Chapter 1 - 最果ての地からの始まり
最果ての牢屋なんて名づけられたその地は、終着点だとも呼ばれている。人の墓場。果ての地。人がたどる末路のひとつがその牢屋なのだと。
内部を照らすのはろうそくの灯火だけ。揺らめく小さな灯りでは、石壁で覆われた牢屋全てを明るくしきれない。暗闇に潜む者を露わにするには、どうにも心もとなかった。太陽の明るさにはほど遠い。ほのかな光源でも、ないよりはましだと言えるか。
時折、どこからか水音が響く。一定の間隔で滴る水源の在処は、簡単には見つからない。一滴落ちると同時に、這いずっていた鼠がぴくりと耳をそよがせる。首を左右にめぐらせ、興味が失せたとばかりにまたどこかへ潜り込んでしまう。
と、別の一匹が穴から顔を出す。壁に下がっている鎖を慣れた調子で伝い、床までの距離を難なく跳んで着地する。その反動で、鎖が億劫そうに揺れた。
床に下りた鼠は、規則的に並んだ鎖の前をちょろちょろと走っていく。無造作に置かれた重りは迂回して、今宵の食糧を探しに行く。
本来の役割を果たしている鎖や重りはほとんどない。多くは空のまま、これから訪れるであろう者たちを今か今かと待ち構えている。
しかし、その鎖たちは鼠の行動を妨げるまでに至らない。関係ないのだ。これは鼠のためにあるのではなく、人間のために用意されているのだから。
素知らぬ顔をして通り過ぎた鼠を、座り込んだ人が見下ろしている。その生を終えてからどれほどの年月が経ったのか、服と思しき布から覗くのは、白い骨だけだ。今は空洞となっている眼窩に、かつて存在していたはずの肉体や細胞は影も形も見当たらない。
片づけられているわけではなく、ただただ放置されて劣化するに至った物体。それは人であったもののなれの果て。積み重ねれば元の背に届くか怪しいくらい小さな山に収まってしまうだろう。まだ辛うじて人の形を保っている者もいるが、そのほとんどが生き絶えているという有様だった。
鼠は足早に進んでいく。立ち止まり、鼻をひくつかせ、また進んでいく。奥へ、奥へと。暗くて、寂しい、孤独に満ちたこの場所を。
目指すものがその先にあるのだと言わんばかりに。
罪を負った人が一生を終える終着点の、その先へ。最も深い位置へ。今日の糧を得るために走っていく。
鼠は知っている。
死臭ばかりが漂う最奥に、たった一人、生きている人間がいることを。穴の空いた粗末な服をその身にまとい、鎖で戒められた両手を力なく垂らし、足には壊れた重りをつけて。虚ろな両の目は鉄格子の向こう側を見ていて、その切れ長の瞳には何を映しているのかもわからない。鼠は知らなくていい。知るのは彼だけで、鼠は糧を得られればそれでいいのだから。
鼠は知っている。
彼は唯一の人間だと。この牢屋にいる、ただ一人の生存者だと。
**
何十、何百と。どれほどの日々をこの場所で過ごしたのだろう。覚えているのは初めのほんの数日だけで、あとは数えることすら煩わしくなってしまった。指折り数えて記したところで、その数字に用途はない。必要もなく、意味もないのだと知ってしまったからだ。終わりの見えぬ年月に、死ぬまでの期限を記録するなど、暇つぶしと称する他にない。
どれだけここにいたのだろう。今日までに何人亡くなっただろう。気が狂い獣と化した人は。刑の執行のため、連れ出された者は。
果たして自分は、まだここで生きているのだろうか。あるいはとうの昔に死んでいて、思念だけが残されているのか。
刻まれる時間の流れも、その流れに身を置いていたはずの感覚も、今ではよくわからない。きっと、感覚が麻痺しているのだろう。生き死にさえも判別つかないだなんて、時既に遅し。自分の気も、既に狂っていたかもしれない。
喉の奥でくくく……、と笑みを漏らす。
そのまま声に出して笑っても良かったが、すぐに引っ込めた。隅を物色していた鼠がそそくさと隠れてしまう。退治されるとでも思ったのか。逃げ足が速い。どうやら、珍しいお客が来たようだ。
石で造られた床に、一人分の足音がコツコツと響く。たまに様子を見に来る看守がいるが、この歩き方は看守ではない。看守の足音はもっとゆっくりとしているからだ。
