今日は6連勤目でしかもサービス残業。だいぶ疲れていたのかもしれない。
ブラック企業に就職し、身体が限界になり転職をしようとした時「まずは3年続けてみろ」と上司言われ、グダグダと続け5年。家には風呂と寝に帰り、ろくに眠れずアラームに叩き起され、満員電車に押し込められては仕事に追われる毎日。
特に今日は散々で、ミスを連発する日だった。大事な書類をデスクに忘れ取引先に行ったり、企画書を仕上げ報告に行ったら誤字の嵐、しまいには上司のミスのフォローができず俺が怒鳴られた。始末書を書き上げて、企画書の誤字を直し時計を見れば日付が変わる5分前。オフィスにはいつの間にか俺1人だった。
帰り支度をして終電に駆け込み、重い体を引きずって家に帰っている途中、ボーッと立ち尽くす1人の女性が目に入った。
いつもならナンパやストーカーに間違われたらとビビって話しかけもせず素通りするのだが
「あの、大丈夫…じゃないですよね。どうしたんですか?」
いつの間にか声をかけていた。
ビクリと体を跳ねさせ、振り返る女性は光を受け入れる事を諦めた瞳をしていた。俺の存在に気づくとパッとハイライトの入った瞳に変わった。肩の下まで伸ばされた髪は程よく手入れされていて、撫でる風に逆らわずにサラリと流れる。しかし健康的な顔色はしておらず、体も薄い。少なくとも普通の生活は出来ていなさそうに見える。
「あ、貴方は私が見えるんですか…!?」
目を涙を溜めて、嬉しそうに女性は俺に手を伸ばした。反射的に身を引いたが、間に合わなかった。しかし、女性の手が俺の体に触れることは無かった。すり抜けたのだ。
「…は、何…?」
咄嗟に振り払おうとしたが、俺の手も女性をすり抜ける。
異常事態にぼやけていた頭がだんだんハッキリとしてくる。と、同時に1つの説が俺の頭を過ぎる。そう、幻覚という説だ。日々の残業、パワハラに疲れた頭がとうとう狂った。狂った頭が幻覚を見せているのだ。そうでなければ有り得ない。俺は幽霊なんて信じていないし。
「あぁ、やっぱり触れないんですね…。で、でも!やっと話せる人が見つかって良かったです!私、気がついたらここに立っていて…。ここかどこだか分からないし、今までどこにいたのかも分からないしで、心細くて…。すれ違う人に声をかけても無視されるしで、どうしてらいいのか分からなかったんです……。」
ひとまず安心だとばかりに胸を撫で下ろす女性。なるほど、記憶喪失か。俺の頭も良いストーリーを作るじゃないか。丁度1人の家に帰るのも飽き飽きしていた所だ。狂った頭が話し相手を作ってくれた事に感謝しつつ、女性と話しながら家に帰った。
朝日が顔を出す前にふと目が覚める。久々の休日なのに二度寝を許さないとばかりに覚めた目で時計を見ればまだ5時半。いつもアラームで目を覚ます時間だ。身体がこの時間に起きることを覚えてしまった。嫌な習慣だ。
ベッドにいても何もすることがないからと、伸びをしながら体を起こす。
「あ、おはようございます。起きるの随分早いんですね。」
声の主を確認しようと瞑っていた目を開ければ、視界いっぱいに女性の顔が飛び込んでくる。
「うわぁぁぁぁ!!」
一一ドンッ
壁の向こうからの衝撃音に思わず口を塞ぐ。目の前の女性は口元に指を当て、「しーっ!」と言っている。お前が原因だ。
深呼吸をして落ち着きを取り戻し、隣に移動してきた女性を横目で見る。昨晩は暗くて分からなかったが、ぼんやりと向こう側が透けて見えるし、布団も貫通している。幻覚にしては出来すぎている気がする。
「……あんた、名前は?」
暇そうに体を揺らしている女性にそう問いかける。もし幻覚であれば名前など言えないはずだ。それか俺がよく知っている名前が出てくるはずだ。
「昨日教えましたけど、忘れちゃいました?だいぶお疲れでしたもんね…。私、結です。勇木結。」
目を細めて穏やかに名乗る女性、結。なんとなく覚えがあるような名前だが、どこにでもいる名前だろう。実際に俺の名前と同じだ。
「へぇ、すごい偶然だな。俺も唯だ。深沢唯。」
幻覚じゃないと分かって頭は正常なことに安心し、結と少し雑談をした。どうやら最近のことは覚えてないが、小さい頃の事は覚えているようだ。
