翡翠の星屑

Chapter 47 - 魔術師と見習い

季月 ハイネ2020/08/06 02:18
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 それは遠い、記憶の彼方。だというのに、今なお鮮明に覚えている幼い頃。まだ自身が賢人ではなかったときのこと。


「おまえが――は――だ。――ない!」


 聞こえてきた話し声。なにやら言い合いをしている様子に、遠回りしようと心を決める。怒鳴り声がしている傍を通りたくはないし、自分から面倒ごとに巻き込まれたくもないし。そんなわけで進めていた足を回れ右したその直後だった。


「――って、ほしくてもらったものじゃない!」


 おや、と足を止める。

 先に聞こえてきたのは成人男性の声だったが、今の声はずいぶん若い。それも、声変わり前の声――若い、よりも幼い?


 思いがけない声音に興味が湧いて、曲がり角からそっと目を覗かせる。悪態をつきながら去っていく男性と、その逆方向へと走り去った小さな背中を眺めて――気づいたら後者を追いかけていた。

 どういうわけか今の記憶があって、改めて見ずとも、なぜか自分の姿は幼い頃のままだ。だからきっと、これはあの日の夢だ。それも、記憶の中と一切違わない夢。


「おーい。なあ、あんた――なのか?」


 発したはずの言葉はしかし音にはならず、その名前だけ出てこないことに疑問を抱く。

 面白くなさそうに頷く顔は、やはり彼以外の何者でもない。


 あの日の記憶があるから、面白いことでも言ってからかってやろうかと思ったのに。そんな意志とは真逆に、あの日交わした言葉をそのままになぞっていた。

 まるで、筋書きどおり以外の言葉は必要ないとでも言われているかのように。


「へぇ。もっと年上かと思ってたけど、俺と同じくらいなんだな」


 仏頂面が見張られて、警戒心がわずかに薄れたのが見て取れた。

 そう、彼とは、これが初めて交わした会話だった。

 過去は変えられない。それはわかっている。どうしてこう、同じ会話を繰り返さなければならないのか。

 まじまじと眺められ、そうして彼が口を開く。


「そうか?」


 口から出てきたひと言に、目を見開くのはこちらの番だった。

 あの日とは違う。その声音、その表情。


「――あんた、まさか」


 出てきたのは記憶から外れた言葉。

 意味ありげな眼差しが自分に注がれる。彼はそんな顔などしない。では、やはり、この人は――


「ノ――」


 口元に当てられた人差し指。言ってはならぬと、そんな仕草をされてはこちらとしても口をつぐまざるを得ない。

 呼んではならず、音にしてもいけない。それならばと心の中から呼べば、その人は満足そうに微笑んだ。まるで、自分がそうすることを、あらかじめわかっていたみたいに。


 聞こえるわけがあるまいに。見抜かれているようで面白くない。癪に触るし、忌々しい。

 これが夢だからか。夢の中だからといって、何でも許されていいわけがないのに。

 その人は口を開く。自分には黙っていろと指示をしておいて、ずいぶん勝手だ。


「――の」


 初めのひと言とは異なる、不明瞭な声。


「……おい?」


 どうしてこんなにも聞こえづらい。


「――の。――きて――い」


 一体何を話そうとしているのか。耳を澄ませるが、どうにも聞き取れない。この人は一体、自分に何を言おうとしているのだ。確かめたいのに、声はおろか、次第にその姿さえもぼやけてきて――


「待っ、」


「――きてください、リディオル殿!」


 呼び止めようとしたそこへ覆い被さるように、大音声に呼ばれたのだった。


「――あ?」


 結んだ焦点が映し出す。そこにいたのは、狼狽ろうばいした様子で自分を覗き込んでいる少年だった。先ほどまで目にしていた、彼やあの人ではなく。

 場所も違う。ここは、彼を呼び止めた森の中ではない。屋内で、覚えのある場所。これは、いつの、誰の記憶だ。


 半身をゆっくりと起こし、リディオルは状況を整理することに努める。

 ここは自室だ。見慣れた天井がそれを教えてくれている。自分は成人した姿で、当の昔に変わった声は聞き慣れた低さで。

 今しがた見ていたのは、誰が何と言おうと夢だった。正確には昔のことだけれど、あれは夢だった。彼もあの人もここにはもういなくて、現実はこちらで、今自分の目の前にいる少年は――

