翡翠の星屑

Chapter 31 - 示した意志が届くよう

季月 ハイネ2020/06/25 15:33
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 風が吹き荒れる。容赦なく叩きつける雨とうねる波に翻弄されながら、それでも船は進路を保ち、前へと進んでいた。

 口の中で言葉を連ねると、ほんの少しばかり雨風が弱まる。よくよく見なければ気づかないその微細な変化。これから客人が来るのに、嵐が強すぎるのはよくないからだ。自分の術に自分が吞まれてしまう可能性も浮かび、なんて笑えない冗談だろうと一笑に付す。


「さーって、時間だな」


 果たして彼女は自分の望む答えをくれるのだろうか。表明できなければ、その時は――我知らず苦笑いがこぼれる。今からその心配をしても仕方がない。

 リディオルの耳には、後ろから上がってくる足音が聞こえていた。しかし、その音に首を傾げる。現れた姿を見ておや、と目を見張った。やってきた彼女のすぐ後ろ、護衛のようにつき添う彼の姿が少し意外で。


 顔色はずいぶん良くなった。ついさっき自分と遭遇した時よりも、ずっと。きっと彼女が何か調合でもしたのだろう。いやはや献身的だねえなんて、口には出さずとも感心する。そうでなければ、面白くない。


「保護者同伴かい?」


 感想はすんなりと出てきた。


「駄目だった?」


「いや、別に。少し意外だっただけだ」


 この状況下、彼――シェリックが来たところで、どうせ何もできやしない。リディオルがわかっているのだ、シェリックが理解していないわけがあるまいに。

 あるいは、それに気づいていながらあえて見届けに来たのか、これ以上自分に何もさせないための牽制けんせいとして来たのか――理由が何であれ、シェリックがこうして来るだけの価値があるということか。


「荒天の中申し訳ないな。――改めて、ようこそ。お二人さん」


 リディオルは両手を広げ、道化師のように大仰な仕草で迎えた。


「さて。早速でわりぃが、答えを聞かせてもらおうか」


 数歩先で立ち止まった二人は、リディオルと真っ向から向かい合う。迷いのないその姿勢に、いっそ潔いと言うべきか。


「ボクの、答えは……」


 ラスターは一度目を伏せ、覚悟したように開く。息を吸い込み、彼女は声を張り上げた。


「――答えは、一緒には行かないよ!」



  **



「ねえ、シェリック」


 それは、ラスターが答えを告げる、ほんの少し前の出来事。


「何だ」


 リディオルと話し、戻ってきたシェリックが見たのは、何かを決意したラスターの表情だった。寝台の端に腰をかけ、すぐにでも出かけられる準備をしていて。


「シェリックは、アルティナに行きたい?」


「アルティナ?」


「うん」


 突然どうしたのか。なぜその名前がラスターの口から出てくるのか。


 ――お前のことだって、どうして牢屋に入れられていたか、ばれちまうかもな。


 リディオルの言葉がよぎり、一瞬勘繰りかけて思いとどまった。リディオルが何と言おうと、彼の考えとラスターの考えていることは必ずしも合致するとは限らない。


「特に、用事はないな」


 無難な回答をしてみたが、どうにも言葉を濁してしまった感じが否めない。笑ったようにも見えるラスターは、果たして気づいているのかいないのか。今のシェリックには判断できかねた。


「そっか」


 それだけ聞くと、ラスターはそこに立ち上がる。シェリックの見ている前で、迷うことなく歩みを進めていく。


「どこかに行くのか?」


「うん。――リディオルのところ」


 扉のところで立ち止まると、ラスターは振り返りもせずに告げた。なんでもないことのように、その名前はつぶやかれて。


「行ってくるね」


「待て」


 シェリックの言葉が意外だったのか、振り向いたラスターはわずかに目を開いていた。自分でもそんな言葉が出ていたことに驚いて口を押さえる。それでもそうしたいと思ったのだ。シェリックは、自然とラスターの隣まで歩いていた。


