Chapter 2 - 夕暮れ刻の港町
それからしばらく月日が流れて三年後。
世界のあちこちでは、『輝石の島』の噂が流れていた。
輝石の島へたどり着けた者は何ひとつ不自由なく暮らせ、幸福なまま一生を終えることができると言われている。あらゆる人が望む全ての幸せが存在する場所、それが輝石の島だと。
しかし、それはあくまで噂話。行けた者がいるのかどうかはさっぱりわからない。そして、島を目指した者は誰一人として戻って来なかったという、物騒な噂もある。
行った人がいなくなる、つまり、世間から忘れ去られるという意味から、島には別の呼び名がついていた。──忘却の島、と。
表裏一体な噂が兼ね備えられているにも関わらず、島を目指す人はあとを絶たない。欲ゆえか、はたまた人の性ゆえか。
理由は当人たちにしかわからない。中には人生の最後を、忘却の島を探すことで終えようとする人もいた。せめて最後だけはと、幼い頃、夢に描いていた楽園を目指すかのように。
そんな世界の片隅で、無理をすれば親子にも見える奇妙な年格好の二人が旅を続けていた。
「港が近いな」
「港?」
ラスターは隣でつぶやかれた言葉を繰り返した。
出会ってから三年が経つが、その時から少しも変わらない長身の男を見上げる。半分は自分の背があまり伸びないせいでもあり、同時にこれ以上は伸びないだろうと諦めているせいでもあるのだが、それはともかくとして。
頭ふたつ分もあった差は、今ではひとつ分にまで減っている。少しは伸びたのだという証拠だ。
ラスターの視線を受け、彼は薄く笑った。
長い間あんな場所にいたせいか、初めはほとんど笑うことなく──それも自嘲じみた笑いしか見せなかったけれど、出会ったあの頃から比べると随分表情が和らぎ、他の感情が増えた気がする。
「だろうな。潮の匂いがする」
「このしょっぱそうな匂い? ボクたちのとこまで届くってコトは、もうすぐだね」
「ああ」
そう。先ほどから鼻をくすぐるのは、どうやら潮の匂いのようだ。彼が言うには、海が大分近いことを告げているらしい。
それも彼が『海』ではなく『港』と断言したのには理由がある。まだ遥かに遠くではあるが、前方に細長い建物が見えたからだった。あれは灯台というのだそうだ。彼いわく、この近くの灯台がある港は、たったひとつしかないとのこと。
それが今微かに視界に捉えられる町だ。そこは漁港の町ルパと呼ばれており、自分たちの目指す目的の地でもあった。
ルパは漁業と産業で発達した、今やこの世界では欠かせない町のひとつだ。ルパの町の歴史は古く、人々が海を恐れて近づかなかった時代から始まる。
初めは何人かの好奇心を持った人々が海へと繰り出していき、その者たちが帰ってくる場所として拓かれたのが始まりなのらしい。やがて人が集まり、徐々に他の大陸へと渡れるようになり、交易も盛んになって、今に至るのだそうだ。これは全て、道中で聞いた話だ。
町自体は小さいが、世界中でルパの名を知らない者はおそらくいないだろう。
「早いとこ暖かい布団で眠りたい。ふわ……」
「俺も同感だ」
歩きながら、ラスターは大きな欠伸を漏らした。長旅の休息は、もう少しである。
**
港町ルパ。重たい身体を引きずりながらも、何とかたどり着けた。徐々に重たく遅くなっていた足だったが、町の影が見えた途端に二人そろって軽くなったのは致し方ない。最後の踏ん張り、とでも言おうか。
夕暮れが近いにも関わらず、明かりのおかげ町は昼間と同じくらいに明るい。真夜中になると、今度は灯台の明かりが淡く町を照らすのだとか。この町の古くからのしきたりなのだそうだ。その光景がまるで帰る家を示す灯のようだと、そんなことを言われているらしい。
時期によっては真夜中に町中の全ての灯りを点ける時もあるのらしいけれど、なんとも不思議な町である。
「シェリック、宿屋ってどこにあるかわかる?」
