Chapter 24 - そうして彼はかく語る
「――う……」
ゆるゆると開く視界。いつもなら簡単に持ち上がるはずの目蓋がやけに重い。支えようと突いた手に力が入らず、重力に従ってそのまま突っ伏した。柔らかい感触が頬に触れる。いや、頬だけではない。身体全体を包んでいる。
このままずっと寝ていたい。そんな誘惑に駆られるほど、重い倦怠感が身体の隅々にまで宿っているのだ。言うことをきかないのは、鉛のような疲労のせい。
どうしてこんなに疲れているのだっけ。何かした記憶はあっただろうか。薬を作って、セーミャと別れて、部屋でのんびりと外を見ていて、シェリックにあげる水を取りに行って、途中でリディオルに会って――
――ついでに、俺の暇つぶしにつき合ってくれるかい?
「!」
不意に思い出し、意識だけはしっかりと覚醒した。委ねたくなる気だるさを振り払い、手足に力を込める。ここはどこだ。リディオルは、自分は――シェリックは、どうなったのだ。
「ん、むー……、――っわ!」
何とか起き上がろうともがいた結果、変なところに手を突いて転げ落ちてしまった。高さはそこまでなかったけれど、痛いものは痛い。ついでに落ちた際、足を寝台の端に引っかけてしまった。ついてない。
「いたたた……」
見上げた涙目が、ちょうど窓を捉えた。船室にある、小さな丸い窓。打った額が痛む。
ごうごうと荒れ狂う高波、そこに容赦なく打ちつける大雨。黒灰の雲の隙間から時折光るのは雷で、一拍置いて鳴り響く轟音はいつこちらに襲いかかってきてもおかしくない。暴れる風のうなり声も絶えず聞こえてくる。
天気は確実に酷くなりつつある。不規則に揺れる床がそれを教えてくれていて、これでは真っ直ぐに歩けない。歩くどころか、立っていることすら難しいのではないだろうか。
ラスターは、動くことすら飽いているような四肢を奮い立て、ようやく寝台を背にして座るまでに至った。打った膝をさすりながら改めて室内を眺めてみる。
造りはよく似ている。しかし窓はふたつもなかったし、机も置かれていなかった。端的に述べるなら広いのだ。扉がふたつあるということは、どちらかは廊下ではなく、もうひとつの部屋なのだろうか。いつも持ち歩いていた棒も、ラスターの荷物も見当たらない。少なくともここは、ラスターたちがいた部屋ではないことはわかった。
――逃げ、なきゃ。
自分たちの部屋ではないことは確実なのだけれど、ここがどこかはわからない。けれどもここにいたら駄目な気がする。一刻も早くこの場所から出なければ。
ところが、ラスターの意志に反して足が動いてくれない。逃げなければならないのに。足が動かなければ、ここから出ることなどできないではないか。
動かない。
動けない。
……動くのだ。
動け!
「……っ!」
歯を食いしばって立ち上がろうとしたその時、向かって右側の扉がかちゃりと鳴った。
「なーんか音がするかと思ったら。もう起きたのか嬢ちゃん。目覚めの気分はどうよ?」
首を回すのも億劫で。まだ聞きたくなかった声。そちらに目を向けたくなくて――思い迷っている最中、ラスターの視界に入ってきた彼は、おもむろにそこへとしゃがみ込んだのだ。
「リディ、オル……」
ラスターは声を絞り出す。喉がからからに乾いていて、うまく話せない。飲み込んだつばだけでは渇きを満たしてはくれるはずもなく、結果乾燥した喉がひりひりと痛んだ。
この揺れの中で何事もなく、平然とする彼がそこにいた。
「そうにらんでくれるな。俺は嬢ちゃんに暇つぶしを与えてやっただけだぜ? 歓迎されなかったのは残念だが、にらまれるとは全くもって心外だな」
「……こんな暇つぶしなんて、ほしくもなかったケド」
「そんなつれないことを言うなよ、嬢ちゃん」
わざとらしく吐かれたため息は、本気なのかどうか区別がつかない。
彼の表情からあの悪意ある笑顔は消えていて、今はルパで会ったときと似た、何かを含んだような笑みに戻っていた。
そこから視線を外す。リディオルがいるということは、十中八九ここは彼の部屋だろう。
リディオルと話している最中、突風に襲われたところまでは覚えている。だが、そこから先の記憶がない。連れてこられたらしいことはわかるのだけれど――
「っ!?」
「人の話は最後まで聞くもんだぜ?」
伸びてきた手から逃れようとしたが、徒労に終わった。顎をつかまれ、視線すらも逃がさないとでも言うように。
「っと、怖がらせるつもりはねぇんだわ。悪い悪い」
すまなそうに言われたが、つかんだ顎を離す気はないようだ。力が緩むこともなく、そこから目が離せない。
リディオルと間近で視線が合い、息を呑み込んだ。
リディオルなのに、彼ではないみたいだ。いや、もしかしたらこちらが彼の本性なのかもしれない。ラスターの知らない、リディオルという人を。
「――ねえ、シェリックは?」
