Chapter 2 - ルシアンという男
低く心地よい鼻歌が聞こえた。佳代はゆっくりと瞼を開き、眩しさに目を細める。
『……ア? 起きたかよ』
「……、ここは……」
『知らねえ。が、お前が起きるまで動かねえ方がいいと思ってよ』
無表情で言う男を横目に、佳代は起き上がった。
龍神の祀られた祠。ここがそれだと気づき、佳代は戻って来れたのだと安堵の息を漏らした。
『知ってるとこか』
「よく、知ってます……」
『そうか』
(……けれど、なんで英語なんだろう)
佳代の父親は世界各国で活躍するゲーム会社を経営する代表取締役だ。故に、佳代も幼い頃から英語には慣れ親しんできた。
日常会話からビジネストークまでお手の物ではあるが、いかんせん、獣の耳と尻尾を持つこの男が英語、つまりこの世界に存在する言語を話しているのにはどうも違和感があった。
「わたしの言葉はわかりますもんね……?」
『ア? どう言う意味だ』
「だって、わたしの日本語は理解できてるのに、あなたが喋ってるのは日本語じゃないから……」
「……に?」
「日本語ですよ」
「には……?」
「ほ、です」
「にほん……」
心底わからない、とでも言う様に顔を顰める男に、佳代は思わず吹き出した。
『……おい、てめえ』
「やだ、笑ってごめんなさい。ふふ」
『……はあ』
「ふふ……あ、そうだ、お名前をお聞きしてなかったですね。あなたのお名前は、なんとおっしゃるんですか?」
『ルシアン。ルシアン=ジャック……アー、ベルフィエロだ』
「とても長いお名前ですねえ。まるで中世ヨーロッパのお貴族様みたい」
『……さぁ、そうかもしれねえな。ヨーロッパっつーのは知らねえが』
「じゃあもしかしたら、あなたはこの世界の住人じゃないのかもしれませんね」
この世界に住んでいて、英語を話す。それなのにヨーロッパを知らないと言うのはおかしな話だ。
そう思っての言葉だったが、男……ルシアンは首を捻って目をすがめるだけだった。
『とにかく、だ。てめえの家はどこだ?』
「あ、そう、そうですね。いつまでもここに居たんじゃ駄目ですよね。家のものも心配します……」
『旦那がいるのか?』
「それはいないけど……どうしてですか?」
『フーン、そうか』
佳代の問いかけには応える気はない様である。自分から聞いた割には興味なさそうに目を逸らすルシアンに、佳代は苦笑した。
「じゃあ、行きましょうか――っ、きゃあ!」
『! おい!』
祠の階段を踏み外し、驚きに目を見開いたルシアンが駆け寄り、佳代を支えた。
『何してる』
「ご、ごめんなさい……実はわたし、体が弱くて……体力もないんです。いろいろなことがあって疲れたみたいで……」
『……怒るなよ』
「え?」
佳代を支えたまま、ルシアンはゆっくりと立ち上がる。足が宙に浮き、佳代は反射的にルシアンの服を掴んだ。
「良いんですか?」
『構わねえよ。んな事より随分と軽いな、食ってねえのか』
「まあ、ありがとうございます。でも食べていますよ。どうも昔から、肉がつかない体質なんです。筋肉もつきませんけど」
朝の散歩しか動くことのない佳代だが、一般女性並みには食べているつもりであったし、自分でも太らないのが不思議なくらいだった。
『体が弱えからか』
「それはわかりませんけれど、むしろルシアンさんの方が驚きです。着物は重いでしょう? ……あ、この道は左です」
縦抱きのまま、ルシアンは坂道を下っていく。いつもとは違う高い目線に、佳代はいっそうルシアンに掴まる力を強めた。
「き?」
「き、も、の、です」
「きもー……」
グルグルと不満そうに喉を鳴らしたルシアンに、佳代は微笑んだ。
『チッ、わかんねえ』
「言葉は理解できるのに、自分では話せないんですね。なんでなんだろう……」
『ア? 知らねえよ』
ぶっきらぼうにそう返すルシアン。
ふうん、と佳代は曖昧に頷いた。
屋敷に着くと、ルシアンは佳代を下ろした。佳代は支えられながら、初めて数寄屋門から玄関までが遠いことを恨んだ。
やっとのことで屋敷に入り、佳代は玄関の上り|框《かまち》に腰掛けた。
