大きいネコを拾いまして。

Chapter 1 - 異世界からの迷い人

石川治郎2021/03/19 09:10
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 裏山の散歩は毎日の習慣だった。



 佳代《かよ》は今年で十七歳になるが、病弱で学校にもろくに行けず、せっかく首席で入った高校は一年もたたず中退し、日本を代表するゲーム会社の取締役を務める父に与えられた、空気の澄んだ片田舎の大きな屋敷で、三人の家政婦に助けられながら暮らしていた。



 朝早くに起き、顔を洗い、寝巻きから着物に着替え、朝食を食べ、しばらくして家政婦が屋敷につき、迎え入れたらそのまま裏山へ向かう。

 持ち物は発作を抑える薬とそれを飲むための水、ハンカチやポケットティッシュ、それと、お供物の握り飯だ。

 裏山には祠があった。龍神を祀っているという祠だ。佳代は毎朝、その祠へお供物を持って、お参りに来ていた。



 朝は空気が澄んでいて、全てがキラキラと輝いている。やや急な山道を登りながら、佳代は息を吐いた。



「いつまで経っても体力がない……」



 ちょっと休憩、と立ち止まって、倒木にハンカチを敷いて座る。座った途端に小さな野鳥が、足元に寄ってきた。



「ふふ、今朝もお腹が空いているの? 仕方ないなあ」



 言いつつ、毎朝ここで休憩していると寄ってくる野鳥のために用意していたピーナッツを、手のひらで差し出す。

 人慣れした野鳥は佳代に近づき、手のひらの上のピーナッツを摘み始める。その様子を微笑んで見ていた佳代だったが、ピーナッツを食べ終わった野鳥が鳴いて飛びだち、佳代も立ち上がった。



 祠には、昨日置いて行った握り飯を包んでいた、竹皮だけが置いてあった。野生の動物たちが摘んだか、あるいは。



(まあ、塩もなしの本当にただの握り飯だから、動物が食べても問題ないだろうけど……)



 持ってきた袋に竹皮を入れ、代わりに同じく竹皮に包んだ握り飯を置く。



「にしても、本当に誰が食べてるんだろう」



 ここ最近は、綺麗さっぱり食べられている。まるで人間が食べた様な、米粒ひとつ残らない様な、綺麗な食べ方だ。



「野生動物で竹皮が残ることってないだろうし……そもそも、ここの祠ってあまり動物がいないんだよねえ」



 神聖な空気ゆえか。祠の周りには、誰が掃除するわけでもなく、虫一匹いない。雨風にさらされてボロボロではあるが、そういった虫の類に荒らされた様な雰囲気は一切ないのだ。



