連れの人も、何か悪いことをした人に見えないもの」
悪いこと。
考えて、乾いた笑いが漏れる。シェリックが牢屋にいたことは伏せておこう。何があったかなんて、知っているのは本人だけでいい。
「秘密かあ……」
誰にだって言いたくないことはある。それが本人から聞くのと他の人から聞くのとでは、意味合いが違ってきてしまう。
「その人が話したくないことを、他の人から聞いちゃいけない気がするんだ。ボクも、シェリックが悪い人には見えないし。シェリックは優しい人だもの。その占星術師って人とシェリックが同じ人だったとしても、きっと何か、アルティナにいられなかった理由があったんだと思うんだ」
でなければあんなところに入ったりはしない。例え、シェリックにはラスターの知らない一面があるのだとしても。
三年ばかりのつき合いだけれど、ラスターにわかることだってあるのだ。
「あなたも優しい人だわ――ね、あなたのこと、ラスターって呼んでもいいかしら?」
「うん。いいよ」
「ありがとう! 私のことも呼び捨てで構わないわ」
「そう? じゃあ、キーシャ」
「なあに? ラスター」
お互いに呼んで、顔を見合わせて、とうとう吹き出した。
「実はね、私、呼び捨てで呼ばれることってあまりないの」
「え、どうして?」
「私ね、いつも顔合わせている人を除くと、年の近い人って久しぶりで。あ、もちろん、セーミャは別よ。それでついつい気が抜けちゃったみたい。『またあなたは勝手なことを……』なーんて言われるんだわ。私のやりたいことをさせてくれた試しなんてないんだから、少しくらい好きにさせてくれたっていいじゃない」
その人の口真似だろうか。少し低めに声を変えてしゃべるキーシャがなんだか楽しそうで、ラスターもつられて楽しくなってしまう。でも、そうか。彼女は、アルティナの――
「いいの? キーシャ、お嬢様なんだよね?」
本来ならば呼び捨てで呼ぶことなんてできない、そんな立場にいる人のはずだ。
「そうだけど。いいの、私が決めたの。お母様だって認めてくれるはずだわ。だって、普段人を褒めることのないお母様が、あなたのことを称賛していたのだもの。滅多にあることじゃないのよ――ね、あなたもいいわよね、セーミャ?」
「初めからわたしに決定権なんてないですよ。お好きになさってください」
「ありがとう、セーミャ」
「どういたしまして」
真剣な表情で話すキーシャから熱意が伝わってくる。母親が人を褒めるのはどんなに希有なことか、称賛された人がどれだけ凄い人なのかを。そう熱弁されても、ラスターは実感が湧かない。あの時シェリックがいなければ、ラスターの作った薬はキーシャに届かなかったわけだし、その称賛はラスターだけのものではないと思ったからだ。
それでも。褒められて少しばかりくすぐったくなったのは、ラスターだけの秘密だ。