猫の見る夢


禎祥2020/05/28 04:57
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今日も明日も明後日も、温かな光の注ぐ縁側で、素敵な庭を眺めながら眠りにつくの。 あぁ、なんて幸せなんでしょう。 老猫が見る、素敵な夢のお話。 けもの書房さんの2019年発行チャリティー冊子「猫たちのエトセトラ」に寄稿した短編を修正したものです。 主催者様より許可が下りましたので、アルファポリス、ツギクル、小説家になろう、ノベルアップ+で同時掲載します

猫の見る夢

 

 眩しいほどの日差しが差し込む縁側。その日差しに室温は温められ、外はまだ肌寒い季節だというのにポカポカと心地良い。

 この縁側からは庭が一望できる。あなた自慢の庭を眺めながら、ここでうたた寝をするのがわたしの日課。

 

 ――やぁ、お茶にするかね。

 ――はい、そうしましょう、あなた。

 

 ぼんやりと微睡んでいるとおやつを持ってきてくれる優しいあなた。おやつを食べながらその腕にそっと身体を預け、庭を眺めながら他愛ない話をする時間が何よりも幸せで。

 春には鳥が巣立ち、夏は青々とした木々が強すぎる日差しを和らげ、秋には可愛らしい実りを楽しむ。冬だってさまざまな花が庭を彩る素敵な庭。

 同じ毎日を過ごしながら、毎日が新鮮で幸せで。

 

 

 

 それでも、変化はやってくる。

 

 

 ――子供達も大きくなって、ちっともこの家に寄り付かなくなった。お前も寂しいだろう?

 ――いいえ。いいえ。あなたと一緒ですから、ちぃっとも寂しくなんてないのですよ。

 

 それはわたしの本心ではあったけれど。

 そっと目を閉じれば、子供達の笑い声が聞こえるようで。バタバタと走り回る音まで蘇ってくるようだった。

 目を開ければそこにはあなたの姿だけ。

 

 

 ――大丈夫。わたしはずぅっと一緒にいますよ。

 

 

 いつだったか、あなたの部屋で挙げた二人きりの結婚式で誓い合っていた言葉が頭を過ぎる。

 病める時も、健やかなる時も――……。

 

 

 それはとても遠い日の記憶。

 二つ並んだベッドの一つは、もう何年も空いたまま。

 お互い歳だからいくらも一緒にいられないな、と笑い合っていたお二人の別れはあっけないほどに早く。

 時折ため息をつきながら空のベッドに触れているあなたを見る度に、わたしの胸はきゅぅっと苦しくなるの。

 

 大丈夫。わたしだけはあなたの傍にいましょう。あなたを決して独りになんてさせないわ。

 口には出さないけれど、あなたが本当はとっても寂しがりだって、わたしだけは知っているのですもの。

 そんなわたしの言葉に答える代わりに、そっと宝物に触れるかのように優しく触れてくるあなたの手。

 

 わたしの好きな人がわたしを大事にしてくれる。ずっと傍でこうして庭を眺めて一緒にうたた寝をする。

 共に過ごして、同じ思い出を積み重ねて。それはとても温かな時間。

 この日々がずっとずっと続けばいい……それは決して叶わぬ願いだと知ってはいるけれど。

 

 

 幾度も季節は廻り、あなたの自慢だった庭はだいぶ様変わりしたわ。

 風に乗って薫るのは花ではなく土の匂い。小鳥の唄う声も虫の音も聞こえなくなったわ。

 変わらないのは、降り注ぐ光とあなたの温もり。共に過ごす、大切な時間。

 

 

 ――この庭も、だいぶ寂しくなったなぁ。

 ――ええ、でも、あなたが決めたことですから。

 

 

 子供達にこの家を譲る時のことを考えて、庭木の手入れは大変だから、とあなたはすべて切ることにした。

 甘い香り漂う金木犀も、小鳥が多く集まるサクランボも、トゲトゲが痛い山椒も。

 生まれた日に、入学の日に、卒業の日に……子供達の記念すべき日に植えたと優しい顔で語っていた思い出深いはずの木々、すべて。

 