 だから、握り飯を食べた犯人は人間か……あるいは、神や妖怪といった類か。



 まあ、どちらにせよ、関わらないが吉である。



「龍神様、今日も一日お願いします」



 手を合わせて礼をする。突如、ブワッと風が吹く。



 佳代は驚き目を開くが、あまりの風の強さに目を閉じざるを得なかった。



「きゃあっ!」



 遂には尻餅をついてしまい、風が治まった頃には、打った腰がズキズキと痛んだ。



「もう……なに、よ――」



 ――息を呑む。



 佳代の目前には、大きな鳥居が佇んでいた。











 突然現れた鳥居にしばらく呆然とし、佳代はハッと我に返った。



「ここは……」



 先ほどの祠と、空気感は全く変わらない。不思議な場所だった。どうにも、時間がゆっくり進んでいる様な、そんな感覚があった。



 痛む腰を摩りながら、佳代は立ち上がる。なぜか、鳥居の中に呼ばれている気がした。



「……ここは、龍神様が祀られる神社……だったりするのかな……?」



 確信があった。奇天烈なことに巻き込まれたことには違いないが、どこか安心感に包まれ、佳代は冷静だった。



 鳥居の向こうに一礼する。ゆっくりと鳥居の端をくぐり抜け、佳代はキョロキョロと目をあちらこちらにやった。



 手水舎を見つけ、作法通りに禊を行い、佳代は神社へと向かった。



「人は……いない」



 期待などしていなかったためか、人の気配が全くないことに納得だけした。

 見渡す限り、どうやら、摂社すらもないようだった。そこで佳代は、自身がお賽銭箱に入れる小銭を持っていないことに気づいた。



「散歩中に使う機会なんてないから……どうしよう」



 手提げ袋の中を漁ってはみるが、当然都合よく小銭が入っているわけでもなかった。落胆し、肩を下げる。



「龍神様、申し訳ありません。お供物は先ほどの握り飯でご容赦ください……」



 鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼を丁寧にしたあと、佳代は神社を離れる。

 自然と、足はある方向に向かっていた。



「不思議なところ。空も薄い桃色だし……」



 石畳の上をカラカラと下駄で歩く。一切ズレなどがない綺麗な並びの石畳に感嘆の息を漏らしながら歩いていると、ふと気づく。



「あれは……人、かな」



 不思議と動揺はなかった。むしろ、佳代の中で納得がいった様だった。まるで佳代がここへ来たのは、視線の先に倒れるあの人を助けに来た様で――。



「……大丈夫ですか?」



 しゃがみこんで、声をかける。反応はなかった。

 肌は佳代と同じくらい白く……人間とは違い、銀色の髪の上に耳があった。腰あたりからは、尻尾――猫の尻尾のような、白くて太い、まだら模様のふさふさの尻尾が生えていた。



「……猫神様?」



 言うなれば。



 佳代はいわゆる『見える』『触れる』『好かれる』の人間で、そういう類のものと関わることも多かった。決して関わりたいと思っているわけでもなかったけれど。

 故に、驚きはなかったが……。



「どうしよう」



 つぶやいて、佳代はううん、と唸った。



(わたしにはこの人を担いで歩けるほどの力はないし……そもそも、ここから帰れるのかすらわからない)



 帰れるのか、否か。もちろんそれが一番大事なことだった。



 ――シャン、シャン。



「……?」



 考え込んでいると、耳に神社の鈴の音とは違う、鈴の軽い音が聞こえた。その音に、佳代は心臓がヒヤッとするのがわかった。



(まずい。何かがまずい)



 見つかってはいけない気がする。経験上、ろくなことにならない気がした。佳代は生唾を飲み込むが、訳の分からない恐れで動くことができなかった。



 震えている間にも、音は近づいてきていた。



 ――シャン、シャン。



 同時に、笙の特徴的な音色も聞こえる。心臓がどくどくと波打っていた。



「――……ん……」

「……! お、起きて、起きて、お願い……!」



 身じろぐ男に、佳代は懸命に声をかける。『なにか』に聞こえない様に気を配りながら、佳代は男を揺さぶった。



「っ……あ……?」



 男が目を開ける。見えたのは、吸い込まれんばかりの碧。碧く、どこまでも蒼く透き通った瞳だった。



「きれい……」

「っ、て、めえは……誰だ……?」



 ぐぐ、と凝り固まった体を無理やり起こそうとする男に、佳代は反射的に手を貸す。男はピンと尻尾を立て、すん、と鼻を鳴らした。



「わたしは佳代。三枝《さえぐさ》佳代といいます。あなたのお名前は?」

「俺ぁ……? 俺の名は――……」



 ――シャン、シャン。



「……おい、なんだこの音は」

「! あ、に、逃げましょう。こんなところにいたら見つかります」

「逃げる? ……悪いもんなのか?」

「それはわかりませんけど……けれど、なんとなく、駄目な気がするんです」

「……おい、カヨ、つったか?」

「は、はいっ?」



 耳をピクピクさせた男が、立ち上がって音の方向を見据えた。



「アレをぶっ倒したら、お前んとこで匿ってくれるかよ」

「か、匿い……?」

「アー……ちげえな。保護みてえなもんだ保護。面倒見てくれるか? そいつが一番いい気がした」



 男は、獣人という種族だった。獣人は頭の回転が速く、その上直感も鋭い。経験則上――といっても男には記憶がないが――自分の感がそういっている以上、それに従うのが一番だと、男は知っていた。



「で、でも、どうやって……」

「まどろっこしいな。そこに隠れてろ」



 男は佳代を狛犬の像の裏に押しやり、スタスタと音の方へ向かう。いけない、と思いつつ、佳代の震えている足では、追いつけるはずもなく、そもそも度胸もなかった。



 祈る様に瞼を閉じる。胸の前で手を組み、佳代は震えていた。



「――ウガアアアアアッ!」



「……ッ!?」



 獣の咆哮。



 佳代の頭に浮かんだのは、まさしくその言葉だった。

 境内が激しく揺れるほどの咆哮に、佳代は震えも忘れて立ち上がった。小柄な佳代を隠すのに十分なほど大きな狛犬像から頭だけを出し、音の方向、そして大きな怒鳴りが聞こえた方向を見た。



「あ、あ……」



 倒れ慄く異形のものと、立ち塞がる様に威嚇する男。佳代は混乱して、やがて……限界を迎え、意識を失った。