翡翠の星屑

Chapter 17 - 些細な同行、混じる人

季月 ハイネ2020/06/15 15:36
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 ラスターはひたすら走って、自分たちに当てられた部屋へと戻った。扉を前にして立ち止まると軽い息切れに襲われたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 きっとシェリックは戻ってきているだろう。去っていく後ろ姿を思い出すと、どうしようもなく胸が締めつけられた。それは理屈じゃない。ちり、と走る痛みはただ切なく、苦しい。


 今の今まで、一度もこんなことはなかったのに。

 唇をかみ、息を吸って、吐いて。意を決して勢いよく扉を開く。と、ちょうど真正面の窓際に座っていたシェリックが、下げていた顔をこちらに向けてきた。


「ラスター?」


 丸くした目で呼ばれたその顔色は、先ほどと比べるとずっと良さそうである。


「起きてたんだ」


「ああ。だいぶ休めたからな」


 窓に向けていた体勢を扉側へと向ける――それでも緩慢な動作ではあったけれど。シェリックが出した声もしっかりとしている。この分だと、回復までは比較的早そうだ。


「――さっきは悪い。気が立っていた」


 思いがけない謝罪に目を見開いた。


「ううん、気にしてないよ」


 そう言った反面、内心では胸をなで下ろす。いつものシェリックだ。これから先ずっと、話せないままだったらどうしようかと思っていたのだ。

 見なかったことにして問題を先延ばしにしただけではないかと、ラスターのどこかで見もしない誰かがささやく。もやもやとした気持ちは見えなかったふりをして、自分の荷物を探した。

 めぐらせた首がそれに行き当たり、ラスターは鞄をひっつかんだ。


「ちょっと出かけてくるね」


 急がなければならない。待っている人がいるから。


「――は? どこに?」


「わからない。ケド、熱を出した人がいるって聞いたから、行ってくる」


「熱を出した人?」


「うん」


 一応話しておいた方がいいだろうか。すぐに部屋を出るか悩んだ末に、シェリックへと向き直った。


「あのね――」


 そうして船員から聞いたばかりの話をする。急に熱を出した女性がいること。船員が医師を探していたけれど、船内には見つからなかったこと。それを聞いて、ラスターが何かできるかもしれないと提案してみたこと。


「――それで、荷物を取りに来たんだ。その熱を出したって人がアルティナのお嬢様らしくて、お母さんとこっそり出かけてたんだって。いつもならいる従者の人とかが今回はいないみたいで、だから余計に慌ててる、って感じかな……」


「なるほどな」


 予想外の出来事が起きた時こそ、その対処法が問われる。

 大国のお嬢様、ともなれば対処はより慎重に、かつ迅速に行われなければならないものだろう。自分が行って何ができるわけでもないけれど、力になれると豪語してしまった以上はやれることをしたい。


「船員さんたち急いでるみたいだし、ボク、行くね」


「俺も行く」


 身を翻しかけたラスターの足が止められる。今、何と。


「え。でも、シェリック、体調――」


「問題ねえよ。保険のために行くだけだ」


 言いかけた言葉が遮られる。

 動作は常よりもゆっくりで、声に覇気もない。それでも問題ないというのなら別にいいのだけれど――様子を見て駄目そうなら強引にでも止めようと、ラスターはこっそり決める。それと、少々気になる単語があって。


「保険って?」


「気にするな。こっちの話だ」


 首を傾げるも、背中を叩かれて強引に終わらせられてしまう。


「ほら、行くぞ」


「うん?」


 納得は行かなかったけれど、ラスターは頭を振り、無理矢理思考を切り替えた。ここで押し問答を繰り広げている場合ではない。今は、他にも先にもすべきことがある。

 材料は足りていただろうか。ルパで仕入れた分を換算しても、きっと間に合う量のはずだ。足りなくてもどうにかする。いや、しなければならない。荷物を握った手に力が入る。

 助けたい。力になりたい。自分が役に立てるのなら。


「ラスター」


「――なに?」


 頭へと乗せられた手に、ラスターは上を向く。ああ、やっぱりまだ顔色は悪い。先ほどは良さそうだと思ったけれど、青白いことに変わりない。船の廊下が薄暗い照明しかない、というのも助長しているのだろう。


