Chapter 27 - 道化師、一人
明けない夜闇に響く風の唄。
大海に浮かぶ船を取り巻き、赤子をあやすように支配する。
時に嘲笑い、行く手を阻み、容易く進ませては元の場所へと押し返す。
風を切るのは光か波か。
彼らを導く、灯りはどこに――
床まで届くほどの盛大なため息を落とす。やっていられない。
我ながらなんと感傷的になっているのだろう。物語のひとつをそらんじるなど、いつもなら決してそんなことはしないのに。いや、訂正しておこう。決して、ではない。賭けてもいい、絶対にしない。
旧友に会えて嬉しいのか、気分が高揚しているだけなのか、計画が無事に進んでいることに対しての安堵か、はたまたその全てなのか。
「あーやだやだ、俺の性分じゃねぇ」
相手が旧友だから? 年下の少女を追いつめることになっているから? だから何だと言うのだ。
自分のやりたいようにやらせてもらう。そう、全ては――
「我が主のために、なんて言えたら格好いいんだろうけど、これも俺の柄じゃねぇし」
ま、状況は似たようなものかと一人ごちる。
組んだ足の上に両手を乗せ、両の指を絡める。そこから見やった外には、土砂降りの雨があった。呼び寄せるのも留めておくのにも苦労するが、こうして眺める分にはなかなか悪くない。この強さなら、術を解いてもしばらくはここに居座ってくれるだろう。
「やれやれ、もつかねぇ」
船の強度に関しては心配していない。なにせ世界が誇るアルティナ製だ。ちょっとやそっとのことでは壊れはしないし、船員たちも柔ではない。一見頼りない風貌《ふうぼう》の者もいるが、こと船に関して彼らの右に出る者はいない。
船を揺らさないように、だなんて追加の注文が入ってしまったから、今リディオルが重視しているのはそちらの方だ。留める嵐はその片手間に。
切らさないようにしている集中力は、もう少し頑張ればいいだけの話。そちらは自分次第でなんとかするのだから心配はしていない。
だから、リディオルの懸念事項はひとつ。
――もうやめてよ!
あの少女の心が壊れてしまわないかどうかだ。乗り越えられたなら褒めてやろう。もし、駄目だったなら――ここまでだったということだ。
旧友の言葉を借りるなら、所詮は赤の他人。かける情など、あいにく持ち合わせていない。
けれどもしそうなったなら、確実に一人には殺されそうだ。そうならないようにするつもりではあるけれど、リディオルが手を貸した時点で彼女はここまでだ。
「嬢ちゃんは、あの人のお眼鏡に適うかね」
どちらかを望むというのなら適ってほしいが、その判断はリディオルがするのではない。それまでのお膳立ては整えてある。だから、あとはあの少女次第だ。
「さて、命を賭けた選択だぜ」
口にすると笑ってしまう。なんて簡単で、単純明快な選択をあげたのだろう。
肘を突き、自然と上がってしまう口角を隠しなどしない。どうせここにいるのは自分だけだ。そうして思いを馳せるのは、少女のこと。今頃は目が覚めた頃だろうか。彼女の連れである旧友と話をしているのだろうか。
「さあどうする、嬢ちゃん? 嬢ちゃんのひと言で全てが決まるんだ、たっぷり悩んで決めてくれよ」
待つのがこれほど楽しいなんて、思いもしなかった。
――明けない夜は決してない。
導く灯りは星の光。
嵐の中にたったひとつ、静かに待ち続ける光明を探して――
だから、気分が良かったのだ。途中で止めてしまった物語の続きをつぶやくなんて、柄でもないことまでしてしまったのだから。
それぞれの想いを乗せて、船は波間を漂い続ける。
**
扉や窓の外から聞こえてくる音は大きく、布団を被っていても聞こえてくる。
荒波と突風が襲いかかる海の真ん中を逃げ惑い、あっちに揺れ、こっちに揺れを繰り返しながら、それでも船は進み続けていた。きっと、こういった事態を想定して頑丈な造りにしているのだろう。
揺れているはずなのに、少しも振動がやってこないのはどうしたことか。その不思議な嵐は、先ほどラスターが見た時と少しも変わっていなかった。
本来なら揺れも何も感じないなんて、そんなわけはないはずなのに。
「――あれ?」
開けた目に映しながら、のそりと身体を起こす。寝台上で膝を抱えて丸くなり、どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。
