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Chapter 1 - 【10月29日 土曜日】

シノギカンナ2020/12/05 17:15
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聞き慣れたJ-POPの歌詞が流れる。

初めて聴いた時はすごく感動していたような、そんな気がするのだけど。

朝に弱い僕を叩き起す役目を与えられてから、それは雑音と化してしまった。

スヌーズ機能により、4回は流れていたらしいそれを止めるため、僕はのっそりと起き上がった。

ロック画面に表示された時間を一瞥する。

 

「……はあ…あ、マジ!?やばい、寝坊じゃん」

 

 布団の中で微睡んでいたい気持ちを振り払い、素早くパジャマを丸めて布団の隅に放り投げる。

パジャマの上半身に巻き込まれたイヤホンはぐちゃぐちゃになって壁にぶつかり、ばしん!と音を立てた。

学ランを適当に羽織り、髪も整えず、急いで玄関のドアを開ける。

その途端、低くてかすれ気味の声が投げかけられた。

「陽太」

「何?」

こっちは早く出なきゃいけないのに。面倒だな。

「早すぎるぞ」

 今は朝の8時を少し過ぎたところだ。むしろ遅刻ギリギリといった具合である。

「知るかよ」

「そうか」

 

父親……と血縁上そう呼ばざるを得ない男は、居間のソファに寝転がったまま、再び目を閉じた。

周りには数え切れないほどの発泡酒の空き缶がばら撒かれている。

ソファの横に置いてある簡素なゴミ箱の中には、乱雑に結ばれたコンドームがいくつか。

昨日の“相手”は僕が起きる前にこの家を出たようだ。

 

「気をつけてな」

「…いってきます」

 

ドアを開け外に出ると、どこか冬を感じさせる風が身体を撫でる。

戦後に建てられた古い市営住宅なので、階段の踊り場は底冷えがする。

今日は、いつもより寒さが厳しい様に感じられた。

 

「………上着…、」

 

 まあいいか、と小走りで駆け下りる。

 

 いつもの曲がり角に差し掛かると、後ろから明るい声が追いかけてきた。

「おーい!!ひなた〜!!!ちょっと……ぜえ…待ってくれよ……はぁ……」

「小林、お前も遅刻か?」

「え?違う違う!今日、土曜日だぜ!そこで見かけたから、間違えてやがるな〜と思って教えに来てやったんだよ」

「いや、臨時授業…午前中だけだけど」

「は!?………あ〜………そうだったっけ……?」

「今から帰って学ラン取ってくるか?」

 

小林は少し考えるような表情を作った後、満面の笑みを浮かべた。

 

「サボる!」

 

「そう。じゃあ僕は行くから」

「え〜!!!もう8時半過ぎてるぜ?どう考えてもサボるべきだろ、ひなたもさぁ」

「いたた、馬鹿力め……」

 

路上でもつれあう僕達に、とつぜん快活な声が吹っ掛けられた。

「あら!向井さんとこの陽太くんに小林さんとこの彰ちゃん。朝から元気なのね」

「佐藤のオバサンじゃん!こんちはっス」

どうも、と軽く会釈をしておく。僕はこのおばさんの過干渉なところが苦手だった。

 

今日も軽く受け流してこの場を凌ごう。

 

「そうだ、陽太くん。聞いた?浜ノ町の駅前にあるお総菜屋さん。」

「…はあ」

 

…知らない町ではない。市営住宅から15分ほど歩いた所にある駅から私鉄に乗って、30分ほど行ったところにある。

そんなところのお総菜屋さんに僕が行くわけない事ぐらい、知ってて聞いてるだろうに。

「いえ…特には。いつもみたいな、誰かの噂でもあるんですか」

どうせ近所の野良猫がそこの飼い猫だったとか、そこの旦那が不倫していたとか、そういうくだらない話だろう。

 

「そこの奥さんが、陽太くんのお母さんに似てるって。」

「……」

「三上さんが、鈴村さんの奥さんから聞いたんですって。」

「……」

「ホラ、陽太くんってお母さん─めぐみさんの顔とか、覚えてないんじゃないかと思って。お父さんも…教えてはくれてないんじゃない?」

 