 じっと少年を見ていれば、一転して目をつり上げてきた。


「時間がないと言っていたのはあなたじゃないですか、早く起きてください!」


 先の狼狽していた様子はどこへやら。うろたえた声が記憶の中と一致せず、しばし逡巡しゅんじゅんしてその名前を引っ張り出した。


「……あー。なんだ、ユノか」


 口に出すと、ようやく自身の覚えている顔が合致して、その人物を形作った。


「そうですよ!」


 ユノ。魔術師見習いで、青年と呼んでも差し支えない年齢なのに、まだしっくりこないのは彼の幼く見える顔立ちのせいだ。

 自分もどちらかと言えば年より若く見られがちなので、ユノの苦労は少しわかる。

 わかるつもりではあるけれど、これはまた違った問題だ。寝起きの身に、大声を聞くのはなかなかに辛い。目覚まし代わりだと思えば多少は気が楽になるだろうか――反語である。

 ユノはこちらの心情などお構いなしに話しかけてくる。


「もう、寝ぼけているんですか」


「勘弁しろよ。俺は大役をこなしてきたばっかだっつーの。少しくらい寝かせてくれてもいいだろうがよ……」


「雨予報出ていたじゃないですか! オレ、起きてくださいって言いましたよね! リディオル殿がいなくて大変だったんですから! それに、空き部屋の大掃除をしなければならないと言ったのは、誰ですか! せっかくナクル殿から鍵ももらってきたのに……」


 悲壮感漂わせながら、ユノはぶつぶつとぼやきを垂れ流し始める。いらぬことまで全部丸聞こえだと、教えてやった方が親切か。あえて教えないという選択肢も捨てがたい。

 それに、話したら話したで、またうるさくなりそうだからやめておく。せめてもの親心だ。


「だったら、お前一人で先に始めてりゃ良かったろうがよ。手が空いてる奴もいたんだろ?」


「冗談じゃないですよ……リディオル殿がいないと、どれが捨てるものかわからないですし……あんな高価な調度品がいっぱいあるところなんて、誰が好きで掃除したいんですか……」


 小声でつけ加えられた最後のひと言が本音だとみた。


「今、何刻だ?」


 ぎろりと見据えられ、思わずたじろぐ。


「正午から二刻は経っています! あなたが寝てから二日後の! さらに言わせていただくなら、雨予報が出されて、オレが起こしたのは今朝です! リディオル殿は起きなかったですけど!」


「……二日後?」


 ユノの言葉を繰り返す。

 さて、眠る前はどうだったか。王宮の自室に戻ってきたその足で、寝台へと倒れるように意識を飛ばし、そこから覚えていない。眠る前、たまたま出くわしたユノに、思いつく限りで指示を飛ばしたのは記憶の片隅にあるような気もするが、はてどうだったか。


 いやしかし完璧に予想外だった。大がかりな術を使った反動が来るとは思っていたけれど、まさか丸二日も動けなくなるとは。

 それも、一度として目覚めることなく。


「やー、まさか、天才少年様に起こされる日が来るとはなぁ」


 腕を組みながらしみじみとつぶやく。まだ何か文句を言いたげなユノに向けて。

 リディオルの感想は決してこの場限りでもでまかせでもない。出会って間もなかった頃のユノは、会話の全てに正直な反応をくれて、聞いている分には大変面白かったのに。

 今でもそれは変わりないけど、時折そっけない反応をされたり、最近ではぞんざいに人を起こすようにもなってきている。ずいぶん成長したなぁなんて思うのだ。果たしてそれを成長というのかはともかくとして。


「あれから何度も起こしました! リディオル殿、一度も起きなかったじゃないですか! さっきなんて、うなされてましたし……」


「俺が?」


「はい」


 目が覚めてすぐ、ユノの顔に焦りのようなものが見えたのは、どうやらリディオルの見間違いではなかったらしい。


 ――そりゃ、焦るわな。


 長らく王宮を空けていたリディオルは、戻ってくるなり言うだけ言って眠りに落ちたのだ。それも二日も。そこへうなされている場面に遭遇したとなれば、誰だってうろたえるだろう。


