Baskadia

ここは――。

　薄闇の中、必死に目を凝らす。

　ぼんやりと映るのは沢山のシャボン玉。大きいものから小さいものまで、それぞれが色彩を持ち、その中には光り輝く星を内包しているのが見える。

　その一つ、白いシャボン玉がゆっくりと近づいてくる。かなり小さく、飛び方も弱々しい印象だ。

　ぶつかると思った瞬間、視界が白く弾けた。

　振り返ると、大きな黒いシャボン玉がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。

　いや、違う！

　私の方が白いシャボン玉に吸収されているんだ！

　とうに手足の感覚は失われている。

　意識が、魂のみが引き抜かれ、吸い寄せられているかのような、不思議な感覚があるのみ。抗う術はなく、逆らう意志もない。

　背後へと高速で流れ去る景色は、まるで虹の中をジェット機で旅しているかのよう。

　引力の源、自分が向かう先をじっと見つめる。

　そこには、金平糖の流星群を自分に向かって放り投げる、美しくも狂気じみた光景があった。

　そんな旅路も、体感数秒足らずで終焉を迎える。

　急激に遠のく意識の中、亡き両親の懐かしい笑顔だけが、脳裏に浮かんでいた――。

　★☆★

　――温かい。

　意識が目覚めてすぐに飛び込んできたのは、視界一杯に広がる緑――ではなく、私の身体を包み込む柔らかな光だった。まるで、お父さんとお母さんに抱き締められているような、あの温もり。

　胸に手を当てると、心臓の鼓動が伝わってくる。

　生きている。

　確かに、生きている――。

　私だけじゃない。

　お父さんも、そしてお母さんも一緒に此処にいるんだ。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい――」

　今に至るまでの記憶は、私の中に鮮明に残っていた。嘔吐するかのように、思わず謝罪の言葉が漏れる。

　でも、涙ながらに出たその言葉とは裏腹に、私の心は両親と共に生きられることへの感謝の気持ちで一杯だった。

　バサバサッ！

　突然の、何かが空へと羽ばたく音に、背筋がぞくりとした。

　意識が途切れる直前、最期に聞いた言葉を思い出す。

『――地獄を知るがよい。彼の者らが創りし地獄の世界を――』

　あの光は本当に神様なの？

　ここは本当に地獄なの？

　そんなの、ちっとも信じたくない。天国や地獄なんかは人間のご都合主義が作り出したものでしょ？　良いことをすれば天国に行けるよ。悪いことをすれば地獄行きだよ。こんなのは支配者層が都合よく治めるための方便だと思う。

　神と悪魔だって、人間の弱い心が作り出した虚像だ。宝くじや受験の合格を神に祈るのだって、本当に意味不明。災害や不幸を悪魔や悪霊のせいにするのも。御守りなんか買うなら、自分の弱い心を鍛え直してお金は募金しようよ。

　なんて考えてるから罰(ばち)が当たったんだ。

　こんな奇跡を目の当たりにしてしまったら、さすがに――ねぇ。

　周囲を警戒しながらゆっくりと立ち上がる。

　私が居るのは薄暗い森の中だった。

　視界一杯に広がる緑が、この森の深さを物語っている。

　樹海の陰に隠れて太陽は見えない。

　どんよりと曇った空のせいで、朝なのか昼なのか、時間を読み解くことすらもかなわない。

　ちくっと刺さるような痛みを足に感じて見下ろすと、数センチほどの棘を持つ蔓(つる)が足に絡みついていた。見渡すと、図鑑で見たことのある食虫植物のような花も、あちらこちらに生えている。

　必死に足踏みをしながら辺りを見回す。

　風を感じないのに木々は枝をガサゴソと揺らしているし、こっちに向けられる赤い光は、一つ二つと不気味な輝きを増しながら数を増やしていく。

　怖い――。

　あの言葉の通り、ここが地獄だと言うのなら、住んでいるのは魔物か悪魔でしょ！

　走る、走る、走る。

　転んでもすぐに立ち上がり、飛ぶように木々の隙間を駆け抜ける。

　振り向いたらダメだ。

　背中から迫ってくる“恐怖”という名の闇に飲まれてしまう。

　自分の弱い心が悪魔を生み出すんだから、立ち止まって目を瞑(つ)むり、精神統一すべきだとか、森の中では無闇矢鱈(むやみやたら)に走らず、切り株を見て方位を確認すべきだとか……もう、そんなことやってる次元じゃない！