無意識のうちにそう口走っていた。シェリックならば、知っているのかもしれない。どちらが本当の彼なのか。
「シェリック? 部屋にいるんじゃないか?」
「そ……」
もうひとつ。シェリックは知っているのだろうか。既知であるリディオルが、ラスターを連れてここにいることを。前触れもなく、リディオルの手が離れる。
「嬢ちゃんには感謝してるんだぜ」
離せずにいた視線の先で、リディオルはふ、と笑ったのだ。
「最初はどうなることかと思ったけどな。嬢ちゃんがいてくれて本当に助かった」
「……なんのコト?」
一体何の話だろう。リディオルに感謝されることなど、ラスターはした覚えがない。
「あの薬、持続効果が少ないんだよ。アルティナに着くまでもつかどうか怪しかったし、ぶっちゃけた話、切れる可能性しかなかったんだよな」
薬、と言えば思い当たるのはふたつばかり。シェリックが飲んでいたものと、ラスターがこしらえたものと。
「初めは嬢ちゃんに渡そうと思ってたんだ。横からあいつにかっさらわれた時はどうしようかと思ったぜ」
リディオルが笑いながら話すその薬は、シェリックが飲んでいたものだ。ラスターは、緩慢な動作で身じろぎをする。
「酔い止めの薬なんでしょ? シェリックがいつも大変だって言ってて」
「あの薬が酔い止めだなんて、俺がいつ言った?」
その言葉に口を閉ざす。ラスターは――いや、ラスターたちは、何かとんでもない思い違いをしているのではないだろうか。
これは。
「結果的に大助かりだったな。初め考えていたのとは全く違う展開にはなっちゃいるけど、こうして嬢ちゃんとゆっくり話ができたし。あれは予想外のいい出来事だったぜ。まさか――」
これは――この話は、聞いてはいけない。そんな予感があって。
ラスターの様子を知ってか知らずか、リディオルはこう続けたのだ。
「嬢ちゃんがあそこで作った増進剤を、あいつが飲むなんてな」
一瞬、何を言われたのかわからなくて。
――増進、剤?
止まっていた思考がゆっくりと回りだす。酔い止めではなかった薬。シェリックの悪化していった体調。増進剤。薬の効果をより高めるもの。誰が、いつそんなものを作ったと――作った?
「――あ。え……?」
思い当たったラスターは口を押さえる。
――こいつの腕は私が保証します。
シェリックはそう言った。その前に、あの時シェリックは何をした。ラスターの作った薬を、ひと口飲んだではないか。
――即効性はなくとも、万が一毒であれば私も共倒れするでしょう。それでもまだ疑うというのなら、この薬を差し上げない方が良さそうですが――いかがする。
あのときほど安堵したことはなかったかもしれない。シェリックがいてくれて良かったと、心底思って。
助けられたのだ。女性にこれが毒でない証拠はあるのかと聞かれて、それに答えられなくて。そんなラスターを、シェリックは助けてくれたのだ。前に立つシェリックの背中に、堂々と告げるその声音に。それなのに――
口に触れていた指先が、おかしなくらい冷えていく。早鐘を打つ心臓が、やけに大きく聞こえてくる。あれが、増進剤だった?
追い打ちをかけるように、リディオルは告げた。
「思い当たったみたいだな。あいつの体調不良は、嬢ちゃんのせいでもあるんだぜ?」
「ボクが、悪化させた……?」
部屋に戻る途中で、彼が起こしていた目眩。あれはやはりぶり返していたのだ。ラスターの薬を飲んだせいで。
「――でも!」
まなじりを上げてリディオルに食ってかかった。
「シェリックにおかしな薬をあげたのは、リディオルじゃないか!」
あれが酔い止めでないというのなら。元はと言えば、リディオルの薬が原因だ。
「そうかな?」
ところが、彼は首を傾げて言ったのである。
「俺は嬢ちゃんにあげようとしてたんだぜ? それを横から取って、勝手に飲んだのはあいつだ。そのあとだって、あいつが嬢ちゃんの薬を飲んだんだろ? 嬢ちゃんが薬を作らなければ、あいつがあの場にいなければ、今あいつの体調はこんなに悪くなってなかったはずだよな?」
「――違う」
「どう違う? 事実じゃねぇか。本当ならば嬢ちゃんが被っているはずだった症状を、あいつが身代わりになってるんだぜ? 事態を回避できたことを、喜んでもいいんじゃねぇ?」
ラスターは言葉なく首を振った。喜ぶなんてそんなこと――できようはずもない。
それに違う。違うのだ。増進剤なんて、そんなものを作ったのではない。ラスターはただ、風邪薬を作っただけだ。体調を崩した人がいて、船内に医師がいなくて。それならば何か力になれるかもしれないと、そう思っただけで。
決してそんなことをするつもりはなかった。
けれどもそれがまた、シェリックの体調を悪化させていて――
息をするのが苦しい。うまく吸い込めない。空気が、薄い。どうしてそんなことを、今この場で言うのだ。
絶望的な思いで見たリディオルは、この上なく楽しそうに笑んでいた。