 トットットット、と大きな音を響かせて、再び生えてくることのないよう根まで掘り起していたわね。

 あんまり一心不乱に食事も忘れて作業をするものだから、倒れてしまわないか心配していたのよ。

 

 

 ――根を掘り出す時に腰を痛めてしまったなぁ。

 ――あなたったら、休んでくださいと言っても聞かないのですもの。

 

 

 木陰がすっかりなくなってしまっても、わたしたちの暮らしは変わらない。

 この光が注ぐ縁側で、あなたの傍で眠りにつくの。

 遮るものがなくなった縁側は、以前よりも更に温かく。老いて盲いたこの眼でも光を感じられるのが嬉しいわ。

 もうあなたの顔もよく見えなくなってしまったけれど。寂しげなのはわかるから。

 

 

 ――大丈夫。わたしはずぅっとあなたと一緒にいますよ。

 

 

 この想いがあなたに伝わればいい。

 少しでも、あなたの寂しさを癒したいから。

 あなたの膝に頭を預け、わたしはこの身を委ねるの。

 それだけが、あなたのためにわたしができること。

 

 

 

「なぁ、親父。頼むから俺達と一緒に暮らすって言ってくれよ」

「そうですよ、お義父さん。この前も倒れたって病院から連絡をもらって、皆心配しているんです」

 

 ある日ふと目が覚めると、聞き覚えのある声がした。

 これはあの子の声ね。いつの間にか帰ってきたんだわ。

 あら? でも、なんだか空気がピリピリしているわね?

 せっかくあの子が帰ってきたというのに、ちっとも嬉しそうじゃないみたい。それどころか……。

 

「だが、お前達の所はアパートだろう。都はどうするつもりだ?」

「貰い手を探すにしたって、目も見えない、自力で歩く事もできない老描だろ? どうせ親父ももう碌に世話できていないんだし、いっそ保健所で安楽死させてやった方が」

「バカなことを言うな! 都を何だと思っているんだ!」

 

 あらあらまぁまぁ。珍しい。あなたがあんなに大声を出すなんて。

 わたしの名前が出たけれど、やっと帰ってきてくれて嬉しいはずのあの子と、こんな喧嘩をしているのはわたしのせいなのかしら?

 まぁ、どうしましょう?

 争うのはやめて、と言ってみるけれど、大きな声を出す二人には届かないみたい。せめて、この体が自由に動いたら良いのに。

 

 

 

 

 ――ごめんな、びっくりしただろう?

 

 あの子達が帰っていくと、わたしのところへ来て優しく背中を撫でてくれるあなた。

 でも、元気がないみたい。やっぱりあの子がいなくて寂しいのね。

 本当は、あの子と一緒に暮らしたいのでしょう?

 

 ねぇ、わたしではだめなのかしら?

 ずっと一緒にいると誓ったけれど。結局あなたはいつも寂し気で。

 わたしではあなたの寂しさを癒すことはできないのね。

 それなら……。

 

 

 ――あいつもなぁ、一緒に暮らすって言うなら、ここに来て暮らしたらいいのに。職場が遠くなるから嫌なんだと。

 ――あの子のところに行っても、良いのですよ?

 ――大丈夫、お前を置いてどこかへ行ったりはしないさ。

 

 

 せっかく片付けたっていうのになぁ、と庭を眺めながらため息を吐くあなた。

 ねぇ、今あなたはどんな顔をしているのかしら?

 愛しいその顔はもうよく見えないけれど。寂しそうなのはわかるから。

 

 

 ――ねぇ、わたしを置いて、あの子の所へ行ってちょうだいな。

 ――おぉ、腹が減ったのか? そういや今日はまだ何にも食べてなかったな。

 

 違うわ、と言ってもやっぱり伝わらないのね。

 本当に、この声が、この思いが伝われば良いのに。

 まったく、あなたときたらいつだって鈍感なんだから。

 

 

 

 

 それからは、たびたびあの子が来るようになったわ。

 そうして、いつも行く行かないの怒鳴り合い。

 あの子が帰るといつもわたしの頭を撫でて、ため息をついているあなたがとても悲し気で。

 

 ――ねぇ、あなた。あの子の所に行ってちょうだいな。

 ――大丈夫だよ。お前をどこにもやったりしないし、お前を置いてなんていかないさ。

 