大都市と比べると小さいらしいけれど、今まで訪れた村しか知らないラスターにとっては、十分大きい部類に入る。町中で迷うことはないと思うけれども、とにかく今は歩く距離をめいっぱい減らしたかった。
「どうだろうな。前にここに来た時から相当時間が経ってるから、俺の記憶とは違うかもしれないぜ? ──何だ、もう電池切れか?」
外まで鳴りそうなお腹を押さえていると、それを目ざとく見つけられてしまった。さすりながら、どうだろうと思案する。
「うーん……まだ少しは保つ、かな?」
いつもよりお腹の空きが早いのは、昼に食べて以来、休憩もなしに歩きどおしだったからだ。町が見えて疲れが一瞬吹き飛んだ気がしたのだが、それは多分──というよりまず間違いなく思い込みに過ぎなくて。
ずっとこのままでいたなら危うい。そんな瀬戸際のところだ。
「じゃあ頑張るんだな」
大きく頷くと、頭の上に大きな手が乗せられる。
「うん。だから、早く探そう」
「はいはい」
握りこぶしをふたつ作って気合いを入れ、足を早めた。ともすれば丸まってしまいそうな背中を意識して起こす。──と、後ろでシェリックが吹き出す気配を感じた。
「そこ、笑わない」
「悪い」
「嘘だあ」
口元に浮かんでいる微苦笑からは、そんなに悪いと思っている様子がしない。
「着いたら絶対、美味しいものおごってもらうからね!」
「はいはい、宿に着いたらな」
ひと息に言う。どうしてなだめられることになっているのだろうか。
町の入口から中に入り、歩いてきた今までの道のりでは、まず露店の多さに目を奪われた。色とりどりの布で仕立てた洋服に、変な形をした果物。別の方へと目を転じれば、鉄板の上から美味しそうな音と香りがして、空腹感を増長させてくれる。香りから察するに、焼かれているのは塩魚だろうか。ちょうど夕暮れ刻ともあってか、辺り一帯から食べ物の香りが立ち込められ、猛烈に鼻へと襲いかかった。
「わ……」
とうとうお腹からきゅるきゅると音が鳴る。
五感は正直だ。どれだけ無視をしようとしても、目が、鼻が、ラスターの欲するものを見つけてしまう。買い食いしたい気持ちを抑え、恨みがましく横目で見ながら店の前を通り過ぎた。
お腹が空いている時というのは、どうしてこんなに全て美味しそうに見えるのだろう。肉や魚が焼き上がる音も、漂ってくる香辛料の香りも、色彩鮮やかな果物の山も、今のラスターにとっては毒にしかならない。
頭を振って誘惑を振り払い、一度深呼吸をする。
「どうした?」
苦笑しながら尋ねてくるシェリックをちらと見上げ、前を向いた。
「……なんでもない」
どうせばれているんだろうなと思いつつ、それでも気恥ずかしさが勝って足を早める。
空腹を意識の外に置き、気を取り直して周囲に目を配る。到底忘れられるものではないけれど、そうでもしておかないと宿屋までたどり着けるか本格的に怪しくなるのだ。気にしてばかりではそのうち座り込んで動けなくなるに違いない。ここまで来たのに、それは嫌だ。
あれも、これも。
後で買い出しに来る時のために、大まかな目星をつけておくことも忘れない。その他に足りないものはあっただろうか。
店の位置と名前をなんとなく覚えておく。ただ、必要なものをそこまで覚えていないので、こちらはあとで確かめるとしよう。
そうやってあちこちに目を動かしていると、頭の上に何かが置かれた。
「うん? 何?」
ラスターは歩きながら振り向く。置かれたのは、どうやらシェリックの手だったようだ。
「ちゃんと前を向いてろ。ほら、左前方」
置いたのとは逆の手で方向を指し示される。シェリックの指の先、目で追っていったそこには家があった。ただし、それは民家ではない。
隣に並んでいる民家よりかは大きく、中からにぎやかな声が聞こえてくる。何よりも、扉の上に掲げられた小さな看板が『宿屋』であることを明言していた。
