心臓にもない、脳にもない

Chapter 4 - 小料理屋の少女と甘い卵焼き

高松綾香2020/06/15 15:05
Follow

 少女がアイリスと言う名を貰ってから数日が経った。今日から狭間の料理屋が再開すし、アイリスもまたその手伝いをするという話になっている。



 協会の鐘が五時を告げる中、カウンターの此方側でアイリスはただ立ち尽くしていた。白を基調にした服装に後ろ髪を緩く編み込み赤のリボンで留めた、一見するとどこかのお嬢様かのような印象を受ける姿だ。



 狭間は客席に座り、何もせず音がするほどにぼーっとしている。



 無言の店内。自分の呼吸音が聞こえるほどの静寂に包まれている。



 そして、沈黙は一時間ほどして破られることとなった。



「お腹へったね」



 不意に狭間が口を開く。



 狭間家では夕食はいつも六時過ぎに食べていたためちょうど今は夕食時である。そして狭間がそうであるように、ここ数日間彼と行動を共にしていたアイリスもまた同じ感覚を覚えていた。



「はい」



 アイリスは短くそうつぶやいた。その視線はだらしなく客席へと突っ伏している狭間へとむけられており、その声には張りも勢いもなかったが、その眼差しは出会った時とは異なっていた。



「アイリス、何か作ってみる?」



「わたしが、ですか?」



 狭間の急な問いかけに少々戸惑った様子を見せるアイリス。



「嫌だったらいいんだけどね」



 そう言いながら体を起こし、視線をアイリスの方へとむける。そしてその眼差しもまたいつもとは異なり、覇気がなくうつろで正に死んだ魚のそれであった。



「いえ、作りたいです」



 声量は大きくない。だが張りのある声でアイリスは自分の意思を主張する。



「よっしゃ、じゃあ何にしようかな」



 狭間は立ち上がり、伸びをしながらカウンターの此方へと入り、アイリスに問いかける。



「何か作りたいものある?」



「作りたいものですか……」



「食べたいものとか」



 狭間の問いかけにまたも戸惑った様子のアイリスに対し彼は補足するように付け足す。



「今これを食べたら、一番幸せだと思うものとか」



「……たまごやき、が食べたいです。」



 悩んだ末にアイリスが出した答えは狭間にとって意表を突かれたものとなった。そしてその答えは狭間にとって至極うれしいものでもあった。



「あの、甘いやつ?」



「はい。前に食べさせていただいたのと同じものがいいです」



 アイリスはそれを食べた時のことを思い出しながら狭間へと伝える。



 狭間家の卵焼きは代々極甘である。そしてそれを受け入れてくれる人間は少なく、アイリスもまた当時は気を利かせておいしいと言っていたのだと、狭間はそう思い込んでいた。しかしそれが勘違いだったということを今目の前の少女が自分へと伝えてくれたことに激しく感動していた。



「そっか。そっかそっか!アイリスはいい子だな!」



 先までとは打って変わり狭間は嬉しそうな笑みを浮かべてアイリスの頬を両手でこねるように撫でまわす。されるがままのアイリスは嬉しそうな狭間を見て頬だけではなく胸の内も温まるような感覚に包まれていた。



「よっしゃ!まずはこれだ」



 しばらくアイリスの頬を弄ぶと狭間は不意にそれを開放し、卵を手に取り彼女の目の前へと突き出す。



「たまごです」



 アイリスは相変わらずの無表情でただそう口にする。



「そう、卵。割れるかな?」



 狭間はそう言うと手に持ったそれを金属製のボウルの裏側へと当てひびを入れる。その面を一度アイリスに見せてから両手で卵を左右に割中身をボウルへと落とし、やってみて。とアイリスに次を促す。



 アイリスはたった今見せられたのを真似てボウルの裏へと卵を打ち付ける。初めての経験に手つきはややこわばっている。



 コンっという音を立ててボウルの中の卵が振動する。



 アイリスは手の中の卵の打ち付けた面を確認するが、ひびは入っていない。そして、ちらっと狭間の表情をうかがってからもう一度試してみる。今度はもう少し力を強くして。



 すると、さっきとは違った音が響く。



 確認するとそこには狭間がやっていたのと同じようにひびが入っていた。アイリスはそのひびに左右の親指を合わせて徐々に力を込め割れ目を広げてゆく。



 段々と開く割れ目から透明の液体が垂れ、手を開いてゆくと次に粘性の高い卵白が、そして黄金色の卵黄がその姿を現す。それは白身に引っ張られるようにやや形を変えながらからの合間を滑り落ちボウルの中へと吸い込まれてゆく。



 音もなく下の卵の隣へと着地したそれを見て、アイリスは嬉しそうに狭間へと視線を向ける。その表情は傍から見れば無表情のそれであったが狭間の目にはとてもうれしく映った。







 アイリスはその日多量の卵と砂糖を使い九本の卵焼きを仕上げた。九本中四本はとても食べ物のようには見えないようなひどい出来栄えであったが、作るそばから狭間が食べていくためその苦さは知らないままであった。



 結果最後に残ったのは狭間が焼いた一本とアイリスが焼いた二本の計三本だけであった。その三本はほぼそん色がないほどの出来栄えで、バカみたいに狭間に褒められたアイリスは無邪気に嬉しそうでその表情には傍から見てわかるほどの変化はなかった。



「あと、何食べる?」



 狭間がそう尋ねると、アイリスは無音で返事をする。







 その日の夕食はピザトーストと卵焼きという世にも奇妙なものとなったのであった。