翡翠の星屑

Chapter 41 - 間に引かれた境界線

季月 ハイネ2020/07/01 17:19
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 右足で踏みきろうとしたその時だった。


「!?」


 横から伸びてきた腕に片手を取られ、有無を言わせない力で抱え込まれたのは。

 海から離される。唯一の逃げ道が遠ざかり、見えなくなる。

 捕まった。捕まってしまった。押さえつけられている腕の中で、手を、足をがむしゃらに振り回してもがく。嫌だ、まだ、おしまいになんてしたくない!


「はなっ、離して! ボクは絶対、アルティナになんか――!」


「ラスター!」


 頭上で名前を呼ばれ、びくりと身体を硬直させる。つかまれた腕の陰から、ラスターはそろそろと顔を出した。今の声は。


「え――シェリック……?」


 別れた時と変わらない格好。けれども今は髪と息が乱れている。シェリックは険しい目でこちらを見下ろしていたが、ラスターが呼びかけると安堵あんどの表情を浮かべた。それもつかの間、ひと呼吸。


「――んっの、何してんだお前は! 無理も無茶はするんじゃねえって、俺が言っただろ!」


 その滅多にない剣幕と怒声に肩が跳ね、真正面から見られずにうつむいた。


「っ、でも!」


 それでも負けじと抗議をしかけて、シェリックの顔を見上げて――ラスターはそこから先を何も言えなくなってしまった。飲み込んだ言葉と一緒に再度顔を伏せる。

 船の中で、海に落とされた後で、そして今。どれほど心配をかけてしまったのだろうか。


「やめてくれ、本当に。俺がどれだけ肝を冷やしたと思ってる」


 シェリックの押し殺された声音が降ってくる。他にも言いたいことは山ほどあるに違いない。今になって震えてきたラスターの背中を、シェリックの手が叩いてなだめた。言葉とは反対に、どこまでも優しかった。


「――っ、ごめん」


 叩かれたその拍子に涙がこぼれる。

 そんなつもりではなかった。ただシェリックの重荷になりたくない一心だったのだ。


 ――嬢ちゃんにあいつは救えない。


 リディオルの言葉が、呪縛のように甦る。あの言葉にあがいて、あらがって、その結果は見てのとおり。ラスターには、結局何もできなかった。それどころか、余計な心配までかけてしまった。


「ごめん、シェリック……っ!」


「無事で良かった」


 シェリックにこんなことを言わせるために、行動していたわけではない。けれど、結果的にはそうなってしまった。望んだ結末ではなかったのに――

 つむった目蓋の向こうから足音が聞こえてきた。そう、まだ――


「まさか、ラスター殿がここまでするとは思いませんでしたよ」


「見解が甘いんだよ。あいつにもそう言われなかったか? フィノ」


「いえ、残念ながら何も」


 まだ、終わりじゃない。シェリックが来ただけで、事態は少しも変わっていないのだ。

 つかんでいた服を強く握りしめる。それに気づいたのか、背を叩く手に力が込められた。大丈夫だとでも言うように。


 ――嫌だ、連れていかせたくない。


 だって、シェリックはあの時言ったのだ。『アルティナに戻る気はない。今も、これから先も』と。

 ならばそれがシェリックの本意だ。


「これは俺の問題だと言ったはずだ。こいつを巻き込むな」


「しかし、あなたは釈放されても、戻ってこなかったではありませんか」


「釈放された覚えはないけどな」


 そうだ、シェリックは牢屋の中にいた。連れ出したのがラスターだから、忘れもしない。


「リディオル殿が迎えに上がったはずです」


「迎え、ねえ……」


 シェリックは笑う。それはもう、楽しそうに。


「そんなのどかなもんだったか?」


 シェリックの言葉の端々に剣呑な雰囲気が見え隠れする。シェリックの声を聞き慣れているはずのラスターでさえ、その底冷えする声音にぞくりとした。これは、誰だ。


「あなたが今ここにいるということは――つまりは、戻らないと、そういうことでしょう?」


「わかっていながらわざわざ訊くのか? あいつにもそう答えたはずなんだけどな」


「残念ながら私は存じ上げません」


「そうか」


 二人の間に緊迫とした空気が漂う。シェリックは、フィノを怒らせようとしているのだろうか。ラスターには、そのあおり立てる言動をはらはらと聞いていることしか出来なくて。