「わ、大きい!」
しげしげとつぶやくラスターは、後ろから軽く背中を押されてほんの少しばかり前のめりになる。
「ほら、行くぞ」
文句のひとつでも言おうとしたのだが、空腹には勝てやしない。それに、ほんのり香ってくるご飯の匂いにやられてしまいそうだ。
「うん」
ラスターは、先に行こうとするシェリックを追い越して、宿屋に向かう。
やはり腹が減っては、買い物することも、ものを考えることすらも難しくなってしまう。全ては食事を取ってからだ。
ところで、夕暮れの時刻ならば大抵の仕事が終わるもので。そんな時間に町に着いたというのだから、もう少し予想できたことがあるはずなのだが──失念していた。
「──うわ」
「しまったな」
ドアを開けた途端、聞こえてきたのは喧騒と笑い声。そのあまりの騒がしさ──いや、にぎやかさに、入口で突っ立ってしまった。声の幕、あるいは壁。目に見えない障壁がそこにあるようだ。
一階は食堂になっているらしく、一日の仕事を終えた様子の大人たちが杯を交わし合い、見渡す限り空席はなさそうである。その席の合間を縫って、店員と思しき女性が、声を張り上げながらあちらこちらを行ったり来たり繰り返している。玄人のなせる業だ。
「弱ったね。どうする?」
意見を仰ぐべく、後ろに立つシェリックを見上げた。
「宿の部屋だけでも確保しておこう。ここまで来て野宿ってのはごめん被りたいしな」
「言えてる」
自分が考えていたのと同じ意見を述べたので、ラスターは思わず笑ってしまった。
「じゃあ、ボクが頼んでくるよ」
肩にかけていた鞄を持ち上げて示す。
「その間に席を探しておく」
二人はそれぞれの役割を果たすべく奥へと入っていった。
**
ラスターに席を探しておくとは言ったものの、こう人が多いと見つかるものも見つからない。何とかなると楽観していたのが甘かったようだ。
ラスターに頼んだ部屋で食事となるかもしれない。いや、その前にラスターが部屋すら取れなかったら落ち着いて座ることもできないし、最悪だと食いっぱぐれることになる。それは避けたい。
店の中をあてもなくうろうろしていた足が、何かに吸い寄せられるようにその席へとたどり着く。遠目から見えていたはずなのに、近くに行くまで全く気がつかなかった。
「や」
彼はとても軽い調子で手を挙げる。二人がけの卓に座っていたのは、シェリックにとって見覚えのある顔で。
「……どうしてここにいる」
頬杖を突きながら気だるくこちらを見上げてくる瞳は、シェリックの心情を知ってか知らずか、楽しそうに揺らめいている。──いや、気づいているからこそだろうか。
ここには決しているはずのない人物に、驚くより先にあきれてしまった。
「それはこっちの台詞だ。どうしてお前がここにいるのやら」
「色々あったんだよ。そっちは?」
「こっちも色々あってね」
どうやら向こうから教える気はないらしい。こちらからは言わずもがな。あの頃とちっとも変わらない、含みのある笑顔がシェリックの目に映る。
「まあなんだ、そちらはお困りのようで?」
「見ればわかるだろうが」
シェリックのひと言を聞くや否や彼はす、と席から立ち上がった。
「──おい?」
「互いに積もる話は後にしようか。今は俺も用事があるもんでね」
暗い闇色の外套を身にまとった彼は通路の合間を縫っていき、やがて人々の中へと溶け込んでいく。
「……」
彼を無言で見送ったあと、何か釈然としないものを感じながらも、シェリックは空いた卓にありがたく座ることにした。
**
ラスターはまず帳場に向かった。向かいながら探してみたのだが、やはり空いている席は見つからない。これではとても座れなさそうだ。
この辺りも見つからないし、シェリックは果たして本当に、この中から空席を探せるのだろうか。
考えてみれば至難の業だ。席を探す役割を任せてしまい、少しだけ申し訳なく思う。
