「アンチャン、どうした?」
「えっ?」
「難しい顔しとったで」
ねえさんが眉間にシワを作って見せた。
「そうですか?」
「なんかイヤなことでもあったん?」
「イヤなことって言うか……惨めと言うか、情けないと言うか」
ねえさんは僕の目を覗き込むようにして、軽く首をかしげた。
おじさんはモツ煮込みと瓶ビールを追加して、僕のグラスにビールを注いでくれた。
「なんや、女のことか?」
おじさん、見掛けによらず鋭い……。
「うーん……。そうなるのかな……」
直接的に彼女らに何か言われたわけでも、フラれたわけでもない。
ただ僕が勝手に不愉快になった。
それだけのことなんだけど。
「話してみ?」
ねえさんは少し笑ってタバコに火をつけた。
こんな話をするのはカッコ悪い。
でも、話せば少しはスッキリするだろうか。
「たいしたことじゃないんです。いつものことだから」
「うん、だから今日は話してみ?いつも我慢してるんやろ?」
「まぁ……」
僕は当たり障りのない範囲で、先輩がとてもカッコいいことと、金曜日の合コンの話をした。
「先輩はいい人だけど、一緒にいると同じ男としては……ちょっとね、情けなくなっちゃって。やっぱり男は見た目が大事なのかなーって。女の人なら誰だって、チビで童顔の僕より、背の高いイケメンを選ぶでしょう?」
実際に声に出して言葉にすると、自分が余計に情けなくなってきた。
ねえさんは顔をしかめながら、タバコの煙をため息混じりにフーッと吐き出す。
「ふーん……。アタシはそうは思わんけど。言うたやろ?もっと自信持てって」
「そうやで、アンチャン。カッコ良うなりたいのは、俺も男やしわかるけどな。それがすべてちゃうわ。それにな、うわべだけやったら、どないにでもなるぞ」
「なんぼ見た目が男前でも、しょうもない男はいっぱいおる。見た目ブッサイクでも、中身ええ男もいっぱいおる。アンチャンはこれから両方男前になれ!」
やっぱりねえさんは横暴だ。
また僕に無理難題を押し付ける。
「……なれるかな」
「なれるかな、やないねん。なるんや。その心意気が大事やで!アタシが認めるくらいの男前になったら、チューくらいはしたる!」
チューって……ねえさん、酔ってる?
ただの冗談なのか、僕を励ますつもりなのか。
それとも、僕がそんな男にはなれないって思うから言ってるだけ?
無意識にねえさんの柔らかそうな唇に視線が行ってしまい、ねえさんとのキスシーンを想像しそうになった。
ダメだ、こんな所でそんなこと想像したら、それこそいろいろヤバイって!!
僕は慌ててグラスのビールを飲み干して、それを打ち消した。
でも……ホントにそうなれたら……。
「……僕、ねえさんが惚れるくらいの男前になりたいです」
「よし、頑張れ!」
ねえさんは笑って僕の背中をバシンと叩いた。
「アンチャンもっと食え、ほっそい体して。しっかり食わんと強い男になられへんぞ!」
おじさんは追加したモツ煮込みを僕に差し出した。
「ありがとうございます、遠慮なくいただきます!」
モツ煮込みを食べながらビールを飲んだ。
モツ煮込みも、ビールも、やっぱり美味しい。
自分で自分を卑下して惨めにするのは、もうやめよう。
今はまだ子供扱いされている僕だけど、ねえさんがキスしたくなるようないい男に、いつかはなりたい。
そんな夢くらいは、見てもいいかな。
その翌日から僕は、ただひたすら頑張って仕事に励んだ。
いい男を目指すなら、やっぱり仕事はできなくちゃ。
まだ新入社員だから、教えられた仕事を必死で覚える日々だ。
幸い営業とか取引先の人と会う仕事ではないから、人より効率良く仕事をこなすのに、容姿は関係ない。
背が低かろうが、童顔だろうがやればできる。
仕事はほとんど毎日定時で終わるので、何か新しいことでも始めてみようかと思い、どうせなら体を鍛えようと、会社のそばのスポーツジムに入会した。
