無言の罪


山羊文学2020/07/09 12:43
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無言の罪

 二十三時を回って、不穏な音が聞こえてきた。肌と肌、骨と骨がぶつかる音。夜勤室を出て隣の居室のドアを開ける。寝たと思っていた利用者のCがうずくまって自らの顔を拳で叩いていた。軽く舌打ちをする。Cはこうなるとなかなか寝ない。不眠時薬を入れたいところだが、Cは効きの良い方ではない。傍らで自傷を止め続けるしかない。
 自傷の形にも色々あるが、Cの自傷はタチの悪い方だった。顔、それも眼球の近くを殴り続ける為に目立つ青痣ができる。痣はすぐさま虐待を疑われる。Cは日中、事業所に通っているから、事業所のスタッフに虐待通報を入れられたこともある。事情を知る家族すらいい顔をしない。だから幹部連中も、Cの自傷については細心の注意を払えと言ってくる。だからこそCの居室は夜勤室の隣なのだし、不審な音がすればすぐに向かわなくてはならない。
 Cは他傷をしない。本来なら、他の入所者を傷つけるよりは、おとなしく自傷をしてもらう方が施設側としてはありがたい。しかしCの自傷は度を過ぎていた。それに加えてCは、不意に居室を飛び出して壁やドアに頭突きをして音を立てることがあった。それに反応して他の入所者が起きると厄介だ。夜勤の時間帯、職員は基本ひとりしかいない。
 この施設はグループホームが三つ合わさった形をしている。一階、二階、三階のそれぞれがひとつのグループホームになっていて、夜のスタッフは四人。仮眠時の交代要員の職員しか余裕はない。状況がひっ迫すれば休憩を犠牲にして、他の階から人を回してもらったりすることはある。しかしCひとりが起きたくらいで人を呼んではいられない。しばらくは寄り添うしかない。
 焦る理由は、研修の資料を仕上げる必要があるからだった。内容は権利侵害、つまり障害者虐待。Cをたしなめながら、頭の中では研修について考えていた。
 運よくCは一時間程度でベッドに入った。パソコンに戻って作業を再開する。研修係となってからやっと回ってきた、自分が発表者となる番だった。扱うテーマはネグレクト。
 身体的虐待や心理的虐待というのは、障害者施設の職員であれば身近に起きうることだ。なぜならこの二つは、障害者の行動や態度に対する反応として引き起こされることが多い。故意に行う職員は、このご時世では稀だろう。手が出る、大声を出すなどということは、大抵咄嗟にやってしまうことなのだ。実際自分も、Cが夜に大きな音を立て続けたとき、髪を掴んでしまったことがある。Cはとても怯えていた。そういうことをされた経験がなかったからだろう。至極反省はしたが、他の入居者が起きる事態は避けられたし、その後Cは静かになった。こういった逸脱した支援は、現場レベルでは不可避なことがある。
 しかしネグレクトは違う。施設で行われるネグレクトは、必ず組織的に、故意に行われるからだ。過度な要求、繰り返される要求、暴力的な要求。職員は様々な要求に常に晒される。それに疲弊した職員たちは、入所者の要求を無視しはじめる。それは「要求を聞いていてはきりがない」や「要求を聞いていたら助長させる」といった言葉によって正当化される。
 入所者の要求無視。それは現場以外には知らされることなく、職員間の情報共有のみによって行われる。食事、水分、おやつ、外出、入浴といった、人間として当然の要求すら無視される。福祉の世界に入って自分が最も衝撃を受けたことであり、憤りを感じていることであった。入所施設での勤務は二か所目だが、そのどちらでも、要求を無視する風土はあった。
 障害者支援に愛着の視点を導入する動きが今の施設でも出てきている。しかしそれでも、組織的なネグレクトは止まらない。愛着障害、その中でも最も重い反応性愛着障害。つまり、要求を出す、接触を求めるといった愛着行動がまったく表出されなくなってしまうこの障害は、唯一ネグレクトによってのみ形成される。要求や注意喚起に対して疲弊する気持ちは理解できる。しかし無視という行為は、暴力や暴言よりも軽いものでは決してない。
 突然ドアの開く音がして、大きな衝撃音が振動と共に飛び込んできた。Cが飛び出し、壁に頭突きをした音に違いなかった。夜勤室を飛び出し、Cに詰め寄る。他の入所者のドアに頭突きをされる前に止めたかった。
 パッと掌を広げ、Cの顔に近づける。その途端Cは首をすくめた。髪を引っ張った一件以降、Cは広げた掌を見せると大人しくなるようになった。また引っ張られると思うのだろう。他の職員がいる前ではできないが、夜勤の時は度々使う手だった。
 Cは部屋に戻り自らドアを閉めた。私は夜勤室に戻り、スライド作成の作業に戻った。

「良かったですよ、研修」
 日勤の終わりがけ、同僚が話しかけてきた。
「ありがとう」
 夜勤者に引き継ぎを終え、ひと段落したところだった。まだ部屋に入っていない入所者もいるが、今は夜勤者が対応している。
「身体的虐待とか心理的虐待の話は多いですけど、そういえばネグレクトってあんまり取り扱われていませんよね」
 嬉しいことを言ってくれるな、と思う。
「なんでか分からないけどね。でもネグレクトの影響って、ひょっとしたら一生続くんじゃないかなぁ。今ここにいる人たちも、少なからず影響受けてると思うよ」
「そう思うと怖いですね。でも、要求を無視されてきた結果の行動なのかなぁっていうのは、今考えるだけでもいくつか思いつきます」
 それも、伝えたかったことだった。組織的なネグレクトが作った問題行動という視点から、見えてくることもある。自分以外の職員もそれを考えてくれるのなら、それは研修の大きな成果のように思えた。
「あーっ、やめてください!」
 夜勤者の声が聞こえた。同僚が「えっ?」と声を出す。

 Cが夜勤者の髪を掴んでいた。

「手を離して、離して!」
 同僚が夜勤者からCを引き離して、大きく息を吐く。
「いやー、初めてですね、掴むのとか」
 夜勤者が驚いた顔をしていた。
「なー。どこで覚えたんだろう」
 同僚が考え込む。
「こういうの、一度覚えちゃうと後々まで響きますからね。とりあえず引き継ぎ簿に書いときます。危ないですし」
 私は、二人の会話を遠くに聞きながら、手に滲んだ汗がバレてしまわないか気が気でならなかった。

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