藺草 鞠2020/06/15 11:24
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魔道具作りに主に使われるのは、グリムメタルという特殊な金属である。

見た目は金に似て美しいが、固すぎる故、折れやすい。急激な温度変化にも弱い。少し温度調整を誤ればすぐにヒビが入ってしまう。

金属製品として加工するにはあまりに向いていないその金属が、何故ここまで重宝されるのか。その理由はこの金属の持つ、世界で唯一と言って良い特性だ。

「・・・よく見ていて?グリムメタルに、一定量の魔道を向けると・・・ほら。」

小さなグリムメタルの鉱石に、セレナが指を押し当てる。

鉱石はまるで粘土のように、ぐにゃりと歪んだ。指はグリムメタルを貫通し、ドーナツ状に形を変えた。

「小麦粉をお水で練るように。グリムメタルに魔道を少しずつ注いで、柔らかくするの。しかもこの金属は一度通した魔道を記憶するわ。魔道を発動する最適な形に練り上げて、最後は魔道で殻を作って・・・ここまでが魔道具作りよ。」

どろり。過剰な魔力が注がれたグリムメタルは液体化し、セレナの指からこぼれ落ちた。

硬い岩場に、ダチダチダチ、液体が叩きつけられる音が、洞窟に反響して響いて消えた。



グリムメタルの採掘場を探索してはどうかと、言い出したのはセレナだ。

最北部の手前、崖にかけられた頼りない梯子を登った先に、その洞窟は黒々と口を開けていた。

「採掘には来るけれど、暗いし、最深部まで行ったことはないの。お母様の掘った場所だし、もし近場で何かが隠されているなら、真っ先に疑うべき場所だと思うわ。・・・それに、地図が出来るなら有難いもの。」

後者が本音だろう。セレナの思いやりであることは間違いないだろうが。

「北部の整備も大方終わったからな。分かった。明日から準備をしよう。」

採掘場は大きいからきっと明日1日では終わらない、とは事前に言われていた。

なので数回に分けて行う探索の目的は主に3つ。

1つは採掘場全域の地図作成。おおよそ一本道の採掘場だが、鉱脈に向かって細く枝分かれした道が何本かある。

大方鉱脈に目星をつけたお母様が適当に掘った道だろうが・・・その行き先に残った鉱石があるかもしれない。把握できれば採掘もより効率化できるだろう。

2つ目。今後安全に採掘を進めるための明かりの設置だ。

今回の探索に向けて、セレナは遠隔式の魔道ランプを大量に作成した。洞窟のグリムメタルを壊さないように飛ばす魔道量を調節したそれはセレナ曰く「傑作」。

これを洞窟の各所に設置できれば、入り口でスイッチの魔道を発動するだけで洞窟全域を明るく照らすことが可能になる。

3つ目は勿論、お母様の研究資料の発見だ。勿論ここにある可能性は限りなく低い。

結局いつも通りセレナの手伝いに駆り出されているだけだが、それでも、1が無ければ0は0のままだ。

装備が整った翌日、2人は日が登ってすぐに家を出発した。



「一体こんな洞窟どうやって掘ったんだ・・・?」

壁のグリムメタルはほとんど取り尽くされていた。宝探しを期待していたタイタンは既にがっくりとしながらハンマーを振り下ろしていた。

人工といっても、洞窟は洞窟。内部は非常に冷える。

森はだんだんと蒸し暑くなる季節。カランコロンと揺れる氷水のようだと、冷えた洞窟の空気を飲み込んで、美味しく思っていたのは最初だけだ。

次第に指先が冷え始め、洞窟に入って一時間も経つ頃には、タイタンはその巨体を縮こめて震えていた。

指先の冷えが特に辛い。ランプの設置がまさかこれほど重労働だとは思わなかったのだ。

まずキャンプに使うペグのような部品を地面に打ち込み、そこに魔道を組み込んだビー玉のような部品を接着する。接着作業はセレナにしかできないので、必然的にタイタンが打ち込み作業を担当することになった。

地面の柔らかい箇所や、岩場の切れ目を狙ってハンマーを打ってはいるが、それでも洞窟の地面は硬い。冷えた手に思いハンマーを振る作業は正直拷問だ。打った部品の数が二桁になった時点でタイタンの右腕は悲鳴をあげていた。

