Chapter 14 - 不穏な予兆、陰る雲
薄暗く、よどんだ場所。耳障りなきしみが、一定の間隔で聞こえてくる。まるで、あの牢屋のようだ。
漂う空気の悪さが目立つのは、この場の雰囲気がそうさせているだけだ。そんなどうでもいいことばかりが頭に浮かぶのは、現実に戻って来たくないがためだ。何かで紛らわしでもしなければ、到底耐えられそうになかったから。
身じろぎひとつ、呼吸ひとつするのも億劫で、すべてを止めてしまいたかった。けれどそうはいかない。まだ人間である以上、生きている以上はしなければならないことだ。
充満する息苦しさに催す吐き気。それと同時に胸の奥からせり上がってくる、久しく忘れていた感情。
無意識のまま唇をかんでいたのが功を奏した。痛みのおかげで、消えそうになる理性をぎりぎりで保たせていたのである。この理性を消してはいけない。狂いそうになる思考回路で、残るのはその一心のみだ。
「所詮は暇つぶし、だろ。どうせやれることは何もないんだ」
そう言った相手の顔をぎっ、とにらむ。
「……冗談じゃない」
「冗談を言ったつもりはないけどな。今まで退屈だったんだろ? 丁度良い遊戯をさせてやるんだ。ありがたく思えよ」
言葉が出てこない。言い返せない。
「さて、選んでもらうぜ?」
影が差し、真上から見下ろされる。つかまれた腕はびくともしない。彼に対する抵抗なんてあってないものに等しくて、それがわかってしまったから無性に悔しい。これが体格の差なのだと、思い知らされているようで。
吐息のかかる距離。耳元でゆっくりと囁かれた。
「これは、命を賭けた選択なんだからな」
「――っ!」
その低い声音に、背筋が総毛立つ。もしも叶うなら、今すぐにでもここから逃げ出したい。けれど、そんなことはできるはずもなくて。
耳だけは鮮明に、遠くの風を拾っていた。
**
二日後、ついに出発するときがやってきたのである。
「いーい天気ー」
部屋の窓から身を乗り出して、ラスターは港の方角を眺めた。
ほぼ全開に開け放った窓からは爽やかな風が舞い込んで、これから向かう道のりを後押ししてくれているかのよう――なんて思うのは考え過ぎか。普段と違うことを、いい方向に当てはめたくなるのは人間の性だ。それでも浮き立つ心は抑えきれなくて、これから待ち受ける旅路に期待してしまう。
「落ちるなよ」
シェリックから声がかかった。
「へーきへーき。それよりさ、絶好の航海日和じゃない?」
窓の縁に腰をかけて、足をぶらぶらと揺らす。
「暖かいし、気持ちいいし。こんなに晴れると思わなかった」
ラスターが目を細めて見返りながら仰ぐ空は、お世辞ではなくきれいだ。上空には小さな雲がぽっかりと浮かんでいて、遠くの方は水平線と見わけがつかないくらい真っ青な色をしている。ルパの港で、最初に出会ったあの空のようだ。
それは海とまるきり同じ色彩で、見ているだけで吸い込まれそうになる。まるで海を映し出した鏡みたいで。
シェリックにそのことを話してみたら、
「むしろ逆じゃないか? 一説には海が空を映し出していると言われてる。水面に映った空の色で、海は青く見えるんだと」
なんて返されてしまった。
「そうなの?」
「あくまでも一説だけどな」
「でも、反対でも捉えられない? 同じ色だし、どっちでもいけそう」
あれ、でもそうなるとどちらが本来正しい青なのだろう。
「その発想は考えなかったな」
いつの間にか隣にいたシェリックが、同じように外を眺める。何となく窺《うかが》ったその横顔が急に引き締まったと思ったら。
「これ、崩れそうだな」
「え、嘘」
唐突に言われ、もう一度景色をよく見る。どんなに目を凝らしてみても、残念なことにラスターにはわからなかった。
「だって、こんなにいい天気なのに?」
「ああ」
シェリックは何を見たのだろう。不吉なことを口にするなりすたすたと行ってしまった。ラスターは納得できずに空を見上げる。
雲ひとつない、あるいは雲が少しあっても、ほとんど青空が見えている場合には快晴と呼ぶのらしい。今の天気はまさにその状態なのに。
「降りそうにないよ?」
「遠くに見える雲が速い。あとは――勘だな。アルティナの方向は暗くなり始めているし、荒れるんじゃないか?」
めげずに言ってみるも、返ってきたのはつれない返事だった。「これだからネボの日は……」なんてぼやきが聞こえてくる。何かよくないことでもあるのだろうか。
シェリックの目にはきっと、ラスターとは違うものが見えているのだ。そんな結論に達したところで、ラスターは縁から飛び降りる。間違っても外へではなく、室内に。
「準備はもういいの?」
「ああ。待たせて悪いな」
シェリックは、今やっとまとめ終わったらしい荷物を肩にかけた。
振り返りにそんな光景を見たラスターも、足下に置いていた自分の鞄と棍《こん》を手に持つ。両端に珠のついているこの棒は、ラスターの大事な片割れだ。
万端な準備に気合いを入れたところで思い出す。そういえば、訊きたいことがあったのだ。
「ねえシェリック、夜明け前に聞こえた汽笛って、ボクたちが乗る船だったんじゃないの?」
まだ数回ではあるけれど身体が音に慣れてきたようで、汽笛が鳴ったら起きる時間だと認識してしまっている。今日もなんとなく汽笛に起こされたのだ。窓から港を臨んでみたら、出ていく船の灯りが見えたのである。焦って準備しようとしたけれど、シェリックが起きる気配がなかったので、ラスターは再び布団に潜り込んだのだ。
