『―――海の匂いがする』
ツンとする潮の香りが私の部屋の窓から入り込み、渦を巻いて部屋を満たしていく。
その潮の香りは私を掻き立てるように心の奥に入り込み、私は居てもたってもいられないと、すぐさまベットから飛び起き、私は外に出る準備をした。
折り畳みのイーゼルと、特製の木箱で作られた画材道具を両手に持ち、F8サイズのスケッチブックを大きなリュックサックに背負うと、今日もまた由比ガ浜の白い浜辺へ向かう。
私の家は由比ガ浜から少し登ったところの小高く上がった高台の、一目見れば区別がつくような白い家に住んでいる。
家から少し歩いたところで、ふと自分の家を振り返ってみたが、外壁は去年白く塗り直したおかげか、空を照らす日光が外壁に反射して、視界が眩くなるほどに輝いて見えた。
浜辺までは歩いて徒歩10分ほどの距離がある。
あまり外に出ない病弱な私にとって、歩く数百メートルというこの距離が近いようでいつも遠く感じてしまう。
浜辺までの直前、海沿いには一本道路が走っており、浜辺へ行くには一度横断歩道を渡って行かなければならない。
いつものように赤信号で待ちぼうけをしているが、いつもあの浜辺に足を踏み込む楽しみからくる胸の高鳴りを抑えられずに、いつもソワソワとそこで足踏みをしてしまっていた。
ようやく青信号に変わったと思うと、アスファルトの道を、私は小走りするかのように息をきらして浜辺へ向かった。
白いコンバースのスニーカーで、ざらっと浜辺の砂へ足を踏み込む。
砂の温かな感触がスニーカー越しに伝わり、私の心と身体はその熱で躍り始めていた。
アスファルトとは違う、砂の感触。
まるで違う世界に踏み入れたような、夢と現実の境界線を引いたような、そんな非現実な風景の砂浜で、私は水平線のはるか向こう、揺れる水面に思いを遠く飛ばしていた。
浜辺を少し歩き、ちょうど海の広がりが見える位置、波の満ち引きを遠くで見れるいつもの場所にリュックサックを下すと、そこに片手に持ったイーゼルを立てた。
不安定な砂浜にイーゼルの脚を立てるのにいつも苦労する。
ぐりぐりといい位置を探り々でかき回しながら、よっこらせとイーゼルを立たせることが出来た。
砂浜に置いたリュックサックから、スケッチブックを取り出し、白紙のページを切り取ると、それをカルトンに固定し、イーゼルへとそれを乗せた。
簡易的な折り畳みの椅子を広げ、その上に座り込むと、そこで一息、ボーとしながら私は遠くの海を眺めていた。
私は昼食を取るために、おもむろにリュックサックから水筒ボトルとサランラップで巻いたサンドイッチを取り出した。
サンドイッチはいつも自分で家を出る前に作っていて、レタスとトマト、それにいつも家の冷蔵庫にある厚切りハムを少しばかり厚めに切り、スライスチーズの乗せて作っている。
シンプルながらも、私にとっての最高の贅沢であり、この砂浜と泡立っては消える白波の行方を見ながら頬張るサンドイッチは私をささやかな幸せで満たしてくれた。
パクリとサンドイッチを頬張り、水筒ボトルに入れたアイスティーに口をつける。
いつもながらの最高な組み合わせに、私は満足げな顔で惚けていた。
サンドイッチをペロリと間食し、くしゃくしゃとサランラップをまとめ、白いビニール袋に放り込む。
そして、食後のアイスティーを一口、ゆっくりと飲み干すと水筒ボトルの蓋をカチャリと閉めた。
その全てをリュックサックに詰め込み、後片付けを終えると、丸く水色の筒状をした文房具入れを取り出し、鉛筆を一本取り出す。
芯が削られた鉛筆で、軽くサッと紙を撫でるように下書きをする。
砂浜のと海の境界線、疎らに行きかう人々をぽつりぽつりと描いていく。
簡単に下書きが終わると、私は鉛筆をケースへしまい、それをリュックサックへと戻した。
そうして次に、私は画材道具の入った木箱を自分の太ももの上に置き、ガチャガチャと中を漁り始めた。
そして一本、年季の入った刷毛を取り出す。
さて、この浜辺を、あの水平線を、水平線の向こうに小さくぼやけては動く白い船をどの色で描いていこうか。
今日は4月3日。
春を迎え、温かな潮風が海から香り、近くに咲く桜の花びらがちらほらと海にまで舞っている。
舞う薄ピンクの花弁はひらひらと中を漂い、砂浜へ静かに落ちていく。
ふと頭に絵の題名が思い浮かんだ。
「海に咲く桜」
そんなに格好がつくような名前ではないけれども、タイトルとしては良いのかもしれない。
そう思いながら、慣れた手つきでパレットに色を落とした。
今日の海は白く感じる。
澄み切った雲一つない空と、晴れやかな晴天、海面にきらきらと反射する太陽がそう私に海が白いと感じさせたのだろう。
青色を落とした絵の具を水で引き延ばしていく。
薄く、白の明るさを基調とできるような青へ。
刷毛にその色を付けると、水彩紙にその色を塗っていく。
横に一振り、スーッと刷毛を引き延ばす。
最初の一塗りをしたところを中心に、刷毛でなんども薄く地塗りをしていき背景の色を塗っていく。
塗り終えたら、次に空の水色を水彩紙の上のほうから先ほどの塗った青と重なるようにして塗っていく。
そして下半分、ちょうど紙の1/3にあたる部分に広く黄土色のインクで薄く、砂浜を塗っていった。
そうして地塗りを終え、小筆で細かく色を使いながら水平に広がる燦然と輝く白い海を描いていく。
そして最後、ピンクのインクをパレットに移すと、極小の微細な筆で、海に舞う桜の花弁を儚げに小さく描いていく。
そうして出来た作品には、春の海らしい、明かるげな白い海の絵が広がっていた。
ふうっと一息つき、画材道具を片付ける。
そうして絵を眺めがながら両腕と背中を伸びをするようにして伸ばし、はぁという声を漏らした。
浜辺では、カップルがぱちゃぱちゃと白波を手で掬いながら、遊んでいる。
藍が限りなく広がる海の遥か彼方が私を呼んでいるような気がする。
空飛ぶカモメのように、私に翼があったなら、どれだけ自由に海を旅できるんだろうか。
あまり、動かすことの出来ない体であることはわかっている。
だからこそ、今見た感情を風景に残しておきたいという気持ちが強く、胸の奥深くに込みあがってくる。
きっといつか私の体が風化してしまう前に。
今日も海は、さざ波の音が心地よく響いている。
私は一枚の絵に思いを込めながら、由比ガ浜を後にした。