パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 24 - いつの日かまた、パドックで 2

櫻井音衣2020/10/05 03:22
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最終レースの払い戻しが終わってしばらく経った頃。

場内には僕たち以外の人の姿は、ほとんどなくなった。

涙の少し落ち着いたねえさんは、僕の肩にもたれ掛かって、涙で濡れたハンカチを握りしめていた。


「お別れもできんかった……。人間いつか死ぬんやから泣くことなんかないて思てたけど、なんでこんなに哀しいんやろ……。ここに来ても、もうおっちゃんに会われへんって思うと、やっぱり寂しいな……」

「おじさんは最期までねえさんの心配してたんですよ。どうしても会いたくて、ねえさんの夢にまで会いに行っちゃったんですね……。おじさんらしいです」

「パドックで待ってるでって言うたくせに、おっちゃん待ってへんやん……。待ってたんはアンチャンやんか……」


ねえさんはそう言ってから、首をかしげた。


「今度こそ幸せになれよって、どういう意味やろ?誰にも遠慮なんかせんでええとか……。なんか、前から知ってる人みたいな……」

「さあ……どういう意味なんでしょうね……」


僕にはおじさんがねえさんに伝えたかった気持ちが、痛いほどわかった。

おじさんはきっと、記憶をなくしてもいつもパドックで待っていたねえさんに、自分の正体を明かして『今も愛してる』と言えない代わりに、せめて遠い日に交わした『はぐれたらパドックで待ってる』という二人しか知らない約束の言葉を伝えたかったんだ。


「おじさんは優しいですね……」

「ん?ようわからんけど……。アタシな、おっちゃんはアタシに、アンチャンに会いに行けって言うたんやと思う」

「……どうしてですか?」

「ん……?うん……。アタシ、もうここには来んつもりやったって、言うたやん?」

「……そうですね……」


ねえさんはゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ出よか。ちゃんと話すからさ……」


僕が立ち上がると、ねえさんは右手を差し出した。


「歩きながら話すから、手ぇ繋いでくれる?」

「あ……はい……」


僕は差し出されたねえさんの手をそっと握って、ゆっくりと歩き出した。


「あのさ……アタシな……あの時のこと、後悔しててん」


後悔していたと言うことは、もうこれきりにしようって言うつもりなのかな?

変な汗が僕の背中を伝って行く。


「アンチャンの気持ちわかってたくせに、アタシはそれ無視して、今だけって言うたやん?」

「……わかってたんですか……」

「うん……。ホンマはアタシになんもせんとこうって、思ってくれてたんやろ?」

「まぁ……」


僕の気持ちって……そっち?

たしかにそれも嘘じゃないけど……なんか話がずれてないか?


「アタシはいろいろ複雑やからさ……。アンチャンには荷が重すぎるやろうなぁって思って。だから本気にならんように、今だけって言うた」


ちょっと待って……えーっと……?

あれは僕がねえさんに本気にならないように『今だけ』って言ったんじゃなかったの?


「朝になってシラフに戻ったら、なんでこんなことしたんやろって、ドッと後悔してな……。アンチャン真面目やし優しいから、酔った勢いでしてもうたけど男やから責任取らなー!って、なるんちゃうかなと思てさ……。なんかもう申し訳なくて顔も見れんで、アンチャン寝てる間に黙って帰った」


あれ?

なんか僕が思ってたのと違うんだけど……。


「それで競馬場にも来なかったんですか?」

「それもあるけど……」


ねえさんは言いづらそうに口ごもる。


「なんですか?ちゃんと話して下さい」


僕は立ち止まり、ねえさんの顔を正面から見つめて、両手を握りしめた。


「……あんな、ホンマは、自分でなんとかしようと思ったんよ」

「……何をです?」

「アタシが無理やりしたようなもんやのに、まだ若いアンチャンには背負わされへんって」

「だから、何を?」


ねえさんは僕の視線から逃れるように、少し目をそらした。


「……でも一人ではしんどいから、一度はあきらめようとしたんやけど……直前になってこわなって、やっぱり無理やって、結局でけんかった……」


ねえさんはさっきから、一体なんの話をしているんだろう?

なんのことだかさっぱりわからない。


「だから……何をですか?僕、さっぱりわからないんですけど……」

「やっぱりあきらめられへんから、アンチャンには頼らんと、なんとか無理してでも一人で頑張ろうって思ってたらな……おっちゃんが夢に出てきた」

「それ、さっきの夢の話ですか?」

「うん……。おっちゃんが『幸せになれよ、パドックで待ってるで』って言うたから、なんか絶対行かなアカンような気がして、思いきって来たんやけど……おっちゃんやなくて、アンチャンが待ってた」


もしかしたらおじさんは、『ねえさんに会わせて』と言う僕のお願いを聞いてくれたのかな。

だったら僕もおじさんの最期の願いを絶対に叶えなくちゃ。

僕は思いきってねえさんの手を引き寄せ、華奢なその体をギュッと抱きしめた。


「ずっと会いたかったんです。何週もずっとパドックでねえさんを待ち続けて……正直、もう会えないかと思ってました」

「うん……。アンチャンが会えて良かったって泣きながら言うてくれて、ホンマに嬉しかった」

「ものすごく恥ずかしいから、泣いてたことは忘れて下さい……」


ねえさんは僕の胸に顔をうずめて、小さく笑った。