『でけぇ家だな』
「ふふ、でしょう? 父さんが、体の弱いわたしにって買ってくれたんです。わたしは小さい家でも良いんですけどね」
『フーン……』
「お嬢様、お帰りになったんですか?」
屋敷の奥から声が聞こえてくる。パタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえて、佳代は「今帰ったの」と返した。
「お帰りなさいませ、お嬢様……と、そちらのお方は……?」
「この方はルシアンさん。あ、耳と尻尾は気にしないでね、この町の子どもたちと遊んでいて、耳と尻尾のおもちゃを付けられたんだって。途中で倒れていたわたしをそのままの格好で助けてくれたの」
「まあ! いつもよりも遅いと思ったら……大変、今お布団を敷きますね」
「お布団は大丈夫。わたしの部屋でこの方と少し話すから、二人分のお茶をお願いできる? 大丈夫、部屋までは歩けるから」
「かしこまりました。すぐに冷たいお茶を用意いたします」
「ありがとう」
またパタパタと忙しげに去っていった女に、ルシアンは何度か瞬きをして、次にニヤッと笑った。
『よく回る口だな?』
「ふふ、意外と機転が効くでしょう? ただの世間知らずのお嬢様じゃないんですよ」
『ハッ、そんなもの誰でも言える』
「酷い」
少し拗ねた素振りを見せた佳代は、すぐに笑って立ち上がった。
「あ」
『ア? なんだ』
「一応言いますけど、靴は脱いで下さい。日本では家の中では靴は履かないの。代わりに、このスリッパを履いてくださいね」
『めんどくせぇな……靴はどこに置けば良い』
「わたしの下駄の横に並べてくれれば結構です。あ……言うのを忘れていました。ルシアンさん、わたしのお家にようこそ」
『……邪魔する』
大男が体を縮めて靴を不慣れに並べる姿を見て、佳代は吹き出しそうになるのを既の所で堪えた。
「わたしの部屋はこっちです。他の部屋よりも狭いので、二人だと窮屈かもしれませんけど……」
『寝るわけでもない。別に構わねえよ』
くあ、と大きな口を開けてあくびをするルシアンに、佳代はふふ、と笑った。佳代は病弱ゆえに、幼い頃から友人と遊ぶことが少なく、もっぱらひとり遊びだった。
他人と遊ぶにしても気を遣われて気まずい空気にしかならず……そんな彼女にとって、明け透けな物言いをするルシアンは新鮮だった。
『……別に狭くねえだろ』
行き先が分かり、佳代よりも先に部屋へ上がり込んだルシアンはどかっと座っていった。
壁際にローデスクと座椅子があり、部屋の中心には机と座布団が並べてある。横には本が積み上がっていて、参考書と思しき本にはいくつも付箋が挟んであり、勤勉さが読み取れた。
『こいつはなんだ?』
積み上がっていた本の一番上の物を手に取り、ぴらぴらとめくって、ルシアンは問いかけた。
「それは勉強に使うものです」
『それはわかる。数字やら図形やらが並んでるから、なんとなく』
その言葉に、「数字は同じなんだ」と頭の片隅で考えつつ、佳代は座布団の上に座った。
「昨日の夜にちょっとだけ中身のものを解いてみたのを置いたままだったんです。うーん……ルシアンさんの世界の言葉に訳せないかな……」
『お前が読めば分かると思うが。あとは覚えれば良いんだろ』
「そうなんですか?」
『アー……お前の世界だと俺の言葉はなんていうんだ。通じてるってことはあるんだろ』
「あ、英語です英語。あれも英語って書いてあるんですよ」
『エ……エイゴ? は、俺の国の言葉なんだ。文字も同じらしいしな』
ちらっと英語の参考書を横目で見たルシアンが言った。
『俺からすれば、お前はエイゴじゃねえけどエイゴを喋ってるっつー気持ち悪りぃことになってる』
「なるほど……?」
『ただ、さっきの女が喋ってる言葉はなんもわかんなかった。表情とお前の返しでなんて言ってるかは想像はつくがな。まあそんなわけで、お前が読めば、俺は理解できるっつーわけだ』
「へえ……ふふ、なら、どこに行ってもわたしが必要ですね」
『ハッ。しばらくは世話になるぜ』
そう言って、ルシアンはニヤッと笑った。