「あれ、見送りしてくれるの?」


「俺も行く」


 そうした理由もわからないままだったけれど、言うべき言葉はすんなりと口からこぼれていた。船に乗り、最初にラスターが戻ってきたあの時、彼女に告げたのとまったく同じ言葉が。

 初めこそ言葉が返ってこなかったラスターだったが、やがてはにかんだ表情を浮かべた。

 一人だけでは心細かったのだろう。ほっとしたような、嬉しいような――それでいて痛いような。そんな感情をない交ぜにして、ラスターはひと言告げたのだ。


「ありがと」


 と。


 ――そうして今。

 数刻前には意気消沈し、ふさぎ込んでいた小さな背中がシェリックの前にある。今では真っ直ぐに立ち、リディオルと対峙するラスターを、シェリックはただ、後ろから見守っている。

 部屋での会話から、ラスターが気丈に振る舞っていることはわかる。現に今、身体の横に下げられた右手が握られているのだ。左手には棍をしっかりと握り締め、まるでそうでもしなければ立ち向かえないとでも言うように。


 シェリックは見て見ぬふりをする。ラスターが張った精一杯の虚勢に。ラスターが作り上げた、片意地を張り通すための偽りを。

 だから、代わりに見届ける。リディオルとどんな話をしたのかはわからないけれど。ラスターが決めた、その意志を。



  **



「――それが、嬢ちゃんの答えか?」


「うん」


 一度固まったリディオルの口元がゆがみ、不自然な笑みが形作られる。


「意外って顔してるケド」


「まあな。嬢ちゃんは自分の損得より、他人の損得を気にかけて決めてくると思ってたんだが――」


「だって、あるようでない選択肢だもん。それは選ぶ余地なんてない、ただの脅しだよ。強制的な意味しか持たないなら、ボクはその手には乗らないから」


「理由を聞いてもいいか?」


「その言葉、そのまま返すよ」


 ラスターが悩んで、迷って、見つけたもの。それは答えではなく、湧いた疑問だった。


「どうしてボクだったの? シェリックじゃなくて」


 キーシャから話を聞いて、一度は浮かれていた。けれど、思い返してみて気づいたのだ。

 キーシャに薬を作ったあの時、状況を考えてみるなら、ラスターにとって最良だと思う行動を取っていたのはシェリックだ。シャレルという女性に問われて、ラスターは答えることも、行動することもできなかったのだから。


「聞かれたコトに対して答えたのはボクじゃない、シェリックだったよ。だったら、望まれてるのはボクじゃなくてシェリックだ。だからリディオルはボクに声をかけたんだ。そうすれば、シェリックも一緒についてくるから――」


