パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 16 - 卒業アルバム 1

櫻井音衣2020/09/27 03:51
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あの日、ねえさんは何も言わずに僕の前から姿を消してしまった。

ねえさんが『今だけ』と言った通り、朝が来たらまた元通りになってしまったんだ。

恋人でも友達でもない。

迎えに行きたくても、名前も歳も、住んでいる所も知らない。

たった一晩そばにいて、一度体を重ねたくらいでは、結局何も変わらない。

僕はねえさんのことを何も知らない。

競馬場で会うだけの、ただの顔見知りだ。


少しわかったことと言えば、ねえさんの両親が亡くなったことと、血の繋がりのない父親がひどい男で、ねえさんは若いうちから苦労をしていたというくらい。

だけど、こんなことを少し知ったからと言って、僕に何ができるだろう?


結局どうすることもできないまま、何事もなかったかのように一日が過ぎていく。

仕事中は余計なことを考える余裕もないほど忙しかったので、おかしなミスをしなくて済んだ。



金曜日の昼休み、僕は先輩と一緒にいつもの定食屋に足を運んだ。

ぼんやりしながら食事をする僕を、先輩は怪訝な顔で見ている。


「おまえ、今日の晩ヒマか?」


そう言えば、最近は定時に仕事を終われる日が少なくて、あまりジムに行っていない。

今日は定時で帰れそうだし、久しぶりにジムに行って汗を流そうか。


「特に予定はないですよ。最近忙しくて行けなかったから、今日はジムに行こうかなって思ってるくらいです」

「そんなしんどいもん、よう続くな」

「せめて少しでも強く……男らしくなりたいんで」


僕が真顔でそう言ったのが、先輩には相当おかしかったみたいだ。

声をあげて笑っている。


「生まれ持ったものが違いすぎて、こういう気持ち、先輩にはわからないでしょうね」

「はあ?何言うてんねん。俺は俺やし、おまえはおまえでええやんけ。みんながみんな、おんなじやったら気持ち悪いわ」


たしかに、見た目も中身も僕と同じの人間がたくさんいるのを想像すると、吐き気がする。

だけど、例えば先輩と同じだったら?

そう考えて、僕は思わずため息をついた。


「……同じでもいいです、背の高いイケメンになれるなら」

「アホか。おまえ、最近なんかおかしいぞ?」

「そうですか……」


いつも通りのはずの毎日なのに、ねえさんが黙って姿を消したあの日から、僕の心はなんとも言いがたい不快感に覆われている。

そう、ちょうどねえさんが言っていた、胸に穴が空きそうで気持ち悪くて……そんな感じだ。


「で、ヒマだったら悪いですか?」


思わず無愛想にそう言うと、先輩は顔をしかめながらお茶を飲み込んだ。


「なんや感じ悪いな、ヒマやったら悪いとは言うてへんやろ。久しぶりに一緒に飲みに行かんかなーと思ただけやんけ」

「すみません、感じ悪くて。でも、合コンとかキャバクラとかならお断りします」


おかずの最後の一口を食べ終わった僕は、箸を揃えて手をあわせた。


「アホか!俺かてそんなとこばっかり行ってへんちゅうねん!」

「そうなんですか?僕はてっきり、先輩はそういう女の人のいる所でしか飲まないんだと思ってました」

「ちゃうわ!おまえ、顔に似合わず毒吐くようになってきたな……」

「すみません。根が正直なもんで」


先輩はばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。

思い当たる節が多々あるのだろう。


「……まあええわ。たまには男同士、二人でゆっくり飲もうや。それやったらええやろ?」

「そうですね。それならお供します」

「そうや、今日うち来いや。オトンからもろた美味い酒があるんや」



仕事のあと、先輩に連れられて、先輩が一人暮らしをしている部屋にお邪魔した。

たしかに一人暮らしなんだろうけど、なんとなく女の人のいる匂いがする。

それも不特定多数と言った感じで、いろんな物が甘い香りを放っている。


「先輩、一人暮らしなんですよね?」

「そうや。なんかおかしいか?」

「いえ……。あちこちから、いろんな女の人の匂いがするなと思って」

「おまえは犬か!どんだけ鼻が利くねん!!」


ああ、そうか。

言われてみれば、たしかに僕は匂いには人一倍敏感だ。

だからねえさんに初めて会った日も、ねえさんの香りにドキドキしていたんだと思う。

ねえさんが僕の部屋に泊まった日は、いつものねえさんの香りではなくて、僕と同じシャンプーの香りにドキドキしたけれど。

あれは香りにと言うか、ねえさんが僕の部屋で僕と同じシャンプーを使ったことに対してドキドキしていたのかも知れない。


「まあ座れや。用意するわ」

「手伝います」


買ってきたつまみや総菜をテーブルに並べ、とりあえずよく冷えた缶ビールで乾杯した。

渇いた喉を、冷たいビールが炭酸の泡を弾かせながら流れ込んでいく。

勢いよくビールを煽る僕を、先輩は不思議そうに見ている。


「おまえ、なんか感じ変わったな」

「そうですか?」

「ああ、なんて言うか……前はもっと女の子みたいにチビチビ飲んでたやろ。えらい飲めるようになったんやな」


それはもしかしたら、いつも競馬帰りに、ねえさんとおじさんと一緒にビールを飲んでいるせいかも知れない。

以前はグラスに2杯も飲めば真っ赤になっていたのに、ねえさんと焼肉屋に行った時なんて、生ビールをジョッキで3杯も飲んだ。

あの日、ねえさんと一緒に飲んだビールは美味しかった。