「――それで、おまえは?」


 目線だけで先を促すフィノに、シェリックは続けて口を開いたのだ。


「しびれを切らせて俺を迎えに来たって?」


「そのとおりです。今までのことには目をつむり、あなたに最善の処置を与えようと、シャレル様からお達しを頂戴しました」


「へえ?」


「ラスター殿をこれ以上巻き込みたくなければ、私とともにアルティナまでお越しください」


 淡々と紡がれていく会話。やはり、シェリックを連れていく気なのだ。


「シェリック、駄目! ボクだったら、何ともないから!」


 悔しくて、情けなくて、出てきた涙混じりの声を張り上げる。抱えられている手を振り払おうとするも、シェリックがそれを許さない。それどころかより強く抱きしめられ、その一瞬、息が詰まった。

 そうしてひと息。彼の吐かれたため息が答えだった。


「――わかった。その要求、呑んでやる」


「シェリック!?」


 あっさりと応じたシェリックをがく然と見上げる。どうして、とつぶやかずにはいられなかった。あれだけ強かった腕が解かれ、シェリックが立ち上がる。座り込んだラスターをそこに置いて、フィノの元へと向かっていく。ラスターから離れていく。シェリックが行ってしまう。


「さっさと連れて行け、フィノ」


 見る見るうちに崩れていく土塊を通りすぎて、フィノの元へとたどり着く。


「本当によろしいのですか?」


「俺の気が変わる前に早くしろよ」


「承知しました。それでは、こちらへお越しください」


 二人が連れ立っていこうとする。その背中が一度立ち止まって。


「ラスター」


 振り返ったシェリックが呼びかけてくる。何かを――きっと別れを告げるために。このままお別れなんて嫌だ。だってまだ、シェリックに何も返せていない。船でのお礼だって、何も。

 待って。その言葉を、


「俺に、」


 ――言わないで。


「……戻りたくないんじゃ、なかったの」


 シェリックが言いかけていたことを遮る。出てきたのは、ラスターの感情とはまったく別の言葉だった。今こんなことを言いたいのではないのに。言葉も気持ちも、何もかも、ぐちゃぐちゃなままで。


「戻る? 違うな、俺はアルティナまで行くだけだ。もともと目的地なんてなかったろ。だったら、次の場所をアルティナにしたって別におかしくはない。お前の母親の手がかりだって、つかめるかもしれない」


 意見が食い違う。

 ああそうか。シェリックは知らないのだ。ラスターが知っていることを、知らないのだ。


「ボクに過去を知られたくないから、だから戻りたくなかったんじゃないの? アルティナまで行ったら、最果ての牢屋に入れられた理由まで、嫌でもわかっちゃうから」


「ラスター、お前何を言って――」


 戻ってきたシェリックが差し伸ばす。その手を寸でのところで振り払って、そうしてラスターは声の限りに叫んだ。


「そうじゃないの、占星術師、シェリック=エトワール!!」


 その高ぶりのまま、衝動に突き動かされて。見張られた目がラスターを捉えて――ラスターは、はっとして口を押さえる。一度出てしまった言葉はもう戻せないのだと、知ってしまった。


 ――本当は、絶対に口にしないと決めていた。もし、万が一聞くとするなら、シェリック本人からだろうと。


 互いの過去には干渉しない。自分たちが生きているのは現在《いま》だから、昔何があったのかなんて関係ない。互いに口にはしなかったけれど、そうだと決めていた。それなのに――

