心臓にもない、脳にもない

Chapter 5 - 小料理屋の少女と絶望のクリーム

高松綾香2020/06/15 15:06
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「あーんして」



 アイリスは口の中でとろける柔らかな甘みに頬がとろけるような感覚を覚える。



「これは、おいしいです」



「もう一回」



 狭間に言われるがままに口を開けると次に口に入ってきたものはほんの少量の液体であった。



 それは強烈な甘い香りを発し、そして舌の上で激しく暴れまわる苦みを持つ液体であった。アイリスは口に含んだ瞬間に鼻に抜けた香りに驚き、畳みかけるように襲い来る舌の上の衝撃に思わず手で口を覆った。



「これはすごく貴重な薬なんだよ。今はもうどこに行っても手に入らない、それはそれは大切な薬なんだ」



 狭間は苦しそうにするアイリスに向かって茶色の小瓶を見せつける。



「これは、おいしくありません」



 狭間はなおも苦しそうにしているアイリスに見せつけるように、ボウルに入ったクリームへとその小瓶を近づけていく。



「これをこのクリームに入れちゃいます」



 狭間がそう言って液体をクリームへと垂らすと、その雫がボウルへと入るよりも早くアイリスがクリームを取り上げる。



 目標を失った雫が床へと落ちる。



 アイリスは必至だった。



「なぜですか。狭間様はなぜそんなことをするのですか」



「……このクリームを食べた時アイリスはどんな気持ちだった?」



 狭間は落ち着いた様子でアイリスへと問いかける。



「気持ち……幸せ、だと思います。」



 少々考えたのちアイリスはそう言ったアイリスの言葉は終わりにつれ段々と小さくなってゆき、自信のなさか不安が現れたように聞こえる。



「よく聞いてね。アイリス、幸せってのはね外部からのほんの些細な要因で大きく変化してしまうものなんだよ。やっとの思いで手にしたそれは、ちょっとした行動や言動で簡単に崩れ去ってしまうこともあるんだ」



 狭間はアイリスをまっすぐに見つめながら落ち着いた様子でそう言うと、手に持っていた薬品を数滴、アイリスの持つボウルの中へと垂らし、それを混ぜてこんでゆく。



 アイリスは自分の腕の中のクリームに自身の感じていた幸せを重ね合わせて見ているようで、純白のクリームに黒ずんだ数滴の薬品が垂れ、それが中へと溶けこんで行く様を見ると胸の内が苦しくなるように感じた。



 狭間はスプーンでそのクリームを救い上げると、いつものような笑みを浮かべ目を潤ませるアイリスにもう一度口を開けるように言う。



「でもね、ちょっとした行動は時に手の中の幸せをさらに大きいものに変えることもあるんだよ」



 再び口の中へと投じられたそれはアイリスが想像したのとは全く別のものへと変化していた。



 それを口にしたアイリスが思い浮かべたものは、空に浮かぶ雲であった。軽く滑らかな触感に芳醇な香り、口いっぱいに広がる甘さはまるで彼女の体を宙に浮かせたような錯覚に陥らせた。



「いいかな、アイリス。手の中にある幸せを守りたい気持ちはわかるし、それを失うのはとても怖いだろうけど、時には勇気をもって一歩踏み出すことも大切なんだよ。失ってしまったものは戻ってこないけど、その先にはまだ何個も幸せがあるもんなんだって。だからさ、なにかに挑戦してみたい気持ちに対してもう少しだけ積極的になってほしいんだ」



 いつになく真面目に話す狭間のことをアイリスはただまっすぐに見つめていた。



 そして、アイリスは自分の気持ちを彼へと伝える。



「もう一口、食べたいです」



「夕飯食べられなくなるからダメ」