翡翠の星屑

Chapter 3 - 再会の朝、陽の光

季月 ハイネ2020/06/19 17:11
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 ルパの町は朝が早い。

 それには理由があり、遠くの海まで出かけていくのに船の出発が遅いと、町の主産物である回遊魚が全く穫れなくなってしまうからだ。近海だけでなく遠洋まで行く船もあり、ひと口に航海と言ってもその期間はまちまちだ。


 そういった町であるためか、ルパでの夜明けの目覚ましは鶏ではなく、船の汽笛だ。遠く長く、さらに深く、低く、響く汽笛の音は、どこか寂しさを感じさせる。

 笛の音を響かせて、一隻いっせきの船が出ていく。


 ラスターは窓にもたれながら、出航していくその船を見ていた。

 夜明けが来たとはいえ、辺りはまだ薄暗い。町のあちこちにはちらほらと明かりが点いている。明かりの灯ったあの家の人たちは、おそらくこれから仕事を始めるのだろう。欠伸をかみ殺しながら、昨夜シェリックが『明日は早いぞ』と言っていたことを思い出す。


 シェリックが早いと言ったのはラスターたちの行動ではなく、町の活動だったのかもしれない。確かに、町中に響くこの音なら起きない者はほとんどいないだろう。目覚ましにはちょうどいい。ちなみにラスターも起こされた者の一人だ。


 ――もしかしたらシェリックもその一人なのだろうか。


 自分で思っていた以上に疲れていたのか、昨晩意識を飛ばすように寝入ってしまったから知らないのだ。シェリックがいつ寝たのか、いつ起きて部屋から出ていったのかすらも。

 向かいの寝台を見ながら頬をかく。そう、いないのだ。ラスターが目を覚ました時からずっと。

 布団にしわがないということは、昨夜から戻っていないのかもしれない。


 すたすたと歩いて、自分が寝ていた布団に突っ伏す。足をバタバタさせて、むー、と言葉にならないうめき声を上げた。

 出かけるなら何か言ってくれても良いではないか。いや、自分を起こしたくなかったという可能性もある。それならそれで、書き置きのひとつでも残してくれればいいものを。

 枕を抱えて、ぶつけようのない感情をもて余す。


 ラスターだって一人でいたい時はあるし、何も、片時も離れずにいたいわけではない。それでも行方を知らないことに不安を感じるのは、二人でいることに慣れてしまったからだろうか。

 それに――シェリックに出会う前から始まっているこの旅の理由だって、まだ彼に話していないのだ。


 言えるわけがない。いなくなった母親を、あてもなく探しているなんて。

 明確な目的地なんてなくて、足取りさえもろくにつかめず、ずるずると年月だけが去ってしまった。快く送り出してくれた祖母の笑顔が脳裏に浮かぶ。あの笑顔を裏切るのは嫌だ。祖母を悲しませたくないから、母親を見つけるまでは帰りたくないのだ。それに、帰る場所なんてもう――

 ラスターは目を閉じる。


 ――シェリックに出会ったあの日。


 あれは、母親の知り合いがいると言われたのだ。見かけたから、探しに行ってみるといい、と。

 確認しながら歩いていたのだが、途中で天気が崩れてしまい、方向がわからなくなってしまったのだ。森の中を右往左往している最中に霧雨になり、なおも進めた足で、目当ての建物が見えた時の安堵あんどと言ったら。


 しかしその安堵もつかの間にしか過ぎなかった。近づくにつれて、その建物は不穏な空気を醸し出していったのだ。遠目でよく建物だとわかったと思うほど、それは森と同化していた。

 辛うじて人工物だと把握できたのは、表面の色だ。石造りの建物をつたが覆い隠し、その隙間からわずかに覗いている茶色で判別できたのである。朽ちている建物と称しても問題ないほど、見る者を遠ざける雰囲気をそこかしこに漂わせていた。


 最果ての牢屋。


 名前を思い出したのはその時だった。ありとあらゆる罪人が最終的にたどり着く場所。それも、へんぴなところにある牢屋だと。


 ――母親の知り合いが、牢屋に?


 浮かんだ疑問に首をひねりながらも、引き返したくなる気持ちを奮い立たせ、中へと進んで。途中でいくつも見かけたのは人のなれの果て。鉄格子によって生と死の境を隔てられているようで、それらを凝視する勇気は出なかった。なるべく視界に入れないようにして、ともすれば回れ右したくなる足を叱咤しったして、恐る恐る進んだ奧。鉄格子を境にして出会ったのがシェリックだった。


