日曜日の朝、僕は重い足を引きずるようにして家を出た。
ねえさんに会いたい。
でも、会うのが怖い。
妙な気分だ。
西宮北口で宝塚線に乗り換えて、窓の外を流れる景色を眺めた。
今日、ねえさんは来るだろうか。
あんなことがあったのだから、僕だって本当は顔を合わせづらい。
それでも僕は、ねえさんに会いたい。
ねえさんに会えたら、聞きたいことはいろいろある。
だけど今の僕に、それを聞く勇気はあるだろうか?
競馬場に着いた僕は脇目もふらずパドックを目指し、いつものようにねえさんの姿を探す。
だけどその日、ねえさんの姿を目にする事は一度もなかった。
僕は朝からずっとレースもそっちのけで、ねえさんの姿を探していた。
それでもねえさんとは会えなかった。
そして、おじさんとも会えなかった。
もしここに来ていたなら、一度くらいは声を掛けてくるはずだ。
まだ体調が悪いんだろうか。
おじさんが先週もここに来ていなかったことを思うと、僕は居ても立ってもいられなくなって、メインレースを待たずに競馬場を後にした。
コンビニで飲み物や簡単に食べられる物を買って、おじさんのアパートの部屋を訪れた。
ドアをノックすると、おじさんが弱々しい声で返事をした。
ドアを開けると、おじさんは布団に横たわっていた。
「おじさん……まだ具合悪いんですか?」
「おう……アンチャンか……」
僕の姿を目にして、おじさんはゆっくりと起き上がろうとした。
「あっ、そのままで。無理しないで下さい」
おじさんは少し無理をして、血色の悪いその顔に笑みを浮かべた。
「悪いな、心配かけて……」
「何言ってるんですか。こんな時に、遠慮なんかしなくていいんです」
コンビニ袋をテーブルの上に置いて、買ってきたものをひとつずつ取り出して並べた。
「飲み物と……おにぎりも買ってきたんです。食べますか?」
「アンチャンはホンマに気ぃ利くのう……。やっぱり俺の嫁になるか?」
「だから、冗談は無精髭とボサボサの頭を何とかしてからにして下さい」
「やっぱり厳しいのう……」
おじさんはどこか嬉しそうに笑う。
「そう言えば腹減ったわ。ひとつもらおか」
弱々しく痩せたおじさんの体を支えて、ゆっくりと起き上がらせた。
おじさんの体は、最初に会った頃よりひとまわりほど小さく感じる。
「梅、昆布、ツナマヨ……何がいいですか?」
「せやな……昆布がええな」
おにぎりの封を開けておじさんに手渡した。
おじさんはそれを受け取って、ゆっくりと口に運ぶ。
僕はペットボトルのお茶のキャップを開けて、おじさんの前に置いた。
「なあ、アンチャン……」
「なんですか?梅も食べますか?」
「いや……酸っぱいのは苦手や」
「そうですか?じゃあ僕が食べますね」
梅おにぎりの封を開けて口に入れた。
おじさんはお茶を一口飲んで、手元をじっと見つめた。
そして思い詰めたような顔つきで、おもむろに口を開いた。
「アンチャン……俺な、もう長うないねん」
「……え?」
おじさんはペットボトルのお茶をテーブルの上に置いて、ゆっくりと話し始めた。
「来週、この部屋出るんや。身内とはずっと昔に縁切ったし頼れんからな。古い知り合いがやってる施設に移ることになった」
おじさんは枕元から一枚の名刺を取り出した。
「ホスピス……?」
「俺みたいに、癌で手の施しようのないもんがな、静かに最期を迎えるためにある場所や」
おじさんは来週ここを離れて、その知り合いが運営しているホスピスに行くと言う。
「肺癌やねん。それも末期や。気ぃついた時にはもう手遅れやったし、俺には大金はたいてまで延命するほどの値打ちもないしな。生きててもなんの得もないし、治療はとっととあきらめたんや」
生きる価値がない命なんてひとつもないのに。
おじさんの言葉を、僕は素直に飲み込めない。
「なあ、アンチャン……。袖振り合うも多生の縁って言うやろ。悪いけどな……こんな死に損ないの話、聞いてくれへんか?」
うつむいて拳を握りしめる僕に、おじさんは静かに話し始めた。
「俺は死ぬのが怖いわけやないねん。ただな、ひとつだけ、心残りがあるんや」
おじさんはそう言って、ゆっくりと布団から這い出し、本棚の隅に立て掛けられていたアルバムを僕に差し出した。
「俺な、昔、少しの間やけど、中学校の教師やったんや。このアルバムは最後の教え子らの写真やねん」
そのアルバムは、つい先日先輩の家で見たアルバムと同じものだった。
「今になって考えたら、あの子を守る手立てなんか、他にいくらでもあったはずやのにな……。あの時は俺もまだ若かったから、あの子を連れて逃げる他に、思い浮かばんかったんや」
おじさんは静かにそう言って、目元に涙をにじませた。
アルバムのページをめくると、若かった日の中学生のねえさんと、教師だった頃のおじさんの姿。
先輩の家で酔っ払いながらアルバムを見たあの日、担任の先生にどこか見覚えがあるとは思ったけれど、それがおじさんだとは気付かなかった。
無精髭とボサボサの頭が、実際の年齢よりもずっと歳上に見せていたせいかも知れない。
「歳なんか一回りほども離れてんのにな……俺はあの子を本気で好きになってしもた。中学卒業して、もう少し大人になったら一緒になろうて約束したんや。せやけど……神様は、大人になるまで待たせてはくれんかった」