「それからリディオル殿、オレがその呼称嫌いなの知ってますよね! オレは天才なんかじゃないですし、もう少年って年でもないです!」


 気を取り直して、もの申すことを再開してくる。

 なんと言われようと、そう見えてしまうのだから仕方ないではないか。自分のことは棚に上げて、リディオルはそんな感想を抱く。

 甘んじて受け入れておけばいいものを。等身大に見られていないから、ユノは憤っているのだ。どう呼ばれようとも、ユノがユノである事実に変わりはないだろうに。大事なのは他人にどう見られているかではない。自分がどうありたいかだ。そうすれば、他人の見る目も自ずと変わってくるのに。

 肩で息をしながらまくし立てるその姿に、ふと気づいたことがあった。


「私、な。見習い」


 指摘した口癖に、うっと息を呑まれる。またか、とため息。気づいたその度に突っ込んでいるのだが、いつになったら意識するようになるのやら。直す毎にそれを思うが、まず当分は無理だろう。


「……私が、嫌いなのを、知っているでしょう」


 言いたい文句の一切を押し込め、苦々しい顔つきで返してくる。ちゃんと言い直す辺りがやはり真面目である。リディオルは、ふっと笑みをこぼした。


「素直」


「……小馬鹿にしてます?」


「褒めてんだよ」


 変にひねくれているよりずっといい。素直さはひとつの武器になる。愚直に、誠実に、真正直でいることがどれほど難しいか。

 ユノに話したところで変な顔をされるのは目に見えている。代わりにリディオルは、あさっての方向へと目を逸らした。


「まぁ、でも、あれだな。人の嫌いなことほど、ついついやりたくなるんだよな」


「それは絶対、性格が悪いからですね」


「そんなことねぇよ。可愛い奴ほどいじめたくなるんだろうな、きっと」


 ユノはそこから一歩退避し、ぐっと押し黙り、たっぷり三呼吸したあとに言ったのだ。


「……やめてください」


「やだね」


 リディオルは即答して、寝台から出た。

 途端、ひんやりとした冷気が足元をさらう。温かい温度が恋しくなるのは寝起きの常かもしれない。

 足下に整えられていた革靴を履き、長いすの背に脱ぎ捨てられていたままの外套に袖を通す。それだけで全身が黒一色に覆われ、眠気だとか寝起きだとか、そういったものまですべて隠れたような錯覚すら起こした。

 そういえばさっき、雨予報がどうとか言っていただろうか。ユノが自分を起こそうとしていたのが今朝なら、雨予報の知らせが届いたのも、おそらくは同じ頃。


「俺を叩き起こすまでに至らなかった、っつーことは、お前らで呼べたんだろ? 雨。なら、俺の出る幕はねぇさ」


 なんだかんだ言いつつ、本当に駄目だったそのときは何が何でも起こすだろう。それこそ、どんな手を使ってでも。

 予報は違えてはならない。出された後なら、なおさらだ。起こされなかったという結果だったなら、つまりはそういうことだ。リディオルも、決して過小評価をしているわけではない。