　とにかく、木々の薄い方へ！

　今すぐ死に物狂いで逃げなきゃ、死んじゃう！　殺されちゃう！

　そんな私の行く手を遮(さえぎ)るのは、横たわる巨大生物の屍(しかばね)――呼吸を忘れるくらいの恐怖を引き摺(ず)ったまま、無我夢中で迂回し、ひたすら魔の森を走る。

　かなり走った。

　方向なんてお構いなしに、ひたすら走り続けた。シャトルランだと、五百や六百は軽く超えるくらいに。

　心臓が口から半分飛び出しかけていたとき、天を衝(つ)くような大樹が目に入る。

　そこを目指すべきだと直感が囁(ささや)く。

　あまりに巨大すぎて距離感が掴めないけど、まだ五百メートルは確実にありそうだ。

　死力を振り絞る。

　しつこく足に絡みつく植物を蹴飛ばし、泣き叫びたくなるくらい大嫌いな蜘蛛を巣ごと薙(な)ぎ払い、凶暴そうな角を持つ兎を踏みつけ、一直線に突っ走る。

　そして、大樹が傘のように広げる葉っぱの下まで到達したとき、景色が一変した――。

　これは――村？

　まるで、樹海に沈んだジャングルジム。

　森の一部を切り開いて建造物を配置したのか、街がすっぽり森に覆われたのかわからないくらい、両者は同調している。

　しかし、よく見ると、高さ五十メートルほどの大樹の幹に寄り添う大きな建物以外は、ログハウス未満の質素な物が十軒足らず見えるのみ。

　私のいた世界には遠く及ばないけど、村と呼べるくらいの集落群。

　それでいて、さっきの森とは雰囲気が全く異なる。

　魔の侵攻を妨げる、それはまさに聖域――そんな気がした。

　回りをキョロキョロ見渡すが、ぱっと見たところ動くものは一つもない。

　警戒しながら村の縁(ふち)沿いを歩く。

　学校の体育館ほどの広場を囲むように家々が並び、舗装されていない剥き出しの地面には、自然豊かな野草が道を縁取るように生えている。

　白や黄色、ピンクの可愛い花に誘われて歩いていると、ここが地獄であることを忘れてしまいそうになる。

　膝丈より少し長いくらいのスカートの中を、そよ風が駆け抜けていく。

　疲労で火照(ほて)った傷だらけの脚が、スースーしてとっても気持ちいい。

　限界を遥かに超えて運動した後だけど、手足は思ったよりも動く。

　逆に、乱れた呼吸が徐々に落ち着いていくのを感じる。

　森には癒しの力があるとよく言われるけど、まさにそんな不思議な力を全身で浴びているような感覚だった。

　地獄を感じさせない牧歌的な村の風景に、私はいつの間にか笑顔になり、鼻歌まで歌いながらスキップしていた。

　風に乗った爽やかな森の香りが鼻孔をくすぐる。

　その中に、鳥が囁くような声が混じっていた。

　歌、だよね。

　聞き耳を立てていると、どうやらあの大きな建物から聞こえてくるみたいだ。

　透き通るような清らかな歌声――。

　しかも、不思議なことに言葉がわかる。だからこそ、理解もできる。

　この村の住人は、邪悪な存在ではない、と。

　ここは、砂漠に浮かぶオアシスみたいな場所なのだろう、と。

　それでも、恐る恐る建物に近づく。

　なるほど、ここは教会だ。

　大きな木製の扉の上部には、金属製の像が嵌(は)められている。

　近づいてそれを見上げると、手を組んで祈るような女性の姿を象(かたど)った像だった。

　さらによく見ると、女性を小さな円が囲っている。

　一番上に銀色の円、そこから時計回りに合計八個が描かれているようだ。

　すると、突然扉が内側に開いた！

　びっくりして変な格好のまま固まってしまう。そんな私に向けられる多くの視線。

　耳が長い――人間ではない！

　鬼！？

「何事じゃ。皆は早う、農作業――」

　停止した時の中、穏やかな叱責と共に、コツコツと音を立てて歩み寄る者がいる。

　薄暗い建物から鬼を押し退(の)けて出てきたそれを見た途端、思わず仰(の)け反(ぞ)って叫んでしまった。

「え、閻魔(えんま)様！？」

「失敬な！　誰が閻魔じゃ！」

　いかにもな漆黒のローブ。

　数多(あまた)の煌(きら)びやかな指環は、互いの美を競いあうかのように枯れた手を無駄に飾っている。その手に握られているのは竜を象ったかのような、いかつい木の杖。見間違いようがない、この方は、女性版閻魔様だ。