 そうだ、あれからもう三年だ。

 繋がれていた鉄の戒めを解き、彼をそこから連れ出したことに後悔はしていない。

 氏素性が知れなくとも、あんな死者ばかりがいる場所に独りでいるのは、駄目だと思ったのだ。ラスターだったらきっと耐えられない。


『――シェリック』


 シェリックには一度だけ尋ねたことがある。


『リリャ=セドラって人を知ってる?』


 母親の名を挙げ、知らないかどうかを。

 もしかしたら、知り合いというのはシェリックかもしれない。その時ラスターは、そんな一縷いちるの望みをかけたのだ。


『いや。悪い、聞いたことないな』


『……そっか、ありがとう』


 ところが、答えはラスターの望んだものではなかった。

 最果ての牢屋にいて、言葉を交わせたのはシェリックただ一人だけ。ラスターの探している人はおらず、探し人の知人もおらず――あの時に手がかりすら絶たれてしまって、向かう先がわからなくなってしまったのだ。


 ラスターが訊いたあの問いを、シェリックはどうして何も聞かないのか。そしてなぜ、今でも一緒に来てくれるのか。以前尋ねた時には「あのまま一人にしたら寝覚めが悪いから」と話していたか。


「ボクにつき合う必要なんてないんだけどな」


 そうこぼして起きあがる。

 両手でぱんっと頬を叩き、気持ちを切り替えた。

 町を見て回ろう。何せ昨日はあまりの空腹と疲労でこの宿屋に直行してしまったため、ここにたどりつくまでの町並み以外、ほとんど見ていないのだ。


 時間があるなら、行きたいところも見たいものもある。町を探索してみても面白そうだ。それに。

 昨夜、寝台の脇に落としていたかばんを拾い上げる。

 両手でひと抱えできるほどの大きさで、そこそこ大きい。この中には大切なものが入っているのだ。ラスターの商売道具でもある、薬を作るための道具が。


 その割に扱いはぞんざいだけれど、愛情ゆえ、だと思うことにしておく。まさか昨日、眠気に負けて、片づけるわけでもなくその辺に放置したとかではない。

 旅の最中ずっと肩にかけていたものだけれど、なかなかに重い。中身を減らしはしたのだけれど、知らず知らずのうちに増えていくのだ。不思議な荷物である。


 鞄の中を調べて深々とため息を吐いた。色々足りないのがわかってしまった。そろそろ仕入れなければならない。

 えいやと、かけ声を上げながら鞄を肩にかける。外出準備完了だ。


「よしっ」


 さらに寝台の横に立てかけていたこんを手に取る。ラスターの大事な相棒だ。何度か握って感触を確かめたのち、廊下へ続く扉を開けた。


「うわ、寒っ」


 朝独特の肌寒さに身震いをする。同時にここに来るまで論議していた話を思い出した。やはり上着が欲しい。

 鍵をかけるかどうか悩んだが、特に盗られそうな高価な物を置いていない。なので、開けたままにしておくことにした。


「シェリックが戻ってくるかもしれないしね」


 頷いて自分に納得させる。

 廊下に出ると、どこからか音がした。耳を澄ましてみれば、階下から聞こえてくる話し声のようだ。これから仕事に向かう町の人たちかと思ったけれど、この声は。

 間違えはしない。聞こえてきた内の一人は、シェリックの声だ。



  **



 昨日の喧騒けんそうとはほど遠い静けさの中、シェリックは食堂の片隅を陣取って話していた。周りに他の客はおらず、まるで貸し切りの店のようだ。


「まあ、大変と言えば大変だったか」


 二人しかいないだけあって、聞こえてくる音自体も少ない。普通に話していても部屋の端まで聞こえているらしい。何度か店員を呼ぶ際に普通の声量でも届いていたので、それは立証済みである。聞かれても困る話でもなかったので、声は潜めていなかったのだ。


曖昧あいまいだなあ。お前、やっぱ昔から全然変わってないのな」


「そいつはどうも」


 酒が入っているグラスを手の中でもてあそぶ。中の氷が形を崩し、軽やかな音で応えた。


「しっかし、お前が牢にぶち込まれると聞いた時は度肝抜かされたぞ。若いながらも成績優秀、寡黙で真面目で、間違ったことなんてやりそうにないお前がね、まさかと思った」


「おい、誰だそれは」


「お前以外に誰がいる?」


「少なくともそれは俺じゃない」


 苦笑いで応じる。彼が抱いている自分の人物像があまりにもかけ離れ過ぎていて、それは自分とは全く違う、誰か知らない別人ではないかと思ったほどだ。


「誰にでも失敗することはあるだろ。ただの人間に過ぎないんだよ、俺は」


 シェリックは肘を突き、遠き日に思いを馳せて目を細めた。


「完璧な人間はいないって?」


「ああ。そんな奴がいたらお目にかかりたいね」


「俺の目の前に一人いるぜ?」


「断じて違う」


 おどけた仕草で肩をすくめられる。

 長らく時間が空いていたせいか、積もる話は確かに山ほどあった。昨夜彼に言われた通りである――それでも。その話を口にするのに、シェリックには少しばかり勇気が必要だったのだ。

