パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 20 - 最後の願い 1

櫻井音衣2020/09/30 23:14
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日曜日の朝、僕は重い足を引きずるようにして家を出た。

ねえさんに会いたい。

でも、会うのが怖い。

妙な気分だ。


西宮北口にしのみやきたぐち宝塚たからづか線に乗り換えて、窓の外を流れる景色を眺めた。

今日、ねえさんは来るだろうか。

あんなことがあったのだから、僕だって本当は顔を合わせづらい。

それでも僕は、ねえさんに会いたい。

ねえさんに会えたら、聞きたいことはいろいろある。

だけど今の僕に、それを聞く勇気はあるだろうか?


競馬場に着いた僕は脇目もふらずパドックを目指し、いつものようにねえさんの姿を探す。

だけどその日、ねえさんの姿を目にする事は一度もなかった。

僕は朝からずっとレースもそっちのけで、ねえさんの姿を探していた。

それでもねえさんとは会えなかった。

そして、おじさんとも会えなかった。

もしここに来ていたなら、一度くらいは声を掛けてくるはずだ。

まだ体調が悪いんだろうか。

おじさんが先週もここに来ていなかったことを思うと、僕は居ても立ってもいられなくなって、メインレースを待たずに競馬場を後にした。



コンビニで飲み物や簡単に食べられる物を買って、おじさんのアパートの部屋を訪れた。

ドアをノックすると、おじさんが弱々しい声で返事をした。

ドアを開けると、おじさんは布団に横たわっていた。


「おじさん……まだ具合悪いんですか?」

「おう……アンチャンか……」


僕の姿を目にして、おじさんはゆっくりと起き上がろうとした。


「あっ、そのままで。無理しないで下さい」


おじさんは少し無理をして、血色の悪いその顔に笑みを浮かべた。


「悪いな、心配かけて……」

「何言ってるんですか。こんな時に、遠慮なんかしなくていいんです」


コンビニ袋をテーブルの上に置いて、買ってきたものをひとつずつ取り出して並べた。


「飲み物と……おにぎりも買ってきたんです。食べますか?」

「アンチャンはホンマに気ぃ利くのう……。やっぱり俺の嫁になるか?」

「だから、冗談は無精髭とボサボサの頭を何とかしてからにして下さい」

「やっぱり厳しいのう……」


おじさんはどこか嬉しそうに笑う。


「そう言えば腹減ったわ。ひとつもらおか」


弱々しく痩せたおじさんの体を支えて、ゆっくりと起き上がらせた。

おじさんの体は、最初に会った頃よりひとまわりほど小さく感じる。


「梅、昆布、ツナマヨ……何がいいですか?」

「せやな……昆布がええな」


おにぎりの封を開けておじさんに手渡した。

おじさんはそれを受け取って、ゆっくりと口に運ぶ。

僕はペットボトルのお茶のキャップを開けて、おじさんの前に置いた。


「なあ、アンチャン……」

「なんですか?梅も食べますか?」

「いや……酸っぱいのは苦手や」

「そうですか?じゃあ僕が食べますね」


梅おにぎりの封を開けて口に入れた。

おじさんはお茶を一口飲んで、手元をじっと見つめた。

そして思い詰めたような顔つきで、おもむろに口を開いた。


「アンチャン……俺な、もうなごうないねん」

「……え?」


おじさんはペットボトルのお茶をテーブルの上に置いて、ゆっくりと話し始めた。


「来週、この部屋出るんや。身内とはずっと昔に縁切ったし頼れんからな。古い知り合いがやってる施設に移ることになった」


おじさんは枕元から一枚の名刺を取り出した。


「ホスピス……?」

「俺みたいに、癌で手の施しようのないもんがな、静かに最期を迎えるためにある場所や」


おじさんは来週ここを離れて、その知り合いが運営しているホスピスに行くと言う。


「肺癌やねん。それも末期や。気ぃついた時にはもう手遅れやったし、俺には大金はたいてまで延命するほどの値打ちもないしな。生きててもなんの得もないし、治療はとっととあきらめたんや」


生きる価値がない命なんてひとつもないのに。

おじさんの言葉を、僕は素直に飲み込めない。


「なあ、アンチャン……。袖振り合うも多生の縁って言うやろ。悪いけどな……こんな死に損ないの話、聞いてくれへんか?」


うつむいて拳を握りしめる僕に、おじさんは静かに話し始めた。


「俺は死ぬのが怖いわけやないねん。ただな、ひとつだけ、心残りがあるんや」


おじさんはそう言って、ゆっくりと布団から這い出し、本棚の隅に立て掛けられていたアルバムを僕に差し出した。


「俺な、昔、少しの間やけど、中学校の教師やったんや。このアルバムは最後の教え子らの写真やねん」


そのアルバムは、つい先日先輩の家で見たアルバムと同じものだった。


「今になって考えたら、あの子を守る手立てなんか、他にいくらでもあったはずやのにな……。あの時は俺もまだ若かったから、あの子を連れて逃げる他に、思い浮かばんかったんや」


おじさんは静かにそう言って、目元に涙をにじませた。

アルバムのページをめくると、若かった日の中学生のねえさんと、教師だった頃のおじさんの姿。

先輩の家で酔っ払いながらアルバムを見たあの日、担任の先生にどこか見覚えがあるとは思ったけれど、それがおじさんだとは気付かなかった。

無精髭とボサボサの頭が、実際の年齢よりもずっと歳上に見せていたせいかも知れない。


「歳なんか一回りほども離れてんのにな……俺はあの子を本気で好きになってしもた。中学卒業して、もう少し大人になったら一緒になろうて約束したんや。せやけど……神様は、大人になるまで待たせてはくれんかった」