前にやって来たのはいつだったろう。時の経過を知る唯一の術が、看守からの話だった。月日は待ちわびると遠くに感じ、没頭するとすぐさま消え去る。その期間を「まだ」と名づけるか「もう」と名づけるか、どちらが正しいのか。
看守でないならば、新人だろうか。どこかで罪を犯し、捕らえられ、ここまで連れてこられた罪人。それにしても足音が一人分というのはどうもおかしい。もしこれが本当に新人ならば、連れてくる者が別にいるからだ。
それともやっと、自分を殺してくれる神でも現れたのだろうか。ここよりも暗い地底に潜む、死を司る者が。この薄暗い牢獄から解放してくれる、人ではあらざる存在が。
そうだといい。死神がやってきたのならば、こんな場所とはおさらばだ。この命を終えることができる。これでようやく、解放される。
無意識のうちに再び笑っていると気づいたのは、声がかけられてからだった。
「何がおかしいの?」
耳にした声は、予想していたどんな声とも違っていた。
口元に笑みを残したまま、訪問者に顔を向ける──いや、正しく言うのなら顔を向けることしかできなかった。
なぜなら両手足は未だに鉄の鎖に戒められていて、この場から動けないのだから。
間に鉄格子を挟んだ視線の先には、一人の人間がいた。薄暗いせいで色が見づらいが、死神ではないだろう。暗い世界に潜んでいるような、独特の気配は感じられない。それどころか、この場が明るくなったような錯覚さえした。微かに目を見張る。
ずいぶん若いなりをしている。出で立ちは少年のものだが、ほのめく灯りの中で浮かび上がる顔は、どこかしら少女のようにも見える。小柄な背丈と、高くも低くもない声。中性的な子ども──そう、子どもだ。間違っても大人には見えない。
「お兄さんひょっとして、既におかしくなっちゃった人?」
その子どもは腰を曲げ、前屈みになって尋ねてきた。動いた姿勢が、照らされる位置を変える。額に、何かの紋が刻まれていた。
「──あんたは、誰だ。どうしてここにいる?」
久しく開いた口からは、思ったよりもちゃんとした声が出てくる。看守を除けば、まともに口を利くのは久しぶりだった。
「ボク? 見てわからない? 旅の途中なんだ」
子どもは真っ直ぐに立ち、両手を広げて自分の出で立ちを見せた。
右手には妙な棒を持っている。動く度に、後ろでひとつに結わえられた髪が揺れる。肩にかけている鞄と身につけている服装。子どもが自ら説明したように、旅の途中であることが窺えた。
──しかし、一人で?
「その旅は、こんなところに寄らなきゃならないのか?」
虚を突かれたように動きを止めたが、子どもはまさかと首を振った。
「村を出てきたのはいいんだケド、途中で雨に降られてさ。雨宿りするのにいい場所があったから入ってみたんだ」
にっこりと微笑む。
もしかしたら、単なる世間知らずの子どもかもしれない。身なりからどこかの御曹司やご令嬢でないことは察せられるが。
「ここがどこだか知っているのか? あんたみたいなお綺麗な子どもが来るようなところじゃないぜ。旅なんかやめて、とっととおうちに帰りな」
ところが、それを聞いた子どもは形容し難い表情を浮かべて頬をかいたのだ。
「ないものに帰れって言われても」
悲痛な声音ではないことに興味を覚え、もう一度見上げる。
悲しいというよりかは、本気で困っているようだ。
「それに、ここはあの最果ての牢屋でしょ? 有名だもん、それくらいは知ってるよ」
そんなことはなんとも思っていない、という口調で。
どのくらい前のことだろう。様子を見に来た看守は、『最果ての牢屋』という名称さえも口にするのを嫌悪していた。忌まわしい名は口にしないように。ここにいる罪人たちを不要物の一種として蔑むのだと。その看守がどれだけ注意深く守っていたか、薄れた記憶ながら覚えている。それなのに。
この子ども、なんとも変な奴である。
「ねえ、囚人さん」
「なんだ」
「ここから出たくはないの?」
──ここから出たくはないの?