　その後、目が合うこと数秒――老婆はいきなり地面に崩れるように伏せ、祈りを捧げ始めた。

　その盲(めし)いた目からは滂沱(こうだ)の涙が滴り落ち、祈りの言葉には嗚咽(おえつ)が混じっていた。

　老婆に遅れること数秒、その場に居合わせた人ならぬ者たちも、地に頭をつけて伏せる。

「えっ、な、な、何ですか！？」

　何がどうなっているのかわけがわからず、私も皆と同じように土下座を始めることにした――。

　★☆★

　それから、教会の一室で自分の過去を一通り話した後、無限ループに陥っていた。

　こういう場合、私が読んだことのある小説だと、自分のことをひた隠しにするんだよね。焦れったくて仕方がない。

　でも、今はそういう高レベルの腹芸が要求される場面なんかではなく……。

「生きているうちに勇者様に――」

「人違いです。私、勇者ではありません」

「勇者様歓迎の祭りをせにゃ――」

「だ・か・ら・ね、お婆ちゃん、人の話聴いてる？　耳に穴開いてる？　勇者なんかじゃ、ないんだってばっ！！」

　しつこいくらいに連呼される単語にうんざりし、思わず大きな声が出てしまう。

　だって、そうでしょう？

　最後の審判で地獄に落とされた私なんかが勇者だなんて、絶対にありえないんだから。人は、褒められ過ぎると馬鹿にされてる気分になるんだよ？

「見えるんじゃよ、この眼(まなこ)には」

「はい？」

　白く濁った盲目の眼差しが、じっと私に向けられている。

「勇者様、エリザベート様にはリサーチの魔法がございます」

　エリザベートと名乗る老婆の後ろで沈黙を守っていた女性が、堪(たま)らず口を挟んできた。

　腰までまっすぐ伸びた綺麗な金髪。そこからぴょんと出た耳は、申し訳なさそうに垂れ下がっている。それでも人の二倍は長くて鋭い。高校生くらいの歳だけど、モデルさんみたいにすらっと背が高い。そして何より、今まで見てきた誰よりも綺麗な顔をしている。目を合わせるのが恥ずかしいのは、きっと私の中にあるお父さんの魂の影響だ。

　雑念を振り払い、目を閉じて思考モードに入る。

　魔法――ファンタジー的なアレだろうか。なんかちょっとカッコイイ。ここが私のいた世界とは雲泥の差だってのは分かっているつもり。なら、まずは知ることだ。そこから、何をなすべきかを考えよう。

「えっと、エリザベート様と――」

「リザと申します」

「――リザさん。私はこの世界でどう生きていけば良いのかわかりません。この世界のこと、教えていただけませんか？」

　リザさんのフォローと私の質問を挟みながら、かれこれ腹時計で三時間ほど、エリザベート様のレクチャーは続いた。その長々としたお話の概要は以下の通り。

　ここはロンダルシアと呼ばれる大陸の東南、魔の大森林にあるエルフの隠れ里らしい。なんと、鬼じゃなくてエルフだった！

　ロンダルシア大陸は横に広い楕円形で、形だけ見れば四国やオーストラリアに近い。広さはイマイチわからないけど。

　有史以来およそ二千年の間、他の大陸からの侵攻を受けることなく独自の文明を築いてきたらしい。

　でも、それが常に平和だったかと言うと全くそうとは言い切れず、独自に進化した魔族、異世界から現れたらしい悪魔、それらを統べる魔王の存在のせいで、辛うじて文明を繋ぎ止めてきたに過ぎない。

　特に千年前に起きたと伝えられる魔族大侵攻では、人は大陸の九割を失いながらも奇跡的に魔王を退け、封印に成功したそうだ。

　その時に活躍したのが、エリザベート様たちが信仰する勇者様だ。黄金の鎧を纏う彼女は、一太刀で山をも消し飛ばし、百を超える魔法を使いこなし、魔王を永劫の業火に封じたらしい。