体良く肉体労働を押し付けたな、とセレナを睨むが、そのセレナも精密作業の連続で大汗をかいているのに気づき、慌てて目を逸らす。辛いのは自分だけでは無いのだ。

今日のセレナは白い厚手のストールを纏っている。動きやすい長ズボンと厚底のブーツは、普段スカートやショートパンツを好むセレナにしては珍しい服装だった。

かくいうタイタンも今日はかなり珍しいファッションだ。背負った大剣は相変わらずだが、頭にタオルを巻き、長袖シャツ。今は後悔しているが、指の感覚が鈍ることを嫌って手袋は指ぬきのものを選んだ。緩くて動きやすい大きめのズボンをベルトで締め上げている。

工事現場の若者を参考にして選んだ今日のファッションはなかなか決まっている。

服装に興味がないと言っていたのは随分最近だったはずだが。タイタンも若者らしく、かっこいい服を着ると気持ちが浮かれる人間なのだ。

久しぶりのちょっとした冒険だと心が踊っていたのだ、タイタンだって。

こんなことなら、と昨晩の浮かれた自分を思い出し、ため息をつき、ハンマーを振り、左手に激痛。

余りの痛みに声も出ず、無言で左手を抱えてタイタンはうずくまった。

「・・・っ、手を、打った・・・」

小さく呟いた恨めしい声は、玉に魔道を込める為に集中するセレナに届かない。

俺も集中しろということか。畜生め。

無言で作業を再開する。やれば終わるんだ、やれば。

胸の中で言い聞かせるように念じ、タイタンは再びハンマーを振る。







「・・・ええ。来たことのある範囲の明かりの設置は終わったわ。」

「と言っても・・・かなり奥まで進んだぞ。メインの一本道はそろそろ突き当たりなんじゃないか?」

暗くて時間感覚が無くなるが、そろそろ夕方なのだろう。

何時間も灰色の無骨な壁と苔ばかりを眺めていると、そろそろ気が狂いそうになる。こんなところで方向を見失ったら・・・想像するだけでも背筋が寒くなる。

セレナのポケットに入っている小さな方位計だけが命綱だ。これが壊れたが最後、同じ風景で代わり映えしない洞窟を無事に脱出できる気はしなかった。

いざという時のために簡単な寝具は用意しているが、食事を3回摂っても終わらなかったら一度帰ろうと、洞窟に入る前から2人で決めていた。

「小さい時にね、最北部の崖から落ちたことがあるのだけれど。」

絶体絶命だ。そんなにあっさりと言うものではないだろう。

セレナは小さな岩に腰掛け、設置前の小さな丸いランプを手で弄び始めた。

「あの時落ちたのは・・・たぶんこの採掘場のどこかなの。この辺りに他に掘られた場所なんかないはずだもの。だから、採掘場のどこかに、天井に穴が空いた場所があるはずなの。」

「・・・場所の目星はつくのか?」

ちらちら。セレナの頰を照らす暖色の灯りが瞬きをした。

「この辺り・・・だとは思うのだけれど。一本道の突き当たりはもうすぐかもしれないけれど、枝分かれの道はまだまだ沢山あるもの、そのどこかから繋がっているかもしれないわ。」

なかなか落ち込む情報が手に入った。ここからまだまだ作業の続きがあるのか。勿論今日一日で終わるとは思っていないが、今自分の全身にのし掛かる倦怠感が序の口であると言われては、落ち込むのも仕方ないだろう。

「というかよく帰れたなそんな場所から。・・・ああ、翼で飛んだりしたのか?」

「・・・飛べないわよ。え、タイタンはこの羽根で飛べると思っていたの?」

ばさり。この美しい羽根も随分久しぶりに見た気がする。

「まあ、それはそうか。鳥とは体の構造が違う。・・・悪い。想像だけで喋ってしまったな。」

「謝ることではないけれど。」

セレナは気にもしていないようで、ばさりと再び羽根が仕舞われた。

光の粒子のように羽根が霧散し、空気に搔き消える。

・・・仕舞われた?

「・・・ちょっと待ってくれ。あんた、それ、どうやってるんだ?」

「それって?何のことかしら?」

「何って。そんな自由自在に羽根を出し入れできるのか?俺はそんな風にコントロールできないぞ。」

タイタンの尾は意思に関係なく、タイタンが怒ったときに尾てい骨から飛び出す。

全くコントロールできないそれに手を焼いて、ズボンを全て股引のようなものに作り直してもらったのは記憶に新しいし、常に背中の開いた服を着ているセレナも同じだと思っていた。