少々目が冴えてしまってなかなか寝つけずにいたが、いつの間にか寝落ちてしまっていたようだ。気を揉みながら訊いてみたのが今である。
「あれは漁船だ。客船の出航は昼近くだから心配するな」
「なんだ、違ったんだ。良かった」
ようやく答えが聞けて、ほ、と胸をなで下ろした。
夜明けとほぼ同時に鳴る汽笛は、長年続いてきた朝の儀式だ。
明日になればまた同じように鳴るその音、ラスターにとっては今日が最後だ。いつかまた聞ける時が来るのだろうか。
「さてと」
「うん」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく唇を持ち上げる。
「行くか」
「行こっか」
口に出したのはほぼ同時だった。
**
たどり着いた港には、とうにリディオルの姿があった。彼は海の方を眺めており、自分たちが来たことにまだ気づいていない様子である。未だこちらに気づきもしない彼へと声をかけた。
「早いな。朝は弱い方じゃなかったか?」
リディオルは今日も変わらず、黒い外套を羽織っていた。ちらりとこちらを見たものの、また視線を海へと戻してしまう。海風ではためく裾をものともせず、何かを待っているような、そんな双眸をしていて。
しばらくして今度はちゃんとこちらを向いたリディオルは、和らいだ表情を見せた。
「――駄目だな、今日は。それから、いくら俺でも昼前には起きてるぜ」
「日取りが悪い。お前、寝ない時は本気で寝なかったろ。最高何日徹夜してたんだ?」
「それは俺のせいじゃねぇし――さてね。数えたことないから忘れたな」
目元を緩ませたリディオルの後ろには、小型だがそれなりに広そうな船が停泊していた。
少し離れたところに泊まっている漁船と比べると、こちらの方が小綺麗で大きい。客船だから、という理由もあるけれど、アルティナ行き客船は一様に立派なものが多いのだ。アルティナ製の船がほとんどであることも、要素のひとつに列挙しておこう。
毎回思うのだが、こんな大きな物体がよく水に浮かぶものである。
「ねえ、この船がボクたちの乗る船?」
どうやら同じものを見ていたラスターから、問いかけられる。それにシェリックが答えるより早く、リディオルが頷いたのだ。
「そうだぜ」
「うわぁ……!」
感動と好奇心、そして恐らくは冒険心。それらの感情が入り交じり、ラスターの口から何とも言い表せない感嘆の声が漏れた。
実際に船を目の前にして、今まで抑えていた興奮が一気に膨れ上がったのだろう。そんなに楽しみにしていたのか、と思うほどに。
「ね、ね、あれが大きく広がるんだよね?」
今度は隣にいるシェリックの服を引っ張り、船の上方を指さす。ちょうど視線の先で太陽が被ったので、片手で影を作りながら目を細めた。
「ああ、そうだ」
今はまだ丸まっている白い布。くくられている紐が解かれるのはもうすぐだ。
次第にうずうずしてきた気持ちも抑えられなくなったようで、ラスターは船の方へと駆け出した。小脇に抱えた鞄が落ちそうになり、走りながら器用に抱え直していく。
「ね、早くー!」
「はしゃぎすぎて転ぶなよ」
あまり効果はないだろうとわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。
「平気ー!」
ラスターは後ろ手に手を振り、船の中へと入って行ってしまった。
「元気だな、あいつは……」
ラスターを見送ると、そこには二人だけ残される。あそこまではしゃがれると、こっちまで浮いた気持ちになってくるから不思議だ。
「あの元気が向こうまで続くかどうか見物じゃねぇ?」
「そうだな」
リディオルにつられ、シェリックも笑った。――笑って、自身のことについてひとつ思い出して。
「――ときにおまえ、平気なのか?」
船から目を逸らしたのを見られていたのだろう。リディオルの真面目な声が、シェリックへと尋ねてきた。さすがに今思い出したとは言いにくい。何について問われているかわかっているからこそ、こちらも渋面にならざるを得なくて。
「船、苦手だろ?」
無言を通していれば追い打ちをかけるように、リディオルはそれを明確にしてくれたのである。今まさに考えていたそれを。
「……なんとかするさ」
なんとかなるではなく、『なんとかする』。確実に体調を崩すのは目に見えているから、船室辺りで倒れていればそのうち着くだろう。
「あー、相変わらずなんだな」
「ほっとけ」
ここ数年は船に乗る機会もなかったし、機会があったとしてもそう簡単に慣れるものではない。
「嬢ちゃんは大丈夫かね?」
「さあな。船に乗ったことはないらしいが」
「最悪、二人してぶっ倒れるんじゃねえか?」
可能性はないとは言いきれないから辛い。ただし、あまり想像したくない事態ではある。
自分と違い船が弱くなければいいのだけれど、乗るのが初めてではそれもわからない。
「ま、俺たちも中に入ろう。置いて行かれたら、笑い飛ばすだけじゃすまされねぇ」
「ああ」
二人は足下にある各々の荷物を持ち、既に見えなくなったラスターの後を追った。
一抹どころではない不安がよぎったのは、シェリックの気のせいだっただろうか。