パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 19 - 卒業アルバム 4

櫻井音衣2020/09/29 23:44
Follow

担任の先生のおかげで、先輩は将来のことを考えるようになり、高校を受験した。

ねえさんは家庭の事情で進学を希望しなかったけれど、中学校からの推薦で就職できるよう、授業で習う以外の社会の動きなども真面目に勉強した甲斐あって、手堅い地元の中小企業に就職できたそうだ。

だけど無事に中学を卒業して間もなく、担任の先生とねえさんは、駆け落ち同然で姿を消したらしい。


「こいつな、小5の時に急にオカンが病気で死んでから、オトンに虐待されとったんや。オトンはオカンの再婚相手で、酒飲みで働きもせんとギャンブルに狂って、借金ばっかりこさえてな……」


先輩から聞いた話は、僕がねえさんから聞いた父親の話と同じだった。

でも、違ったのはその後だった。


「こいつ、家計支えるために一日でも早く働きたい言うて、就職先に頼み込んでな。中学の卒業式済んですぐから研修っちゅう形で真面目に働き始めたんやけど、このオトンがまた莫大な借金こさえて来よってな。アホやから、ヤクザがやってるヤミ金に手ぇ出したんや。そんで、借金の肩代わりさせられそうになって……」


そのヤクザな借金取りは、稼ぎのない父親よりも若くて美人な娘に稼がせようと、ねえさんを風俗に連れて行こうとしたらしい。

もちろんまだ中学を卒業したばかりだから、裏で提携している風俗店で、年齢をごまかして働かせようとしていたようだ。

その隙をついて逃げ出したねえさんは、藁にもすがる思いで、中学3年の時の担任の先生の元へ逃げ込んだ。

ハッキリとした約束はしていなかったけれど、ねえさんと担任の先生は、在学中からお互いに想いを寄せ合っていて、人知れず秘かに交際をしていたそうだ。

そしてある日、先生はねえさんを連れて、二人を知る人のいない遠い場所へ逃げた。

父親と借金取りに来たヤクザたちが、必死になって近辺を探していたと先輩は言っていた。

父親からの暴力や借金のこと、先生と付き合っていることなど、ねえさんから相談を受けていた先輩は、誰に何を聞かれても知らないとシラを切り、とにかく二人が無事に逃げ延びてくれることを願っていたそうだ。

だけどそんな願いも虚しく、数か月後、二人は連れ戻された。

事故に遇い、二人とも大怪我を負っていたそうだ。

その事故はきっと、二人を連れ戻すためにヤクザが仕組んだものだろうと先輩は言っていた。

当然の如く二人は引き離され、先生は教師と言う職も、社会的な信用も失った。

ねえさんは頭を強く打ってしばらく意識が戻らず、一時は命も危ぶまれたらしい。

やっと意識を取り戻し、怪我もすっかり回復したねえさんは、なんとか無事に退院した。

その時の入院費などは、亡くなった母親の妹が面倒を見てくれたそうだ。

ねえさんが退院してしばらく経った頃、先輩は心配になってねえさんに会いに行ったらしい。


「でもな……あいつ、事故で頭打ったせいか知らんけど、いろんなこと忘れてたんや」


いわゆる、記憶喪失と言うやつだ。

それも、すべてを忘れるのではなく、部分的に記憶を失っていたらしい。


「俺のことは覚えてたんやけど、なんで事故に遭ったんかとか、事故の前はどこで誰と何してたとか、なんにも覚えてへんねん。って言うか……先生のことだけ、全部忘れてしまってたんや」


何かで聞いたことがある。

部分的な記憶喪失と言うのは、精神的に強いショックを受けた時に起こりやすいと。

自分の名前や過去のことは覚えているのに、あるひとつのことについての記憶だけが、すっぽりと穴が空いたように抜け落ちてしまう。

頭を強く打ったのなら、記憶のすべてを失っていてもおかしくはなかったのに、何がきっかけでそうなったのかはわからない。

ひとつだけわかるのは、ねえさんを守るためにすべてを捨てて一緒に逃げたはずの先生を、ねえさんが忘れてしまったと言うことだけ。

悲し過ぎる恋の結末は、『何かを忘れている気がする』と言うねえさんの言葉を、やけに鮮明に思い出させた。

二人の話をしたあとに、先輩はボソリと呟いた。


「そう言えば……なんとなくやけど、先生に似てるわ、おまえ」



僕は薄暗い部屋の中で、嗚咽を噛み殺して、ただ涙を流していた。

きっとねえさんは、無意識のうちに、僕に先生の面影を求めていたんだ。

僕自身を好きになってくれたわけじゃない。

忘れ去ってしまった記憶の片隅で、かつて愛した先生の面影を、ねえさんは今も求めている。

夢に見ても思い出せない、壊れてしまった恋の亡骸を胸に抱いて。




先輩の家に泊まった翌日、僕はまぶたを腫らして自宅に戻った。

思いがけずねえさんの過去を知ってしまった。

僕にはどうすることもできない、重い過去だ。

ねえさん自身が思い出すことのできない過去を、僕の口から話すことはできない。

幼馴染みの先輩でさえ、ねえさんには何も話せなかったと言っていた。

それはきっと、ねえさんにとって、思い出すにはつらすぎる記憶だから。

失ってしまった大切な人の記憶は、ねえさんを今も苦しめている。

父親が死んでから、覚えていない夢に苛まれて泣いていると、ねえさんは言っていた。

ねえさんを苦しめた父親がこの世を去ったことがきっかけで、ねえさんの中の遠い記憶が動き出したのかも知れない。