しかし今、セレナは自分の意思で羽根を出し入れしたではないか。

「この特異な体質も、慣れればコントロールできるようになるということか?」

「それは分からないわ。貴方のそれと私の羽根は別物だもの。」

専門外のことを聞かないで。そう言って会話を切り上げようとするセレナを慌てて止める。何か自分は勘違いをしている気がする。

「あんたの羽根と俺の尾の違い・・・というのが、俺には分からない。何が違うんだ?」

正直全く同じものだと思っていた。

「私の羽根はね、常に生えているのを魔道で隠して・・・というか背中に押し込めているのよ。だから驚いてその繊細な魔道をうっかり切ってしまうと、羽根が飛び出してしまうの。でもあなたのそれは真逆じゃない。」

「真逆・・・?」

「自分の体のことをあまり分かっていないのね、貴方も。・・・私もざっと見ただけだから、間違っているかもしれないけれど、貴方は通常の人間の体に狼の力を後付けして、必要な時に・・・貴方が怒らなくてはいけないような時にだけその力が得られるようになっているのね。隠している私と違って、通常の貴方には本当に尾が『無い』のよ。元からあるものを隠している私と、元からないものを必要な時にだけ引き出す貴方。真逆でしょう?」

難しい。言いたいことは分かるが、自分の体の状態が余りに難解で理解に苦しむ。

「怒りんぼのタイタンには難しいでしょうけど、もし起動と停止のキーになる感情を意図的に操作できたら・・・貴方はあの絶大な人狼の力をコントロールできるかもしれないわね。私の予想に過ぎないけれど。」

投げやりな口調だ。・・・セレナの機嫌が悪い。

昨晩は久しぶりの冒険だわ、たくさんお弁当を作らなくちゃと、微笑ましさを通り越して心配になる程はしゃいでいたはずだ。それがいざ今朝起きてみるとセレナはずっとこの調子だ。

何があったのだろうか。声のトーンが低いし、行動もいつもよりのろのろとしている気がする。

体調が悪いわけではなさそうだが、こんなにテンションの低いセレナは初めてかもしれない。

こつ。小石をつま先でつついて、ぼそりとセレナが言葉を零した。

「・・・まるで私を研究し尽くして作った次世代型みたい。」

そう言い、口をつぐんだ。その先にセレナがどんな言葉を続けようとしたのか、もう察しがついてしまった。

「苛立たせてるのは分かっている。でもそんな風に言わないでくれ。・・・俺がどうなろうと、あんたが何だろうと、あんたは俺にとって世界で一番頼もしい大魔導士様だ。」

思わず言ってしまった一言を、聞き逃してくれたらいいものを。

たった一言、余計なことを言っただけでこの通り。タイタンは本当によくできた男だ。こちらが逆に申し訳なくなるくらいに。

「機嫌取りはいいわよ。・・・少し拗ねただけ、悪かったわ。貴方はなにも悪くないもの。・・・だけど、でも。」

「いい、言わなくても。・・・誰だって過ぎたことを悔やむし、どうしようもないものを望んでしまう。俺だって同じだ。自己嫌悪する必要はない。」

もう考えるな、と大きな手がセレナの背中を優しく叩き、カバンを握った。

・・・嘘つき、と。

再び毒づきそうになった口を、セレナは必死で縫いつけた。





ああ、あと少し作業しようと、欲を出さなければ。

2人の胸に全く同じ言葉が浮かんでいた。

「・・・確かに、今は雨季よ。・・・ああもう、忘れていたわ。この時期はなんの予兆もなく天気が変わってしまうけれど、でもよりによって今日こんなことになるなんて!」

「地面が乾かない限り、あの断崖絶壁の梯子を降りるのは無理だ。・・・動物たちの餌を多めに出しておいたし、確かに数日家に戻らなくても問題はないが・・・でも、なあ。」

せっかくこんなに奥まで進んだのだ、戻るのも勿体無いし、もう少し進んだら何かあるかもしれない。

約束していた「3度めの食事まで」を破り作業した2人が聞いたのは、入り口方向から響く激しい雨音。

慌てて外まで様子を見に行けば、視界が白くなるほどの激しい雨が大地に叩きつけられ、時々空が轟音を立てながら黄色く光っていた。

「・・・仕方ない。この時間では暗闇で梯子を降りる羽目になるし、どの道一泊は確定だった。時間を忘れ過ぎた俺たちが悪い。腹を括ろう、セレナさん。」

勿論数日野宿できる準備はしてある。荷物を抱え直し、すたすたと洞窟の奥に戻っていくタイタンを、がっくりと肩を落としたセレナがとぼとぼついていく。

「・・・どうしてすぐそんなに割り切れるのよ。」

「諦めが早いだけだ。切り替えは大事だろ、何事も。」

諦めが早いなんてどの口が言うのだ。私を追いかけて罠だらけの南の森を縦断したくせに!

