Chapter 8 - 彼女の決意、伝播して
飛び込んできたのは青。
むき出しの二の腕をひんやりと通り過ぎる風は、気温のわりには暖かい。
後ろに大きく背中を伸ばし、腕も投げ出す。とても気持ちがいい。
ふわりと。
突如現れた視界を覆う黄色を、両手を振り回して慌てて避ける。
「――わっ」
が、避けたのはいいものの、均衡を崩して仰向けに倒れてしまう。よくよく見れば、それらはたくさんの花弁だった。黄と緑、やがて青が混じり、たくさんの色彩が宙に溶けていく。
両手一杯に抱えては放り投げたようなその数に、言葉をなくして魅入ってしまった。
ふと両手の平を掲げる。自分はこんなに小さかっただろうか。不思議に思ったのは瞬きの間だけで、疑問に思ったことすら忘れてしまう。
ふかふかの草の上。考えるのが面倒くさくなって、そのまま手足を投げ出す。
雲ひとつない空はまぶしくて、どこまでも飛んでいけそうで――けれども自分はここにいて、飛びたいなんて思ってしまって。
「何してるの?」
ひょっこりと出てきた顔は逆光になっていて見えない。それでもその暗い茶色の髪と声音から、彼女だということはわかった。
「空を見てた」
「寝転がって?」
「たまには寝転がりたい時もあるの」
「ふうん?」
彼女は面白そうに笑みを浮かべる。
「ねえ、あなたは私の名前、覚えてる?」
何を言い出すのだろう。のっそりと半身を起こすと、それに合わせて彼女は後ろ向きに遠ざかる。
何を言い出すのだろう。忘れるわけなんてないのに。どうしてそんな大事なことを、自分が忘れると思われているのだろう。
口を開こうとしたその矢先に彼女の指が、その形の良い口許に触れる。首を二度横に振り、彼女はこう言うのだ。
「今は駄目。でも、覚えてて頂戴。決して忘れないで。ね? ――」
呼ばれた、気がした。
ふっ、と。浮上したのはそんなときで。
薄靄のかかった意識と見慣れない天井に、一瞬自分の場所がわからなくなって戸惑う。
――ああ、ここは。
目覚める手前の浅い眠り。とても幸せな思いができるというのは誰にでもあるものだ。それが、シェリックにとっては懐かしい、昔の顔が出てきただけの話。
視界に入れた手が自分の大きさで安心する。
覚醒する前で見る夢は、どうしてこうも現実との差異を明確にしてくれるのか。二度と戻れないと知りながらも、それを請い願うかのように見せる理由は。
「……何時だ?」
ラスターにふた言三言話したのち二階に上がり、寝入ったところまでは覚えている。そこからは、あまりの眠さに意識を手放してしまって覚えていない。
かけられていた布団を粗雑に剥ぐ。自分でかけた覚えもないので、おそらくラスターだろう。
透き通った硝子窓から見える外は薄暗い。さすがに朝まで眠っていたとは思い難い、というよりも思いたくないので、今は夕方か夜か。
今日はルパを見て回ろうかと思っていたのだが、昨日の時点でそれも不可能となってしまった。代わりに他のことを知れたので、それはそれで良かったのだけれど。
さて、ラスターはどうしたろう。
ここに姿が見えないということは、階下にいるか外に出ているか――いずれにせよ、下に降りなければ始まらない。
どうせあとでまた戻ってくるのだ。シェリックはたかをくくって、にぎやかな階下へと足を向ける――そうして、下へ降りる前から頭を抱える羽目になった。
あれほど学んだのに、寝起きの頭からすっかり抜けていたようだ。昨日、シェリックたちがたどり着いたとき、さてどんな光景が広がっていたのだったか。
「しまった」
またこの埋め尽くされた席を目の当たりにするのは避けたかったのだけれども。昨日からうっかり続きだ。
仕方ない、諦めて上で待とう。
「――シェリック!」
きびすを返そうとしたそこで、聞き覚えのある声と、物理的に腕を引き留められる。
「ラスター?」
この中を抜けてきたのか。髪はあちこちぼさぼさだし、服がところどころよれている。
「……おまえ、どんな修羅場を潜ってきたんだよ」
見兼ねて髪をなでつけてみれば、へへっと照れ笑いが返ってきた。
「そこの辺りを軽くかな?」
この人混みの中からいるかもわからないラスターを探し当てるのも面倒だし、こちらが見つけた際、声が届くかどうかが危うかったから戻ろうとしたのに。よく見つけたものだ。
「しかし、よくわかったな」
「うん。でも間違えたらどうしようかと」
ふた言目を聞いてシェリックの口元が引きつった。今、何と言った。
「そんな博打するんじゃねぇよ。人に迷惑はかけるな」
「はーい。調子は? どう?」
その返事は、人の話を聞いているのかいないのか。多分、聞いていない。
「悪くはない。お前、席空けてて大丈夫か? 取られたんじゃねえの?」
ラスターがここにいるということは、座っていた席は今もぬけの殻になっているはずである。
二人だけだとそれが問題だ。
「それは大丈夫。席取っててもらってるし」
「誰に?」
「来ればわかるよ」
それはそうだろうが。
シェリックには思い当たる人物なんていない。となれば考えられるのは、シェリックが寝ている間にラスターが知り合った人物だ。この宿の客か、町の人間か、はたまたラスターの旧友か。
そうしてそこから除外していた人物を目にし、シェリックは一気に脱力した。
「や。さっきぶりかな?」
あのときと同じように片手を挙げて、今度はにこやかに応じてくれたのは。
「……どうしてお前がまたいるんだ、リディオル」
なんだかとても既視感を感じたのは気のせいだろうか。
**
シェリックが来たということは、先ほどリディオルとしていた話をもう一度しなければならない。