 口に出してあれ、と思う。きっと望まれているのはシェリックで、ラスターを呼べば彼もついてくるであろうことを読まれているはずで。けれど、何か、今、違和感が――


「――何の話だ」


「俺と嬢ちゃんの大事なお話」


 割って入った怪訝な声へと、リディオルが楽しそうに答える。


「それじゃあ嬢ちゃんは、この船と見ず知らずの他人はどうなってもいいと言ってるわけだな?」


「そうは言ってない。そうじゃ、なくて」


「じゃあ、あいつに話してもいいんだな?」


 まとまらない思考が凍りついて、無理やりに目の前へと引き戻される。その先で、意地の悪い笑みがラスターを射た。実に楽しそうに。

 リディオルの本心がどこにあるのかわからない。けれど、これだけは言える。


「――話したければ話せばいいよ」


 思っていたよりも落ち着いた声が出た。そんなことは脅しにもならない。逃げないと、決めたのだ。ラスターは真っ向からリディオルを見据えた。


「いつかは知られてしまうコトかもしれないし、知られずに終わるコトかもしれない。それでも、何が変わるわけでもないから。終わったコトを変えるのは無理なんだ」


 既に起きてしまったことを変えるなんて、できやしない。ラスターは一歩、前へと出る。


「リディオルが今ここでそれを話したとして、ボクがボクであるコトは何も変わらないもの」


 誰に何を知られても、ラスターはラスターのままだ。それを聞いてどう思うかは聞いた人次第であって、自分は何も変わらないのだから。


「――お前らがどんなやり取りをしたのか知らないが」


 す、と。ラスターは、音もなく隣に立った影を見上げた。


「リディ。俺はアルティナには行かない。――今も、これから先も」


 瞬間、今まで面白げに瞬いていたリディオルの目が、大きく見開かれた。


「本気か?」


「ああ。この上なく」


「そうか……なら仕方ねぇな」


 目を伏せて、うつむいたリディオルがそこで笑ったように見えた。ラスターの思い過ごすだろうか。


「沈めようかと思ってたが、やっぱやめとくわ」


「――ラスター!」


 鳴らされた指に誰より早く反応したのは、きっとシェリックだった。小気味いい音がしたと思ったら、辺りに風が巻き起こったのだ。

 何が起きたというのか。何もわからないままに、片腕をシェリックにつかまれて、呆然と轟音を仰ぐ。目と鼻の先から襲いかかってくる突風を、ただただ見上げることしかできずにいて。


「何が起きてるの……?」


 自然現象でしかない突風が襲いかかってこようとしているなんて、こんな魔法みたいなこと。


「風を操れるんだよ、あいつは」


 答えはシェリックが知っていた。


「ちまたで噂の魔術師だぜ?」


「とどろいてるのは悪名じゃないのか?」


「ははは、そうかもな」


 飛ばされないようシェリックにしがみつく。天まで昇るその大きさを目の当たりにすることなど、当然初めてだ。改めて見るまでもなく、それは天をくかのように高い。呑んだ息が、痛いほどの冷気が、船からはがされる木の声が、しがみつくラスターの手へと、さらに力を込めさせて。


「お別れだ、嬢ちゃん」


「え、どういう――」


「来てくれないなら、そいつもろともに消し去るまで」


 ちらりと逸らされた視線が誰を向いたのか、かけられた言葉の意味をもつかみあぐね、返答が続かなかった。

 もう一度。人の指でしかないはずのその音が高く響き、ラスターたちを取り巻く空気が景色を覆い隠す。狭い甲板の足場だけでは逃げ場など限られていて、成す術もない。浮いた足に怖気づくも、なぜか宙に固定されていて。


「どっ、どうしようシェリック……?」


 大きな舌打ちが頭上から降ってくる。

 煽られた風に身体がみしみしと音を立てる。引きちぎられそうで、持っていかれそうで、そうはさせまいとシェリックの服を握りしめる。


 ――怖い。あの時のように、意識まで奪われてしまうのではないか。


 このまま永遠に続くのではないかと思っていたら、唐突に風が止んだ。

 ほうと息を吐き、力を緩めて目を開ける。


「――え」


 ところがシェリックに強く抱き寄せられ、詰めた息が今見たばかりの景色を疑う。


 ――何、これ。


 これは嘘だと、そうとしか思えないと、ラスターの頭の中でぐるぐると言葉が回る。

 だって、こんなの――


「ラスター、離れるな!」


 そこは暗い海の真上。うねりを上げる水の真上、その中空。

 顔から血の気が引いていく。人が空を飛べるわけがない。宙に浮くこともできない――ゆえに。

 貼りついていた足が急に感覚を失う。その後に来る予想を、ラスターはどこか別のもののように感じていた。


 ――落ちる?


 どこに――下に。落ちる先は、怒号を上げる水の中。


「嘘っ、待って。下、海――っ!」


 シェリックに抗議しても、何が出来るわけでもない。近く訪れるであろう衝撃に目を瞑って、離すものかとシェリックに取りすがって。

 打ち鳴らされた大きな音と、全身を叩きつける痛みと、身体のみならず意識すら奪おうとする水と――ラスターが覚えているのはそこまでだった。