そう叫んだが最後、この洞窟で無限に続く言い合いが始まるに違い無い。言葉をぐっとこらえ、セレナは一生懸命足を動かした。

セレナが今日、妙に苛ついている理由はただ1つ。

タイタンのせいでも、セレナのせいでも無い。月のもののせいだ。

タイタンにバレないよう、セレナはこっそりお腹を押さえた。

元々の歪な肉体。更に幼少の過度なストレス、・・・言葉で言うのも憚られる性暴行のせいで、セレナの生理周期はかなり乱れていた。何ヶ月も来ないことはしょっちゅう。

その日が、見事に今回の探索の予定にぶつかってしまった。出発前夜に真っ赤に染まった下着を見て、セレナが青ざめたのは言うまでもない。

しかも、洞窟に来てから気づいたが、今回はかなり重い。

腰が鈍く痛むし、朝から何だか落ち込みやすいし、気が立っているし、眠気は酷いし。

何より出血量が多すぎて、タイタンに隠れてセレナは何度も綿を取り替えていた。

タイタンにバレたらどうしよう。

勿論替えの綿は用意しているが、数日ここに宿泊することなど想定していない。

何より生理周期の乱れのことは話したくない。そのためだけに無理をして洞窟探索を決行したのだ。

今はセレナに月のものが来ることなど頭から抜け落ちているだろうが、一度話したが最後、今後の彼の対応は・・・嫌になる程想像がつく。

何故毎月きちんと月のものがこないのか。そう問い詰められて言い逃れられる気がしない。

その理由をタイタンに話したくなかったし、自分が既に処女ではないことも、自分がもう子など孕むことができない体だということも絶対に知られたくなかった。

その程度で軽蔑するタイタンでは無い。セレナがセレナを蔑めば彼は怒る。それでも。

自分が汚れた女であるだなんて、自分を綺麗だと言う彼には知られたくなかった。





寝具を用意したと言ってもたったの毛布二枚だ。

といっても野宿慣れしているタイタンと床で眠れるセレナにはそれで十分だった。

2人は比較的入り口に近い場所を陣取り、ここを本日のキャンプ地とすることとした。

下山するために早めに軽く夕食を摂ったが、それだけでは夜に腹が減る。

「セレナさん、食事は・・・って、もう寝るのか?」

「疲れたのよ、いっぱい魔道を使ったもの・・・。おやすみタイタン・・・。」

食料を詰めた袋を広げたタイタンを背に、セレナはさっさと毛布に丸まる。

普段ならどうということはない。毛布一枚で十分安眠できる。むしろ柔らかすぎるベッドは苦手なくらいだ。

しかし横を向いても仰向けになっても腰がじくじくと痛む。薬を飲みたいが、タイタンに怪しまれる。

ただ耐えて、自分の意識がさっさと沈んでくれることを祈るしか無い。

眠らなければ、と焦れば焦るほど睡魔は遠ざかる。落ち着かない彼女が何度めかの寝返りをした時、流石に見かねたタイタンが声をかけてきた。

「・・・眠れないなら無理に眠らなくてもいいだろう。」

やっぱり怪しまれていた。どきりとセレナの心臓が跳ね、近づいて来ていた睡魔が霧散した。

「もうちょっとで眠れそうだったの。」

「やっぱり無理して眠ろうとしていたじゃないか。いつもはまだ居間でのんびりしている時間だろう。明日が不安なのは分かるが、眠れないものは仕方ない。」

タイタンは持参していた枝を使って焚き火をするらしいが、何故か持ち歩きの簡易魔道装置は鞄の奥深くに眠らせたまま。ポケットから取り出したのは金属の小箱だ。

魔道式でない発火装置などセレナは久しぶりに見た。というかいったいどこから引っ張り出したのだ。その発火装置は確かお母様の骨董コレクションの1つで、セレナには使い方もわからない謎の機械だ。

「使い方を知っているの?」

「・・・本で読んだ。旧時代文化に興味を持って、あれから少し勉強しているんだ。」

時間がかかる本物の火を使わなくても、そもそも焚き火などしなくても。魔道装置を使えば一瞬で火が起こせるというのに。

非効率だな、と思うセレナを横目にタイタンはキャンプの準備を始めた。

タイタンの手に乗った小さな金属の四角い箱。骸骨のレリーフが掘られているその箱の蓋になった場所を開くと、細かい金属部品がむき出しになっている。

そのうちのひとつ、ホイール状になった部品を、タイタンの指がスナップを付けて勢いよく回すと。「すごい。火が点いたわ・・・そうやって使うものなのね。」

「たまにはこういう趣も悪くないだろう。・・・暖かいものを飲んだらきっと眠くなる。いくらあんたでも、こんな寒い場所で、不安で、いつも通り眠れるわけがないんだ。落ち着け。」

