「おじさん。僕、ずっと気になってたことがあるんですけど」
「おう、なんや?」
おじさんはネギと生姜をたっぷり乗せた冷奴に醤油をかけながら、顔も上げずに返事をした。
「おじさんとねえさんは、もう付き合い長いんですか?」
「うーん、もう何年になるやろな。最初はただしょっちゅう顔合わせるだけやったけどな。そのうち話するようになって、たまにビール飲みに来るぐらいの仲にはなった。それがどうかしたんか?」
「いえ……。おじさんとねえさんがお互いの話をしないのはなんでだろうって、いつも不思議だったんです」
箸で切り分けた冷奴を口に運んで、おじさんは顔を上げた。
「そんなもん、必要ないからやろ」
「必要ないから……ですか?」
「俺らは身内でもないし、友達っちゅうほどのもんでもない。競馬場で顔合わせるだけの関係や。ここにおる時以外のことなんか、どうでもええねん。アンチャンかて、普段俺がどこで何してるかなんて、知りたい思わんやろ?」
「どうかな……」
気にならないと言えば嘘になるとは思うけど、おじさんの言うことは、わからなくもない。
普段どこで何をしているかとか、歳とか名前とか、一緒に競馬を観るだけの関係なら、必要はないのかも知れない。
でも僕は、ねえさんのことを知りたい。
どんな些細なことでも、知りたいんだ。
そして、ねえさんにも僕を知って欲しい。
おじさんはビールをグイッと飲み干して、空いたグラスにビールを注ぐ。
「人にはな、忘れたい過去とか、知られたくない自分があって当然や。だからあえて、俺らはお互いのことは何も聞かん。アンチャンはまだ若いから、わからんかも知れんな」
「おじさんにもありますか?」
「あるある、なんぼでも。俺の場合な、なんぼ忘れたくても、忘れることはできんのや。だから俺は、競馬場におる時だけは全部捨てて、ただの競馬好きのおっちゃんになる」
おじさんは少なくとも、僕の倍ほどの年数を生きてきたはずだ。
いつも明るく陽気に見えるおじさんにも、忘れたくても忘れられないような、つらい経験をした過去があるんだな。
僕のグラスにビールを注いで、おじさんは小さくため息をついた。
「アンチャン……おねーちゃんに惚れとるんか?」
「ええっ?!」
思いがけず図星をつかれた僕は、慌てふためいて手元にあった割り箸を床に落とした。
「やっぱりそうか。なんとなくは気付いてたんやけどな。最初のうちは、綺麗なおねーちゃんに憧れてるだけやと思うてたから、黙って見とったけどな……アンチャン、本気で惚れたな?」
おじさんは僕の方を見ずに、グラスの中で弾けるビールの泡を見つめている。
「僕は……ねえさんが好き、です」
思いきってそう言うと、おじさんはまたため息をついた。
うつむいて表情はよく見えないけれど、おじさんは少し困っているようだ。
「俺はな、アンチャンの恋路を邪魔する気はないで。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでまえ、言うやろ。ただな……」
おじさんはおもむろに顔を上げた。
そして、僕の目をまっすぐに見た。
「いい加減な気持ちやったら、やめとけ」
いい加減な気持ち……って、なんだ?
それは僕の気持ちの重さ?
理屈も打算もなく、どうしようもないくらい好きだと思うのは、いい加減な気持ちではないはずだ。
「可愛い女とイチャイチャしたいとか、ただ楽しいだけの恋愛がしてみたいんやったら、相手なんか他になんぼでもおるやろ」
「そんなんじゃないです。僕はただ、純粋にねえさんが好きなんです」
「アンチャン、好きな女にどんな過去があったとしても、もし身内とか自分の命を盾に脅されたとしても、その女の一生、背負えるか?」
「え?それどういう……」
おじさんはグラスを並々と満たしていたビールを一気に飲み干した。
その顔はやけに苦々しく、今までに見たことのないつらそうな表情をしていた。
「それくらいの覚悟がなかったらな、好きな女は守れんっちゅうこっちゃ」
なんだかやけにスケールの大きな話だ。
ドラマじゃあるまいし、実際にそんなことが起こるとは思えない。
「ちょっと飲みすぎたわ。そろそろ帰ろか」
おじさんは苦笑いを浮かべて、ゆっくりと立ち上がり、ふらりとよろめいた。
「大丈夫ですか?」
「おう、大丈夫や。やっぱりちょっと飲みすぎたみたいやなぁ」
背中を丸めて、おじさんは少し咳き込んだ。
今日は顔色も良くないし、夏風邪でもひいてるのかな?
「帰り、一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫や、すぐそこやしな。アンチャンは心配症やのう」
店の前でおじさんと別れて、駅に向かった。
改札口を通り、目の前のホームに入ってきた電車に乗り込んだ。
ちょっと飲みすぎたなんて、そんなはずはない。
ねえさんと一緒に飲んでいる時は、今日の倍ほどの量のビールを飲んでもケロッとしているじゃないか。
さっきのおじさんの言葉と寂しそうな背中が、なんだかやけに気に掛かる。
おじさんの言っていた、忘れたくても忘れられない過去って、もしかして……。
叶わなかった昔の恋……なのかな?
誰に引き裂かれたのか、彼女が何を背負っていたのかはわからない。
ただひとつだけわかったのは、おじさんは今もその人を想って苦しんでいると言うことだ。
恋愛経験のない僕にも、おじさんの哀しみとか、やるせなさみたいなものが伝わってきた。
だからと言って、僕とねえさんが同じ末路を辿るとは限らない。
おじさんが僕に本当に伝えたかったことは、なんだったんだろう?