パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 21 - 最後の願い 2

櫻井音衣2020/10/02 00:05
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集合写真の隣のページには、先生を囲んで楽しそうに笑う、ヤンチャそうな生徒たちの姿。

生徒たちから愛されていた事が窺えた。


「あの子はな……小さい頃からつらい思いしてたのに、それを他のもんには見せんようにして生きてきたんや。小5の時にお母さんが亡くなってからは、血の繋がらん父親に散々殴られて、ひどい仕打ちを受けて……経済的に貧しくて、欲しいもんも欲しいって言えん子供時代を過ごしてな……。それを見て見ぬふりした周りの大人のせいで大人を信用できんようになって、黙ってひとりで耐えとったんや」


おじさんの話は、先輩から聞いた話と同じではあったけど、決定的に違う箇所があった。

それは、ねえさんと先生との間にあった、二人だけしか知らない出来事だ。


ねえさんは最初のうちこそ、先生を『周りの大人と同じだ』と拒絶していたけれど、先生の熱意が心を動かし、信頼できる唯一の大人と認めて素直に話を聞くようになったそうだ。

その信頼がいつしか恋になり、惹かれ合い想いを寄せ合うようになった二人は、いつか一緒になろうと誓い合った。

だけど中学の卒業式から半月ほど経った頃、おじさんの部屋を泣きながら訪れたねえさんが、父親の借金を返すために別の仕事をすることになったから、もう別れようと言ったそうだ。

なんの仕事をするのか、ねえさんから必死で聞き出したおじさんは、ねえさんを守るために、教師と言う仕事も身内も何もかも捨てる覚悟で、ねえさんを連れて逃げることにした。


「俺らを知ってるもんがおらん遠くに逃げて、しばらくの間は幸せに暮らせたんや。二人でおるのが当たり前みたいに……夫婦みたいに過ごしたわ。ホンマに楽しかった……。俺の蓄えがすくのうて、贅沢なんかさせてやれんかったけど……あの子の16の誕生日には、小さいケーキ買って一緒に祝ってな。俺はあの子が笑ってくれるだけで幸せやった……」


おじさんは窓の外の景色よりも、どこか遠くを眺めて、小さく微笑んだ。

きっと、二人きりで過ごした穏やかで幸せな日々を思い出していたんだろう。


「でもな……逃げ出したりして、そんな日が長く続くわけがなかった。どうやって調べたんかはわからんけど、居場所を突き止められてな……。俺はあの子を連れて、また逃げたんや」


ねえさんを連れて逃げる途中、二人は正面から猛スピードで突っ込んできた車に跳ねられた。

薄れていく意識の中で、必死でねえさんの手を握ったと、おじさんは言った。

目が覚めるとそこは病院のベッドの上で、ねえさんの姿はなかったそうだ。


「あの時な……あの子のお腹には、俺ら二人の子供がおった……。生まれてくる子供のためにも親父を説得して、ちゃんと籍入れようて言うてた矢先のことや。俺は事故にうても手足骨折した程度で済んだけど、あとから人に聞いた話によると、あの子は頭をつよう打ってな……なかなか意識が戻らんかったそうや」

「おじさん……その話は誰から?」

「ああ……。あの子と幼馴染みで仲良かった教え子がおってな。退院したあとの様子を教えてくれたんや」


間違いない。

その教え子は先輩だ。


「あの子は俺のこと綺麗さっぱり忘れてしもたんやて言うてたな……。俺と一緒になろうて約束したことも、二人で逃げたことも、お腹に二人の子供がおったことも……なんにも覚えてなかったんや」


おじさんは少し声を震わせ、うつむいて唇を噛んだ。


「それから、あの子の亡くなった母親の妹やって言う人が俺の所に来てな……。『もうあの子には関わらんといて欲しい』て言われた。当然やな。逃げ出す前に親父から散々虐待されてたし、『体売って金稼げ』て言われてたから、一緒に暮らされへんように面倒見てやって欲しいって言うたら、その人は家庭の事情があって引き取れん言うてな……」


父親に虐待されていたことはねえさん本人から聞いていたけれど、まだ社会的に子供だったねえさんが、周りの大人に助けを求めることも、そこから逃げ出すこともできず、どんなにつらかっただろうと、切り裂かれるように胸が痛んだ。


「そのあと、おじさんは彼女には会ったんですか?」


僕が尋ねると、おじさんはうつむいて、布団の端を強く握りしめた。


「会えんかった……いや、会いに行けんかったんや……」

「どうしてですか?」

「俺があの子を連れて逃げてから、俺の身内の所にヤクザみたいなやつが訪ねてきて、脅されたんやって……母親に聞かされた……」


おじさんは僕に背を向けて、目元をそっと拭った。

その肩が小刻みに震えていた。


「俺には少し歳の離れた弟も妹もおってな……あいつらの未来を潰すことはできんかった……。父親は職場にまでヤクザに押し掛けられて、長年真面目に勤めた会社をクビになって……これ以上俺があの子に関わったら、家族をもっとひどい目に合わせるて脅されたんや。俺のせいで家族にまで、命を危険にさらすような迷惑をかけてしもた……。せやのに、あの子のことを最後まで守ってやることもできんかった……」


ねえさんを守るためとは言え、家族を危険に巻き込み、当時まだ15歳だったねえさんを連れて逃げたことや、事故にあって発見された時にねえさんが妊娠していたことで警察沙汰にもなり、世間体を悪くしてしまった罪悪感で、その後おじさんは家族とは疎遠になったそうだ。

教師としての職を失ったおじさんは、日雇い労働の仕事や、過去の経歴を重視されない職場などを探して、その日暮らしの日々を送って来たらしい。