でもこの状況は仕方ない。とにかく自分に当てられた役目を果たすため、ラスターは声を上げた。
「すいません!」
細長い卓越しに人を呼ぶと、奥で話をしていた人がこちらに気づく。
その人は話を切り上げてやって来ると、人の良さそうな顔で尋ねてきた。
「はい、何でしょうか?」
シェリックほどではないが背が高い。優しそうな中年の男性だ。
「ここ──ここに泊まりたいんだケド、部屋の空きってある?」
卓から身を乗り出して話しかける。周りが騒がしいので、声を大きめにして喋らなければならないのが不便だ。
「部屋ですか? はいはい、少々お待ち下さい」
初めは耳を澄ましていたが、どうやら通じたようだ。言い残して奧へ行ってしまった。
しばらくして戻ってきた男性の手には、ひとつの冊子が抱えられていた。きっとこの店の宿帳だろう。
帳場の上で開いた冊子の中には、何人もの名前が書かれている。ちらりと覗いた名前の多さに思わず目を見張った。
冊子の名前を順にたどっていく手がやがて止まる。彼はそこで眼鏡をかけるとおや、と声を上げた。
「お客さん運がいいね。最後のひと部屋だよ」
「ほんと? うわ、ついてる!」
ここまで来て席も宿もなしでは報われない。自分たちの運の強さに感謝した。
「あの、ボクの他にもう一人連れがいるんだけど……いいかな?」
「ん? そうかい?」
書き終えた宿帳から顔を上げる。
「大丈夫さ。幸い部屋に寝台はふたつある。──とすると、二人だね」
「うん、そう」
頷くラスターは、丁寧な字で書き込まれていく文字を見ていた。
「これでよし、と。二人で銅貨二十枚だ」
「え……そんな額でいいの?」
宿屋の相場を大まかに言えば、一人当たり銅貨五十枚である。それに比べればだいぶ安い。さっき覗き込んだ名前の多さが、店の繁盛さを物語っていた。
「こんなに安かったの初めて」
「ははは、ありがとう。安いとはよく言われるよ」
ラスターは既に持っていた財布の中から銅貨を二十枚取り出し、相手に渡した。
「毎度あり。──さて、これが部屋の鍵だ。部屋は二階にある。好きに使ってくれて構わないさ」
お金と引き替えに差し出された鍵を受け取る。一緒についている金属性の小さな板には、部屋の番号が刻まれていた。
「ありがとう」
「ごゆっくり」
男性は宿帳を置きにか、再び奥へと行ってしまった。
彼の背中を見送ってから、ラスターはその場で周りを見渡してみる。この中のどこかに席を探しているシェリックがいるはずなのだが、いかんせん人の数が多くてうまく見つけられない。
日に焼けた人もいれば、酒を酌み交わす人々、黒い外衣を着ている人、洒落た服装に身を包んだ人、貴族と思しき人もいる。
ぱっと見ただけでも色々な人がいる。ルパに人が集まるというのは本当のようだ。
「ラスター!」
しばらくさまよいながら探していると、どこからか声がかかった。シェリックだ。
声のした方を見ると、小さな卓に座って片手を挙げている彼の姿が見えた。今日は本当についているかもしれない。
人混みに苦労してシェリックの元までたどり着き、向かい側に腰をかける。座った途端に疲労感がどっと押し寄せ、ラスターは卓上に突っ伏した。
「うー、あー、疲れたー」
「成果は?」
「むー……シェリックが冷たい」
「確認事項だ」
にべもなくあしらわれ、不満を前面に押し出して口をとがらせる。少しは労ってくれてもいいではないか。
「取れた。最後のひと部屋」
証拠とばかりに、渡された鍵を目の前に掲げてみせる。部屋の番号が書かれた小さな板と鍵がぶつかり合ってチャリ、と音を立てた。
「上出来。運が味方したな」
「ほんと」
シェリックは唇の端を持ち上げる。そんな仕草をしても、皮肉っぽく見えないから不思議だ。出会った頃から笑い方が変わったよなあなんて、そんなよしなしごとが浮かんで。
「それより、ご飯っ! お腹空いた!」
