パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 8 - これが恋でも、恋じゃなくても 3

櫻井音衣2020/09/17 00:40
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「おじさん。僕、ずっと気になってたことがあるんですけど」

「おう、なんや?」


おじさんはネギと生姜をたっぷり乗せた冷奴に醤油をかけながら、顔も上げずに返事をした。


「おじさんとねえさんは、もう付き合い長いんですか?」

「うーん、もう何年になるやろな。最初はただしょっちゅう顔合わせるだけやったけどな。そのうちはなしするようになって、たまにビール飲みに来るぐらいの仲にはなった。それがどうかしたんか?」

「いえ……。おじさんとねえさんがお互いの話をしないのはなんでだろうって、いつも不思議だったんです」


箸で切り分けた冷奴を口に運んで、おじさんは顔を上げた。


「そんなもん、必要ないからやろ」

「必要ないから……ですか?」

「俺らは身内でもないし、友達っちゅうほどのもんでもない。競馬場で顔合わせるだけの関係や。ここにおる時以外のことなんか、どうでもええねん。アンチャンかて、普段俺がどこで何してるかなんて、知りたい思わんやろ?」

「どうかな……」


気にならないと言えば嘘になるとは思うけど、おじさんの言うことは、わからなくもない。

普段どこで何をしているかとか、歳とか名前とか、一緒に競馬を観るだけの関係なら、必要はないのかも知れない。

でも僕は、ねえさんのことを知りたい。

どんな些細なことでも、知りたいんだ。

そして、ねえさんにも僕を知って欲しい。

おじさんはビールをグイッと飲み干して、空いたグラスにビールを注ぐ。


「人にはな、忘れたい過去とか、知られたくない自分があって当然や。だからあえて、俺らはお互いのことは何も聞かん。アンチャンはまだ若いから、わからんかも知れんな」

「おじさんにもありますか?」

「あるある、なんぼでも。俺の場合な、なんぼ忘れたくても、忘れることはできんのや。だから俺は、競馬場におる時だけは全部捨てて、ただの競馬好きのおっちゃんになる」


おじさんは少なくとも、僕の倍ほどの年数を生きてきたはずだ。

いつも明るく陽気に見えるおじさんにも、忘れたくても忘れられないような、つらい経験をした過去があるんだな。

僕のグラスにビールを注いで、おじさんは小さくため息をついた。


「アンチャン……おねーちゃんに惚れとるんか?」

「ええっ?!」


思いがけず図星をつかれた僕は、慌てふためいて手元にあった割り箸を床に落とした。


「やっぱりそうか。なんとなくは気付いてたんやけどな。最初のうちは、綺麗なおねーちゃんに憧れてるだけやと思うてたから、黙って見とったけどな……アンチャン、本気で惚れたな?」


おじさんは僕の方を見ずに、グラスの中で弾けるビールの泡を見つめている。


「僕は……ねえさんが好き、です」


思いきってそう言うと、おじさんはまたため息をついた。

うつむいて表情はよく見えないけれど、おじさんは少し困っているようだ。


「俺はな、アンチャンの恋路を邪魔する気はないで。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでまえ、言うやろ。ただな……」


おじさんはおもむろに顔を上げた。

そして、僕の目をまっすぐに見た。


「いい加減な気持ちやったら、やめとけ」


いい加減な気持ち……って、なんだ?

それは僕の気持ちの重さ?

理屈も打算もなく、どうしようもないくらい好きだと思うのは、いい加減な気持ちではないはずだ。


「可愛い女とイチャイチャしたいとか、ただ楽しいだけの恋愛がしてみたいんやったら、相手なんか他になんぼでもおるやろ」

「そんなんじゃないです。僕はただ、純粋にねえさんが好きなんです」

「アンチャン、好きな女にどんな過去があったとしても、もし身内とか自分の命を盾に脅されたとしても、その女の一生、背負えるか?」

「え?それどういう……」


おじさんはグラスを並々と満たしていたビールを一気に飲み干した。

その顔はやけに苦々しく、今までに見たことのないつらそうな表情をしていた。


「それくらいの覚悟がなかったらな、好きな女は守れんっちゅうこっちゃ」


なんだかやけにスケールの大きな話だ。

ドラマじゃあるまいし、実際にそんなことが起こるとは思えない。


「ちょっと飲みすぎたわ。そろそろ帰ろか」


おじさんは苦笑いを浮かべて、ゆっくりと立ち上がり、ふらりとよろめいた。


「大丈夫ですか?」

「おう、大丈夫や。やっぱりちょっと飲みすぎたみたいやなぁ」


背中を丸めて、おじさんは少し咳き込んだ。

今日は顔色も良くないし、夏風邪でもひいてるのかな?


「帰り、一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫や、すぐそこやしな。アンチャンは心配症やのう」


店の前でおじさんと別れて、駅に向かった。

改札口を通り、目の前のホームに入ってきた電車に乗り込んだ。

ちょっと飲みすぎたなんて、そんなはずはない。

ねえさんと一緒に飲んでいる時は、今日の倍ほどの量のビールを飲んでもケロッとしているじゃないか。

さっきのおじさんの言葉と寂しそうな背中が、なんだかやけに気に掛かる。

おじさんの言っていた、忘れたくても忘れられない過去って、もしかして……。

叶わなかった昔の恋……なのかな?

誰に引き裂かれたのか、彼女が何を背負っていたのかはわからない。

ただひとつだけわかったのは、おじさんは今もその人を想って苦しんでいると言うことだ。

恋愛経験のない僕にも、おじさんの哀しみとか、やるせなさみたいなものが伝わってきた。

だからと言って、僕とねえさんが同じ末路を辿るとは限らない。

おじさんが僕に本当に伝えたかったことは、なんだったんだろう?