Chapter 21 - 忍び寄るのは黒い悪意
ひっそりと立ちこめる暗雲。それは船の進行方向の右側からやってきて、空という空をことごとく覆い尽くそうとしている。雲の動きは意外にも速く、一刻も経たないうちに半分以上が陰ってしまった。あんなに輝いていた星の全てを隠してしまうまで、時間の問題だ。
「もうすぐ来そうだね。曇ってきた」
リディオルの言葉が気になり、部屋に戻ってきたラスターは、ずっと窓にへばりついて外の変化を眺めていた。
兆しを経てからの変貌と。
移りゆくのは時間だけではない。一刻一刻と変わっていく海――波の様子に、別のものみたいだなんて思ったりもして。
「――それだけ見ていれば天気も変わるだろうな」
シェリックはと言えば、片手で顔を覆ったまま寝台で仰向けになっていて、時折ラスターに合わせて言葉を返すだけだ。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「……寝てはいる」
「眠ってなくてってコト」
体勢としては寝ているかもしれないけれど、それはラスターの言う『寝る』とは違う。
受け答えがあるから、まだ大丈夫だとは思う。それはラスターが思うだけで、実際は悪化したりしていたらどうしよう。
ラスターがお嬢様に薬を作り終えて二人で戻ってくる途中、リディオルに遭遇したのだ。その時、一度シェリックの症状がぶり返したのだ。無理やり抑えていたのではないらしいけれど、部屋から出たことで悪化したのではないだろうか。
だから大丈夫かと聞いたのに――あの場で助けてもらった身としては何も言えない。シェリックが来てくれたことでどうにかこうにかなったのは確かなのだ。
「……これから嵐が来るなら、嫌でも目が冴えるだろ」
「それまでまだ時間あるじゃん。いつ来るかわからないんだし」
「……人のこと心配してる場合か」
「ボク、船酔いないもん」
今はまだ、だけれど。
「……嵐が来たらわからないぞ」
「そうだケド」
窓から離れ、シェリックをうかがう。良くなっているとは言っても、それは少しだけなのだろう。明かりの下で照らされた頬は、うっすらとした青さをさらけ出している。今の時点で無理をしていることは百も承知だ。
部屋に入ってから一度も起きようとしないシェリック。さすがにラスターも不安になってきた。
「何か調合しようか?」
「いい」
思いつきで言った言葉は即座に切り捨てられる。ラスターはしゅんと肩を落とした。
「複数の薬はあまり飲まない方がいいんだろ……? リディからもらったやつの効果がまだ残ってるはずだから、それがなくなったら頼む」
「――あ」
そうか。薬は飲み合わせもある。効果が得られるものもあれば、反対に打ち消し合ってしまうものもあるのだ。リディオルが渡していた薬の成分はわからないから、ラスターも軽はずみなことはできない。今はやめておこう。
「うん。じゃあ、もうちょっとあとかな。お水もらってくるよ」
「ああ……頼む」
今度は頼ってくれたのだとわかって、少し嬉しくなる。本当、自分は単純だよなあなんて思って。
「ちょっと出てくるね」
「――近く、嵐が来るからな。気をつけろよ」
「うん、へっちゃらだよ!」
大丈夫。きっとなんとかなる。そんなことを思いながら、ラスターは意気揚々と部屋を出たのだ。
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「――な、言ったとおりだったろ?」
とりあえず船員のいるところにでも向かおうかとしていた矢先、ラスターは知った声に呼び止められた。
声のした方を振り向く。壁に背を預け、腕を組んでいる人物と目が合った――気がした。暗いから本当に合ったのかはわからない。
廊下の暗さから、はっきりと姿を捉えられず。けれどもそこにいるのが誰なのか、声だけでも推し量ることは可能だった。
神出鬼没とは、きっと彼のことを言うのではないだろうか。
「ほんとだね。空が曇ってきた」
壁から離れて歩いてくるのは、すっかり見慣れてしまった黒い外套。リディオルだ。
「これからひと嵐来るっつーのに、嬢ちゃん根性があるねぇ。どこへ行くつもりだったんだ?」
「ちょっと水を取りに。船員のところに行けばわかるよね?」
「まーな。あいつはまだ倒れてんのか?」
「うん。相当辛そうだったから、飲み水持って行ってあげようと思って」
任されたからには、ラスターのできることをするのだ。今はまだ薬を作れる状況にないから、それ以外のことを。
「どうなることかと思ったけど、嬢ちゃんのおかげだな」
「たいしたことしてないよ」
「嬢ちゃんは優しいぞ。なんせ――」
そこから先は、声が小さくて聞き取れなかった。
「え、なに?」
「いんや? どうせだし、俺もいこう。そろそろ危なくなるからな」
「ありがとう」
先ほどもシェリックに言われたのだ。嵐が来るのはラスターもわかっているのに、みんな心配しすぎではないだろうか。
先導してくれるリディオルの後に続く。
「ついでに、俺の暇つぶしにつき合ってくれるかい?」
「暇つぶし? リディオルの? 別にいいケド……何するの?」
小首を傾げる。ラスターは気になって問いかけた。
「嬢ちゃんは何も。俺といてくれれば、それでいい。まあ、そうだな。面白いといえば面白いぞ」
そうなのか。一体何をするのだろうと思ったその時。
「――俺が」
「――え?」
リディオルの止まった足。つられてラスターも立ち止まる。
――そういえば、向かっている方向が違う。先を行くからついつい彼についてきてしまったけれど、こちらは船の先端に向かう道だ。船員のいる場所に行くなら反対方向、船尾側に向かわなくてはならない。
「リディオル……?」
物言わぬ背中に薄ら寒いものを感じて、ラスターの足が後ろに下がる。
「まあ、楽しむのは嬢ちゃんじゃねぇけどな」
なぜだろう。
彼がこちらを向く。
浮かべられている薄い笑み。いつもと変わらないはずなのに。もう一歩、足が後退する。
どうしてだろう。ここに――彼の前にいたくない。
「っ、え――」
さらに後ずさろうとした足が、言うことをきかない。地面に吸い寄せられたように、足の裏がその場から離れない。
――何、で?
まだ距離はある。それなのに、この耳朶《じだ》から巣食われる寒気は何なのだろうか。ねっとりとした空気が、身体にまとわりつく。心臓がわしづかみにされ、そこから無理やり引きはがされていくような――
取られまいと、服を必死につかむ。そうでないと取られてしまう。そんな、妙な感覚を覚えて。
リディオルの口がゆっくりと動いた。
「そう。例えば、『命の選択』ってやつを」
「あっ、やっ、嫌だ、わあぁぁー――!?」
身動きひとつも叶わぬまま。頭の中をぐしゃぐしゃにかき回されて、周りの何もかもがなくなっていくのを感じた。手を伸ばすも、その手には空しかつかめない。
――シェリック。
遠くに浮かんだ彼の幻。それも浮かんだ途端に黒く塗りつぶされ、ラスターの意識は強制的に奪われていった。