 グラスを卓に置き、何気ない風を装って問いかける。


「――そういえば、あんたはまだ?」


 具体的な名前など何ひとつとしてない。けれど、彼にはその指示語だけでわかると踏んでいた。


「まあな。あれだけ長い間いるとそろそろ時間の感覚がなくなりそうだぜ」


「おい、それを言ったら俺はどうなる――」


 そこで言葉を切り、視線を奥の方に転じる。


「ん?」


 つられて相手も後ろを向いた。

 こちらに歩いてくる子どもが見えたからだ。というかあの背格好はラスターか。自分を探しにきたか、はたまた外へと向かう途中か――おそらくはその両方だろうと結論づける。


「起きたか」


「うん。汽笛で起こされた。――えっと……」


 ラスターはシェリックの向かいに腰かけている男性を見た。裾の長い、黒の外套を着て、胸元を銀色の飾りで止めている。その格好がよほど珍しいのか、何度か目を瞬かせて。


「こっちは俺の古い友人のリディオルだ」


 シェリックの言葉に目を見開き、ラスターはリディオルの顔をまじまじと見ている。


「ボクはラスター」


「よろしく」


 彼から差し出された右手におずおずと握手を交わす。あまり物怖じしないと思っていたのだが、珍しいものを見た。


「お前、今から出かけるのか?」


 まだ夜が明けてそれほど経ってはいない。店など開いているだろうか。

 その意味を正しく汲み取ったラスターが頷く。


「うん。ほら、漁に行く人のために開いてる店とかあるんじゃないかと思って。シェリックは……」


 卓の上にあるグラスを目に留めると、彼女の目が少し細くなったのを見た。


「朝から飲んでるし。っていうかこれ、もしかして夜通し飲んでる?」


「お互い明け方には酒は止めたさ。心配しなくても、潰れることはないから安心してくれ」


 グラスを掲げたリディオルがそう答え、ふうんと気のない返事が寄越される。

 自分のグラスにはまだ残っているけれど、それは黙っておこう。酒入りでないグラスも別にあるし、嘘は言っていない。


「別にいいケド、資金だけは削らないでよ?」


「そこまではいかねえよ」


 言うにこと欠いて、そうくるか。


「こっちは大人の話があるの。お前は遠慮なく行ってこい」


 手を振って追い払うも、ラスターはどこ吹く風だ。


「わかった。じゃ、行ってくる」


 そうしてあっさりと二人に背を向け、出口に向かっていった。

 店を出ていったラスターの後ろ姿を見送り、シェリックは話を再開しようと口を開いた。


「悪いな。あの通り敬語の知らん――何か言いたいことでも?」


 まるで不思議な物でも見たかのようなリディオルに、そう尋ねざるを得なかった。よほど予想外の出来事だったのか、今度は「いや、」と含み笑いで返された。


「お前にあそこまで言う奴がいるとは。それに放任主義とはね。いや、面白い物を見た」


「……見せ物じゃない」


 変に感心しているリディオルを見ていると、頭が痛くなってきた。そう、間違ってもあれは見せ物ではない。


「敬語に関しては気にしてないさ。それに、半信半疑だったがお前に連れがいたとはね。最近の坊主にしては威勢のいい奴じゃないか」


 ……坊主?

 グラスを傾けた手がぴたりと止まる。


「リディ、若干語弊があるぞ」


「ん?」


 シェリックに指摘され、やがてああ、と思い当たったようだ。


「ひょっとして、嬢ちゃんか?」


 リディオルに頷く。


「ああ。あんな格好してるからとてもそうは見えないけどな。服も、単に動きやすいから、と言ってたか」


 初めて会った時から変わらない、男物の服に活発な瞳。女っ気がない行動、さらに加えて、一人称が『ボク』ときた。


 ――え、動きやすいし。


 前に、なぜ男物の服ばかりを着ているのか、と尋ねたことがあった。別に性別を隠したいからとかそういう理由ではないようで、ラスターからそんな答えが返ってきたのだ。

 見た目にこだわらず、あっけらかんとしていて。


「晴れ着のまま旅に出ようとする世間知らずのお嬢様もいるくらいだから、常識ぐらいはわかってるんじゃないか?」


 果たして、その常識に当てはまるものがどの程度なのか。褒められたことではないが、シェリックのその尺度は一般人よりも低いと自負している。


「まあ、それくらいはな」


 さて、一般常識に当たるのはどこからどこまでになるのだろうか。


「――なぁ、シェリック」


「ん?」


「戻ってこねぇか?」


 笑みのなくなったリディオルの表情。互いにわかりきった話題ゆえ、誰がとも、どこにとも、言わないし――聞かない。


 携えていたグラスを卓に置き、リディオルをひたと見据える。

 こちらから言える言葉はひとつだけだ。


「――戻らねえよ」