 あなたの答えはいつもこう。

 思えばあなたはわたしと出逢った時からこうと決めたら曲げない人だったわね。

 わたしをこの家に連れてきた時も、あの子と言い争っていたわ。

 結局あの子が折れて、わたしはこの家に迎え入れてもらえたの。よく覚えているわ。

 

 

 ふと昔、花咲き乱れるあなたの庭に、死に場所を求めて迷い込んできたお爺さんの姿を思い出す。

 何日彷徨っていたのか、長い毛並みはボロボロで。髭も折れて尻尾も垂れ下がり、痩せて骨が浮き上がったお爺さん。

 

 ――あの子のために家を出て、こんな素敵な場所で眠れる。あぁ、良い猫生だった……。

 

 そう言って息を引き取ったのだったわ。

 あの時はまだ、どうして最期の瞬間を家で迎えないのか不思議だったけれど。

 今ならわかる気がするわ。

 わたしがいなければ、きっとあなたはあの子の所に行けるから。そうすれば、きっとあなたは寂しくなくなるから。

 

 

 ――わたし、行きますね。

 

 風を感じる。今日は暑いから、と開けていってくれたんだわ。

 行くなら、今。

 

 震える足に力を籠めて、這いずるように外に出る。

 土の匂い、風が髭を揺らすのをはっきりと感じるわ。

 ざらざらの固い場所に降りた時に何かにぶつかって落としてしまったけれど、許してちょうだいね。

 

 段差になっていたみたいでまた落ちる。

 柔らかいサラサラした感触に、鮮明な土の匂い。今度こそ地面に降りられたんだわ。

 力の入らない下半身を引き摺り、這い進む。お腹が擦れて毛が引っ張られて痛むけど、気にしたらダメ。

 見つかる前に、姿を消さないと。

 

 

 ――さようなら。あの子と幸せになってちょうだいね。

 

 

 さようなら、大切なあなた。

 さようなら、大切な場所。

 名残惜しくて振り返る。盲いた目ではやっぱり何も見えないけれど。不思議ね。何となく、見える気がするの。

 

 

 探さないでちょうだいね?

 わたしさえいなければ、あなたはまた幸せになれるの。

 早く隠れないといけないのに、隠れられそうな木の匂いがしない。……あぁ、そういえば全部切ってしまったんだわ。

 動かない足を引きずって、わたしはどこに行きましょう?

 

 

「都!」

 

 ふいに体が宙に浮く。

 あなたの匂いに包まれる。体を撫でる、愛しい大きな手。

 ああ、どうして……。

 

 

 ――お前まで、いなくなってしまうのか。俺を置いて……。

 

 

 いつもより近いあなたの声。

 悲し気で、まるで迷子のよう。

 そうね、そうだったわ。一緒にいるって、約束しましたものね。

 

 

 ――大丈夫、わたしはずっと一緒ですよ。

 

 

 

 

 

 あれから幾日経ったのでしょう?

 死に損なったわたしは、相変わらず温かな場所で、温かな光を浴びて微睡んでいる。

 あれからもう窓が開けられることがなくなったわ。

 心配しなくても、もう出ていこうだなんて思わないし、そんな体力もないのに。

 

 

 いつものように、あなたの声を聞いて。

 いつものように、あなたの手からおやつを食べて。

 いつものように、あなたに体を預けて眠って。

 そうして、時折やってくるあの子とあなたのやり取りを聞いて。

 

 

 あの子と言い争うことが減って、かわりに、あの子が来る回数が増えたの。

 このところ、毎日のようにやってきて、あなたはあの子とでかけるようになって。

 わたしと一緒に日向ぼっこをする時間が減ってしまったのは少し寂しいけれど。これで良いのだわ。

 だって、あの子が一緒だもの。あなたが寂しくなくなれば、わたしはそれで良いの。

 

 

 あなたが帰ってくる時間がだんだん減って。あの子だけがこの家にいることが増えてきて。そしてとうとう、あなたは帰ってこなくなった。

 きっと、あの子の家に行ったのね。やっと、寂しくなくなったんだわ。だから、これで良いの。

 わたしを置いてあの子の家に行ってちょうだいって、わたしが言ったんですもの。これで良いんだわ。

 わたしは一人、あなたの言葉を思い出しながら眠るの。

 

 

 不思議な香りで目を覚ます。

 何だか不思議な歌も聞こえるわ。

 知らない音、知らない匂い、たくさんの人の気配。

 あのたの匂いもするのに、どうしてわたしの傍に来てくれないのかしら?

