Chapter 24 - いつの日かまた、パドックで 2
最終レースの払い戻しが終わってしばらく経った頃。
場内には僕たち以外の人の姿は、ほとんどなくなった。
涙の少し落ち着いたねえさんは、僕の肩にもたれ掛かって、涙で濡れたハンカチを握りしめていた。
「お別れもできんかった……。人間いつか死ぬんやから泣くことなんかないて思てたけど、なんでこんなに哀しいんやろ……。ここに来ても、もうおっちゃんに会われへんって思うと、やっぱり寂しいな……」
「おじさんは最期までねえさんの心配してたんですよ。どうしても会いたくて、ねえさんの夢にまで会いに行っちゃったんですね……。おじさんらしいです」
「パドックで待ってるでって言うたくせに、おっちゃん待ってへんやん……。待ってたんはアンチャンやんか……」
ねえさんはそう言ってから、首をかしげた。
「今度こそ幸せになれよって、どういう意味やろ?誰にも遠慮なんかせんでええとか……。なんか、前から知ってる人みたいな……」
「さあ……どういう意味なんでしょうね……」
僕にはおじさんがねえさんに伝えたかった気持ちが、痛いほどわかった。
おじさんはきっと、記憶をなくしてもいつもパドックで待っていたねえさんに、自分の正体を明かして『今も愛してる』と言えない代わりに、せめて遠い日に交わした『はぐれたらパドックで待ってる』という二人しか知らない約束の言葉を伝えたかったんだ。
「おじさんは優しいですね……」
「ん?ようわからんけど……。アタシな、おっちゃんはアタシに、アンチャンに会いに行けって言うたんやと思う」
「……どうしてですか?」
「ん……?うん……。アタシ、もうここには来んつもりやったって、言うたやん?」
「……そうですね……」
ねえさんはゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ出よか。ちゃんと話すからさ……」
僕が立ち上がると、ねえさんは右手を差し出した。
「歩きながら話すから、手ぇ繋いでくれる?」
「あ……はい……」
僕は差し出されたねえさんの手をそっと握って、ゆっくりと歩き出した。
「あのさ……アタシな……あの時のこと、後悔しててん」
後悔していたと言うことは、もうこれきりにしようって言うつもりなのかな?
変な汗が僕の背中を伝って行く。
「アンチャンの気持ちわかってたくせに、アタシはそれ無視して、今だけって言うたやん?」
「……わかってたんですか……」
「うん……。ホンマはアタシになんもせんとこうって、思ってくれてたんやろ?」
「まぁ……」
僕の気持ちって……そっち?
たしかにそれも嘘じゃないけど……なんか話がずれてないか?
「アタシはいろいろ複雑やからさ……。アンチャンには荷が重すぎるやろうなぁって思って。だから本気にならんように、今だけって言うた」
ちょっと待って……えーっと……?
あれは僕がねえさんに本気にならないように『今だけ』って言ったんじゃなかったの?
「朝になってシラフに戻ったら、なんでこんなことしたんやろって、ドッと後悔してな……。アンチャン真面目やし優しいから、酔った勢いでしてもうたけど男やから責任取らなー!って、なるんちゃうかなと思てさ……。なんかもう申し訳なくて顔も見れんで、アンチャン寝てる間に黙って帰った」
あれ?
なんか僕が思ってたのと違うんだけど……。
「それで競馬場にも来なかったんですか?」
「それもあるけど……」
ねえさんは言いづらそうに口ごもる。
「なんですか?ちゃんと話して下さい」
僕は立ち止まり、ねえさんの顔を正面から見つめて、両手を握りしめた。
「……あんな、ホンマは、自分でなんとかしようと思ったんよ」
「……何をです?」
「アタシが無理やりしたようなもんやのに、まだ若いアンチャンには背負わされへんって」
「だから、何を?」
ねえさんは僕の視線から逃れるように、少し目をそらした。
「……でも一人ではしんどいから、一度はあきらめようとしたんやけど……直前になって怖なって、やっぱり無理やって、結局でけんかった……」
ねえさんはさっきから、一体なんの話をしているんだろう?
なんのことだかさっぱりわからない。
「だから……何をですか?僕、さっぱりわからないんですけど……」
「やっぱりあきらめられへんから、アンチャンには頼らんと、なんとか無理してでも一人で頑張ろうって思ってたらな……おっちゃんが夢に出てきた」
「それ、さっきの夢の話ですか?」
「うん……。おっちゃんが『幸せになれよ、パドックで待ってるで』って言うたから、なんか絶対行かなアカンような気がして、思いきって来たんやけど……おっちゃんやなくて、アンチャンが待ってた」
もしかしたらおじさんは、『ねえさんに会わせて』と言う僕のお願いを聞いてくれたのかな。
だったら僕もおじさんの最期の願いを絶対に叶えなくちゃ。
僕は思いきってねえさんの手を引き寄せ、華奢なその体をギュッと抱きしめた。
「ずっと会いたかったんです。何週もずっとパドックでねえさんを待ち続けて……正直、もう会えないかと思ってました」
「うん……。アンチャンが会えて良かったって泣きながら言うてくれて、ホンマに嬉しかった」
「ものすごく恥ずかしいから、泣いてたことは忘れて下さい……」
ねえさんは僕の胸に顔をうずめて、小さく笑った。