こことは、どこだ。理解するのに少し時間がかかった。
長い間、自分に──いや、自分たちに、そんな言葉をかける者などいなかったからだ。
それも当然だ。ここにいるのは罪を犯した人々。そんな人間がたやすく外界に出ていいわけがない。
この牢屋の周囲は深い森に覆われていて、方向感覚を狂わせる。ここから逃げた者がどんな末路をたどったのか──知らないわけではない。脱走自体、考えるだけ無駄なのだと悟っているが、逃げる気はさらさらなかった。逃げる必要もなかった。
「俺が罪人だと知っていて、なおここから出たくはないのかと訊くのか?」
「うん」
子どもはあっけないほど簡単に頷いた。むしろ、なぜそんなことをわざわざ訊くのかとでもいいたげに。自分の感覚がおかしいのだろうか。
なぜだろう。怖くないのだろうか。
「これを解いた瞬間にあんたを殺すかもしれないぜ?」
両手足を戒めている鎖をヂャラ、と鳴らす。重々しく響いたそれは、簡単に外せるものなどではない。物理的にも──立場的にも。
「本当に殺すなら、やる前にそんな忠告しないと思うケド? それに、お兄さんはボクを殺さないよ」
子どもは持っていた棒を振り上げ、えいやと振り下ろす。直後、耳をつんざく音が鼓膜を揺らした。
「──ったー……」
「壊さなくても開いてる」
「──え?」
棒を取り落とし、涙目になったらしい子どもがきょとんとする。
「外れてんだよ、そこは」
万が一のためにも死なないようにか、看守がわざと開けていったのを覚えている。格子を開けたところで、逃げることは不可能だ。
「……そういうコトは早く言ってよ」
「別に、訊かれなかったからな」
まさか、格子を壊そうとするなど思っていなかったので。
目の前にやってきたのは片手で簡単にひねり潰せてしまいそうな小さい頭。
屈み込んで、鎖を外そうと動く子どもに眉をひそめた。
今自分が考えていることを口に出したなら、きっと手を止めるに違いない。怯えて、ここから逃げ出す光景が容易に浮かんでくる。
「俺は善人じゃないぜ? 嘘をついてる可能性だってある。あんたを騙して、ここから脱走しようとしているかもしれない」
「それはないよ。囚人さんはそんなコトしない」
根拠もないのに、いやに断言してくれる。疑うということを知らないのか。
「なんで、そう言いきれる」
「だって、人の死を多く見ている人は、それと同じくらい死ぬコトがどんなコトかを知ってるから。自分がその死に関わる関わらないにしても、やっぱり死んじゃうのは辛いよ。置いていかれて独りになったみたいで、怖いよ」
ふいと視線を外した子どもは、答えを告げた。
「別に、怖くはない」
「本当?」
間近で覗き込んできた子どもにたじろぐ。こちらが何も言わないと察したのか、子どもは鎖を解く作業を再開する。
今の言葉は自分へと言っただけではない。同時に子ども自身にも言い聞かせているような、そんな気がした。だとしても、やはり変な奴である。
「──よし、解けたっ!」
思考は無邪気な声で中断された。
自分の人生のいくらかをともにしてきた鉄の戒めがようやく外される。まじまじと見下ろし、手首をさする。嘘のように楽になった両手足には、赤い跡が残っていた。思っていたよりもくっきりと。
子どもは足を束縛していた重りのひとつを持ち、「うわ、重い!」なんて呑気につぶやいている。重りのもうひとつを手にし──そのとき湧いたのは、本当に気まぐれな心。
「ねえ、歩け──」
こちらを向いた子どもへと、その重りを投げつける。重りは目を見開いて硬直した子どものすぐ脇を通過し、後ろの鉄格子に当たって耳障りな音を立てた。
「──びっくり、した……」
子どもは吞んでいた息をぎこちなく吐き出す。近くへと寄った自分を見上げるその子どもの首元を、右手でつかんだ。手の中に収められてしまうほど細い。伝わってくる鼓動が、平気そうにしている子どもの内心を物語る。
「殺されないなんて、そんな甘いことをまだ言うのか?」
再び呑まれた息。怯えた瞳が自分を映す。当然の反応だ。見ず知らずの他人に情けをかけるべきではない。かけられる人間ではないのだ、自分は。
心なしか青く変わった顔色に息を吐き、触れていた手を離そうとする。
そのときだった。
「──言うよ」
怯えながらもこちらを真っ直ぐに見返し、子どもがそう言ったのは。逸らしもせず、子どもはなおも言い募る。