「…そういうの、いらないです」

 

思わず声が出た。やばい、失礼だ。小林が困惑した表情でこちらを見ている。

 

「──ごめんなさい、おばさん。せっかく教えてくれたのに。でも、僕にはもう母はいないんです。だから、これ以上あの人の話を僕に聞かせないでください」

佐藤のおばさんは少し驚いたような表情を見せた後、いつもの朗らかな表情に戻った。

「そっか~、ごめんね!もう言わないから…」

良かった。このおばさんは顔が広いから、嫌われると面倒くさい。

 

「なあ、ひなた!早くゲーセン行こうぜ~。」

こいつもそこそこ面倒くさい。

 

 

「ひなた~。なんか考え込んでね?」

「なんだよ。別に、ドラムの達人のスコアで負けたのが悔しいだけだし」

「ふ…もう一回勝負する?言っとくけど、オレは負けね~から」

マイバチを器用に回しながら、小林は自慢げに再戦を申し込んできた。

 

─考え込んではいない。けど、浜ノ町の総菜屋は正直、気になった。

おばさんの話を遮ったのは、他人に家庭の事情を暴かれるみたいで嫌だったからだ。

母親の顔は写真でしか見たことがない。僕が4歳の時、あの父親に愛想を尽かして出て行ってしまった。

 

「母親の顔、見に行ってみようかな」

持っていた炭酸飲料をぐい、と飲み干して言った。

「一年は学区出ちゃダメだって、先生が言ってたぞ~?この不良め。あとあのオバサン、嘘つきでも有名だぞ?信じんの?」

「知ってる。でもまあ、暇だし。行ってみてもいいんじゃないかって」

どうせ学校さぼってるし、とも思った。

「ドラ達(ドラたつ)はお預けか~。じゃあ俺も行く、行きたい楽器屋があるんだよな」

「そうかよ」

「ほらほら、じゃあ行こうぜ!善は急げ!」

それ覚えたての言葉を使ってるだけだろ…と思いながら、ゲーセンを後にした。

 

 

「ほ~、あのバb…オバサンの情報、正しいじゃん!」

浜ノ町駅の改札を出て右に100メートルほど。確かに総菜屋があった。

黄色い看板で、弁当チェーン店に少し似た狭めの店。

 

「ほらひなた、行って来いよ」

小林に押されて店内に入る。当の小林は外で待っているようだ。

「あ、あの…」

「いらっしゃい!……あら、夕ご飯のおつかい?」

快活そうでふくよかな、おばさん…とまではいかない、お姉さんでもなさそうな、店主が声を掛けてきた。

「い、いえ…なんでも、ない、です。のり弁ひとつ、下さい。」

別にめちゃくちゃのり弁が食べたかったわけではないけど。

「はあい。じゃあちょっと待っててね」

 

「鮭おにぎりとたらこおにぎり、どっちが好き?」

ひょい、と出てきた店主が尋ねてきた。え、おにぎりとか頼んでないけど…

「強いて言えば、たらこです」

「……わかった、じゃあたらこおにぎり、付けとくからね。おばさんのおまけ!のり弁も入ってるよ。また来なさいね」

店主は白いビニール袋に入った弁当を手渡してきた。う、結構重い…

しかもおまけまで。別に僕、大食いでもないけどなあ。

 

 

「母親、いた?」

店先で待っていた小林が、ヤンキー座りから立ち上がりながら話しかけてきた。

「いや、普通に知らないオバサンしかいなかった。僕の顔を見ても特に反応とかなかったし。」

「そっか~、残念だな…」

 

「そういや、小林は楽器屋行かなくていいの?」

「う~ん…そういう気分じゃなくなったわ」

「交通費の無駄遣いかよ」

 

「そんなことないぜ…あれ?あの人、2中のセンセーじゃね?」

 

「どうだったっけ。覚えてないな」

「覚えてね~はずないだろ、最近の現代文の授業は全部あのセンセーじゃん。」

そう。覚えていないはずなどない。

僕は彼女のために、ここ二週間ほど図書館へ赴いているのだから。

 