身体が弱くずっと入院生活だった事、それが嫌で仲良くなった男の子とよく抜け出していた事、2人一緒に叱られた事、体調が良くなり少しずつ外に出られるようになった事、それがきっかけで友達が増えた事などなど。思い出を語る結は楽しそうに話してくれた。が、なぜ今この状態なのかさっぱり分からないようだ。
結が幻覚ではないと分かって2週間が経った。俺の毎日は相変わらずだが、家に話し相手が出来たことによって仕事でのミスは減り、残業も直ぐに終わるようになった。泥のように重かった体が少しずつ軽くなってきている。
結にも少し変化が現れた。以前はすり抜けていた物に触れられるようになっていた。相変わらず浮いたままで、ものを持ち上げる事はできないようだが、少し動かす程度は出来るようになっていた。しっかり持ち上げる事ができるようになったら、いつも疲れて帰ってくる俺に料理を作るんだと張り切っていた。結の手料理はとても嬉しいが、どこか心配だ。
「ただいま。今日も疲れたぁ…。」
玄関に倒れ込み、のそのそと靴を脱ぐ。少し休憩してからスーツにシワがつかないように起き上がり、リビングへの扉を開ける。
「……何、これ…。」
いつもなら結が扉を開けた瞬間に「おかえり」と上からぶら下がって出迎えてくれるが、今日はそれがない。その代わりに部屋には散らばった皿であったものや、フライパン、卵の残骸があちこちに飛び散っていた。
「あの…ご、ごめんなさい…。軽いのなら持ち上げられたから、簡単な料理なら出来るかと思ったら落としちゃって…。」
台所の前で浮きながらチマチマと皿の破片を拾っていた結が、帰ってきた俺に気づき謝罪の言葉を紡ぐ。無事で安心したのと同時にふつふつと怒りが湧いてくる。
「何してんだよ。持ち上げられたからって調子乗ってやらなくて良いんだけど。はぁ…。俺が片付けるからもういいよ。そこどいて。」
久々のサービス残業で溜まっていた鬱憤を一気にぶちまける。頭ではダメだと分かっていても言い出したら止まらない。結への怒りと会社の愚痴に上司の恨み言、仕事を押し付けてくる同僚への文句。暫く口から悪態を吐く。しかしこれ以上はマズいと気づいた時にはすでに遅かった。
目にこぼれそうになるくらい涙を溜めて拳を握っていた結が、俺の手から破片を入れていた袋を奪い取り、外へとすり抜けていった。咄嗟に伸ばした手は空を切る。
すぐに外に出て辺りを見回すも結の姿は見えなかった。
仕事終わりに迎えに来てくれた結と立ち寄った大きな公園も、小腹が空いたと言って買い食いしに行ったコンビニも探したが、どこにもいない。ショックと後悔で回らない頭をフル回転させ、結が行きそうな場所を考える。
好きだと言っていた夕日が見える丘?しかし今はドがつくほどの深夜。その丘には行かないだろう。可愛い犬が店番をしている商店街?しかし今は店が閉まっている。紅葉したもみじがたくさんある小さな公園?しかしあそこには壊れた街灯しかない。暗くてもみじも見えないだろう。
思いつく限りの場所を手当り次第探してみたが、どこにも結の姿は無かった。気がついたらいつも通勤で使う駅まで来ていた。これ以上やみくもに探しても無駄だと思い、渋々帰路に着く。
警察に捜索願を出そうにも他人に結の姿は見えない。届出を出した所で無意味だ。
俺の中での結の存在がこんなに大きなものになっていたとは思いもしなかった。物に触れるようになって嬉しくて料理を作ってくれようとしていたというのに、俺は…。
後悔しても結は戻ってこない。今日は探すのを諦め、家の扉を開ける。電気も消さずに飛び出した部屋はいつもより暗く、どこか冷たい。
夕食を食べる気にもならず、俺は布団にくるまった。
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
結が居なくなって1ヶ月が経った。食事も喉を通らず1日1食が限界。仕事でのミスが多くなり上司から怒号が飛んでくる毎日。帰宅する度に聞こえる結の「おかえり」に、どれだけ癒されていたのかを今になって痛感する。
今日も残業し、終電に駆け込み帰路に着く。もう二度と結に会えないのかと思うと涙で前が見えなくなる。
最寄りの駅で降り、重い体を引きずりながら歩く。後悔とストレスによる吐き気を抑え込む為、壁にもたれた。