ちらりと横へ視線を動かす。先と変わらない姿勢で寝ているシェリックがそこにいて、全て夢だったのではないかと錯覚する。変わったことと言えば右腕で目元を覆っているぐらいか。
肩から落ちる布団を意にも介さず、ラスターは窓にへばりついた。
変わらない大荒れの海。窓の向こう、目と鼻の先でうねる波に釘づけになる。船があれに呑み込まれたら、きっとひとたまりもないだろう。でも、やはり一枚の絵にしか見えない。他の場所で起こっている光景を見せられているような、変な感覚があって。
ラスターは目を細めた。
「朝……?」
前に目が覚めたのはいつだ。今はあれからどのくらい経ったのだ。こう空が暗いと判別しづらい。
つぶやいた直後、急に現実が戻ってきたような感覚に捕らわれた。
それは、夢の終わり。決して夢ばかりではない、突きつけられた現実。
――そうだな、期限を設けないと面白くないもんな。
リディオルの言葉を思い出すたび、次第に明確になっていく思考。頭の中で、呼応するように蘇ってくる言葉がある。夢だったなら、どんなにか良かったのに。
――明日でいいか。明日の正午だ。それまでに答えを出してくれよ。
今、何刻なのだろう。あとどれくらい、考える時間があるのだろう。時計はどこかにあっただろうか。
不安に胸が締めつけられる。こんな気持ちは、あのとき以来だ。焦燥感が募る。身体中を支配され、絡め取られていくかのような。
「明けてから少ししか経ってないぜ」
「――わっ!」
突然の言葉に思わず飛び上がった。恐る恐るそちらを顧みる。
てっきり寝ているものだと思っていたシェリックが、先の姿勢を崩さず声を発したのだ。
「……お前、人を幽霊か何かと勘違いしてるんじゃないだろうな」
「そうじゃなくて、起きてると思わなくて……」
びっくりした。本当に心臓に悪い。
そうこうしている間にシェリックの腕がずらされ、合わさった視線に一瞬たじろぐ。見られただけなのに、全部を見透かされているようで。
「ついさっき目が覚めた」
「まだ……治ってないの?」
頭をもたげることすらせず、目線だけで問いかけてきたシェリックに、そう尋ねるしかなかった。
「ああ。お前は?」
「へーき。問題ないよ」
「そうか、ならいい」
疲れた笑みを見せる彼の表情は、ラスターが部屋を出たとき以上に、疲労の色がひどく濃くなっていた。一時は回復したと思っていたのに、これでは元の木阿弥だ。申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
だってそれは、ラスターのせいなのだから。自分のせいでさらに酷くなって、ここまで悪化させてしまったのだから。
開こうとした口からは謝罪の言葉しか浮かんでこなくて、何も言えずにシェリックから視線を外した。今謝っても、何のことだと言われるに違いない。まだ、決心がついていないのだ。薬のことも、リディオルのことも。話したくない――話せない。
「――薬」
「え?」
だから、聞こえてきたひと言にぎくりとしてしまった。
「あったら、もらえるか?」
強張っていた力が抜け、目をぱちくりとさせる。
シェリックに気づかれたのかと思ったけれど、そういうわけではないようだ。一体どういった心境の変化だろう――と考えて思い出す。そういえば、リディオルの薬が切れた頃に渡す話をしていたのだったか。
けれども、リディオルの薬がどんなものだったのか、ラスターの薬でそこにどんな作用を及ぼしてしまったのか、言えずに口を閉ざしてしまった。
「ラスター?」
――言えない。
「――あ、うん。待って。酔い止めでいいの?」
「ああ。構わない」
返事を聞いて、ラスターは胸の前で拳を握りしめる。探した荷物を両腕で抱えて、一度シェリックの方を振り向いた。
「すぐ作るから、待ってて!」
不可抗力だったとはいえ、このままでいいわけがない。引き寄せた荷物を持って、ラスターは動く。
――嬢ちゃんにあいつは救えない。
呪いのようにまとわりつく言葉を振り払うために。助けられないなんて、そんなことない。それを証明するために。
一度失敗してしまったなら、今度こそ間違えない。