異世界八険伝

Chapter 1 - プロローグ

AW2020/03/06 12:52
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 何度目だろうか。

 額の汗を、頬を伝う涙と共に拭うのは。

 既に左右どちらの裾もびしょ濡れで、拭う意味があったのかと苦笑いが漏れる。


 そして、準備は全て終わった――。

 藁をも掴む気持ちで臨んだはずなのに、最良の結果を、奇跡を信じて期待に胸を躍らせてしまう自分がいる。

 その背後には、こんな非科学的なことに何の意味があるのかと、無駄な努力を冷徹にせせら笑う自分もいる。


 人事を尽くして、天命を待つ。

 まさにそんな気分。やれることは全てやったんだ。今はただ、最後までやり遂げるのみ。


 ふぅ、はぁ、ふぅ。


 赤く染まった両の腕。それを無造作に広げては閉じ、そして再び広げる。

 二度、三度と繰り返される深呼吸の際、ポキっという緊張感のない音をどこかの関節が放つ。

 暗くて狭い部屋に木霊するそれは、長時間の緊張を強いられ続けてきたことへの小さな抗議か。


 さぁ、始めよう――。

 急ごしらえの台座の上に置かれたのは、黒い装丁の本。

 それを丁寧に紐解く。

 そして、4444本もの蝋燭の炎に照らされ不気味に揺れ動く文字を、お腹の底から絞り出した声で読み上げる。


「神をも超越せし偉大なる存在よ、

 天をも焦がす力の源よ!

 我は希(こいねが)う!

 その尊大なる御心にて、

 身体を、生命を、魂魄を、

 悠久の時を越え――」


 最後の一文を読みあげていたとき、雷に打たれたかのような激痛が全身を駆け抜けた。

 

 ぐっ!

 私は引き千切れんばかりに唇を噛み、地獄の痙攣を耐え抜く。

 そんな私のド根性を嘲笑うかの如く、激しい悪寒が心を抉(えぐ)る。

 凍える身を包み込んでいた両手は、急激に沸き起こる嘔吐感を抑えようと、胸から喉に、そして咄嗟に口へと向かう。

 しかし、その甲斐もなく、吐瀉物は繰り返し繰り返し床を穢していく。


『最後の審判を執り行う』


 思念とでも呼ぶべきか。

 頭の中に直接響いたそれは、機械音や動物の声とは明らかに異なる響き。森の中でホルンを奏でるような、低く重く強いさざめきだった。

 何とか片目をこじ開けて見た先には、淡い光を纏った星が一つ、ゆらりと漂っている。

 堅く閉ざした心中でさえ、全てを余すことなく見透かすかのような、そんな光だった。


 最後の審判――確かにそう聞こえた。

 

 その言葉は知っている。

 世界が終末を迎えるとき、人類に下される神による判定だ。

 じゃあ、この空中に浮かんでいるのは、神?

 まさか、私のせいで世界が滅んじゃったの?

 現状を受け入れようとせず、ただ茫然とその場にしゃがみ込んでいる私に、その声はよりいっそう重さを増して圧(の)し掛かってくる。


『世界を滅ぼそうと企てた者よ、汝に相応の罪を与える』

「ちょ、ちょっと待ってください! 私はただ――」

『黙れ。汝は彼の者の使者であろう! これ以上明確なる証拠は存しない』


 旋回する光が照らし出す台座を見る。

 そこには、禍々しい黒炎を発する本と、溶けて腐臭を放つ猫や昆虫の死体の山があった。

 そのいずれも、この儀式のために自分が用意した物だ――。

 その時、脳裏で何かが弾ける感覚がした。

 降って沸いたような頭痛に、頭を抱えて床を転げ回る。

 指先から覗く髪は、雪のように真っ白だった。


「痛い! 痛いよ! お母さん、お父さん、助けて……」

『邪なる者よ! 今さら悔い改めようが、汝が罪咎は免れ得ないものと知れ!』

 感情の“か”の字も無いような重低音に、脳が焼き尽くされそうになる。

「し、真実……うっ……知りたい」

 心の底から願った本心が呻き声と共に漏れる。


 永遠とも思える沈黙の後、私は自分の身に何が起きたのかを知る――。

 死んだ者は生き返らない――それは、科学技術がいかに発展した世界でも、また、魔法が罷(まか)り通る幻想世界であっても覆らない事実である。

 しかしその反面、古今東西において死者蘇生や不老長寿といった夢に縋(すが)り、幾多の徒労を重ねてきたのも人が人である証左と言える。

 それだけでも、命がいかに尊く貴重であるのかが分かるだろう。


 私も、甘い夢に縋った愚かな一人だった。

 私が中学生になってすぐ、それまで交互に入退院を繰り返してきた父と母は、お互いを庇い合うようにしてこの世を去った。快復の見込みも、延命の可能性もない不治の病だったため、二人とも自宅で息を引き取ったのが不幸中の幸いだった。


 貧しい生活には慣れていたが、独りぼっちは初めてだった。貧しいながらも笑顔が絶えない優しい家庭、それだけが誇りだったのに。

 三日三晩泣き崩れた私の元に、一通の手紙が届いた。そこには、読書好きだった両親に連れられて一度だけ行ったことのある古書店の名だけが記されていた。


 何の因果か、その時の私は、お金も無いのに、嵐の中を十キロメートル以上も走り続けてそこに向かった。そして、あの本に出合った――。

 それ以降の記憶をはっきりと思い出すことができない。

 苦労して作った砂のお城を楽しそうに壊す。

 高く積み上げたブロックが崩れることに快感を得る。

 そういう醜悪な人がいることは知っている。

 あの本の製作者も恐らくは同類なのだろう。


 思い起こせば、全てが最初から仕組まれていたのかもしれない。

 小さな幸せを謳歌する家庭を壊し、まるで余興のように世界を滅ぼさせて快楽を得る者。私はそんな奴に心と身体を操られた。両親を取り戻したいと切に願った私は、いとも簡単に翻弄されてしまった。

 本に記されるがまま、儀式に必要な物を得るために奔走し、無駄に命を奪い、挙句、この世界そのものを消し去るところだった。


 つまり――馬鹿な私は、名も知らぬ邪悪な存在に利用されたんだ。

 死んだ者は生き返らない。

 そう、分かっていたのに。

 血と吐瀉物に塗れた両手で顔を覆う。

 今の私にはお似合いの格好。

 申し訳なくて、情けなくて、やるせなくて……涸れていたはずの涙が、己をひたすら責めるように止め処なく頬を伝う。

 あの世で会えたら、お父さんとお母さんに謝ろう。

 でも――今は、自分を止めてくれた存在に感謝したい。

 顔を上げる。

 とっくに覚悟はできている。


「――ありがとう、ございます」


 頭上を舞う光を真っ直ぐ見つめ、言葉を返す。

 涙によって洗い流された手を、顔を、そして、その中にある瞳を見据えた光は、無感情な煌きを数回放った後、最期の言葉を伝えた。


『汝の魂はすぐに消え去る。だが、汝が両親の魂は未だ此処に存する。死してなお、子を守ろうとする親の慈愛に深く感謝せよ。そして、その魂を抱いて地獄を知るがよい。彼の者らが創りし地獄の世界を――』

 そして、世界は暗転する――。