前方に人影を見つけ、なんとなく目を向ける。
「……見つけた…。」
前よりも遥かに透明になった結の姿があった。初めて会った日と同じ、どこか遠くを見つめた結がいた。
「結……結!!」
吐き気なんて振り払い、弾かれたように走り出す。俺の声に気づいた結はゆっくり振り返った。大きな目に涙を大量に浮かべて。
今すぐに抱き締めてやりたくて、透けている体に思い切り手を伸ばした。案の定触る事は出来なかったが、なんとなく結の体温を感じられた気がして、思い切り抱き締める。
「ごめん…、本当にごめん…!」
溜まっていた感情が表に溢れ出てきて、涙が止まらなくなる。今まで言えなかった分、俺は何度も結に謝った。
「いいよ、もういいよ唯くん。私も、ごめんね。」
泣きながら笑って許してくれる結に、再び涙が溢れ出てくる。
2人で子供のように大泣きしながら家に帰った。
「唯くんにね、話しておきたいことがあるの。」
目を冷やしながら夕食としてゼリー飲料を飲んでいた時に、結が突然そう切り出した。いつになく真剣か表情で話す結に、体を向け話を聞く体制を整える。
「私ね、ここの近所の病院、大学病院で入院してたの。ここを飛び出した時に思い出してね。唯くんと初めて会った日の前の日。病院の先生にね、今夜が山場だって言われてたんだ。もうとっくにその日は過ぎてるし、私…もしかしたら、もう…」
死んでるかもしれない。
殴られたような衝撃が俺を襲った。結の本体がある事にも、その生死についての事実にも。そして俺の前の記憶が一気に蘇った。
結がしてくれた「小さい頃、男の子とよく病院を抜け出していた」という話。その男の子とは俺の事だったのだ。
先天性の病気で入院していた時、隣の病室の女の子と仲良くなって、よく互いの病室を訪れていた。暇になったら病院をよく抜け出していた。手術をし、病気が治った俺は退院したが、女の子、結はそのままずっと入院していたのだ。どうして忘れていた?退院してからも何度も見舞いに行っていたのに。
「病院はあの頃と変わっていないんだな?」
スマホを取り出し結に聞く。首を傾げながらも頷いて返事をくれた。変わっていないなら場所が分かる。
「明日の朝、病院行くから。今ここに結がいるんだから、死んでる訳ないだろ?」
少しでも安心させる為、俺は笑って結の頬へ手を添える。ほら、ちゃんと温かい。
「……分かった、待ってる。」
眉を立て笑う結に頷き、場所を調べてから布団に潜る。
翌朝、日が昇るのとほぼ同時に目を覚まし、朝食のゼリー飲料を引っつかみ着替えて家を出る。病院までは電車で約1時間半。朝起きたら結の姿が見えなくなっていて、不安に駆られながらも足を進める。
もしすでに死んでいたら?1歩遅かったら?霊体として今まであっていたのかも?嫌な想像が次々に俺を襲う。懸命に足を動かしそんな想像を振り払いながら、病院へ向かう。
ナースステーションに一直線に向い、結の病室を聞く。看護師の暗い表情が俺の不安を掻き立てる。病院の構造はは身体が覚えていた。階段を一段飛ばしで駆け上がり、病室までたどり着く。
乱れた呼吸を整えてノックをするが、返事はかえってこない。不安と恐怖に手を震わせながら扉を開ける。
白いベッドに、昨日まで俺の隣にいた結そのままの姿で横になっている姿が目に飛び込む。隣にある心電図は電子音を病室に響かせながら結が生きていることを伝える。
ひとまず生きている事に安堵し、ベッドの横に置いてある椅子へ腰掛ける。点滴が繋がれた手を取ってみれば、昨夜感じた温もりと同じ温度が俺の手に伝わる。
昨日の結の言い方ではすでに植物状態かもしれない。目を覚ましてくれる事を祈りながら、結の手を握る。
「…ゅ、い……く、ん?」
少し掠れた声が俺の耳に入る。バッと椅子から立ち上がり、結の顔を覗き込めば、うっすらと目を開けた結が微笑んでいた。
自然と口角があがり涙が溢れ出す。衝動を抑えきれずに結に抱きつく。今度はすり抜けずにしっかりと結の体温が伝わってきた。
「おかえり…。おかえり、結!」
「ただいま、唯くん。」
俺はそっと彼女の額に唇を落とした。
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