「だって、ボクを殺してもあなたに利益は何もないじゃない」
「それも……そうだな」
そこから引こうとしない子どもを眺め、こちらもようやく手を下げる。怖がられていなかったのではない。この子どもが精一杯張っていた虚勢だ。
「俺が快楽殺人者だったら、どうするつもりだったんだ」
「そのときは……諦めるかな。だって、囚人さんとボクとじゃ、力が違い過ぎるでしょ?」
「どうにかしようとは思わないのか」
「方法がなければ諦めるしかないじゃん。だって、どうにもできないし」
達観しているのか、割りきっているだけなのか。
いまいちつかめない子どもから距離を置く。
「どうして、俺を助ける。あんたにも利はないだろう」
「そんなコトないよ。旅は一人より二人の方が退屈しないし。一緒に行こうよ。囚人さん、歩ける?」
鈍っているどころではないが、それほど支障はなさそうだ。重りが外されて軽くなったから、という理由もある。今のところは、だが。
「……その、囚人さん、ってのやめろ。俺にだって、名前くらいはある」
牢屋に入るときに捨てて、二度と使うことはないと思っていた。そんな自分の名前を、まさか再び使う日が来ようとは。それも、こんなに早く。
歩き始めた自分のあとに続いて、子どもはひょこひょことついてくる。ちらりと眺めやった背後では、棒を携えた子どもの姿があった。
「なんて名前?」
記憶の隅から引っ張り出す。自分の名前だというのに、すぐに出てこないとはなんという体たらくだろう。
「シェリックだ。あんたは?」
「ラスター」
「そうか」
このラスターとかいう子どもは自分より遥かに背が低い。恐らく、年齢もこの背丈と同じくらい離れているだろう。
駆け足で向かったラスターはシェリックを軽々と追い越す。ひと足早く出口にたどり着いて額に手をかざし、空を見上げた。
「お。晴れた」
ここに連れて来られたときとなんら変わりない入口。あのときとは逆だ。いつ出られるかも定かでなかった外へと、ようやく行けるのか──外界へと、帰れるのか。
「──っ」
出口を潜った途端、あまりの眩しさに目を閉じた。牢屋の暗がりに慣れてしまったシェリックには、強烈な光だ。外の世界はこんなにも明るかっただろうか。覚えてすらいなかった。
手をかざしながらうっすらと目を開く。何度か瞬きをしてみれば、ようやっと目が慣れてきた。すぐ手の届くところで、ラスターが背を伸ばしている。
「んー……!」
頭上のあちこちから鳥の鳴き声が聞こえてくる。見渡す限り木々が生い茂り、立派な森を作っている。風に耳を澄ますと、遠くから水の音がする。これは、川のせせらぎだろうか。視線を落とすと、足下では虫が懸命に何かを運んでいる。
方向感覚を狂わせる森だと話していたのは、果たして誰だったのだろう。実際に見なければわからないことなんて、世の中にはたくさんあったのだ。シェリックが今、その一端を目の当たりにしたように。外の世界はこんなにも『生』があふれている。誰もが、何もが、必死に生きようとしている。あの暗い、死の匂いに満ちた牢獄よりも、ずっと、ずっと。
陽の下など似合わないと思っていたのに、思いの外馴染んでいる。シェリックは息を吸う。
暖かく、優しい空気が流れ込み、身体中を満たしていくような錯覚に陥った。よどんだ空気を吐き出し、新鮮な空気を取り込む。心まで洗われた気分だ。
自分もその中に入れるだろうか。死の匂いも、犯した罪も、忘れることはないだろうけれど、『生』に縋るようにして生きていくことが。
「行こっか」
見れば、ラスターははにかんだ表情を浮かべて笑っていた。
ラスターこそが周りの全てを明るくする太陽のように。明るく、眩しく。
どこへ、とは言わない。
どこに、とも訊かない。
ひょっとしたら、シェリックにもできるのかもしれない。
頷き返し、シェリックはラスターの横に並んだ。まるで、ずっとそうして歩いてきたかのように。
二人は道の先へと歩く。歩き慣れていないシェリックは一歩一歩、確かめるように歩を進めていく。歩く動作だけでなく、生きるという術を思い出しながら。
時折振り返るラスターは、なんだか嬉しそうだ。何をそんなにはしゃいでいるのやらわからないけれど。
陽が射した世界。空に浮かぶ太陽を見上げる。仰いだ頭上に目を細めて、手で影を作りつつシェリックは思う。
ああ、よく晴れた日だ、なんて。
これが、旅の始まり。
小さな鼠が目撃した、二人の出会い。