「みなさんで頑張ったおかげです。それでも、苦労したんですからね!」


「はいはい、お疲れさん。それ、いつも俺一人でやってんだから、たまにはお前らに任せてもいいだろ」


「時と場合を考えてください!」


「俺が動けない。代わりにできる奴らがいる。条件そろってんなら、今でなくていつやるんだよ?」


 だからこそ経験を積ませてやりたいと思うのだが、その意図がユノに伝わっているかどうか。

 ――いないな。


「やるなら前もって教えてください! 準備も何もなしに任せきりにされても困るんですから!」


「想定外の事態っつーやつは、いつ起こってもおかしくないだろ? それの予行練習だよ」


「そんなこと――」


 ユノの口がぐっと結ばれる。認めたくない気持ちが、ありありと出されていた。

 今回だって、ある意味では想定外の事態だ。雨予報が出されたのはたまたまだろうけれど、自分が二日も眠りこけるとは思ってもいなかっただけで。

 考えれば考えるほどユノに話した指摘事項が、そっくりそのまま返ってきている。嫌というほどに。


「……そうですね。もっと、学ばないと」


 てっきり反論がくるかと思っていた。予想外の殊勝な態度に、少し感心する。


「うちの見習いは勤勉だねぇ」


「茶化さないでください」


 本心だというのに。どうやらリディオルの言を信じてもらうには、まだまだ何かが足りないようである。


「そういえば、どうして使っていない部屋の掃除なんて頼まれたんです?」


「他に手の空いてる奴がいなかったからじゃねぇの?」


「いえ、どうしてリディオル殿がそれを受けたんです?」


 まさかそう来るとは思っておらず、ほんの一瞬ばかり返答に窮する。


「――たまには動きたいときもあるんだよ。まぁ、たまには、な」


「そうなんですか?」


「あるある。希有けうだけどな」


 どうしてこう、勘が鋭いのか。普段はこちらの意図することに気づかないのに、こういうときだけ妙に勘がいい。うかつにしゃべると墓穴を掘りそうだ。


「ほら、早いとこ始めちゃいましょう。雨も上がりましたし、絶好の掃除日和ですよ」


 そんな日和はとんと聞いたことがない。

 窓際に立ち、手をかざしながら空を仰いでいるユノには、さすがにそんなことは言えず。せっかくユノが楽しそうなのだ。やる気を出してくれたなら、わざわざ気落ちさせる必要はない。


「早く取りかからないと日が暮れちゃいますよ」


「ま、そうだな。俺がやらなくてもお前がやればいいしな」


「どうしてそう、オレの負担を増やすことしか考えてないんですか!」


「私」


「……私の」


 嫌な顔をする前にうっかりという言葉を覚えて、その身に刻んでほしい。別にリディオルが悪いことをしたわけではないのだから。こちらは親切心で教えているのに。


「見習いには経験が必要だろ? いいじゃねぇか、何でも吸収して大きくなれよ」


 自分の肩辺りで手を横に振ると、言わんとすることを察したユノが目を細める。


「それ、暗にオレの背だって言ってます?」


「気のせいじゃねぇ?」


 ちなみにリディオルが振った手の位置は、ちょうどユノの背丈と同じくらいだ。


「というか、あなたがやりたくないだけじゃないですか」


「そうとも言うわな」


 本音をばらしてみれば、「やっぱり……押しつけるならなんで引き受けたりしたんですか……」なんて、ぐちぐち言い始める。

 別に話してもいいのだ。リディオルがなぜ空き部屋の掃除なんて引き受けたのか。ただ、話したところで面白い内容になりはしないから、話さないだけだ。


「大物が来るからなー。へたに他の奴らに任せたくなかったんじゃねぇ?」


「大物?」


 気にするよう、あえて織り交ぜる。


「どなたが来るんです? ナクル殿が、客人が来ると言っていましたけど」


 はぐらかした先へと食いついたユノに、にやりと笑ってみせる。


「聞いて驚け。賢人が帰ってくるぜ」


「――賢人が?」


「ああ。俺の友人だ」


 彼らはどんな顔をするだろう。それなりなことをした自覚はある。なにせ、敵視されるよう仕向けたのはリディオルなのだ。

 恨まれているだろうか。それとも憎まれているだろうか。何にせよ、良い顔はされないだろう。出会い頭に恨み辛みをまくし立てられるかもしれない。甘受する準備はできている。

 もしも自分があちらの立場だったなら、どうするだろうか。恨みごとをこぼすだろうか。つかみかかるだろうか。あるいは――


「――なんだ?」


 それこそ不思議なものでも見るように。何も言わずじっと見てくるユノがいたものだから、ついつい尋ねてしまった。


「友達、いたんですね……」


 そうしみじみとつぶやかれて。


「――やっぱり掃除お前な」


「え、ちょっと待ってください! 今のは失言です!」


 失言と認めているではないか。認めてしまったなら、それはもう駄目である。


「はい決定。さーて、有能な見習いのおかげで暇ができたことだし、俺はゆっくりするかなぁ」


「取り消させてください! それにリディオル殿、大体一人でいること多いじゃないですか! 親しい人をあまり見ないと言いますか――聞いてます?」


「聞いてねぇ」


「聞いてるんじゃないですか!」


「あー聞こえねぇ」


「――ああもう、わかりましたよ! いらないものだけは教えてくださいね! オレ、壊しかねないんで!」


「はいよっと」


 ほらまた呼称が戻っている。今度は苦笑するだけに留め、教えないでおこうと決める。さて、このままにしていたら彼はいつ気がつくのやら。

 文句を言いながら、それでも最後は引き受けてくれるのだ。

 苦労性である見習いの今後を楽しみにして、リディオルは思いを馳せた。

 いつぞやに願った後会が間近に迫っている。その日を待ち遠しく思いながら。