ぱちぱち。苔が燃え上がり、少しずつ木材に燃え移っていく。

土砂降りの外に流れ出てゆく煙が絵を描く。焚き火の心地よい音に耳を傾け、セレナはほっと息をついた。

なるほど、焚き火というのもなかなか悪くない。

山火事を嫌ってすぐ消せる魔道の炎を使うことが多かったが、本物の炎というものは見ていると不思議と心が落ち着くものだ。見た目は同じだが、本物の炎はまるでそれ自体が1個の生き物であるかのような生命力がある。

タイタンは焚き火の下に、薄い金属の箱を投げ込んだ。中身は塩漬け肉と一口サイズの芋だ。これをパンに乗せて今日の夜食にするらしい。

セレナほど手が込んだものではないが、野宿らしい無骨な男料理。

思わずセレナは唾を飲み込んだ。

「・・・くく。あんたも腹が減っているじゃないか。用意するか?」

「だめよ。こんな時間に沢山食べたら太ってしまうもの。」

「そうか。残念だな。」

ならあんたは茶だけだな、と。鍋で水が沸かされる。

ふつふつ、湯が沸く音に混じって、じゅわじゅわと塩漬け肉が焼ける音。

だんだんと肉が焼ける良い匂いまでしてきた。

夕飯を食べたと言っても、帰るために腹だけ満たせば良いと薄切りのパンを一枚食べただけだ。

・・・夜食を食べてもバチは当たらないだろう。今日1日くらい。

「肉を入れすぎだ。あんまり詰め込むとうまく焼けない。」

「・・・このくらい?」

「そうだ。蓋をきっちり閉めて・・・ほいっと。」

カン。タイタンの金属箱とセレナの金属箱がぶつかり小気味好い音を立てた。

「あんたはもう少し太った方がいいくらいだ。・・・昼もあまり食べてなかっただろ。腹が減ってるうちに食った方がいい。」

こんな場所で体調を崩されたらたまったもんじゃない。

タイタンの言葉にちくりと胸が痛む。

既に体調不良のようなものだ。重い泥が胸に淀む。

・・・意地を張らずにきちんと言えばよかった。

今はまだなんとかなっているが、明日はきっともっと酷くなる。それに野宿が長引けば綿がなくなってしまうかもしれない。

自分のプライドを優先した結果、タイタンに迷惑をかけることになりかねない事態になった。

もし出発前に月のもののことを打ち明けていれば、タイタンは予定を延期してくれただろうし、そうすれば雨に降られずに済んだ。

生理不順のことだって、なにも正直に言わなくても、うまくはぐらかせば済んだ話だ。

そもそも、自分は大事な遠出の予定に浮かれて、天気の確認を怠らなかったか。星を、雲を、何か予兆を見落としたかもしれない。

綿だってもっと持って来ればよかった。不測の事態に備えろと口すっぱく言ったのは自分だったというのに。

「・・・・・・・・・・はあ。」

思わずため息が漏れる。ああすればよかった、こうすればよかったと、自分はいつも後悔ばかりだ。タイタンならきっと、考えても仕方がないと一言で切り捨てられるモヤモヤだ。