奥に顔見知りを二人、向かい合わせに押し込んだのはいいものの、会話が弾んでいないのはどうしてだろう。二人が、というよりも、妙にシェリックの歯切れが悪い。
そういえば寝ていたのだったと思い出す。寝起きだったら頭働かないよなあと。
眠気覚ましのために頼んだ各自の飲み物は半分ほどになっている。加えて少し遅めの夕飯も兼ね、卓上にいくつか並べられた料理は、ほとんどが空である。
それも食事というよりは、肴と呼ばれるものがほとんどだった。近海で獲れた魚を軽くあぶったもの、海藻たっぷりの生野菜に柑橘類が添えられていたり、肉の中に香草や野菜を詰めてこんがりと焼き上げたものだったり。どれも美味しかったことは言うまでもない。
今日は一日食べてばっかだなあと振り返る。たまにはそんな日も悪くない。
「――それで、なんだってこんな事態になってる?」
ひと息吐いたところで隣のシェリックがそう切り出した。
食べながら話しても良かったのだけれど、シェリックが「飯が先」と言ったので、話は一度中断していたのである。
ラスターは、斜向かいのリディオルと顔を見合わせる。どう説明したらいいものか。
目くばせをしたその結果。
「話すと長いよね」
「運命的な出会いってやつだな?」
互いにのほほんと告げることとなった。
「お前らな……」
嘘は言っていないのに。
「ごめん。ええと、ほら、ボク出かけてたじゃない? その時に町の人から聞いた話なんだけどさ」
肌寒かった気温とか、海賊の英雄がいたとか、海が広かったとか、温かい飲み物とパンが美味しかったし、それらを親切なお兄さんにおごってもらったこともそうだ。それから――
どこから話そうかと迷い、一番話したかったことを先に話す。
「輝石の島から戻ってきた人がいるらしいんだ」
「へえ、それはまた……」
短い間を置き、シェリックは先を促すよう言う。続きを話そうと口を開いたところで思い出した。そうだ、ひとつ確認したかったのだ。
「あ、そうだ。シェリック、アルティナ王国って知ってる?」
こちらが先だっただろうか。話の順番がぐちゃぐちゃになってしまったけど、この際は仕方ない。
「――まあ、な。この辺りだと一番でかい国だ、知らない奴の方が稀じゃないか?」
「んー、そっか」
言われてみれば確かに。
とは言ってもラスターも名前しかわからないので、ほとんど知らないのと同義だ。
「アルティナがどうかしたのか?」
「うん、アルティナの人なんだって。輝石の島から戻ってきたらしい人」
そこまで言ったところで、シェリックの注意がラスターから外れる。ラスターもつられてそちらへと目を動かした。
「――俺じゃねぇよ? 濡れ衣だ」
二人分の視線を受け、リディオルがそう返す。リディオルもアルティナの人間なのだろうか。
「それで?」
「フィノ、っていう人なんだって。教えてくれたお兄さんが、まだルパにはいるだろうって言ってたケド、どうだろう?」
最後に向けた疑問はリディオルに対してだ。しかし彼は笑うだけである。
「それで、フィノへの手がかりを探してたんだ。そしたらアルティナから来た人がここにいるって言われて、会ってみたらリディオルだったってコト」
「そういうこと」
話せば何のことはない、探し物の先に彼がいて、それがたまたまシェリックの知り合いだっただけだ。
「お前、知ってるのか?」
「フィノか? まあね。顔を知ってる程度だけどな」
リディオルから話を聞いて、窓から眺めた空はとっくに暗くなっていて。辺りの街灯がぽつりぽつり寂しそうに点いていた。これは、今から会いに行くのは無理だよなーと思い、店内に目を向けたそのときだった。階段から降りてくるシェリックが見えたのは。
「その話をしていたときにシェリックを見つけて、ここから飛び出してったんだ」
「嬢ちゃん早かったな。あの早さで見つけられるとは大した目だぜ?」
褒められると少しだけくすぐったい。
「だって、この距離だと声届かないし、降りきったら降りきったでシェリック上に戻ろうとするし」
「そりゃ急ぐわな」
ちなみに話題の中心である当の本人には、肩をすくめられる。
「――ま、フィノの件は今日だと遅いから、会うとしたら明日以降になるか。それでもいいなら会わせてやるよ」
「ぜひ!」
勢いで立ち上がって答えると目をむかれた。一拍後には吹き出される始末である。
「えっ、ボク何か変なコト言った?」
「いやいや、嬢ちゃん面白いなーと思ってな」
シェリックは我関せずとばかりに、あらぬ方向を向いて他人を決め込んでいる。リディオルに加勢しない分ありがたいと言うべきか。
「だって、こんな機会逃したらもったいないし」
まだ見ぬ場所への憧れはもちろんあるけれど――何より、せっかく見つけた手がかりを逃したくない。この機会を逃してしまったら、次はいつつかめるかわからないのだ。
「もしかしたらここじゃなくて、アルティナに戻ってる可能性もあるぜ? そうしたら嬢ちゃん、どうするよ?」
意地の悪い質問だ。リディオルはおそらく居場所を知っているのに、尋ねている。
「行くよ。アルティナまで」
ラスターは挑むように頷いた。
そうしないと会えないと言うのなら、どこへだって向かおうじゃないか。
「へえ、肝っ玉据わってるねぇ。――だそうだぞ? シェリック」
「そうか」
目を伏せ、シェリックは淡々とつぶやいた。どうやら、終わりまで関わるつもりはないようだ。
それなら無理にとは言わない。
代わりに、ラスターはリディオルへと向き直る。
「約束したからね?」
「反故にはしねぇよ」
からかい半分で疑わしいけれど、シェリックの旧友だから信じたい。
そう考えるのはいけないだろうか。