Chapter 29 - VS.セーロス&ムース①
エルペトを離れてから十日ほど経ち、一行はソリトゥスという町の近くへやって来た。
この辺りには、見事な小麦畑が広がっていた。特に、林業が中心の山村から出たことのなかったメルは、その広大さに息を飲んだ。
ちなみに、酔っぱらったフロールは、あの夜のことを何も覚えてはいなかった。
メルもアウラも、その話題には触れない。
密かに、フムスとヴィオだけは、恋の行方をああだこうだと予想して楽しんではいたが……。
夕暮れ時のソリトゥスの町は、静かだった。
いや、静かすぎた。
行き交う人々は、生気のない、魂の抜けたような表情をしている。
「何か、変な感じがするわね」
「確かに……ちょっと怖いです」
フロールとヴィオが言葉を交わす。
クリーム色の家が立ち並ぶ町の中、一際大きな白い屋敷を通り過ぎようとしたときだった。
「や、やめてくれーっ!」
男性の叫び声がその屋敷から聞こえてきた。
アウラが声のほうへ走り出す。
「行こう!」
メルがそう言って、アウラのあとを追った。
「用心するフム。いや~な匂いがするフム」
フムスに続いて、フロールとヴィオも遅れまいと走り出す。
空には、赤黒い夕焼けが広がっていた。
*
大きな扉の前で、アウラは追いついたメルたちに告げる。
「間違いない。血の匂いがするわ」
メルは、みんなに目で合図を送り、ゆっくりと扉を開けた。
「こっちよ」
アウラは、ためらうことなく大広間の螺旋階段を駆け上がった。
みんながそれに続く。
階段の絨毯は、この館の歴史を物語るかのような深い紅色だ。
しかし、夕焼けと相まって、今はただ不吉さを感じさせるだけだった。
「誰か倒れてるわ!」
二階の広い廊下へ真っ先に駆け付けたアウラ。その近くに、みんなが集まる。
「まだ敵がいるかもしれないフム。油断大敵フム」
そう言って、フムスは左右の部屋や後方をしきりに見回した。
「大丈夫ですか」
しゃがみ込んだメルが、壁際に倒れている人へ声を掛ける。
四十代ぐらいの男の人だ。首から左腕にかけて傷を負っていて、まだ血が流れている。
「メル、私が代わるわ」
フロールがメルの横へ座り、止血を試みようとする。
だが、男は右手を力なく動かして、それを制した。
「まつろわぬ、民が……逃げ、ろ……」
そう言い残して、男は息絶えた。
「メル、その人の下に……」
アウラが何かに気付いたようだ。
メルはゆっくりと男の上半身を動かした。
「ね、猫だフム!」
白い猫が男の下で死んでいた。この人は、必死に猫を守ろうとしたに違いない。
「まだ小さいのに、ひどいです」
ヴィオの声が震えている。
そのとき、階下で扉の閉まる大きな音がした。
「ようこそ、絆の民の皆様。私は、セーロスと申します」
どこからか、若くて上品な女性の声が聞こえてくる。
「勝手に人の家に入るなんて、許せませんわね。でも、ちょうどいいですわ。まだ、殺したりねぇんだよ。たっぷりと、お仕置きしてやらあーーっ!」
豹変し、怒り狂った声が響き渡った。
メルたちは螺旋階段へ向かい、一階へ下りようとする。
しかし、それをさえぎるように、ゆっくりと二階に上がってきたのは……天井に届くほどの巨大なネズミだった!
「ムース、そいつら皆殺しだーーっ!」
「ゲヒヒヒッ、ムース、もっと遊びたいの!」
ムースと呼ばれた巨大ネズミが、よだれを垂らしながら迫ってくる。
「いやっ、こ、来ないで……」
「ネ、ネズミは無理!」
恐怖や嫌悪が絡まり合い、ヴィオとフロールは逃げ出して、近くの部屋へ飛び込んだ。
「なんとかここで食い止めなきゃ」
メル、アウラ、フムスがムースの前に立ちふさがる。
そこにまた、セーロスの声が響き渡った。
「ここは檻の中。おめぇらに逃げ場はねえんだよ! さあ、素敵な夢の始まりだ――」
その声を聞いて、フムスはふらふらと壁のほうへ歩き出し、何かをつかもうと短い手を必死に伸ばす。
「フムス!」
「しっかりしなさい、フムス!」
何度呼びかけても、メルたちの声は、もうフムスには届かなかった。