「頼んだからもう少し待て」
勢いをつけて起き上がるも、なだめられてしまう。
「うー……むり……限界……」
「そう言うだろうと思ったから先に頼んだんだ。──ほら、来たぞ」
「お待たせしましたー!」
ラスターの目は女性の店員が持ってきた皿に釘づけになる。正しくはその中身に。
彩り豊かな野菜の上、そのあちこちにちりばめられたのは、皮までこんがりと焼かれたひと口大の鶏肉だ。香ばしい匂いと、そこに合わさってほのかに酸味が香ってくる。
同じものをふたつ置き、とって返したかと思えば、皿の横にグラスがひとつずつ添えられた。
おつぎしますねー、お代わりの際はお呼びくださいー、その他の料理はただいまお作りしておりますのでもうしばらくお時間くださいねー。
シェリックが店員の応対をしていたが、そっちよりも目の前の料理が気になって仕方ない。まだだろうか。そわそわしながらシェリックを眺める。
「ありがとう」
「はーい、ごゆっくりどうぞー」
店員が去っていく方向をなんとなしに見送ると、待たせたな、と言われる。
「もうお腹ぺこぺこ」
「俺もだ」
それぞれ目の前に置かれたグラスを手に取る。
「じゃ、とりあえず」
「お疲れ様、だな」
無事に着いたことへの感謝の気持ちを込めて。
合わせたグラスが、涼やかな音を鳴らした。
**
「ふう。食べた食べた」
部屋に入るなり奥の寝台に倒れ込んだラスターは、顔をうずめたまま、そこでくつろいでいる。
「ふわ、ふかふかー……」
すっかり気の抜けた声から、その寝台が相当に気に入ったのではないかと窺えた。
「それは良かったな」
こちらは足を組んでもうひとつの寝台の端に腰をかけているが、それだけでも布団の柔らかさは十分に伝わってくる。
以前譲り受けた書物をめくっていると、ふと向かいから視線を感じた。
「どうかしたか?」
上げた顔が、寝台で座り込むラスターを捉える。いつの間に起き上がっていたのやら。
「んー、眠くないのかなって。あんなに歩いたのに」
「それなりにだな」
別に眠くないわけではない。布団に潜り込んだらすぐにでも寝られるくらいには疲れている。
「……ボク限界」
だろうなと思いながら苦笑をこぼす。遅くなった反応に、今にも閉じそうな両の目に、それははっきりと表れている。
今日はいつにも増して無理をさせていたのだ。近くなった町を見て浮き立った心に、どうしてもたどり着きたかった気持ちがなかったとは言えない。けれども、それがあったから、今こうしてゆっくりできているのだ、後悔は微塵もしていない。
「寝ていいぞ」
「うん……先に寝るね」
もぞもぞと。布団の上をはうラスターをひとしきり眺め、思い出したことがあった。
「明日、早いからな」
「ん。おやすみー……」
答える声は既に半分夢の中だろう。
静かになると周りの音がよく耳に入る。それを快いものとするか耳が痛いと捉えるかは人による。ちなみにシェリックは前者だ。遠くの方で何かが割れた音がした。
さっさと布団を被ってしまったラスターの方から、微かな寝息が聞こえてくる。彼女の寝つきの良さは一体どこから来ているのか、羨ましく思う。寝る子は育つと言われているから、きっとこれから育つのだろう。
「──さて」
一度肩を回し、早々に寝入ったラスターを見やる。昼間の疲れのためか、起きる気配は全くない。
シェリックは読んでいた書物にしおり代わりの紐を挟み、座っている寝台の枕元に置いた。極力音を立てないように気をつけて。
部屋の電気を消し、部屋を出る──その手前で一度立ち止まった。既に眠りに就いていたラスターには、きっと自分の言葉は聞こえないと思うけれど。先ほど伝え損ねてしまったのを思い出したのだ。
「おやすみ」
振り返ってから中に向かって小さな声で言い、ゆっくりと扉を閉めた。わずかに差し込んでいた光がなくなる。
そうしてひっそりと、夜の静寂が訪れた。