 こんなにたくさん人がいるのに、わたしのことは誰も気がつかないみたい?

 

 

 ――ねぇ、あなた。そこにいるのでしょう?

 ――ねぇ、この匂いは何かしら? 何だかとっても懐かしい気がするの。

 

「ねぇ、何だか猫の声がしない?」

「放っておけ。こんな時に。それよりほら、出棺だぞ」

「ああ、急がないと。さぁあなた達も、車に乗って」

 

 ざわざわと言葉が遠ざかっていく。

 人の気配がなくなっていく。

 たった今まで騒がしかったからか、静けさが痛いほどで。

 

 ――ねぇ、あなた。どこにいるの?

 

 呼びかけてみても、反応はなく。

 あなたに何かあったのかしら。

 探してあげなきゃ。きっとあの部屋ね。

 静かすぎる家の中、奥様のベッドで泣いている気がするから。

 

 ――大丈夫、わたしが今行きますよ。

 

 よいしょ、と思い通りにならない体を奮い立たせて引きずるように廊下へ這い出たわ。

 わたしがこの家を出るのに失敗した日、あなたが縁側に用意してくれたわたしのベッド。

 少しだけ高さがあったから、出る時にひっくり返ってしまったけれど。

 大丈夫。もうあなたが帰ってきているのだから、また優しく抱いて部屋に戻してくれるわ。

 

 

 ああ、でも何故かしら。

 身体が、いつも以上に、動かないの……。

 わたしは……あなたの所へ、行かなく……ちゃ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――都、都。

 ――ふふっ。寝ているところを起こしちゃ可哀想ですよ、あなた。

 

 優しく撫でる大きな手。

 懐かしい笑い声。

 温かな日差しと、葉擦れの音。花の甘い香りと、小鳥の囀り。

 

 ――奥、様? 奥様だ!

 ――あらあら、どうしたの? 甘えん坊さんね、みゃーこ。

 

 目を開けば、いつもの光景。

 花が咲き乱れる、ご主人が奥様のために整えた自慢の庭。

 わたしを挟んで座る、ご主人と奥様。

 こんなにも懐かしいと感じるのは、何故でしょう。

 

 ――奥様、奥様。聞いてくださいまし。不思議な夢を見ていたのですよ。

 ――あら、どんな夢かしら?

 ――奥様がいなくなって、わたしが奥様のようにご主人を「あなた」って呼んで……。

 

 あら? それで、どうしたのかしら?

 どんな夢だったか、思い出せないわ。

 涙が出てくるのは、どうしてでしょう?

 

 ――そんな悲しい夢など忘れてしまいなさい、都。

 ――ふふ、そうよみゃーこ。もう頑張らなくて良いの。

 

 抱き上げてくれる大好きなご主人。

 優しく撫でてくれる優しい奥様。

 

 ――あら? 奥様、ご主人、わたしの言葉が通じているのね?

 ――ああ、わかるぞ都。

 ――そうね、わかるわみゃーこ。

 

 不思議なこともあるものね。

 あのね。お話ができたら言いたかったことがたくさんたくさんあるの。

 

 ――そんなに慌てなくても大丈夫だぞ。

 ――そうよ、みゃーこ。時間はたっぷりあるもの。

 

 優しく微笑むお二人に抱きしめられて、涙が溢れてくるわ。

 わたしは理解したの。もうお二人はいなくならないって。ずっと傍にいてくれるって。

 大好きなご主人、大好きな奥様。

 

 ――ずっとずぅっと、お傍に置いてください。

 ――ええ、勿論。

 ――もう置いてなどいかないさ。

 

 

 

 今日も明日も明後日も、温かな光の注ぐ縁側で、素敵な庭を眺めながら眠りにつくの。

 大好きなご主人の膝の上で、大好きな奥様に撫でてもらいながら。

 あぁ、なんて幸せなんでしょう。

 

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