タイタンのように迷いなく生きられたらいいのに。

きっと自分がタイタンの立場だとしても・・・こんなふうに真っ直ぐは生きられないだろう。

無くした記憶を切り捨てる覚悟。この森で生きたいという強い意思。

自分がもしタイタンだったら、きっとセレナを選べない。

真っ直ぐに自分めがけて走って来てくれるタイタンを頼もしく思う反面、羨ましい。

もしタイタンなら、きっと最期にお母様を笑顔にしてあげられたかしら。などと。

生産性のない妄想をしてしまうくらいには。

「・・・セレナさん、何か悩んでいるのか?今日はずっと元気がない。昨日はあんなに今日を楽しみにしていたじゃないか。」

「・・・別に、なんでもないの。ただ・・・そうね。貴方みたいなひとになりたいと・・・・貴方みたいに真っ直ぐで優しいひとになれたら、って。」

「褒めてくれるのは嬉しいが。あんたが思うほど俺は出来た人間じゃない。よく怒鳴り散らされてるあんたなら分かるだろ?」

すぐ怒るし、感情的になれば余計なことばかり口走る。強引で雑だし。

そう言って茶化してくれるタイタンの優しさが嬉しい反面、今は少し胸に痛い。

ぱこん。金属箱が膨張した音。タイタンは自分の箱を焚き火から引き摺り出し、無言でセレナに渡した。

「わかってるわよ、でも。」

蓋を開ければ美味しく焼けた肉と、肉汁の染み込んだほくほくの芋が現れる。

わかっていても、タイタンの譲ってくれたそれになかなか手を伸ばす気になれなかった。

「・・・きっと俺を真っ直ぐで優しいと言うのはあんただけだ。俺はあんた以外の全てに優しくないからな。真っ直ぐというのは、セレナさん、あんたのことを言うんだよ。」

「違うわ。・・・きっと、違うわ。私は、セレナのためにここまで走れないから。」

私ならきっと諦めてしまうわ。

そう言って口を結んだ。焚き火の音だけが、洞窟に響く。

ぱちぱち。ぱちぱち。ぱち。じゅわり。

セレナの金属箱が音を立て始めたその時。なあ、とタイタンが口を開いた。

「・・・俺の弱音も聞いてくれるか、セレナさん。」

驚いて見上げる。そういえば、焚き火を始めてから初めてタイタンの顔を見たかもしれない。

焚き火が瞬くたび影が落ちるいつも通りの無表情。でも最近は僅かな表情の違いも分かるようになった。今は・・・僅かに口角が上がっている気がしなくもない。

「タイタンの、弱音?」

「諦めが早いって言った時。嘘だろう、って顔をしてただろ。・・・諦めが早いのは本当だよ。ただ、諦めて切り替える次がもうどこにもないだけだ。」

セレナさん。普段なら心地よいその声が、何故か今日は。

「・・・俺には、もうあんた以外なんにも無くなってしまったんだよ、セレナさん。」

どくん。

違う。タイタンは確かに今笑っている。いつも通り笑っている。

なのに、この胸のざわめきは何だ。どうして今、私は彼を見て泣きそうな気持ちになってしまったのだろう?

「記憶も長かった髪も故郷も。故郷の人間もこの手で殺したな。着ていた服も荷物も自我も人であることさえ。あんたを追いかけると俺がどんどん無くなっていくんだ。なあ俺は一体誰なんだ?最期に残ったあんたを守ることさえ失ってしまったら俺は本当に何にも無くなってしまう。それが不安で苦しくて怖くてしかたなくてだから時々あんたのせいだと責めたくなる。ただありのまま優しく振る舞っただけのあんたを責めたくなる。何も悪くない優しい優しいセレナさんを責めたくなる。」

聞いたことがないほどのタイタンの早口。念仏のように吐き出された感情は重く濁り、ずしりとセレナの足元に落ちていく。

息を呑む音がする。

なあ、セレナさん。

問いかける声は、焚き火の音の中、はっきりとセレナに届く。

「これほど押し付けがましいものを、あんたは優しいと呼べるのか?」

セレナは今、自分が天秤を握っていることを理解した。

この天秤が傾いたその瞬間。それがこの男の運命、たった数ヶ月の人生をすべて壊すのだと。

それを理解しながら、それでもセレナは、一瞬も迷うことなく、間髪入れずに。

ただ、即答した。

「呼べるわ。だって、貴方は私を選んだから。」

タイタンの目が僅かに開かれた。

何を驚くのだろう。タイタンがセレナを選んだように、セレナだってタイタンを選んだのだ。

「私がタイタンを選んだのは、私が優しいからじゃなくて、タイタンが私を選んでくれたから。私がタイタンを優しいと思うのは、タイタンが私を選んでくれたから。それだけだけど、それが私のずっと欲しかったもの。ずっと欲しかったものを、タイタンはくれた。私にとってそれが・・・どれだけ嬉しいことだったかなんて・・・」

セレナは胸に手を当てた。とくとく、喜びで心臓が跳ねる。

「無くした記憶より私を選んでくれた。故郷の人間を殺して私を選んでくれた。人で無くなって私を選んでくれた。・・・ふふ、押し付けがましいなんて。私は喜んでそれを受け取るわ、タイタン。」