　伝承の多くは後世において盛大に脚色されてはいるが、彼女を神と同一視する説が有力なのだそうだ。聴けば聴くほどマッチポンプな気がしてならないのは私だけ？

　そして、彼女の最大の特徴である白銀に輝くオーラ、それが私にもあるのだと言う。

　リザさんの言ったリサーチという魔法。

　これは、対象物のオーラから情報を読み解く効果があるとのこと。それによると、私はこんな風に鑑定された――。

◆名前：リンネ

　性別：女性

　年齢：12

　職業：なし

　称号：銀の使者

　魔力：0

　筋力：23

　知力：37

　魅力：77

　魔法：なし

　え、名前が違う――。

　何故だか、私の一文字に、お父さんとお母さんの名前が一文字ずつ足されている感じ？

　それでか！

　この世界に来てからずっと感じていた違和感の正体がやっとわかった気がする。今まで使ってきた一人称“わたし”が、何だかちょっと気恥ずかしくなるときがあったんだ。

　きっと、お父さんの魂が混じり込んだせいだ。お父さんは自分のことを“オレ”って言っていた。さすがに、“オレ”は嫌。女子なのにオレを使うと、ヒゲがボーボー生えてきそうだもん。

　でも、“わたし”も恥ずかしい。それなら、間を取って“ボク”にしようか。ちょっと安直だけど、多分この辺りが妥協ラインだと思う。

　よし、決まりっ！

　今日から“ボクっ娘リンネ”として頑張る！

　そして、称号――。

　肩に垂らした髪を手で掬(すく)って見つめる。

　なんだか、白寿のお婆ちゃんみたい。

　人は極度の恐怖体験をすると白髪になる場合があるって聞いた。見つめるほど泣きたい気持ちになるけど、今は前を向いて生きるよ。

　この称号は今の自分にぴったりだ。

　こっちの世界でも、あの恐怖と罪悪感を忘れずに背負って生きなさい、そういうことだよね。

　あと、しょぼい数字が四つか――。

　これ、テストの点数だったら笑えるね。

「エリザベート様。勇者、リンネ様の魔力が――」

「間違いではない。確かに0とある……じゃが、これはいったい……」

　やっぱりちょっと涙が出てくる。

　魔力もない、魔法もない、しかも無職ときた。

　思いっきり持ち上げられて、その後に頭から谷底に叩き落とされた感じ。やっぱりこのお婆さんは閻魔様だ。そう割り切ると、少しだけ闘志が湧いてきた。

「ふふふっ、だから言ったでしょ？　勇者じゃないって。ボクがいた世界には魔法なんてなかったんだから」

「「ボク？」」

　この世界だとボクっ娘はオーパーツ過ぎたかも。

「個性は大事だよ。って、そんなことは良いですから、ボクはこの世界で生きていけますか？」

　あまりの斬新さからか、二人とも考え込んでしまう。

　数分の深い沈黙の後、リザさんがやっと口を開く。

「お茶を持ってきますね――」

　空気の重さに耐え切れなくなったリザさんが離席してしまった。

「ゆ、リンネ殿。この称号に心当たりは？」

　今、勇者と言おうとして止めたね。

　まぁ、良いけどさ。

「銀はこの髪のことでしょうね。元は黒かったんですが――色々あってお婆ちゃんに。それと、使者というのは“異世界から来た”という意味では？」

「異世界……白銀の……銀の宝玉……」

　何かをこじつけたがっているみたい。

　このままでは、また無限ループが始まっちゃう。

　そんな時、グッドタイミングでリザさんが戻ってきた。

　トレイに載せられた木のカップが三つ見える。

「ただいま戻りました。これは里の特産で――キャッ!!」

「あっち！　あっちっち！！」

　何もない所で盛大にコケたリザさん。

　三人分のお茶がボクの服を襲う。

「リンネさん、早く服を脱いで！　早く！」

　全身火傷寸前、ボクは何とかワンピースを脱ぎ捨てて緊急脱出する。

「はぁ、死ぬかと思いました――」

　故意ではないと思って強く出られなかったボクに、リザさんは笑顔で大きな袋を差し出してきた。

　そして、一言。

「その汚い服で魅力77でしたら、この服に着替えれば80を超えますよ！」