 払われた手をだらりと下げ、シェリックは言ったのだ。


「……お前、やっぱり知ってたのか」


 やっぱりだなんて。予想はついていたんじゃないか。

 一度は外した視線を合わせて、どんな叱責でも受けると覚悟して、彼を見て――後悔した。

 諦めと、やるせない想い。シェリックの顔には痛みを堪えるように、何かを懐かしむように、そんな感情がごちゃ混ぜになって表れ、それでも口元だけは無理に笑みを形作っていた。今にもどこかへ消えてしまいそうで、胸が痛くなる。身体の真ん中がぎゅうと締めつけられる。


 どうして言ってしまったのだろう。言わなければ良かった。

 そう結論づけるのに、時間はかからなくて。


「戻りたくないわけじゃない。そんなんじゃねえんだよ」


 聞けない。何も。これ以上は踏み込めない、踏み込んではいけない。所詮ラスターは、彼にとって部外者にしか過ぎないのだ。


「そっか……」


 不可侵の境界線。それが二人を分かつ境目。

 小さな子どもみたいに駄々をこねて、泣き叫んで。一体何をしているのだろう。お互いの過去には関わり合いを持たないと、暗黙の了解を作っていたではないか。それがどうだ。結局は踏み込んでいて、シェリックを困らせる事態にまで発展してしまっている。

 ラスターは手を引くべきだったのだ。明確にする前に、それ以上悪化させないうちに。あるいは何も訊かずにいたなら、元の二人のままでいられたかもしれないのに。


 元の二人――元とはなんだろう。目的も共有しない、ただの同行人で、旅の連れで、単なる他人だ。

 二人の間の距離は近いのに、歩んでいる世界は全く違うもののようで、それ以上は近寄れない。そこに立つシェリックをぼんやりと眺める。

 あふれる涙で景色がゆがんで、徐々にぼやけていく。土砂降りの雨のようになって、うまく見えない。シェリックはまだそこにいるだろうか。だけれど、行ってしまう。アルティナへ。ラスターを置いて。手の届かないところへ。ああ――


「――嫌だなあ」


 一番手前にあった言葉がこぼれ落ちて、そうして――視界がふわんと、回った。


「ラスター? っ、おい!?」


 景色が回ったのではない。自身が傾いたのだと知る。

 ふらついた頭を支えられない。どうしたというのだろう。手足に力が入らなくて、目の前がかすんでいる。寒い。寒くてたまらない。それなのに――熱い。

 伸ばされた手を、今度は払うことすらできなかった。


「ラスター、しっかりしろ! ――っ、おまえ、熱、上がってるじゃねえか!」


 どうしてだろう。他の何も遠ざかっていくのに、シェリックの声だけがはっきりと聞こえてくる。

 首に触れた手が冷たくて、気持ちよくて。また心配をかけてしまった。大丈夫だと、心配ないからと、そう言いたいのに声が出ない。だから伸ばした指で彼の腕を叩いて、大丈夫だと告げた。伝わっただろうか。わからない。


 先ほどまで、そこには確かに境界線が敷かれていた。それが嘘だったかのように、シェリックの顔が間近にあって。ラスターの伸ばした右手が、今度は柔らかい生地をつかむ。

 行ってしまう、けれどその前に。もう少し――いや、あと少し。ほんの少しだけでいい、ここにいたいなあなんて、ここにいてほしいなんて思ってしまって。なんとわがままで、自分勝手で、甘えた考えで――それでいて、繋ぎ止めたくて。


「――いで」


「行かねえよ、お前の傍にいる」


 音になったのかどうかさえも怪しかったのに、シェリックはそれをちゃんとくみ取ってくれた。

 どうして聞こえたのだろう。吐息にしかならなかったのに。


 ――すごいなあ。


 安心するラスターの耳に、砂利の音が近づいてきた。


「ラスター殿はルパにお返しする予定でしたが……この様子では、ご一緒にお連れした方が良さそうですね」


「ああ、そうしてくれ」


 暗くなった雨の向こうで、そんな会話が聞こえた気がして――ラスターの意識は深く沈んでいった。