焚き火は美しいが、向こう側に座るタイタンの震える手を握ってあげられないことだけは惜しく思う。

「貴方に幸せに生きて欲しい気持ちだけは出会った時からずっと変わらないけれど。・・・今は、それができれば私の隣であってほしいって、祈ってるわ。我儘かしら?」

「我儘?当然の条件だそんなものは。俺はあんたの隣でしか、幸せになれないんだよ・・・」

洞窟に響く雨音は一層激しさを増している。この調子では明日も家に帰れるか怪しい。

先ほどまで憎かった雨を、タイタンは少しだけ愛おしく思った。

ああ、この時間が永劫であればいい。このまま彼女をここに閉じ込めておけたら。

空の色に目を輝かせるのも、美味しい食事に頰を緩めるのも、子鹿を愛おしげに撫でるその手も、本当はすべてが自分のものであったら良いのにと思っている。

分かっている。そんなものは彼女の幸せではない。タイタンは刻一刻と色を変える自然に心をときめかせるセレナが好きだ。

「・・・セレナさん、俺がセレナさんを選び続けられたのは。あんたが俺に初めて優しくしてくれた人だったからだ。俺も、それだけでよかったんだ。・・・他の理由なんかない。それ以外の全てが、どうでもよかったんだよ。」

ばこん。焚き火の中、金属箱が膨らんで音を立てた。



蒸し焼きにされた塩漬け肉は絶品だ。普段カリカリに焼き上げるのとは違い、ふっくらと焼けた塩漬け肉は肉本来の食感を取り戻している。

その脂が染み込んだベイクドポテトに僅かに塩を振り、軽く潰せば立派な副菜だ。

そちらも勿論気になるが、まずはメインデッシュから。柔らかいパンに肉を乗せ、がふりと噛み付く。肉の旨みが口の中でとろける至福の味に、二人は同時に歓声をあげた。

「うまーーーい!!」

疲れた体に旨みが沁みる。

食欲がなかったはずのセレナさえ、唇を油まみれにして夢中にかぶりついてしまうほど。

「美味しい・・・野外炊飯も悪くないわね。焚き火で焼いたお肉って特別美味しいのね!」

「良かった、思いつきで試したが大成功だ。・・・ああ、茶が湧いた。セレナさん、ドロップを貸してくれ。」

ドロップ?セレナは首を傾げた。

確かに、荷物をなくして遭難しても困らないように、遠出するときには必ず蜂蜜を煮詰めて固めたドロップをポケットに忍ばせている。・・・甘いものに飢えているわけではない、決して。

ドロップを入れた缶詰をタイタンに渡すと、タイタンはドロップを茶を沸かした鍋に投入した。

「な、何をしているの!?」

「紅茶には砂糖を入れて甘くするのが昔の文化だったそうだ。砂糖が高級品になってからは廃れた風習だが。蜂蜜が採れるこの森なら再現できるだろう?」

本当だろうか?セレナにとって茶とは食後に口をさっぱりとさせるためのもので、決して甘味ではない。甘いものに香り立つ茶を合わせるのが良いのである。

いやそれ以前に、茶を甘くしてしまってよいのだろうか?とんでもないタブーである気がする。

おろおろとしているセレナを尻目に、タイタンは鍋を二、三度くるくる回す。

沸かしたての熱い茶の中に、ドロップはみるみる溶け込んでしまった。

「・・・ほら。好きだろう甘いもの。」

カップに注がれたそれをおそるおそる受け取る。見た目ではわからないが、甘いハーブの香りの中に僅かに蜂蜜のとろりとした甘い香りが感じられた。

「・・・変なの、と思ったけれど。いい、匂い・・・?」

「早く飲んでみろって。一回試したことがあるんだが、絶対にセレナさんが好きな味だと思うから。」

早く驚くセレナが見たいと、タイタンの顔にわかりやすく書かれている。

タイタンが試したなら、と。渋々口に含んだセレナ。

その日をセレナは後にこう言う。あの日は間違いなく私の人生の転機だわ、と。

「!!!」

「おい!?」

ガチャーーーン!!!!