「あんまり思いつめるなよ。お前はたまたまそこにいただけなんだから」


「ありがとう。なんとかなったら、シェリックもゆっくり休んでよ?」


「ごめんだな」


「なんでさ」


 間髪入れずに返され、口をとがらせる。自分だけ断るのは卑怯《ひきょう》だと、そう思っていたら。


「なんとかなったらじゃなくて、お前ができることをやってひと段落ついたらな」


 言い直された言葉に、うっかり頬が緩んでしまった。にやついた顔を見られたくなくて、抱え上げた荷物で顔を隠す。それからシェリックの腕を叩き、了承の返事をした。


「――うん。約束したからね」


「約束にもならないだろ。終わったら寝る気満々だぞ、俺は」


「あはは、そうして」


 その言い方に、吹き出すのを止められなかった。体調は、万全の状態にしておくのが一番だ。

 廊下の隅で待っていた船員の元へと走り寄る。もう一人の姿は見えないので、もしかしたら先に向かったのかもしれない。ラスターが近づくと、彼の目がシェリックへと向いた。


「そちらは、連れの人か?」


「ええ、お気になさらず」


 応じたシェリックが片手を挙げる。


「そうですか。こちらへ」


 船員はそれ以上意にも介さず、先を歩き始める。彼の先導に従って、ラスターとシェリックは奥の部屋へと連れられていった。



  **



 叩いた音は三回。


「失礼します」


 船員が前にそびえるドアを開き、後ろから入るラスターたちのためか、脇へ退いた。


「お連れしました」


「ご苦労様でした」


 途端に浴びせられたのは、痛いほどの視線。それも一人だけではなく、その場にいた五人ほぼ全員からだ。驚愕、心配、不安、困惑。


 ――こんな子どもが?

 ――大丈夫だろうか?


 物言わずとも、そう言いたげな瞳で。

 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。前だけを見据えることで、それらの視線を意識から追い出した。シェリックがいなかった頃はいつも浴びていた反応だ。慣れたとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。


 彼らが何も言ってこないのは、背後にシェリックという大人が控えていたからだろう。切れ目の長身で、その場にいるだけでも威圧感が漂っているからだ。にらみをきかせたら、誰もが身をすくめるに違いない。

 ラスターは、微かに宿る安堵感を認めるしかなかった。シェリックは保険だと言っていたから、恐らく、これを予測しての同行だったのだろう。子どもに過ぎないラスターと、それと比べたら遥かに大人であるシェリックと。


 いいなあと思う。早く大人になりたいのに、月日がそれを許してくれない。大人になれば、こんな視線を投げかけられることもなくなるのだろうか。それはいつになるのだろう。

 シェリックにもあったのだろうか。早く大人になりたいと、そんな風に思っていた時期が。今より若い、ラスターと同じくらいの年齢の時に――そう考えて、思考を閉ざした。それ以上はいけない。


 ――過去に何が起きていようと、互いに一切干渉しない。


 二人の間で決められている暗黙の了承。暗黙とは言うけれども、一度だけ約束に似たものを交わしたことを、シェリックは覚えているだろうか。

 シェリックが何者なのかはわからない。それはシェリックにとっても同じことだ。


 何故彼が最果ての牢屋に入っていたのか、ラスターは訊く気などない。気にはなるけれど、訊いてまで知りたいとは思わないのだ。会うべくして会った人物であり、なるべくしてなった奇妙な関係である。

 ラスターも自分のことについて話す気はない。必要があるのなら話そうとは思っているけれど、必要がなければその限りではない。別に知りたいなんて思っていないだろうし――


「あなた方が、医師の代わりの方ですか?」


 今いる場所を思い出して、慌てて居すまいを正す。

 疑いの眼差しが注がれる中、唯一彼らとは違う反応をしたのは、奥に座っている女性だった。微笑む姿は穏やかではあるけれど、彼女の考えていることが何も見出せない。


「うん。そっちの子が、具合悪くしたんだね?」


「ええ、そうです」


 女性が腰かける椅子と、その前にある寝台。どちらも決して華美ではない。けれど、表面の艶めきが他と違うことから、良い素材で作られている家具だと察せられる。

 寝台には、女の子が一人眠っていた。

 額には布が置かれ、彼女の頬は赤い。平常よりも早い呼吸で、かけられている布団が上下している。話題に上がっていたアルティナのお嬢様とは、きっと彼女のことだろう。


「ボクはお医者さんじゃないから詳しい判断はできないケド、薬なら作れる。それでもいいかな?」


「ええ、構いません――説明してあげてください」


 視線をずらし、ラスターの背後へと声がかけられる。


「はっ、はい!」


 上擦った返事が上がり、振り向こうとしたラスターの視界に飛び込んできたのは、寝ている少女に負けず劣らず、上気した顔の若い女性だった。見たところ、シェリックと同じくらいの年だろうか。


「じ、自分は治療師見習いです! お嬢様の症状を見たところ熱があり、喉が少し腫れておりました。恐らく、単なる風邪ではないかと思われます!」


「あ、ありがとう」


 彼女の勢いに押され、しどろもどろになってしまう。言い終えるなり、彼女は勢いを失くしてしゅんとなった。どうしたのだろうと思う間もなく。


「あなた、わたしよりお若く見えるのに薬師なんですね。わたし、症状はわかるのに、解決出来ないなんて面目ないです。お薬、お願いします」


 その様子が本当に悔しそうで、ラスターはしっかりと頷いたのだ。


「うん、任せて」