ジムに通い始めて最初のうちは筋肉痛でつらかったけれど、少しずつ慣れてくると気にならなくなった。
土曜日は仕事が休みなので、平日にはなかなかできないことをする。
まとめて洗濯をしたり、買い物に行ったり、家でゆっくり体を休めたりする。
そして日曜日は競馬場に足を運んだ。
相変わらず予想はなかなか当たらないし、馬券もお遊びの範囲でしか買わないけど、そこに行くとねえさんとおじさんに会えた。
開催日でなくても、ねえさんとおじさんは競馬場に来ているみたいだ。
ターフビジョンで競馬観戦をして、昼は大抵、カツサンドかカツカレー。
誰かがそこそこの当たりを出すと、帰りにいつもの居酒屋でビールを飲んだ。
何度会っても、話すのは競馬と野球と、身近に起こった他愛ないことばかり。
自分のことを話さないのは相変わらずだ。
そんな日々を送っているうちに、初夏。
暑くなってきたので、僕は少し短めに髪を切った。
なんとなく、ほんの少しだけど大人っぽくなった気がした。
ねえさんは、髪を短く切った僕を見て、よく似合うと誉めてくれた。
少しくらいは、ねえさんが惚れるくらいの男前に近付けたかな。
夏が近付くと競馬場はまた賑やかになった。
レース開催期間がやって来たからだ。
僕はその頃にはもう、ねえさんへのこの気持ちは恋なんだと、ハッキリ自覚していた。
日曜日の朝、パドックにはねえさんがいる。
声を掛けて一緒に馬を見ているとおじさんがやって来て、『おねーちゃん、どの馬がええ?』と予想をし始める。
昼はアイスコーヒーを飲みながらカツカレーを食べて、たまに僕が馬券を当てると、ねえさんにアイスクリームを奢ったりもした。
なんの進展もないけれど、ただねえさんと会えるだけで嬉しくて、一緒にいられるだけで幸せな気持ちになった。
「アンチャン、けっこう筋肉ついたなあ」
ずいぶん筋肉質になった、半袖のシャツから覗く僕の腕を、ねえさんは笑いながら指先でつつく。
この腕で、ねえさんを抱きしめられたらな。
そんなことをする勇気なんてもちろんないけれど、一人暮らしの部屋でベッドに入ると、ねえさんの笑顔と、指先の柔らかい感触を思い出し、脳内でねえさんを抱いては一人で果てると言う、不毛な夜をくりかえした。
ねえさんへの想いは、初めて会った頃のような憧れとか、淡い想いではなくなっていた。
いつの間にか僕は、ねえさんのすべてが欲しいと思うほど、どうしようもなくねえさんに恋い焦がれている。
ねえさんのことを知りたい。
どこに住んで何の仕事をしているのか。
歳も、名前さえも知らない。
もし僕が好きだと言ったら、ねえさんはどんな顔をするだろう?
宝塚記念の翌週の日曜日。
朝から最終レースが終わるまで待ってみたけれど、ねえさんは姿を現さなかった。
珍しいこともあるものだ。
何か大事な用でもあったのかな。
体の具合が悪いんじゃなければいいんだけど。
もちろん連絡先も知らないから、今日はどうしているのか、知るすべもない。
かろうじて会えたおじさんは、暑そうにバタバタと扇子で仰ぎながら、首に掛けたタオルで汗を拭った。
なんだかおじさんの顔色が良くない気がする。
もう若くはないし、この暑さで少し体がバテているんだろうか。
「しかしあっついのう……。アンチャン、帰りに一杯付き合えや。奢ったるから」
「いいですよ」
ねえさんのことも知らないけれど、おじさんのことも、もちろん何も知らない。
今日はねえさんもいないことだし、いい機会だから今まで聞きにくかったことを少しだけ聞いてみようかな。
いつもの居酒屋でおじさんと一緒に、よく冷えたビールを飲んだ。
相変わらず女将さんの作ったモツ煮込みは美味しい。
これを食べると、暑さと仕事で疲れの溜まった体も、少しは元気になれそうな気がする。