 

 

 

─あれ。キミ、2中の1年3組で…名前、なんだっけ。

─向井陽太です。あの、誰ですか。僕、人の名前を覚えられなくて。

─有本美月だよ。教育実習生で、向井くんのクラスで国語の授業を3回ぐらいしてるんだけど。

 

妙に馴れ馴れしいヒトだと思った。授業なんて、教科書の別のページを見る時間だと思ってたから、つい数日前に来ていた教育実習生なんて覚えているはずがなかった。

少し茶色っぽくて、肩の辺りで切り揃えられた髪。サイズが大きい、謎のキャラクターが印刷されたパーカーに、黒いスキニー、アディダスのスニーカー。僕より5センチほど背の高い女性。

先生というよりかは、近所のお姉さんみたいだった。

 

あの日市立図書館へ行ったのは、単なる気まぐれ。

日曜日は家にいても、毎週のように父親が“楽しんでいる様子”を襖越しに聞かされていたし。

920円のイヤホンから流れる大音量の音楽達にも、カーテンを閉め切った薄暗い部屋にも、嫌気がさしていた。外に出たかっただけだった。

 

─難しい本を借りてるんだね。太宰治…芥川龍之介…。そういうのを読んでればさ、中学校の授業は退屈じゃない?同じ題材を何時間もかけて、ダラダラとしてる感じ。

─わかります。って、先生がそれを言ったら終わりなんじゃ…

─ふふ、そう?

─…

 

有本先生は地方の教育大学に在籍しているが、出身はこの辺らしい。

教育実習が終わるまでは実家に泊まっているみたいで、お弁当は母親に作ってもらってる。

教育実習は自分の出身校で行うことが多いらしく、つまり先生は僕より10歳ほど年上の先輩だ。

授業資料を探しに来ているのだ、と話した先生は気さくな雰囲気で。

図書室の外にあるベンチで、他愛も無い雑談をしてくれた。

地方の大学生活。地元の居心地の良さ。激辛料理が好きなこと。パーカーのキャラクターはとある有名なゆるキャラのパチモンであること…

 

─見かけても無視すればよかったんじゃないですか、僕みたいな奴とか。話しても楽しくないですよね。

─そんなことない。先生はねえ、向井くんの雰囲気がなんとなく面白そうだな~と感じてたから、話してみたかったんだ。うまく説明できないんだけどね。

─へえ。不思議ですね。僕も先生と話せて楽しいです。

─そう?ならよかった。

 

それから二週間ほど、市立図書館で彼女の姿を探しては、話しかけられた途端に偶然会ったふりをするような日曜日が続いていたというわけだ。

格好つけて見せたくて借りた、難しそうな文豪達の本の内容はよくわからなかったので、二週目にほとんど読まずに返却してしまった。明日もそんな感じだろう。

 

 

 

 

小林が指さした方向には、確かに有本先生がいた。

駅から少し離れた飲食店街に向かって歩いていく女性。

ただ、彼女が図書館にいる時とは明らかに服装が異なっている。

ぴったりとしたニットワンピース。普段はゆるいパーカーで隠される体のラインが露わになっていた。

普段はすっと伸びている髪もくるくるに巻かれているし、まぶたにはピンクとオレンジの中間くらいの色が載せられていて、ラメがきらきらと輝いている。

 

「すっげ~、おっぱいでけ~な。学校じゃいつもスーツかジャージだし。新鮮じゃん」

「馬鹿野郎、中学生かよ」

「中学生じゃん」

「そうだわ…」

 

小林と馬鹿な会話をしている最中に、先生の触っていたスマホに電話がかかってきたようだ。

有本先生は足早に路地の方へ向かって行った。

 

夜7時を過ぎて部屋に戻った時、テーブルの上には「今日の夜は帰らない 適当に食っておけ」というメモと、500円玉が置かれていた。

総菜を買っておいてよかったと思いながら、500円を小銭入れに滑らせた。。

たらこおにぎりを食べる胃の余裕はなかったので、明日食べることにした。