洞窟にタイタンの叫びとカップが割れる音が響く。

「っ、おい、カップを落とすな・・・っていうか、火傷!火傷しただろ!!大丈夫か!!」

「おいしい・・・・」

「・・・・・・はあ?」

膝に熱々の茶を零し、絶対に熱いだろうに、しかしセレナは微動だにせず、手を震わせていた。

というか今気付いたが、セレナの背中に羽根が出ている。驚いた?・・・ということはまさか。

「おいしい!!おいしいわ!!なにこれ!!どうして今まで思いつかなかったのかしら!!お茶も蜂蜜も全部全部今まで身近にあったものなのに!!」

感動で手を震わせてカップを落としたらしい。

二個しか持ってきていない貴重なカップを思い切り割り、その感動のお茶は全て洞窟の床に零してしまっているが、しかしセレナはまだそのことに気づいていない。

「こ、この馬鹿!!!零したら意味がないだろうが!!水だって貴重なのに、人がせっかく元気付けようとした気遣いを・・・!!!」

「あ、た、確かにそうだわ!!タイタン!タイタンの分を頂戴!ねえ、私の為に作ってくれたのでしょう!?」

「ふざけるな!!俺だってやっと水以外のものが飲めると楽しみにしていたんだ!!飲みたければ鍋に直接口をつけて飲め馬鹿!!」

先ほどまで火にかかっていた熱々の鍋を差し出され、セレナがむっとする。

「なによ意地悪タイタン!びっくりしたんだから仕方ないじゃない!!今日一日いっぱい頑張った私にちょっとくらい譲ってくれたって・・・!」

いや全部セレナの過失だろう!頑張ったのはタイタンも同じだし、一生懸命にセレナを喜ばせようとしたタイタンの気持ちまで全て床にぶちまけやがって。

疲労で鈍った頭に血がのぼる。どこか冷静に「これは久しぶりに激しい言い合いになるな」とため息をつくもう一人の自分がいた。

「あんたはーーーーッ!!!俺が少し優しくすれば付け上がりやがって!!!!」

怒りが脳天を突き抜けると同時に、ずしりと腰に重みが増す。

同時に鋭くなる聴覚、嗅覚。

感情のままに言葉を吐き出そうとしたタイタンの舌が、ぴたり、と止まった。

「・・・?タイタン?」

怒鳴られる、と身構えたセレナは二の句が飛んでこないことに気づき、おそるおそる顔をあげた。

「・・・セレナさん、あんた、怪我してるのか?」

「え?」

燃える木の焦げ臭い匂い。肉の脂、カビ臭い洞窟の匂い、蜂蜜の匂い。

その中に、濃い血の匂いがある。しかもセレナから。

いやでも、これは、セレナが怪我をしているときの匂いとは明らかに違うような。

血、血。そういえばセレナは朝から気分が悪そうだったし、数日前から不機嫌なことが多かったような。あ。

「・・・・・」

「タイタン?」

それはそうだ。いくら肉体が人間とは違うからといって、セレナは女性だ。

そりゃ体調が悪くても言い出しにくいに決まっている。

「・・・・・っ。悪い。茶1つで怒りすぎた。・・・火傷は?」

「え、ええ。ちょっとひりひりするだけ。火で焼いたわけではないもの。・・・大丈夫だけれど、急にどうしたの?」

「流石にあんたが怪我したかもしれないのに無視して怒ることはしない。いいから着替えてこい。替えの服は?」

「持ってきてないわ。どうしようかしら。蜂蜜がべたべたしちゃうわよね・・・」

セレナは困った顔をする。流石にあと数日ここにいるかもしれないのに、砂糖でべたつく服で過ごすのは嫌だし、下着まで茶で濡れてしまったのだ。これは非常にまずい。

最悪雨水に晒して・・・いや、普段ならそれで済ませただろうが、今日はダメだ。流石に月のものが来ているときに、毛布一枚で過ごすことはできない。

どうしたものか。考え込んだとき、タイタンは気づく。

ずっと雨音だと思っていた水音。何故か洞窟の反対方向から水音がする。

「・・・水場があるかもしれない。あっちの・・・夕方に作業をやめた辺りの、細い小道の先だ。雨音と違う・・・滝のような水音がする。」

「・・・え、本当に?」

「行ってみようか。服ごと飛び込んで魔道で乾かせば、この寒い洞窟でわざわざ服を脱がなくて済むだろ。」

何か考え込んだセレナを促し、タイタンは先導して歩き出す。

それにしても。

男は狼などとはよく言ったものだ。

セレナの血の匂い。汗で透けた背中、うなじ。タオルを巻いた谷間。

・・・勿論今まで一度もそういった目で見たことがないわけではないが、血の匂いを感じ取った瞬間、自分の中の欲求が耐え難いほどに膨れ上がった。

セレナをより先に歩き隠した顔は紅潮しているし、下腹部が熱い。尾はふうふうと毛を逆立てている。

発情期というやつだろうか。体が獣に近づくというのはこういった弊害もあるのか。

水場を見つけるには尾をしまうわけにいかないのだが・・・つまり水場にたどり着くまでの間ずっと嗅覚が鋭くなり続けることを意味する。

正直拷問に近い。強烈な雌の匂いに息が上がり、頭がクラクラする。

月に一度、毎回こんな状態になるとしたら・・・これは非常にまずいかもしれない。

口に溜まった涎をぐっと飲み込み、タイタンは必死に歩みを進める。

タイタンは初めて「好きな女性と一つ屋根の下」という状況の大変さを思い知ったのだった。